魔法少女マギアリエル 〜魔法少女は個人事業主?〜 作:ろくさん
あの市場が崩壊(クラッシュ)した日以来、羽川みりあの家計簿には、新しい項目が一つ、書き加えられた。
『まりんとの友情:プライスレス』
それは、まだ彼女にとって、具体的などんな価値を持つのか分からない、不思議な響きの言葉だった。ただ、その文字を見るたびに、胸の奥がぽっと温かくなるのだけは確かだった。
まりんは、以前と何も変わらず、太陽のように笑っていた。
「みりあちゃん、見て! 商店街のガラポンで、またジュース当たっちゃった! 神様が、私たちの黒字経営を応援してくれてるんだよ!」
その無邪気な笑顔に、みりあもつられて、強張っていた頬を少しだけ緩ませる。
(…まあ、こういうのが、プライスレスってことなのかな)
そんな、少しだけ平穏を取り戻した二人の日常に、新たなプアーズの影が忍び寄る。
出現場所は、夕暮れの光が金木犀の香りを運ぶ、古い住宅街の一角にある小さな公園だった。錆びついたブランコと、塗装の剥げた滑り台だけが、ぽつんと置かれている。
その公園のベンチに、一人の老人が、ぐったりと座り込んでいた。彼の周りには、黄ばんだ封筒や、色褪せた写真の束が、まるで落ち葉のように散らばっている。
「捨てられない…どれも、これも、わしの大事な…思い出だ…」
老人の、かすれた呟き。その執着心に呼応するように、彼の足元の影から、古い木箱のようなものが、ぎしぎしと音を立てながらせり上がってきた。
それは、角が擦り切れ、金具が錆びついた、古い手提げ金庫のようなプアーズだった。その表面には、無数の古い写真や手紙の断片が、まるで怨念の紋様のようにびっしりと張り付いている。木箱の隙間からは、後悔や郷愁といった、湿った感情のオーラが、陽炎のように立ち上っていた。
プアーズ『メモリー・ボックス』。
亡き妻との思い出が詰まった品々を、一つも捨てられずに抱え込み続けた老人の、悲しき執着心が生み出した、記憶の宝箱だった。
「キャッシュ・コンバート! アーン・アウト!」
「コネクト・ハート! シェイク・アップ!」
夕暮れの公園に舞い降りた二人の魔法少女。
マギアリエルは、これまでの経験から、先手必勝が最も効率的だと判断した。
「まりん、援護をお願い! 一気に決める!」
彼女は、高コストの魔法を躊躇なく選択する。財布から数枚の千円札が光となり、杖の先端に収束していく。
「ペイオフ・ショット!」
黄金の閃光が、メモリー・ボックスを正確に撃ち抜く。
しかし。
カキンッ!
甲高い金属音と共に、光線は、まるで硬いガラスに当たったかのように、あっけなく弾かれてしまった。プアーズには、傷一つついていない。
「なっ…!?」
マギアリエルが驚愕に目を見開く。
メモリー・ボックスは、その身を守るかのように、老人の思い出の写真をオーラのように展開させ、不可視の障壁を作り出していたのだ。物理的な攻撃は、その思い出の壁を通り抜けることすらできない。
「くっ…なら、もっと大きな一撃を…!」
みりあが、さらに高額な魔法を放とうと構える。だが、その時だった。
プアーズの身体から、セピア色の波動が放たれた。それは、二人の身体を通り抜け、脳の奥底に眠る、古い記憶を無理やり呼び覚ます。
「――っ!」
みりあの脳裏に、フラッシュバックする。
(ピアノ…発表会のドレス…お父さんと、お母さんの、悲しそうな顔…)
自分が、家族のために「捨てた」はずの、大切な思い出。その感傷が、ずしりと重く身体にのしかかり、動きを鈍らせる。金色のドレスの輝きが、一瞬だけ、色褪せて見えた。
これは、物理的な戦いではない。人の心の、最も柔らかい部分を抉る、あまりにも厄介な敵だった。
「みりあちゃん、しっかり!」
マギラティオの声が、感傷の沼に沈みかけていたマギアリエルの意識を、優しく引き戻した。
見れば、まりんもまた、セピア色の波動を浴びている。しかし、彼女はその波動に抵抗するでもなく、むしろ、その悲しい記憶の流れを、静かに、そして慈しむように受け止めているようだった。
その蜂蜜色の瞳には、苦痛ではなく、深い慈愛の色が浮かんでいる。
「…そうだったんだね。奥さんのこと、本当に、大好きだったんだね…」
マギラティオは、プアーズの奥にいる、老人の心そのものに語りかけていた。
彼女には、波動を通して、老人が見てきた風景が、まるで自分のことのように見えていたのだ。
初めてのデートで、緊張してうまく話せなかったこと。桜の木の下でした、ぎこちないプロポーズ。生まれたばかりの娘を、壊れ物を扱うかのように、おそるおそる抱いた妻の、涙と笑顔。
その、一つ一つが、誰にも汚すことのできない、かけがえのない宝物だった。
「みりあちゃん。この人にとって、思い出は鎧なんだ。それを無理やり剥がそうとしちゃ、ダメだよ」
