魔法少女マギアリエル 〜魔法少女は個人事業主?〜 作:ろくさん
「――先週のプアーズ討伐任務報告書、最終収支、プラス18,500円」
放課後、みりあの部屋。彼女は、自室の机で愛用の家計簿と『魔法少女 損益分岐点レポート』を広げ、スマホの画面に表示された数字を、満足げに読み上げた。その声には、以前のような切迫感はない。確かな手応えと、かすかな自信が宿っていた。
ベッドの上では、まりんが麦茶を飲みながら、嬉しそうに足をぶらぶらさせている。
「やったね! これで三回連続の黒字達成だよ!」
「ええ。まりんの『サンクス・バースト』で敵の動きを鈍らせたタイミングが完璧だった。おかげで私が最小コストの魔法でコアを破壊できた。被弾コストゼロ、器物損壊ゼロ。これが、今回の黒字の最大の勝因よ」
みりあは、まるで経営コンサルタントのように、冷静に分析してみせる。
美術室での大赤字以来、二人の戦いは、より慎重に、そして的確になっていた。
みりあは、ただコストを切り詰めるのではなく、まりんの「心の価値」を活かした戦術を、その天才的な計算能力で最適化し始めた。まりんもまた、みりあの的確な指示を信じ、その力を最大限に発揮する。
二人の連携は、ようやく一つの完成形を見つけ、魔法少女としての経営状況は、少しずつ、しかし着実に上向き始めていた。
「ちぇっ、最近の戦いは綺麗すぎて面白みに欠けるにゅ」
部屋の隅でポテチを食べていたマギたんが、不満そうに口を挟む。
「もっとハプニングがないと、配信してもスパチャは見込めないのにゅ」
「配信はもうこりごりよ」
みりあは、マギたんをぴしゃりと黙らせると、ペンを走らせていた手を止め、ふぅ、と息をついた。そして、少しだけ、本当に少しだけ、口元を緩ませる。
「…よし。今日の夕飯、もやしをもう一袋、追加しましょう」
「え、いいの!?」
「ええ。たまには、必要経費よ」
「やったー! 今日はもやし祭りだね!」
屈託なく笑うまりんを見て、みりあの心も、ぽかぽかと温かくなる。
通帳の残高は、まだ心許ない。けれど、この確かな手応えがあれば、いつかきっと――。
その、ささやかな希望の光が、音を立てて消し飛んだのは、秋風が冷たくなってきた、ある日の午後だった。
一本の電話。
それは、父が定期検診で訪れていた病院からのものだった。
受話器を置いた母の顔から、血の気が引いている。その震える肩を、みりあは嫌な予感と共に、ただ見つめることしかできなかった。
病院の、白い廊下。
消毒液のツンとした匂いが、空気に張り付いている。等間隔で並んだ蛍光灯が、感情のない光で、リノリウムの床を照らしていた。
診察室の扉の前で、母と二人、固いプラスチックの椅子に座って待つ時間は、永遠のように長かった。
「――羽川さん、どうぞ」
呼ばれて入った診察室で、医師は、レントゲン写真が掲げられたパネルを背に、重い口を開いた。
父の病状が、悪化していること。
このままでは、危険な状態であること。
そして、助かるためには、最新の医療技術を用いた、非常に高額な外科手術が必要であること。
その金額を聞いた瞬間、みりあの頭の中は、真っ白になった。
数百万。それは、今の羽川家が、いや、普通の女子中学生がアルバイトと魔法少女の報酬で、どうにかできる額を、遥かに、絶望的に超えていた。
帰り道、母は、何も言わなかった。ただ、いつもより深く腰を曲げ、その背中が、ひどく小さく見えた。
家に帰ると、まりんが心配そうな顔で待っていた。事情を話すと、彼女は自分のことのように涙を浮かべ、二人の手を固く握りしめてくれた。
「大丈夫だよ…きっと、何か方法があるはずだから…!」
その、まりんの優しさが、今は、痛かった。
綺麗事だ、と思った。友情も、善意も、この、あまりにも巨大な金額の前では、無力だ。
マギモネータの、あの乾いた声が、脳裏に蘇る。
『金がなきゃ、親友一人、救えないのよ』
その夜、みりあは自室のベッドで、眠れないまま、ただ天井を見つめていた。
(どうすれば…どうすれば、あんな大金が…)
思考は、暗く、出口のない迷路を彷徨う。
その、絶望の闇の中で、彼女のスマホが、ピロリン、と場違いなほど軽快な音を立てた。
ミスター・リッチからの、ダイレクトメッセージだった。
画面に表示されたのは、これまでに見たこともない、禍々しいプアーズの画像。そして、その下に添えられた、悪魔の囁き。
