愛が重すぎる魔剣の主となった、生贄少女の成り上がり 作:パッタリ
白がある。黒もある。
けれど混ざり合わない。
境界線は曖昧なのに、お互いを侵さないまま、ただ並んで存在する空間。
床も天井も壁も、あるようでない。
(どうなってるの、ここ)
ネアは疑問に思うも、ひとまず視線を動かす。
先にそこにいたのは三人。
教皇フェリシア、魔神の器の少女、司教リュミナ。
三人は立っているのに、足元が床に触れている気配がない。
浮いているわけじゃない。
ただ、世界の法則が違う。
(……来てしまったんだ)
遅れて、ネア自身と、手の中の剣が落ちた。
白と黒の境界の狭間に、体が滑り込む。
重力が戻る。
足が何かを踏む感触が一瞬だけあり、すぐに薄れる。
ネアは咄嗟に剣を握り直した。
「レセル……!」
『いるわ。離れないで』
声がいつもより近い。心臓の奥に直接触れるみたいに。
ネアが顔を上げた瞬間、空間が開いた。
白が光になり、黒が影になる。現れるのは二つの形。
光の女神。
闇の女神。
その姿は、どちらも少女のように見えた。
しかし、目だけが少女のものではない。
世界の外側から見下ろすような目。
最初に光の女神が、柔らかく微笑んだ。
「おやおや」
声は澄んでいるのに、鼓膜ではなく魂に触れてくる。
「異物が紛れ込んでいるではありませんか」
闇の女神は微笑まない。
ただ、楽しげでもなければ怒ってもいない、無関心に近い顔でこちらを見た。
光の女神が、ふわりと腕を振る。
その動作だけで、ネアの背筋がぞくりと震えた。
頭の中を、誰かに開けられた感覚。
(……読まれた)
抵抗しようとした瞬間には、もう遅い。
「なるほど。あなたは我らの降臨を止めたいと」
光の女神が、おかしそうに首をかしげる。
「しかし、なぜ?」
柔らかく優しい声。だからこそ逃げ道がない。
ネアは剣を構えたまま答えた。
「……三人が死んでしまうから」
フェリシアも、器の少女も、リュミナも。
ここで降臨が完成すれば、彼女たちは終わる。
光の女神は、まるで子どもへ説明するみたいに言った。
「意思は消えても、肉体は残りますよ?」
ネアの喉が詰まる。
それは生きていると言えるのか。
ただの殻を残すことを、救いと言うのか。
闇の女神が、その沈黙を切り裂く。
「人としての生死は些細なもの」
冷たい断定。
その声はどこまでも無感情そのものだった。
「たった三人のために、これから救われる膨大な人々の邪魔をすると?」
救う。
その言葉が、胸の奥を逆撫でした。
「……どう救うんですか」
ネアが声を絞り出すと、闇の女神は平然と答えた。
「まずは大陸を、聖教国の支配下に置く」
フェリシアが小さく息を吐く気配がした。
リュミナは表情を動かさないまま、ただ目を伏せる。
器の少女は、興味深そうにネアを眺めている。
闇の女神は続けた。
「その際、争いで犠牲は出るだろう。だが、命の循環を加速させることは良きことである」
まるで当然の前提として、戦争で死者が出ることをむしろ肯定した。
ネアの指が震える。
怒りなのか恐怖なのか、区別がつかない。
『……ほらね』
レセルの声が響く。
『これが“神による救い”よ。自分たちに都合がいい言葉を、正しさとして塗り替える』
ネアは唇を噛み、白と黒の中心を睨んだ。
(このままじゃ、世界が変わる)
ただの政争じゃない。
ただの宗教対立でもない。
女神が、世界そのものを、自分たちに都合のいい形へと整える。
そのために、どれだけの命が燃料にされるのか。
闇の女神の目は、それを数える気すらなかった。
そして光の女神が、穏やかな声で追い打ちをかける。
「さあ、異物さん。あなたはそれでも止めますか?」
白と黒の空間が、静かに揺らめく。
まるで次の言葉が、世界の方向を決めるかのように。
ネアは、喉の奥で言葉が詰まった。
止める。
止めると言った瞬間、何が起きるかはわかっている。
(……それでも)
唇が震える。剣を握る指に汗がにじむ。
視界の端で、フェリシアも器の少女も、リュミナも、息を殺して見ていた。
「……止めたい」
その言葉が出ると、空間が凍った。
光の女神の微笑みが、すっと消える。
柔らかさが抜け落ち、瞳はどこまでも冷たくなる。
「……そう」
呟きのあと、光の女神は腕を振るった。
白い槍が、いくつも生まれた。
槍というよりも、凝縮された裁きそのもの。
音もなく、加速も感じられないまま、次の瞬間にはネアの体に何本も突き立った。
「──っ、ぁ……!」
貫かれた感覚。
血が出たわけじゃない。
