愛が重すぎる魔剣の主となった、生贄少女の成り上がり 作:パッタリ
闇は脈打っていた。
黒い舞台の上で、魔神は楽しげに笑っている。
ネアは剣を構えたまま、足の震えを必死に抑える。
手の中にあるレセルの重みだけが、今の自分を繋ぎ止めている。
魔神は、ふっと息を吐くようにして言った。
「では、始めよう。お前という器の中身を、空にする」
次の瞬間。
魔神が指先をネアへ向ける。
ただそれだけで、世界がぐらりと揺れた。
痛みではない。
熱でも冷たさでもない。
剥がされる。
自分の内側に貼り付いていたものが、ぺりぺりと剥がれていく感覚。
(なに……これ……)
頭の奥が白くなる。思考が薄くなる。
魔神の声だけが、やけに明瞭に響いた。
「名を剥ぐ」
名。
それは、自分という形。
膝がわずかに沈む。剣を握る指先の力が抜けかける。
(……私は……)
言葉が出ない。
“私”という一人称すら、どこか遠い。
魔神が、優しく諭すような口調で続ける。
「器は、空であればあるほど良い。不要な記憶、不要な想い、不要な繋がり。それらは降臨の邪魔になる」
(……降臨……)
何か大事なことがあったはずだ。
でも、その“大事”が何なのか、輪郭が溶けていく。
自分の名前。
剣の名前。
旅の記憶。
誰かの笑顔。
誰かの声。
ひとつずつ、抜け落ちていく。
(……怖い)
怖いという感情すら、どこか薄い。
ただ、空っぽになることだけが漠然と嫌だった。
魔神は満足げに微笑んだ。
「そうだ。それでよい。空になれば、我は入りやすい」
その瞬間、闇の中に鋭い声が走った。
『……やめなさい』
手の中にある剣が、震える。
震えは怒りだった。
『いい? 聞きなさい。あなたは』
声が、胸の奥を叩く。
(……あなた? 私は……誰……)
剣の声が、いつもより近い。
まるで抱きしめられているみたいに、距離が存在しない。
『あなたは、ネア』
その名が聞こえた瞬間、何かがぱきり、と戻った。
(ネア……?)
自分の輪郭が、少しだけ復元される。
『ネア。わたしの使い手。わたしの主。──わたしの大事な人』
甘くて、強い声。
それは命令ではなく、祈りに近い。
胸の奥が熱くなる。
空っぽにされかけた場所に、無理やり光が差し込んでくる。
(……そうだ。私は……ネア)
そして同時に思い出す。
白い髪。赤い瞳。
自分の隣にいて、離れない存在を。
「レセル……!」
名前を呼んだ瞬間、剣の重みが確かになる。
柄が、自分の手に馴染む。
『そう。わたしの名前はレセル。あなたがくれた名前よ。忘れないで』
ネアは息を吸った。
肺が、現実みたいに膨らむ。
忘却に沈みかけていた意識が、ぐっと浮上する。
魔神が、興味深そうに目を細めた。
「……ほう」
ネアは震える足を踏みしめ、剣を構え直した。
(怖い。まだ怖い。でも、空っぽにされる方がもっと嫌だ)
ネアは一気に踏み込み、剣を振るう。
白い軌跡が闇を裂いた。
そして、魔神の頬にほんの小さな傷が走った。
血の色は見えない。
だが傷は確かに傷だった。
魔神はその傷に指先を触れ、ゆっくりと笑った。
「面白い」
声が、愉悦で震える。
「ここにあるのは、我の一片。されど傷をつけられるほどの繋がり……ならば」
魔神は目を細めた。
「片方が消えても、片方が残るなら。どれだけの憎悪を見せてくれるだろうか?」
魔神が腕を振った瞬間、闇が生き物みたいにうねり、ネアへと一斉に絡みついた。
足首、膝、腰、腕。
黒いものが、締め上げ、呑み込もうとする。
「っ……!」
ネアは剣を振って払おうとするが、闇は刃では切れない粘りでまとわりつく。
視界が暗くなる。
息が詰まる。
その時、魔神はネアから視線を外した。
剣へ。レセルへ。
まるで玩具を見つけた子どもみたいに、魔神は笑う。
「さあ、それを手放せ」
闇がネアの手首を締め上げる。
抗えない圧に、指がほどけかける。
『ネア、離さないで!』
レセルの声が珍しく焦りを帯びる。
でも闇は執拗で、やがてネアの手から剣が滑り落ちた。
落ちた剣は、闇が持ち上げるように宙へ浮かせる。
魔神は、嬉しそうにレセルを見下ろした。
「器を手に入れたら……そなたを使ってやろうか」
ぞくり、と空気が凍る。
ネアは闇に絡め取られたまま、必死に腕を伸ばす。
「……レセル……!!」
闇の中で、魔神の笑みだけが際立っていた。
闇は絡みつく。
粘り気のある何かが、手首から、足首から、胸から、ゆっくりと沈めていく。
ネアは必死に腕を伸ばした。
だが、闇は重く、深く、冷たい。
その闇を裂くように、白い髪の少女がネアの視界へ飛び込んできた。
人の姿になったレセルだ。
赤い瞳がまっすぐにネアを映す。
いつもなら甘く、どこかからかうような顔。
けれど今は、怒りと焦りがその奥に燃えている。
レセルは闇をかき分けるように近づき、ネアの手を強く握った。
「死ぬ時は一緒」
言葉は短い。
それなのに、熱がある。
ネアは震える息で返す。
「……そんなの、安心できないよ……」
その瞬間、闇の奥から魔神がゆっくりと笑った。
「死んで終われるという甘い考えは捨てることだ」
声が冷たい針のように刺さる。
「終わりなど与えぬ。器とは、終わらせないためのものだ」
ネアは、少しずつ自分の体が沈んでいくのを自覚していた。
足元が、膝が、腰が、重く沈む。
しかし同時に疑問が浮かぶ。
(……これ、闇なのに……)
どこか、液体のようだった。
粘る。絡む。沈ませる。
水に似ているけど、水そのものではない。けれども感触は近い。
ネアの脳裏に、自分の微妙な魔法がよぎった。
水を弾く。それだけの魔法。
以前、毒を飲もうとした襲撃者がいたが、毒液を弾いて生け捕りにした。
ネアは闇に沈みながらも、苦い笑みを浮かべる。
(……試すだけ試そう)
幸い、まだ声は出せる。
ネアは闇の中で小さく呟いた。
「……弾け」
次の瞬間、自分の体表を覆っていた闇が弾かれる。
まるで水しぶきのように。
闇が剥がれ落ち、絡んでいたものも弾かれて離れる。
沈みかけていた体が、ふっと浮いた。
(成功した……!)