『超ハイリスク案件:災害級プアーズ『ギルティ・タイラント』単独討伐』
『成功報酬:3,000,000円』
さんびゃくまんえん。
それは、父の手術費用と、ほぼ同額だった。
まるで、みりあの絶望を見透かしたかのような、あまりにもタイミングが良すぎる、悪魔の契約(ディール)。
その数字が、みりあの瞳を、危険な光でギラつかせた。
「…やる」
みりあの口から、乾いた、決意の声が漏れた。
その隣で、スマホの画面を覗き込んでいたまりんが、悲鳴に近い声を上げる。
「みりあちゃん、ダメだよ! そんなの、無茶だよ!」
画面には、『単独討伐』の文字が、血のように赤い色で強調されている。これまでのプアーズとは、危険度が桁違いなのだ。下手をすれば、死ぬ。
「無茶じゃない。これしか、ないのよ」
「そんなことない! 他にもきっと…!」
その、二人の緊迫したやり取りに、のんきな声が割り込んできた。
「ほにゅ? これはまたとないビッグチャンスだにゅ!」
いつの間にか、みりあの枕元に陣取っていたマギたんが、スマホの画面を覗き込み、キラキラと目を輝かせている。
「見てみろにゅ! 成功報酬300万! これぞハイリスク・ハイリターン! まさに、起死回生の一大投資案件だにゅ!」
「投資なんかじゃない! みりあちゃんが死んじゃうかもしれないんだよ!」
まりんが、マギたんに食ってかかる。しかし、ピンクの毛玉は、やれやれといった様子で首を振った。
「だから甘いんだにゅ、まりんは。ビジネスに感情論を持ち込むのは三流のやることだにゅ。泣いてお父さんの病気が治るのかにゅ? 治らないのにゅよ」
「なっ…!」
マギたんの、あまりにも正論で、あまりにも無慈悲な言葉。それが、みりあの心の最後の閂(かんぬき)を、外してしまった。
「まりんには、分からないよ! お金がないせいで、大切な家族が死んじゃうかもしれないっていう、この気持ち…!」
みりあの声が、荒くなる。
「わかるよ!」
まりんも、目に涙を浮かべて叫び返した。
「わかるから、言ってるんじゃん! お金のために、みりあちゃんまでいなくなっちゃったら、私はどうすればいいの!? そんなやり方は、絶対に間違ってる!」
友情が、初めて正面から激しくぶつかり合う。
しかし、その声は、もうみりあには届いていなかった。
彼女は、スマホの画面に表示された『契約しますか? YES / NO』のボタンを、ただ、一心に見つめていた。
(ごめん、まりん)
心の中で、たった一度だけ謝る。
(でも、私は…もう、失いたくないの)
ピアノを諦めた、あの日の夜。
お金のことで、声を殺して言い争っていた、両親の悲しい背中。
もう、二度と、あんな顔はさせない。
そのためなら。
「私は、家族のためなら、何だってする!」
それは、祈りであり、呪いであり、そして、少女がたった一人で背負うことを決めた、悲痛な覚悟の叫びだった。
みりあは、震える指で、『YES』のボタンを、強く、強く、タップした。
契約は、成立した。
スマホの画面が、契約完了を示す冷たい光を放ち、決戦の場所と時間を、無慈悲に表示する。
「…みりあちゃん…」
まりんの、すがるような、悲しみに濡れた声。
みりあは、一度も親友の方を振り返らなかった。
今、その顔を見てしまえば、きっと、この覚悟が揺らいでしまうから。
彼女は、黙って立ち上がると、静かに部屋を出て行った。
パタン、と。
背後で閉ざされたドアの音が、まるで、二人の間にできてしまった、深く、冷たい亀裂の始まりを、告げているようだった。
決戦の場所は、満月が冷たく照らす、湾岸のコンビナート地帯。
入り組んだパイプラインが、まるで巨大な獣の肋骨のように、夜空にそのシルエットを浮かび上がらせている。潮風が、鉄の錆びた匂いを運び、どこかの配管から漏れる水蒸気が、白い亡霊のように立ち上っては消えていく。
その中央、最も開けた場所で、みりあは、たった一人、静かにその時を待っていた。
潮風が、ダークブラウンの髪を、そっと揺らす。
その瞳には、恐怖も、迷いもなかった。
(大丈夫。これは、ビジネス。300万円の、大きな取引)
自分にそう、何度も言い聞かせる。
ただ、家族の顔だけを思い浮かべ、彼女は、これから始まる死闘に向けて、自らの財布を、まるで最後の命綱のように、強く、強く、握りしめた。