肉が裂けたわけでもない。
なのに、痛みだけが存在する。
骨の内側を焼くような苦しみが、全身を縫い止める。
息ができない。指が動かない。
膝が折れることすら許されず、ただ、刺さったまま立たされる。
(……なに、これ……)
ネアの視界が白くにじむ。
その時だった。
闇の女神が、微笑んだ。
ついさっきまで無関心だった顔が、慈愛に満ちたものへと変わる。
まるで、泣いている子どもに手を差し伸べるように。
「勇気ある子だ」
声は優しい。
優しいからこそ、背筋が冷える。
「女神の眷属として、最初の従者として、永遠の命と力を授けよう」
闇が揺らめいた。
膜のようなものが、ゆっくりとネアを包みに来る。
動けない。逃げられない。
刺さった光の槍が、痛みの楔として体を固定している。
だが、次の瞬間、光の槍は消えた。
ただし、消えたのに痛みは残る。
記憶ではなく、現実の感覚として。
刺さった跡がないのに、貫かれ続けているみたいに苦しい。
闇の膜が触れる寸前、ネアの手元の剣が震えた。
『……ネア』
レセルの声は低い。
怒りも冷静もない、決意の音。
『痛みも苦しみも、わたしが受け取る』
「……レセル……?」
次の瞬間、ネアの全身を走っていた苦痛が、すっと抜けた。
まるで誰かに剥がされたみたいに。
代わりに、苦しげな息が聞こえる。
『っ……ぁ……』
レセルだ。
その声が、痛みで歪む。
「……っ!」
ネアは踏み込んだ。
闇の膜を、剣先で切り裂く。
布でも皮でもない、闇そのものを斬る感触。
抵抗があり、そして裂ける。
ネアは呼吸した。息が吸える。動ける。
迷いはもうない。
(戦う)
神を相手に。
無謀でも、ここで折れたら、すべてが終わる。
ネアは剣を振るい、光の女神へ斬りかかる。
レセルの刃が白を裂いた──ように見えた。
当たったし、確かに斬った。
だが、光の女神は余裕を崩さない。
斬り裂かれたはずの箇所が、何事もなかったかのように復元される。
時間を巻き戻したみたいに、傷が最初から存在しなかったことになる。
闇の女神も同じだ。
斬れば、戻る。
裂けば、繋がる。
(……これじゃ、ジリ貧だ)
ネアは歯を食いしばる。
一撃一撃に意味がない。
消耗するのはこっちだけ。
『ネア、焦らないで……! でも、長くは──っ……』
レセルの声は苦しみに満ちている。
痛みを肩代わりしているからだ。
なのに、手は止められない。
(打つ手が……ない)
女神は楽しんでいるようにも見える。
裁いているというより、観察している。
「ほら」
光の女神が淡々と言う。
「あなたの意志は美しいけれど、届かない」
闇の女神が優しく続けた。
「こちらへおいで。苦しみは終わる」
その時、空間がもう一度揺れた。
白と黒の境界が裂ける。
異物が投げ込まれるみたいに、誰かが転がり落ちた。
「……っ、どこ……ここ……?」
ぼろぼろの少女。
肩で息をし、服も髪も乱れている。
ミリアだった。
呆然とした顔で周囲を見回し、次の瞬間、リュミナを見つける。
そしてネアを見つける。
「……先輩……? ネア……?」
迷いが消えて、ミリアの目が燃えた。
「ふざけんなぁぁ! 神様なんかに、先輩はやらない!」
叫びと同時に手が振り抜かれる。
魔力の奔流が、躊躇なく女神へと叩きつけられた。
神の空間に少女の怒りが炸裂した。
白と黒の空間を裂くように、雷撃が走る。
ただの攻撃じゃない。
怒りと執着と、泣きそうな必死さが混ざった、乱暴な奔流。
光の女神は、ほんのわずかに顔をしかめた。
「……やれやれ」
吐息のような声。
怒りというより、新品の靴に泥がついたような苛立ち。
「魔神の力で強くなった者というのは、これだから……」
光の女神が軽く指先を払うと、ミリアの魔法は白い膜に吸い込まれるように薄れていった。
完全に無効化されたわけではない。
受け止められた。そういう感じだ。
そして、光の女神の視線がネアへ移る。
「ネア」
名前を呼ばれただけで、背中が冷える。
「魔神の力を一時的に宿したところで、我らに傷をつけられても、勝てはしませんよ」
光の女神は淡々と言う。
教え諭すように。
当然の前提として。
だがミリアは、唾を吐き捨てるみたいに叫んだ。
「それが、どうしたぁぁ!!」
そしてもう一度、魔法を放つ。
白い膜が揺れ、闇が波打ち、空間そのものが振動した。
その振動が、リュミナのすぐ近くに集まる。
ゆらり、と。
空間の揺らぎが生まれた。
裂け目でも穴でもない。
ただそこだけ、世界の縁がめくれて見える。
(……出口?)