「じゃあ、どうしろって言うのよ…!」
「思い出はね、箱の中に仕舞っておくだけじゃ、いつか色褪せて、重たいだけの鎖になっちゃう。時々出して、優しくホコリを払ってあげて…そして、心の中に、新しい宝物として、もう一度、大切に仕舞い直してあげるの」
マギラティオは、そっと杖『スタッフ・オブ・チアーズ』を構えた。
しかし、そのカクテルグラスを模した杖の先端に宿るのは、攻撃的な破壊の光ではない。
まるで、春の陽だまりを掬い取ったかのような、温かく、どこまでも優しい光だった。
彼女は、プアーズ本体を攻撃しない。その周りに散らばる、一枚一枚の写真や、黄ばんだ手紙の束に、その光をそっと、語りかけるように注いでいく。
「サンクス・バースト」
感謝の気持ちを力に変える、彼女だけの魔法。その光に触れた写真は、色褪せたセピア色から、まるで昨日のことのように鮮やかな色彩(フルカラー)を取り戻していく。
それは、戦いというには、あまりにも静かで、優しい時間だった。
マギラティオの魔法は、思い出を消すのではない。その輝きを、本来あるべき、最も美しい姿へと、丁寧に、丁寧に修復(レストア)していたのだ。
蘇った思い出たちは、もはやプアーズを守る、冷たい壁ではない。
それらは、しゃぼん玉のようにふわりと浮かび上がると、老人の身体を優しく包み込み、その凍てついた心を、ゆっくりと溶かしていく。
「ああ…そうだ…君は、いつも、そうやって笑っていたな…なあ、ひろ子…」
老人の皺の刻まれた頬を、一筋の涙が伝う。しかし、その表情は、とても穏やかだった。
守るべき壁を失い、そして、その役目を終えたメモリー・ボックスは、ゆっくりと、その錆びついた蓋を開いた。
中から現れたのは、邪悪な魔力などではない。
たった一枚の、少しだけ角が破れた、古ぼけた写真。
そこには、満開の桜の木の下で、最高に幸せそうな笑顔を浮かべる、若き日の老人と、その妻の姿が写っていた。
プアーズは、その写真をそっと老人の胸元に届けると、満足したかのように、光の粒子となって、夕暮れの空気の中へ、静かに消えていった。
戦いが終わり、変身を解いた二人は、穏やかな寝息を立て始めた老人のために、そっと救急車を呼んだ。
救急隊員に後を託し、静かになった公園のベンチに、二人並んで腰を下ろす。
そこに、みりあのスマホの通知音が、優しく響いた。
【プアーズ『メモリー・ボックス』討伐任務報告書】
基本報酬: +35,000円
迅速討伐ボーナス: +8,000円
総消費コスト: -22,000円
収支合計: +21,000円
「二万一千円…」
みりあは、その数字を静かに読み上げた。以前のような興奮はない。ただ、安堵に近い、穏やかな気持ちだった。
「よかった! 黒字だよ、みりあちゃん!」
まりんが、心から嬉しそうに微笑む。
「ほにゅ~! 今日の戦いは、あまりにも地味すぎたにゅ!」
公園の滑り台の影から、マギたんが不満そうな顔でひょっこりと現れた。
「見てるこっちが眠くなるくらい、山場のない展開だったにゅ。これじゃあ、配信してもスパチャはゼロだにゅよ!」
「…あんたには、この戦いの良さは分からないわよ」
みりあは、呆れたようにため息をついた。
「まあ、黒字は黒字だにゅから、よしとするかにゅ。で、この利益で何を買うんだにゅ? 新しい投資の軍資金にするのかにゅ?」
マギたんの言葉に、みりあとまりんは顔を見合わせ、そして、ふふっと笑った。
「よし、お祝いしよっ!」
まりんが、ポンと手を叩く。
「コンビニ行って、いっちばん高い、ハーゲンダッツ買っちゃお!」
夜の公園。街灯の温かい光の下で、二人はベンチに並び、少しだけ贅沢なカップアイスの蓋を開けていた。みりあは新作のピスタチオ味、まりんは定番のストロベリー味だ。
ひんやりとした甘さが、戦いで疲れた身体に、じんわりと染み渡っていく。
(捨てられない気持ちも…わかる、気がするな…)
みりあは、自分の脳裏に、ピアノの音色と、真っ白なドレスの幻を思い浮かべる。
お金のために、家族のために、自分が「捨てた」はずの、大切な夢。
それは、今の彼女を形作った、決して忘れることのできない、心の奥底の原風景。
「…おいしいね、みりあちゃん」
「…うん、おいしい」
スマホの画面に表示された『+21,000円』の数字。
そして、今、このアイスクリームに使った『-350円』という、ささやかな出費。
その隣で、世界で一番幸せそうにアイスを頬張る、親友の笑顔。
お金とは何か。豊かさとは何か。
その答えは、まだ見つからない。
けれど、今、この胸に込み上げてくる、切なくて、温かいこの気持ちもまた、きっと『プライスレス』なのだろうと、みりあは、金木犀の香りがする夜空を見上げながら、静かに思った。