愛が重すぎる魔剣の主となった、生贄少女の成り上がり 作:パッタリ
騒動から数日後。
団長室の天井は、やけに白く見える。
ネアはベッドの上で仰向けのまま、ぼんやりと手を伸ばす。
指先が空を掴むだけで、何も掴めない。
(……魔神の力、もうないんだよね)
あの時の冷たい残滓は、体の奥からすっかり抜けていた。
代わりに残ったのは、怠さと、やけに現実的な疲労と──。
「起きてる?」
覗き込んできたのは、人の姿のレセルだった。
白い髪が、朝の光を柔らかく弾く。赤い瞳が近い。
「……起きてる。たぶん」
「たぶん、じゃないの」
レセルは小さく笑い、ネアの茶色い前髪にそっと触れる。
指先が優しく通るたびに、心臓が落ち着いていくのがわかった。
ネアも、つい手を伸ばしてレセルの髪に触れる。
さらりとした感触が指に絡んで、なんだか安心する。
「神様って……恐ろしいね」
独り言みたいにこぼすと、レセルは目を細めた。
「ええ、そうね」
けれど、レセルはそこで少しだけ口角を上げる。
「それでも、わたしたちの繋がりには勝てないわ」
そう言って、頬にちゅっ、と軽いキスを落とした。
「……っ」
ネアが何か言おうと口を開いた瞬間、扉が軽くノックされる。
「団長殿。報告があるが、よろしいか?」
聞こえてくるのはガルドの声。
ネアは一瞬固まり、レセルは平然とした顔でネアの頬をもう一度撫でた。
「急いで整えなさい」
「い、今!?」
慌てて髪を直し、上着を引き寄せ、深呼吸してから扉を開ける。
廊下に立っていたガルドは、いつも通り真面目な様子でいた。
だが、その目はどこか柔らかい。
「……宰相閣下からの伝言がある」
ガルドは簡潔に告げる。
「降臨の中断は、魔神教の妨害として処理する。団長殿は当面、静養と待機。余計な動きはするな、と」
「……そっか」
安堵が胸に落ちる。
少なくとも、あの場の責任が、すべてネアに降りかかる形にはならない。
そしてガルドは、懐から折り畳まれた小さな紙を取り出した。
「宰相閣下が書いたメモだ。……団長殿に渡せと」
君のおかげで、大陸を巻き込む戦争は防がれた。
国の宰相として、また一個人としてお礼を言わせてもらう。ありがとう。
「…………」
ネアが受け取った紙に書かれていたのは、短い文章だった。
言葉が出ない。
ただ、握った紙が少しだけ震えた。
「用件は終わったでしょう? 早く帰って」
ガルドは、一瞬だけ目を丸くし、そのあと口元が緩んだ。
「……む」
そして、珍しく、笑い混じりに言う。
「魔剣と使い手の濃密な朝を邪魔してしまい申し訳ない」
「ちょっと!?」
「なにせ副団長だからな。少しは空気を読まねばな」
ガルドは肩を揺らすように笑った。
「それでは失礼する」
そう言って踵を返し、廊下の向こうへ去っていった。
扉が閉まる。
ネアが顔を赤くしつつ振り返ると、レセルは悪びれもせず、むしろ機嫌がいい。
「あら、どうしたの、その顔」
「だって、あんなこと言うなんて……」
「事実でしょう」
「それは……」
結局、しばらくは触る触られるの応酬になって、ネアは諦めた。
◇◇◇
しばらくして、ネアは宿舎の中を歩けるくらいには精神が回復していた。
団長室を出て、まず向かったのは、リュミナとミリアがいる部屋。
ノックして、そっと扉を開ける。
そこにあるのは、まさかの光景だった。
リュミナが椅子に座り、自分の膝の上にミリアの頭を乗せている。
耳かきをしていた。
「…………」
ネアは無言で固まる。
ミリアがびくっとして顔を上げ、耳かきが刺さりそうになるのをリュミナが器用に止めた。
ミリアは真っ赤になり、強がるように言う。
「な、なんか文句ある!?」
「……ない、けど……」
「というか、ノックしてすぐ開けるな!」
リュミナは小さく微笑み、ミリアの髪を優しく撫でた。
「落ち着いて、ミリア。耳かき中に暴れるのは危ない」