ネアは反射的に駆け寄ると、剣を振るう。
揺らぎに刃を入れた瞬間、抵抗が弾け、何かが開いた。
白でも黒でもない、薄い現実の色が覗く。
「……っ、開いた……!」
ネアはすぐにミリアへ叫ぶ。
「ミリア! リュミナさんを抱えて、出て!」
ミリアは一瞬だけ目を見開いた。
でも次の瞬間には、リュミナの方へ飛ぶ。
「先輩!」
リュミナは鍵として立っていた。
けれど、今はただの少女の体。
この空間に長くいればいるほど、壊れていくのがわかる。
ミリアは迷わず腕を回し、リュミナを抱え上げる。
リュミナは驚いた顔をしたが、すぐに理解したのか、抵抗せずに目を閉じる。
そして、揺らぎへ。
ミリアがリュミナを抱えたまま跳び込む直前、ネアは一瞬だけ目を合わせた。
ミリアの瞳には涙がにじんでいるのに、口元だけは笑っていた。
「……ネア、ありがとう!」
次の瞬間、二人の姿が揺らぎの向こうへ消えた。
鍵を失った。
それが合図だったかのように、白と黒の濃度が落ちる。
世界の芯が抜けたように沈んでいく。
光も闇も、張っていた糸が緩んだみたいに、わずかに弱まった。
(……効いてる)
その代わり、光と闇の女神が、同時にネアへ近づいた。
逃げる間がない。
二柱の手が、ネアの腕を掴む。
軽い接触のはずなのに、骨まで固定されたみたいに動けない。
至近距離。
光の女神の瞳が、ネアの奥を覗き込む。
「我らは、諦めませんよ?」
闇の女神は、その隣で静かに言った。
「時間はいくらでもある」
永遠の視点。
人の生死など誤差に過ぎないという確信。
ネアの呼吸が浅くなり、レセルが剣の中で唸る。
『……触るな』
だが神は気にもしない。
その時、フェリシアが一歩前へ出た。
この空間でも、教皇としての姿勢を崩さないまま。
「それでは」
フェリシアは、少し笑って言った。
「また数十年後に。こうして出会うことができて、光栄でした」
そして、恭しく一礼する。
神に対する礼。
同時に、別れの礼でもあった。
空間はもう崩れ始めている。
白が剥がれ、黒が崩れ、足元が砂のように落ちていく。
光の女神が、ネアを見つめながら呟いた。
「……魔神に奪われる前に、奪ってしまいましょうか」
闇の女神は、即座に否定しない。
ただ、静かに言う。
「深すぎる繋がりがある。奪えば、壊れる」
その言葉に、ネアの胸が冷たくなる。
(繋がり……レセル……)
『ネア! 意識を』
レセルの声が途中で途切れた。
神の視線が刃物みたいに刺さる。
白と黒が、重なりかける。
ネアの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「っ……!」
最後に見えたのは、フェリシアがどこか楽しげに微笑む顔。
そして、闇の女神の指先が、ネアの額に触れる寸前、意識が落ちた。
◇◇◇
──目を開けると、石の天井があった。
眩しい。痛い。体中が重い。
「……っ、ここ……」
起き上がろうとして、咳き込む。
城内の中心にある、あの広間だ。
ただし、めちゃくちゃだった。
床はひび割れ、生えている土の壁が途中で崩れて転がり、柱の一部が欠けている。
血の匂いこそ薄いが、焦げと埃と、魔力が焼けた残り香が強く漂っていた。
あちこちでうめき声がしている。
(戻って……これた)
ネアは喉を鳴らし、震える指で剣を探す。
手のひらに、馴染んだ柄が触れた。
『……いるわ。わたしはここよ』
レセルの声が、すぐそばで響いた。
ネアは、広間の崩れた光景を見上げながら、たった一つだけ確かに理解する。
降臨は止まった。止めることができた。