レセルが一瞬驚いた顔をして、すぐに笑う。
「……やるじゃない」
どこか誇らしげな声だった。
魔神はほんの少しだけ顔をしかめる。
「矮小な魔法が……ここまで効くとは」
ネアは息を吐く暇もなく、身を起こした。
まだ体は重い。
でも動ける。
レセルは手を離し、人の姿が消え、代わりに剣がそこにある。
ネアは迷わずそれを握る。
『今よ、ネア』
一気に踏み込む。
闇を裂くように、一直線に。
その剣先は魔神を貫いた。
魔神の表情が初めて明確に歪む。
苦痛ではなく、癪に障ったという顔。
「……っ」
そのあと、全身が薄れていく。
闇の輪郭が崩れ、舞台が溶けるように揺らいだ。
魔神は消えながらも淡々と告げる。
「人が生まれつき持つ魔法は、矮小なものばかり。だが……魔剣との繋がりが、魔法の強化へ至ったか」
声が遠くなっていく。
そして、最後に笑うように言った。
「己を失うことのないそなたに、力の一片を預けよう。数日もすれば消えるが」
その言葉が聞こえた瞬間、世界が崩壊した。
闇が割れ、音が砕け、視界が裏返る。
ネアの意識もまた、引きずられるように落ちていき──目を開けると、冷たい石畳の感触が背中にあった。
夜の王都の路地。
息苦しいほどの現実の空気。
(……戻った……)
しかし、体がまともに動かない。
指先に力が入らない。
足も、腰も、思うように動かず、全身が鉛のように重い。
ぼやけた視界の端で、黒い外套の者たちが距離を取っているのが見えた。
魔神教の者たちは、ネアの様子を見て、ほんの少しだけ動揺していた。
「……まさか、耐えるとは」
別の者が、低い声で呟く。
「器のあの子は……これを予見していたのか?」
その言葉に、ネアの背筋が冷えた。
(予見……? あの子が……?)
だが、続くのは攻撃ではなかった。
黒い外套の集団は、戦いを避けるように、すっと後退する。
今のネアは倒せるはずなのに、彼らは深追いしない。
まるで、今日の目的は達したとでも言うように。
闇に溶けるように、どこかへ去っていった。
「ねえ」
その直後。
視界に白が落ちてくる。
人の姿のレセルが、ネアを抱き起こした。
白い髪に赤い瞳。
怒りに燃えた顔のまま、なのに手つきは丁寧で優しい。
「……バカ」
吐き捨てるように言ってから、レセルはネアの額に自分の額を軽く寄せた。
ネアは、かすれた声で笑う。
「……うん……ごめん……」
レセルは腕を回し、ネアを支えながら歩き出した。
ネアの足が動かない分、ほとんど抱えるように。
騎士団宿舎へ戻ると、すぐに人の気配が寄ってきた。
ガルド、ユニス、リュナ。
そしてまだ起きていた者たち。
しかし、今はまともに説明できる状態ではない。
ネアはレセルに支えられたまま、必死に口を開いた。
「……詳しい説明は……あとで……」
ガルドの表情が険しくなる。
「団長……いったい何が」
「……今は、無理……きつい」
ユニスが一歩近づく。
「生きてるだけで十分。今は休んで」
リュナも、同意するように頷く。
「うん。あとでしっかり聞かせてもらうから、今日は寝てて」
ネアは苦笑し、レセルに任せるように団長室へ運ばれる。
ベッドへ横たわった瞬間、全身の力が抜けた。
「……眠りなさい。わたしはずっと一緒だから」
「うん……」
闇は遠い。
けれど、まだ胸の奥に黒い冷たさが残っている。
数日で消える、と魔神は言った。
それが本当なら、この数日が一番危険だ。
ネアはそのことを考える前に、意識を手放した。
団長室の灯りが静かに揺れている。
夜が明けるまで、灯りはついたままだった。