愛が重すぎる魔剣の主となった、生贄少女の成り上がり 作:パッタリ
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
目を開けたネアは、自分の体がまったく言うことを聞かないことに気づく。
怠くて、重い。
腕を少し動かそうとしただけで、関節の奥から鈍い痛みが返ってくる。
「……う、ん……」
声を出すのも億劫だった。
(起きているのに、起き上がれない……)
魔神の“力の一片”。
どれくらいの力があるかはわからないが、代償がこれでは、使える期間はあまりない。
そう考えるネアの額に、ひんやりとした布が当てられる。
「……無理しないで」
すぐ近くから聞こえる優しい声。
ネアが視線を向けると、そこにいたのは人の姿のレセルだった。
白い髪を肩から流し、赤い瞳を少し細めている。
いつもなら、からかうように笑って距離を詰めてくるのに。
今は、やけに真剣で、やけに甲斐甲斐しい。
レセルは水の入ったカップを持ち、ネアの唇へそっと寄せた。
「飲める? 少しでいいから」
ネアは小さく頷き、喉を潤す。
水が落ちるたび、少しだけ息が楽になる。
「……ありがと、レセル」
お礼を言うと、レセルはほんの少しだけ口元を緩めた。
「当たり前よ。あなたはわたしの使い手なんだから」
その言い方が、いつもより柔らかい。
ネアはぼんやりとレセルの顔を見つめる。
(……昨日のこと、まだ夢みたいだ)
魔神との出会い。
自分が空っぽになるような感覚。
そしてレセルの声。
“ネア”と呼ばれた瞬間の、あの息が戻る感じ。
胸が、じわりと熱くなる。
ネアは思わず手を伸ばした。
重い腕を必死に持ち上げて。
レセルの白い髪に、指先が触れる。
「……撫でたい」
自分でも驚くほど素直な言葉が出た。
レセルは目を瞬かせたあと、軽く笑う。
「いいわ。撫でなさい」
ネアはゆっくりと頭を撫でる。
絹みたいに滑らかな髪が指の間をすべる。
レセルは目を閉じ、わずかに頬を緩める。
そして次の瞬間。
レセルの手が、ネアの頭に乗った。
「……撫で返すわ」
ふわり、と優しく。
熱の残る指先で、髪を梳くように撫でてくる。
ネアはもぞもぞと動く。
(……なんか、逆に落ち着かない……)
落ち着かないのに、嫌じゃない。
むしろ、体の奥の冷たさが少し薄れる。
レセルは撫でる手を止めず、静かに言った。
「……痛み、まだある?」
「……うん。体の中が、変な感じ」
「そう」
レセルの赤い瞳が、少しだけ細くなる。
何かを決めた顔だった。
「なら、苦しみをやわらげてあげる」
「え……?」
言い終える前に、レセルが身を乗り出す。
距離が詰まる。
白い髪が頬に触れ、甘い匂いが近づく。
(……キス、する気だ……)
ネアの頭が一瞬で熱くなる。
反射的に目を閉じ──その時、扉が勢いよく開いた。
「ネア!」
早足の音。焦りのある声。
次いで、ぴたりと止まる気配。
「…………」
空気が、凍った。
ネアはそっと目を開ける。
そこに立っていたのはユニスだった。
いつも通りの声のはずなのに、ほんの少しだけ息が上がっている。
急いで来たのがわかる。
「ええと……」
ユニスの視線が、ネアとレセルに一瞬だけ向かい、すぐに逸れた。
見ていない。
見ていないことにした。
そういう判断が、妙に貴族らしい。
レセルは悪びれもせず、ゆっくりと身を引く。
どこか不満そうに唇を尖らせながら。
「……何の用?」
レセルの口調が、いつもより刺々しい。
邪魔されたからだ。
ユニスはそれに反応せず、淡々と告げた。
「ついさっき、全騎士団へ通達が出た。団長に伝えるべき内容が」
ネアは息を整えながら、かすれた声で返す。
「……通達?」
ユニスは短く頷き、要点だけを口にする。