ミリアは「うぅ……」とうめいて黙る。
撫でられて、素直におとなしくなるのが余計にわかりやすい。
ネアは静かに扉を閉めた。
「……お邪魔しました」
背後でレセルが小声で言う。
「平和ね」
「うん……平和……なのかな……」
◇◇◇
次に向かったのは、騎士団付き商人として宿舎に出入りしているシャーラのところ。
扉を開けると、狐の獣人である彼女は机に広げた帳面と地図の前で、にやにやしていた。
指先で金貨の袋を弾いている。
「おやおやおや。団長様。回復されましたのね」
「おかげで助かったよ」
「そうでしょうそうでしょう!」
胸を張る勢いがすごい。
「ところで。何をどうやったの?」
「はい?」
シャーラは一瞬だけ“知らない顔”をしたが、すぐにわざとらしくため息をついた。
「もう、団長様は詮索が好きですわねぇ。……実はですね」
少し身を乗り出して、声をひそめる。
「わたくし、天井に潜んでおりましたの」
「……天井」
「はい。上から見ながら、仕込んだ代物を発動させました」
ネアは唖然とした。
広間は結構な高さがあるからだ。
「危なくない? 落ちたら死ぬよ?」
「落ちませんわ。落ちないようにするのが商人の腕でございます」
まったく意味がわからないが、自信だけは満点だ。
ネアはさらに聞く。
「で、その仕込んだ代物って結局なに?」
「商人の秘密でございますわ」
「教えてよ」
「教えませんわ」
シャーラは狐っぽく目を細めて、にこりと笑った。
「秘密があるから価値がある。価値があるから、儲かる。これが世の理でございます」
ネアは深く息を吐き、諦めた。
「……もういい。ありがとう」
「どういたしまして。次の“儲け話”も、任せてくださいませ」
その言い方が一番怖い。
けれど今は、怖さより、どこか頼もしさの方が勝っていた。
ネアは宿舎の廊下へ戻り、窓から外を見る。
王都はまだ落ち着かない。
でも、人の世界は神の世界になることなく、どうにか繋ぎ止められている。
(……ここからだ)
ネアは小さく拳を握り直した。
◇◇◇
とある街道沿いの酒場。
湿った空気と、焦げた油の匂いと、安酒の酸味が混ざっていた。
赤褐色の髪をした兄妹、カイランとリサナは隅の席で食事をしている。
木の皿に盛られた肉とパン。派手さはないが、腹は満たせる。
その時、近くの卓で酔っぱらいが声を張り上げた。
「おいおい、聞けよ! 王都でよ、とんでもねぇ騒ぎがあったらしいぞ!」
周囲は「へえ」「またか」と適当に流す。
酒場での噂話なんて、だいたい大げさで、だいたい明日には忘れられる。
だが、酔っぱらいは引き下がらない。
「いやいや、聞けって! まず王都の城壁の門! 東西南北の大通りに通じてるやつがぶっ壊れた! しかも死者なし! とんでもねえことやった奴がいて、兵士も女神教の皆さんも大騒ぎさ!」
「……死者なし?」
誰かが面白がって聞き返す。
酔っぱらいは満足そうに頷いた。
「そうだ! そんでよ、兵士とかが減ったからか、城の中でもなんかいろいろあって、女神の降臨が取り止めになったんだとよ!」
ざわり、と空気が揺れる。
面白そうに耳を傾ける者もいれば、「降臨? なんだそれ」と笑う者もいる。
所詮は遠い王都の話。ここでは酒の肴だ。
だが、カイランは口の端を上げ、にやりと笑った。
「……向こうは向こうで、上手くやったみたいだな」
向かいのリサナは、切り分けた肉を黙々と口に運びながら、呆れたように言う。
「いろいろと蓄えを使ってしまったんだけど?」
「蓄えの使いどころってのがあるんだよ」
カイランは肩をすくめ、酒場の喧騒をよそに声を落とす。
「女神が降臨したら、女神教を信仰しない奴は大変なことになる。信仰を広めるために戦争だってあったろうな。だからよ、蓄えを使う価値があるのさ。ネアを手伝うのは俺たちのためでもあるわけだ」
リサナは軽く息を吐き、パンの欠片で皿の脂を拭う。
