魔法少女マギアリエル 〜魔法少女は個人事業主?〜 作:ろくさん
あの夜、ミスター・リッチと名乗る胡散臭いほど美しい男と契約を交わしてから、三日が経った。
世界は何も変わらない。
テレビのニュースは芸能人の不倫騒動と、遠い国の紛争を同じ熱量で報じているし、羽川家の食卓には、今日も見切り品の野菜で作ったおかずが並んでいる。
「――それで、そのミスターなんとかって人から、連絡はあったの?」
学校の昼休み。中庭のベンチで、みりあは母親が作ってくれた、白米と卵焼きとウインナーだけが詰められた質実剛健な弁当を広げていた。向かいに座る親友のまりんが、彩り豊かな手作り弁当をつつきながら、心配そうに尋ねる。
「ううん、全然。スマホに『契約完了』って通知が一回来ただけ」
みりあは、そっけなく答えながら、少し焼きすぎた卵焼きを口に運んだ。
あの夜の出来事は、まるで現実感のない夢のようだ。時間が止まった世界、黒い泥のような魔物、そして「君の望むだけのお金を与える」という、甘美な言葉。もしかしたら、あれは貧乏生活が生み出した幻覚だったのかもしれない。
「そっか…。やっぱり、危ない話なんじゃないかなぁ。うまい話には裏があるって、うちのお母さんも言ってたよ」
「…うん」
まりんの言うことはもっともだ。しかし、みりあの脳裏には、契約書にサインした瞬間にスマホに振り込まれた、謎の「契約金:10,000円」という文字が焼き付いていた。それは幻ではなく、電子マネーとして確かに存在し、みりあは翌日、そのお金で父親の好物である少し高い日本酒を買って帰ったのだ。「どうしたんだ、これ」と驚く父の、久しぶりに見る嬉しそうな顔。
(危ない話でも、幻でもいい。あれで家族が笑ってくれるなら…)
その時だった。
ポケットに入れていたスマホが、聞き慣れない通知音と共にブルリと震えた。取り出してみると、ロック画面に見慣れないアイコンからの通知が表示されている。金色のコインに、翼が生えたようなデザインのアイコンだ。
『緊急業務連絡:プアーズ出現。座標データを転送する。速やかに現場へ向かい、"駆除"せよ。 From: Mr. Rich』
「ひっ…!?」
思わず小さな悲鳴が漏れる。まりんが「どうしたの?」と覗き込んでくる前に、みりあは慌てて画面を伏せた。
心臓が、早鐘のようにドクドクと鳴り響く。
業務連絡。駆除。それは、あの夜の出来事が現実だったという、何よりの証拠だった。
放課後、まりんには「急に用事ができたから」とだけ告げ、みりあはスマホの地図アプリが示す場所へと走っていた。指定されたのは、市の中心部から少し外れた、古い倉庫街の一角だった。潮の香りと、錆びた鉄の匂いが混じり合った空気が、肺を満たす。
(本当に、いるのかな…化け物が)
ごくり、と喉が鳴る。怖くない、と言えば嘘になる。足は鉛のように重く、今すぐにでも引き返したかった。
しかし、彼女は足を止めなかった。父の嬉しそうな顔と、母の疲れた笑顔が、彼女の背中を押していた。
倉庫街の最も奥まった場所。壁一面が蔦に覆われた、巨大な赤レンガ倉庫の前に、それはいた。
先日見た「なりかけ」とは違う。全長は3メートルほどもあるだろうか。捨てられた家電製品――ブラウン管テレビ、二槽式洗濯機、壊れた扇風機などが、黒いタールのようなもので無理やり繋ぎ合わされた、異形のゴーレム。それが、この世の全てを呪うかのような低い唸り声を上げていた。
恐怖で立ち尽くすみりあの耳元で、あの体温のない声が直接響いた。
『来たかね、羽川君。それが今回の"案件"だ』
いつの間にか、隣にミスター・リッチが立っていた。彼はプアーズには目もくれず、値動きの激しい株価ボードのようなものを空中に浮かべている。
「ど、どうすれば…! 私、戦い方なんて…!」
『案ずるな。君への初期投資は惜しまない。まずはその身に刻むことだ。君がこれから得る"力"の価値を』
ミスター・リッチが指を鳴らすと、みりあの身体がふわりと光に包まれた。
「さあ、唱え給え。変身の呪文(キーワード)は――」
『キャッシュ・コンバート! アーン・アウト!』
教えられるがままに、震える声で叫ぶ。
その瞬間、世界が眩い黄金色の光に塗り潰された。
古びたがま口財布から、眩いばかりの光の粒子が溢れ出し、みりあの身体に降り注ぐ。洗いすぎて白っぽくなった制服は光の中に溶け、代わりに、磨き上げられた金塊(インゴット)のような光沢を持つ、豪奢なビスチェと、幾重にも重なった白銀のフリルスカートがその身を飾っていく。フリルの一枚一枚には、世界各国の通貨記号――『$』『€』『£』『¥』――が、透かし彫りのように精緻な刺繍となって浮かび上がった。
手入れにお金がかけられなかったダークブラウンの髪は、月光を溶かして練り上げたかのような、輝くプラチナブロンドへと変わり、金のコインを編み込んだサイドアップに結い上げられる。黒くあどけない瞳は、溶かした黄金を流し込んだように金色に輝き、その中心にはドル記号($)を模した鋭い光が宿った。
最後に、光の中から一本の杖が現れ、彼女の手に収まる。純金でできた杖の先端には、何枚ものお札を束ねたような飾りがついている。
ワンド・オブ・クレジット。
その身に宿したのは、彼女が心の奥底でずっと抱いてきた「もしも私がお金持ちだったら」という、切実な願望の結晶。
魔法少女、マギアリエル。ここに顕現する。
自分の姿の変化に、みりあ――いや、マギアリエルは呆然としていた。
手にした杖はズシリと重く、身体を包むドレスは、今まで一度も触れたことのないような滑らかな感触。何より、視界のすべてが、まるで解像度が数段階上がったかのように鮮明に見えた。世界が、自分を中心に回っているかのような、万能感。
ゴオォォ…
しかし、感傷に浸る時間は与えられなかった。
目の前の家電ゴーレムが、その巨体をギシリと軋ませ、マギアリエルを敵と認識して動き出す。
『何を呆けている。戦闘中に考え事とは、感心しないな』
ミスター・リッチの冷ややかな声が、思考に直接響く。
「だ、だって、どうすれば…!」
『簡単だ。君が"こうしたい"と願うだけでいい。ただし、全ての行動には"対価"が発生することを忘れるな』
対価。その言葉が妙に引っかかったが、今は考える余裕はない。
ゴーレムが、瓦礫を巻き込みながら巨大な腕を振り上げてくる。
(危ないっ…! 防がないと!)
