魔法少女マギアリエル 〜魔法少女は個人事業主?〜   作:ろくさん

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第9話 日常と家族

 

チャイムの音が、解放と、そして新たな戦いの始まりを告げる。

秋の気配が深まり始めた放課後。羽川みりあは、使い古された革のスクールバッグを肩にかけ、足早に校門を抜けた。友達とおしゃべりしながら寄り道をするクラスメイトたちを横目に、彼女が向かう先は一つ。時給980円の戦場――駅前の書店だった。

 

「いらっしゃいませー」

 

少しだけ掠れた声で挨拶をしながら、新刊の漫画に手際よくビニールのカバーをかけていく。その指先は、慣れたもので淀みない。しかし、彼女の頭の中は、常に数字が駆け巡っていた。

(よし、この平台のレイアウト変更で、売上は前週比5%アップ。私の時間的投資収益率(ROI)も悪くない。この調子でいけば、シフト貢献度は…)

そんな、女子中学生らしからぬ思考を、書店の埃っぽい匂いと、紙の乾いた匂いが優しく包み込んでいた。

 

バイトが終わる頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。

息つく暇もなく、みりあは次の戦場、スーパーマーケットへと向かう。今日の夕飯の買い出し。それは、プアーズとの戦闘とはまた違う、知力と精神力が試される、真剣勝負だった。

 

煌々と光る蛍光灯の下、彼女は買い物カゴを片手に、まるで熟練の狩人のように店内を巡回する。その鋭い瞳が捉えるのは、ただ一つ、『値引き』の二文字。

 

「鶏むね肉、グラム58円…よし。豚コマは…グラム89円か、今日は見送りね。豆腐は…あっちのPB(プライベートブランド)の方が10円安い」

野菜コーナーでは、見切り品ワゴンのキャベツ半玉と、今日の特売品である一袋30円のもやしを三袋、買い物カゴに確保する。

 

(よし、今日の損益分岐点はクリア。あとは、お父さんの身体のために、何かタンパク質を…)

 

鮮魚コーナーに、秋鮭の切り身が並んでいた。綺麗なサーモンピンクの身が、スポットライトを浴びて艶々と輝いている。その横には、『30% OFF』の鮮やかなシール。

それでも、その値段は、今日の予算をわずかにオーバーしていた。

みりあは、古びたがま口財布を取り出す。パチン、と乾いた音を立てて開いたその中には、数枚の千円札と、なけなしの小銭たち。その日の夕飯代を引いた残高を脳内で素早く計算し、小さく、本当に小さく、ため息をつく。

 

「あぅあぅぁ〜…」

 

いつもの口癖が、無意識に漏れた。

結局、彼女は秋鮭を諦め、代わりに、一番安かった卵のパックを手に取った。

ビニールの買い物袋が、ずしりと腕に食い込む。その重さは、まるで、今の彼女が背負っているものの重さそのもののようだった。

 

「ただいまー…」

 

玄関のドアを開けると、「おかえり」という、二つの優しい声が彼女を迎えた。

リビングでは、父の正一(しょういち)が、咳き込みながらも、パソコンに向かって必死に内職のデータ入力をしている。数年前に患った病のせいで、外で働くことが難しくなってしまった父。その痩せた背中は、みりあの胸を、いつもチクリと締め付けた。

キッチンでは、母の優子(ゆうこ)が、パートから帰ったばかりのエプロン姿のまま、夕飯の準備を始めていた。その目元には、隠しきれない疲れの色が浮かんでいる。

 

「あら、みりあ、お米といでくれる? 助かるわ」

「うん」

 

みりあは、母と並んで台所に立つ。米を研ぐ冷たい水の感触が、バイトで火照った指先に心地よかった。

そんな、何気ない親子の時間の静寂を、父の、少し心配そうな声が破った。

 

「…みりあ」

「なに? お父さん」

「お前、最近、なんだか難しい顔で、ブツブツ独り言を言っていることが多いが…何か、悩みでもあるのか?」

母も、心配そうにこちらを見ている。

「そうよ、この間も、お風呂掃除しながら『この洗剤の費用対効果は…』なんて言ってたし…。それに、損益なんとかって…学校で、何か大変なことでもあるの?」

 

(しまった…!)

みりあは、ドキリとした。魔法少女としてのビジネス感覚が、すっかり日常にまで染み出してしまっていたのだ。

(魔法少女をやってるなんて、言えるわけない。心配させちゃうだけだ…)

 

彼女は、咄嗟に、作り笑顔を浮かべた。

「ううん! なんでもないよ! あのね、最近、学校の授業で、そういうビジネス?みたいなのを習ってて! ちょっと面白くて、つい、考え事しちゃってただけ!」

「そう、なのか…?」

「そうそう! だから、全然心配しないで!」

 

明らかに、苦しい言い訳。

しかし、両親は、それ以上は何も聞いてこなかった。

ただ、困ったように、でも、どこまでも優しく、微笑んで。

 