「女神の降臨まで、城の一角が封鎖される。国王か教皇の許可がある者以外、立ち入り禁止」
「……城の一角?」
「降臨のための準備をする区画。警備という名目だけど、目的はそれだけじゃないはず」
ユニスはネアの顔を見て、少しだけ声を落とした。
「……今のあなたの様子を見る限り、いくらかの安静が必要。だからある意味、助かる状況かもね」
それは慰めにも聞こえたし、動けないうちに動きが制限されるのは都合がいいという、現実的な判断にも聞こえた。
ネアは小さく息を吐く。
「……うん。そうかも」
体の奥に残る、黒い違和感。
この数日を乗り切らないといけない。
ユニスは最後に一言だけ付け足した。
「封鎖は、宰相の後ろ楯があるこの騎士団にも例外なく適用される。勝手に近づけば、理由がどうあれ面倒になる」
「……わかった」
答えながら、ネアはレセルの方を見る。
レセルは赤い瞳を細めて笑った。
「面倒、ね。……面倒は嫌いよ」
そう語る口調は軽いのに、目が笑っていない。
ユニスは扉へ向かう直前、ほんの少しだけ振り返った。
「……あと」
言いかけて、一瞬だけ間を置く。
そして、見ていないふりを貫いたまま、ユニスは淡々と続けた。
「その……続きは、扉を閉めてからにしてね」
ネアの顔が一気に熱くなる。
レセルはなぜか誇らしげに笑った。
「当然よ」
ユニスはそれ以上何も言わず、扉を静かに閉めた。
残された部屋の中で、ネアはベッドの中に沈み込み、うめくように呟いた。
「はぁ、恥ずかしい……」
レセルは身を寄せ、ネアの額に軽く口づけをする。
「恥ずかしがるの、可愛い」
「やめて……」
「やめない」
白い髪が頬をくすぐり、赤い瞳がすぐ近くで笑う。
重い体はまだ動かない。
けれど、胸の奥の冷たさは、確かに薄れていた。
ユニスが去ったあとも、ネアはしばらく布団から出られなかった。
骨の奥に疲労がこびりついている感覚。
それでも、レセルは当然のように隣に居座って、世話を焼き続けた。
水を飲ませる。
額を冷やす。
肩を揉む。
そして、隙あらば距離を詰める。
「……近い」
「近い方が、早く治る」
「そんな治療法ある?」
「ある。わたしが言ってるんだから」
理屈はめちゃくちゃなのに、手つきだけは妙に丁寧で、ネアは反論する気力を削られていく。
髪を撫でられ、頬に指が触れ、背中をさすられるたびに、体の奥の冷たさが少しずつ薄れていった。
(絶対わざとでしょ……)
そう思うのに、嫌じゃないのが困る。
何度目かの「水飲む?」のあと、ネアはようやく体を起こせるくらいに回復していた。
足を下ろして立とうとするとまだふらつくが、昨日の鉛みたいな重さではない。
「少し……動ける」
ネアが呟くと、レセルは満足そうに頷いた。
「当然。わたしがついてるもの」
ネアは苦笑しつつ、ふと胸の奥に残る黒い違和感に意識を向ける。
魔神が残していった力の一片。
(……これ、結局なんなの)
ネアは手のひらを見つめ、軽く念じてみる。
闇を出す。影を動かす。何かがにじむような感覚を。
何も起きない。
もう一度試すことにした。
集中して、呼吸を整えて……やっぱり何も起きない。
「……力は、出ない」
レセルはベッドの縁に座ったまま、肩をすくめた。
「出なくていいわよ。嫌な匂いがするもの」
「でも、体の中にあるんだよね?」
ネアは胸に手を当てる。
確かにそこにある。なのに使えない。触れない。
「わからないから余計に怖い」
その言葉に、レセルの赤い瞳がわずかに細くなった。
いつもの甘さが一瞬消える。
「だったら、詳しい者に聞けばいい」
「……シャーラ?」
「そう。狐は耳がいいだけじゃなくて、鼻も利くのよ。余計なことを知ってるはず」
言い方が雑だが、否定はできない。