「……まあ、そうだけど」
ほんの少しだけ、目を伏せる。
「あの子、これからどうなるかな?」
カイランはあっけらかんと笑った。
「なあに。ほとぼりが冷めたら会いに行けばいい」
そして、楽しそうに続ける。
「ちょいと危ない商品を売りつけに行ったりな」
リサナは手を止め、カイランを睨んだ。
「それ、余計な火種になるやつでしょ」
「火があるなら、ちょっとくらい煽った方が暖かいってもんだ」
「うざい」
いつも通りのやりとり。
酒場の噂はまた別の話題に流れていき、笑い声が上がる。
遠い王都の大騒動は、この街ではただの噂で終わる。
けれど兄妹だけは、違う温度でその話を聞いていた。
◇◇◇
夕方。
宿舎の廊下には、まだ昼の慌ただしさの余韻が残っていた。人の出入りは減ったのに、空気だけが落ち着かない。
ネアが角を曲がると、ちょうど向こうから二人が歩いてくる。
ユニスとリュナだ。
ユニスはいつもの整った姿勢を保っているが、目の下に疲れがにじんでいる。手には書類の束。
あちこちに付箋が貼られ、見るだけで頭が痛くなる量だ。
「……やっと見つけた」
声は淡々としているものの、どこか恨み言に近い温度があった。
「ひどい第一声……」
「当主として、やることが山積みなの。それに、騎士団関連の計算もしないといけないし。あなたは休めてた。その差だから」
ユニスはそう言いながらも、最後に小さく笑った。
怒りきれない、というより怒っても仕方ないと思っている顔。
ネアは苦笑して肩をすくめる。
「ごめん。……でも、ありがとう」
「礼は聞いておく。次は、もう少し自分の身を大事にして」
その隣で、リュナが妙に晴れやかな顔をしていた。
いや、晴れやかすぎる。
「ねえねえ聞いてよ。バゼム様、大笑いして私を解雇した!」
「……え?」
「“いやあ、君はもう自由にしなさい。その方が引っ掻き回せるから”って。意味わかんないでしょ? でもおかげで裏表なしで団員になれたよ」
リュナは胸を張り、腰にある魔剣ヴァニティアを軽く叩く。
「だからさ、団長。私って、魔剣持ちじゃん?」
「うん」
「お姉さん、給金に追加がほしいな~って」
露骨なおねだり。
ネアは思わず吹き出しそうになった。
「……少しは増やすよ」
「うおおおお! 団長大好き!」
リュナが勢いよく抱きつこうとした瞬間。
すっ、と前に出た影がある。
人の姿のレセルが、無言でリュナの進路を遮った。
「……ん?」
「だめ」
「え、なんで?」
「だめ」
二回言った。
リュナは口を尖らせる。
「え~、いいじゃん。給金増やしてくれたんだよ?」
「だめなものはだめ」
「んもう、理不尽」
ユニスは疲れた顔のまま、けれど少し楽しそうに息を吐いた。
「はぁ、平和でなにより」
「うん、平和だね……」
ネアは苦笑しつつ、レセルの袖を軽く引く。
「レセル、落ち着いて」
「わたしは落ち着いてるわ」
「それ、落ち着いてる人の言い方じゃないよ」
リュナは諦めが悪く、レセルの背後から顔を出してネアに訴える。
「団長~、この魔剣、独占欲つよすぎ!」
「当然よ」
「うわ、当然って言った!」
馬鹿馬鹿しい騒ぎ。
けれど、こういう会話ができることが、今はありがたかった。
◇◇◇
ユニスとリュナを見送ったあと、ネアは廊下を歩きながら、ふと団員が増えたという現実を噛みしめていた。
守るべきものが増えた、という意味でもある。
そんな中、宿舎の一角。
訓練用に割り当てられた小さな部屋から、乾いた音が聞こえた。
木剣が空を切る音。
一定の呼吸。
繰り返される踏み込み。
ネアが扉を軽くノックすると、音が止まった。
「入っていいよ」
中にいたのは、琥珀色の瞳をした黒髪の少女ノエル。
一般的な動きやすい服のまま、額に薄い汗を浮かべている。
彼女は木剣を肩に担ぐようにして、ネアを見た。
その表情は相変わらず落ち着いているが、瞳の奥だけが妙に楽しそうだ。