「そうか。勉強熱心なのはいいことだ。でも、あまり、根を詰めすぎるなよ」

「あなたのやりたいことなら、お父さんもお母さんも、応援してるからね」

 

その、あまりにも温かい言葉が、みりあの胸の奥に、じんわりと、染み渡っていった。

(…うん)

(だから、私は――)

 

この、ささやかで、何よりも大切な日常を。

この、優しい笑顔を。

絶対に、私が守らなきゃいけないんだ。

みりあは、米を研ぐ手に、そっと、力を込めた。

 

食卓に並んだのは、けして豪華とは言えない、しかし、愛情だけはたっぷりと注がれた夕食だった。 ジュウウウッと小気味よい音を立てる、鶏むね肉ともやしの野菜炒め。醤油と生姜の香ばしい匂いが、食欲をそそる。その隣には、なけなしの卵を三人で分けた、少しだけいびつな形のだし巻き卵。そして、見切り品のキャベツで作った、塩昆布和え。 食卓から立ち上る湯気が、まるで、この家族のささやかな幸せそのもののように、部屋の古い電球の光に照らされて、きらきらと揺れていた。

 

「「いただきます」」

 

小さな食卓を囲む、三人。

父の正一は、まだ少し咳き込みながらも、美味しそうに野菜炒めを頬張っている。

「うん、うまいな。みりあが選んでくれた鶏肉は、安いのにいつも柔らかい」

「…まあ、下ごしらえの投資を怠ってないからね」

「と、投資…?」

「なんでもない!」

 

みりあは、慌ててご飯をかき込む。

その、どこかぎこちないやり取りを、母の優子が、困ったような、でも愛おしそうな目で見守っていた。

 

「みりあ。さっきの話だけど…」

母は、だし巻き卵をみりあの茶碗に乗せながら、優しく、しかし真剣な声で切り出した。

「もし、本当に何か困っていることがあるなら、ちゃんと言うのよ。私たち、親子なんだから」

「そう…だぞ」

父も、少しだけ力の無い声で、言葉を継いだ。

「お父さんが、こんな身体だから…お前には、たくさん我慢をさせてしまっている。…すまない」

 

その言葉が、みりあの胸を、鋭く抉った。

違う。違う、そうじゃない。

私が我慢しているんじゃない。二人に、我慢をさせてしまっているのが、嫌なだけだ。

喉の奥が、熱くなる。味が、しなくなった。

 

「…大丈夫だから」

みりあは、俯いたまま、それだけを言うのが精一杯だった。

 

その、重たい空気を振り払うように、母は、努めて明るい声で言った。

「はい、これ!」

彼女が、エプロンのポケットから取り出したのは、一枚の小さな給料袋だった。中には、使い古された数枚の千円札が、大切そうに入れられている。

 

「みりあが、今月のバイト代、まだだって言ってたでしょ。お母さんのパート代、少しだけだけど、先にお小遣い。いつも、家のこと手伝ってくれて、ありがとうね」

 

その、差し出された茶封筒。

その、パート仕事で少しカサついた、でも、どこまでも温かい母の手。

それを見た瞬間、みりあの箸が、ぴたりと止まった。

 

(…なんで)

(なんで、そんなこと、するのよ…)

 

自分だってお金がないくせに。自分だって、疲れているくせに。

どうして、娘に、なけなしのお金を渡そうとするのか。

その、あまりにも深く、あまりにも無償の愛情が、今の彼女には、何よりも、重かった。

 

「…いらない」

「え?」

「いらないって、言ってるの!」

 

みりあは、叫ぶように言うと、椅子を蹴るようにして立ち上がった。

そして、そのまま自分の部屋へと、逃げるように駆け込んでいった。

「みりあ…!?」

背後で、両親の戸惑う声が聞こえた。

 

バタン!

 

乱暴に閉めたドアに背中を預け、みりあは、その場にずるずると座り込んだ。

涙が、勝手に溢れてくる。

嬉しかった。でも、それ以上に、悔しかった。自分の無力さが、情けなくて、たまらなかった。

 

ドアの隙間から、リビングの温かい光が漏れている。ひそひそと、自分のことを心配する両親の声が聞こえる。

 

みりあは、涙を拭うと、制服のポケットから、あの古びたがま口財布を取り出した。

パチン、と音を立てて開く。

中には、さっきスーパーで使った残りの、けなげな小銭たち。

 

(足りない…)

(全然、足りない…!)

 

この、ささやかな日常を。

この、優しすぎる両親の笑顔を。

ただ、守りたいだけなのに。

 

みりあは、もう一つのポケットから、スマホを取り出す。

その画面には、ミスター・リッチとの契約を示す、冷たいビジネスチャットのアイコンが、静かに光っていた。

それは、彼女のもう一つの財布であり、もう一つの、戦場への扉。

 

彼女は、がま口財布を、ぎゅっと、強く握りしめた。

その瞳には、もう涙はなかった。

あるのは、守りたいもののために、どんな非情なビジネスの世界にだって、一人で飛び込んでいくという、静かで、しかし、燃えるような決意の光だけだった。

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