咄嗟にそう願った瞬間、手に持っていた杖『ワンド・オブ・クレジット』が輝き、目の前に半透明の障壁が出現した。障壁には無数の通貨記号が鎖のように走り、ゴーレムの腕を見事に受け止める。
「わ…!」
驚く間もなく、ゴーレムはもう片方の腕で追撃してくる。
(今度は、こっちから…!)
マギアリエルは、今度は攻撃をイメージした。杖の先端に光が収束し、金色の光弾となって放たれる。光弾はゴーレムの胴体に着弾し、小さな爆発を起こしてブラウン管テレビを一つ、粉々に破壊した。
手応えがある。いける!
恐怖は、徐々に高揚感へと変わっていった。
まるで、難しいと思っていたゲームを、攻略サイトを見ながらサクサク進めているような感覚。
(もっと、もっと強く…! 一気に、派手に!)
幼い頃、一度だけ父親に連れて行ってもらったヒーローショーの光景が、脳裏に蘇る。悪者を一撃で倒す、格好いいヒーローの必殺技。
マギアリエルは杖を天に掲げ、ありったけの力を込めて叫んだ。
「くらえーっ! ペイオフ・ショットォォォ!!」
名前は、今、感覚でつけた。
杖の先端に束ねられていたお札の飾りが、扇のように大きく開く。そこから放たれたのは、先程までの光弾とは比較にならない、極太の黄金の光線だった。
光線は、ゴーレムの上半身を飲み込み、背後の倉庫の壁を大きく抉りながら、空の彼方へと消えていく。
残されたゴーレムの下半身は、数秒間ぴくぴくと痙攣した後、接続を失った部品のようにガラガラと崩れ落ち、最後は黒い塵となって風に消えた。
「……やった」
呆然と呟く。
荒くなった息を整えながら、自分がやったことの大きさに、ただただ圧倒されていた。
ふと気づくと、ミスター・リッチの姿はどこにもなく、周囲の止まっていた時間も、何事もなかったかのように動き出していた。
マギアリエルの身体を包んでいた光が薄れ、豪華なドレスは元の制服へと戻っていく。手の中に残ったのは、いつもの古びたがま口財布だけだった。
夢だったかのような出来事と、抉られた倉庫の壁という現実。そのギャップに混乱しながら、みりあは、ふらつく足取りで家路についた。
翌日の放課後。
昨日の戦闘の興奮も冷めやらぬまま、みりあは教室でスマホを眺めていた。
(報酬、いつ振り込まれるんだろう…)
そんなことを考えていると、ちょうどその時、例の翼の生えたコインのアイコンから通知が届いた。
『業務報告および請求書』
「請求書…?」
首を傾げながら、添付されたファイルを開く。
そこには、今回の業務に関する詳細なレポートが記されていた。
【プアーズ『ガラクタ・ゴーレム』討伐任務報告書】
基本報酬: +10,000円
「お、一万円!」
思わず声が漏れる。一日で一万円。これは、ファストフード店のバイト十時間分以上に相当する。やっぱり、危ない話なんかじゃなかったんだ!
しかし、喜びも束の間。下にスクロールしたみりあは、その目に信じられない文字を見つけた。
魔法消費コスト(内訳)
マネー・バリア(下級防御魔法): -500円 x 3回 = -1,500円
キャッシュ・ブラスト(下級攻撃魔法): -1,000円 x 2回 = -2,000円
ペイオフ・ショット(中級攻撃魔法): -5,000円 x 1回 = -5,000円
小計: -8,500円
「……は?」
理解が追いつかない。魔法を使うのって、タダじゃなかったの? しかも、あの最後の必殺技、五千円もしたの!?
呆然とするみりあに、レポートはさらに追い打ちをかける。
ペナルティ(減俸)
器物損壊(倉庫外壁): -5,000円
「そ、そんな……」
あの時、派手にやりすぎたせいだ。
震える指で、レポートの一番下までスクロールする。そこには、今回の任務の最終的な収支が、無慈悲なゴシック体で記されていた。
収支合計: -3,500円
マイナス。
赤字だ。
世界を救うための初仕事は、時給980円のバイトを3時間半以上、タダ働きしたのと同じ結果に終わった。
「あぅあぅぁ〜〜〜〜〜っ!!」
夕暮れの教室に、羽川みりあの悲痛な叫びが、虚しく響き渡った。
魔法少女の経営は、初日からいきなり赤字である。