「団長、来たんだ」
「訓練してた?」
「うん。暇だと頭が余計なことを考えるから」
言い方が不穏なのに、声色は軽い。
ネアは苦笑して壁際に寄り、ノエルを観察する。全体的に荒いけど、真面目に積み上げるタイプだとわかる。
ノエルは木剣を床に置き、ネアにまっすぐ言った。
「ねえ、団長」
「なに?」
「私の名前が歴史に残るくらい、この騎士団を有名にして?」
さらっと言う。
冗談みたいな言葉なのに、本人は本気っぽい。
ネアは思わず正直に返した。
「騎士団が有名になっても……ノエルの名前が残るかどうかは、ノエルの頑張り次第じゃない?」
「そう?」
ノエルは少しだけ首をかしげ、そして静かに微笑んだ。
「そうだね」
その微笑みは、どこか納得したようで、同時に楽しみにしている顔でもあった。
「団長と一緒にいれば、大きな騒動に出会えるだろうし」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
軽い調子のまま、ノエルは再び木剣を握る。
「それまでの間に鍛えておかなくちゃ。どうせ、平穏は長続きしない」
ネアは、返す言葉に一瞬迷った。
否定したいのに、否定できない。
「……あまり縁起の悪いこと言わないでよ」
「大丈夫。縁起が悪いのは、だいたい当たるから」
さらっと言って、ノエルはまた木剣を振った。
乾いた音が、宿舎の空気を切り裂く。
ネアは扉のところで立ち止まり、最後に一言だけ投げる。
「怪我しない程度にね」
「うん。怪我しない程度に……死なない程度に」
その言い方が、やっぱり少しだけ怖い。
「魔神教の方は、私に接触しに来る者がいるだろうけど、おとなしくしておくよう言っておく」
「ずいぶん影響力あるんだね」
「なにせ、魔神の器ですから」
わざとらしく威張ってみせるノエルに、ネアは苦笑しながら扉を閉め、廊下へ戻った。
背後から聞こえる木剣の音が、なぜか頼もしくもあった。
◇◇◇
その夜。
団長室の窓辺には、薄い月明かりが落ちていた。
ネアは窓枠にもたれ、外を見ているふりをしながら、背後の気配を感じていた。
レセルが近くにいる。
それだけで、部屋の空気が柔らかい。
「……今後、周囲があなたを見る目は大変なことになるでしょうね」
レセルが、くすりと笑う声で言った。
ネアは肩を落とす。
「……なんだか心配になってきた」
「今さら?」
背中に、ふわりと温度が重なる。
レセルが後ろから抱きしめてきた。
細い腕が、確かな力でネアを囲う。
ネアは抵抗せず、そのまま重ねるようにレセルの手を握った。
「大丈夫よ。いろいろとやりようはあるもの」
耳元でささやく声は甘いのに、次に話す内容は現実的だった。
「とりあえず宰相との繋がりを強化して……あのクソ……んん、教皇との繋がりも強化しておくと、人脈的に便利よ」
「今、クソガキって言おうとしたよね」
「気のせいよ」
「気のせいじゃない」
ネアは苦笑して、指を絡め直す。
「……数十年後は、どうなるかな?」
「さあ?」
レセルは少しだけ間を置き、ネアの髪に頬を寄せた。
「わたしたちの出番がないことを願いたいわ」
ネアは小さく頷く。
祈るみたいに、指先に力を込めた。
「うん……」
「それでも、もし出番が来たら」
レセルが、ささやくように続ける。
「その時も、わたしはあなたと一緒にいる」
ネアは振り返ろうとして振り返れなかった。
抱きしめられたまま、胸の奥が熱くなる。
「……ずるい」
「ずるくない。事実よ」
そして、レセルの唇がネアの頬に触れた。
軽く、確かめるように。
ネアは笑って、今度は自分から顔を向けた。
「……じゃあ、もう一回」
「いいわ」
窓辺の月明かりの中で、二人はキスを交わす。
世界は相変わらず厄介で、明日も面倒ごとは尽きない。
それでも、今この瞬間だけは、確かに穏やかだった。