しばらくして、シャーラが団長室へ現れた。
いつものように媚び媚びの笑みを浮かべている。
「団長様。お呼びとあらば馳せ参じますわ」
「うん。……早速なんだけど」
ネアは単刀直入に聞いた。
「私、魔神の力を少しだけ……体の中に残されたっぽい。もし使えるとしたら、どんなことができると思う?」
シャーラの狐耳が、隠し切れない興味でぴくりと動く。
彼女は一瞬だけ真顔になってから、軽く咳払いをした。
「ふむ……人の身で扱える範囲で、という前提なら」
指を折って挙げる。
「闇、あるいは影を操る類。次に、魔法の被害を軽減する類。最後に、精神への干渉。恐怖を煽る、錯覚を見せる、鈍らせる……その辺りでございましょう」
ネアは眉をひそめる。
「精神への干渉って……嫌だな」
「ええ。扱いを間違えると、最も戻れない種類でございます」
シャーラはさらっと、怖いことを言う。
「ただ、今のところ発動しないのであれば、封印に近い状態か、条件付きの可能性が高いかと。神の欠片というものは、人の都合で便利に使える代物ではございません」
レセルが鼻で笑う。
「聞いた? 便利じゃないって」
「……聞いたよ」
ネアは、思ったより疲れた息を吐いた。
シャーラは最後に深く礼をして、いつもの笑みに戻る。
「ではでは、わたくしはそろそろ失礼しますわ。団長様、くれぐれも危ないことはほどほどに」
「しないから」
ネアが即答すると、シャーラは一礼してから去っていく。
扉が閉まったあと、部屋には静けさが戻った。
ネアはそのままベッドの上で仰向けになる。
天井へ手を伸ばす。
光の中の指先が、少しだけ震えていた。
「……魔神の力は、当てにしないでおく」
呟きは、自分への言い聞かせ。
「使いこなせない力に頼るより……」
そこへ、ぴたりと重なるようにレセルの声が被さった。
「深い繋がりのある、わたしに頼る方がいい。でしょ?」
ネアは手を止めて、横を向く。
人の姿のレセルが、ベッドの縁に肘をつき、赤い瞳で覗き込んでいた。
笑っているのに、目が本気だ。
「……そういう言い方、ずるい」
「ずるくない。事実よ」
レセルは指先でネアの手を取って、軽く絡める。
恋人みたいに。
いや、恋人よりもずっと逃がさない感じで。
ネアは抵抗せず、指を絡み返してしまった。
「……でも、頼りっぱなしも嫌だよ」
「じゃあ、わたしを頼りながら強くなりなさい」
簡単に言う。
でも、その言葉は変に安心できた。
ネアは小さく笑う。
「……レセルって、時々すごく正しいこと言うよね」
「時々じゃないわ。いつもよ」
「はいはい」
そんな風に軽く言い合って。
指先が触れて、額が寄って、距離が詰まって、甘い雰囲気になりかけた時。
レセルはふと真面目な顔になった。
「ねえ、ネア」
「……なに?」
レセルの赤い瞳が、まっすぐに刺さる。
「女神の降臨。どうするの?」
部屋の空気が変わった。
甘さが引き、現実が戻ってくる。
ネアはしばらく黙った。
天井を見たまま、ゆっくりと考える。
止めるべきか。
止められるのか。
止めたら、どうなる。
フェリシアの笑み。リュミナの隈。ミリアの涙。
国王の女神を見たいという欲。
そして、器は死ぬという事実。
考え続けたネアは深く息を吐いた。
迷いは残っている。でも、答えはもう出ていた。
「……止める」
レセルの指が、ネアの手をきゅっと握る。
「魔神と出会ってわかった。神様の器になるのは……よくないことだと思えたから」
レセルは、少しだけ目を細める。
嬉しそうで、危ういほどに優しい笑み。
「そう。いい子」
その言い方が、褒めているのか、囲い込んでいるのか、どちらなのかはまだわからない。
ネアはレセルの手を握り返し、目を閉じた。
止めることを決めた。
ならあとの問題は、どう止めるか、だ。