魔法少女マギアリエル 〜魔法少女は個人事業主?〜   作:ろくさん

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第19話 盤上の駒(ポーン)

 

夜の湾岸線を走り抜ける最終バスを降りた時、羽川みりあの身体を、潮の香りを纏った冷たい風が容赦なく撫でつけた。目の前に広がるのは、人間が作り出した鉄の迷宮、コンビナート地帯。空には冴え冴えとした満月が浮かび、複雑に絡み合ったパイプラインや、巨大なガスタンクの無機質なシルエットを、青白く照らし出している。

 

ゴウン、ゴウン…という、巨大な機械が絶えず発する低い唸りだけが、この世界の唯一のBGMだった。時折、配管から漏れる高温の水蒸気が、白い亡霊のように立ち上っては、夜の闇に吸い込まれていく。あまりにも巨大で、あまりにも非人間的な光景。その中心に、みりあは、まるで打ち捨てられた人形のように、ぽつんと一人で立っていた。

 

「来たにゅ来たにゅ! 一世一代のビッグビジネスの始まりだにゅ!」

 

その、張り詰めた空気を台無しにするかのように、みりあの背中のリュックから、ピンク色の毛玉がひょっこりと顔を出した。マギたんだった。彼は、まりんとの決裂の後、当然のようにみりあにだけついて来ていたのだ。

 

「成功報酬300万! 震えるにゅ〜! これを成功させれば、一気に負債を返済して、お釣りがくるどころの話じゃないにゅ! 億万長者への第一歩だにゅ!」

マギたんは、みりあの肩の上によじ登ると、小さな前足でガッツポーズを作り、興奮気味に叫ぶ。その瞳は、目の前の絶望的な光景ではなく、300万円という数字の輝きだけを映していた。

 

「まりんのことなんぞ、今は忘れるのにゅ! 友情ごっこで、お父さんの病気は治らない! 勝てば官軍! 金こそが正義だにゅ! 集中! 集中だにゅ!」

「…わかってるわよ」

 

みりあは、短く応えた。まりんの悲しそうな顔が、脳裏をよぎっては消える。胸の奥が、氷の針で刺されたように痛んだ。

(一人じゃない。でも、一人だ)

この、欲望と打算に満ちた応援は、孤独を癒すどころか、むしろ、その輪郭をより濃く、鮮明にするだけだった。

 

(感傷に浸っている場合じゃない。これは、ビジネス。300万円の、大きな取引なんだから)

自分にそう言い聞かせ、冷たいコンクリートの上に、古びたがま口財布をそっと置く。それが、彼女の唯一の武器であり、命綱だった。

 

その時だった。

空間が、まるで水面のように揺らめいた。遠くのガスタンクの頂上付近の空気が、陽炎のように歪み、そこから、どす黒い絶望が、コールタールのようにゆっくりと滲み出してくる。

 

それは、これまでのプアーズとは、次元が違った。

その巨体は、錆びついた巨大な天秤を背負い、両腕は、罪人が自らを打ち据えるための、無数の鉄鎖でできていた。顔があるべき場所には、ただ、ぽっかりと暗い穴が空いており、そこからは、涙のように黒いオイルが絶えず流れ落ち、地面に黒い染みを作っている。

 

災害級プアーズ『ギルティ・タイラント』。

社会の歯車からこぼれ落ち、自らの無力さを責め続けた者たちの、行き場のない罪悪感と自己処罰の願望が、この無機質な鉄の迷宮で、最悪の形で融合・具現化した、裁きと絶望の化身。

 

「ほにゅっ!? こ、これは…とんでもないお宝プアーズだにゅ!」

マギたんが、恐怖よりも先に、金銭的な価値を査定して叫ぶ。

その、あまりの威圧感に、みりあの喉が、ひゅっと鳴った。

しかし、彼女は逃げなかった。恐怖に震える脚を、叱咤する。

(大丈夫。私には、守るものがある)

 

「――キャッシュ・コンバート! アーン・アウト!」

 

たった一人で叫ぶ変身の呪文は、虚しく夜空に響き渡る。

眩い光が闇を切り裂き、黄金と白銀のドレスを纏った魔法少女マギアリエルが、月光を背負って顕現した。その豪華絢爛な衣装が、この殺風景な工場地帯では、かえって悲壮な輝きを放っている。

 

だが、タイラントは、彼女が名乗りを上げる猶予さえ与えなかった。

背負った天秤が、不気味な金属音を立てて傾くと同時に、鉄鎖の腕の一本が、まるで巨大な蛇のようにしなり、マギアリエルへと襲いかかる。

 

ガギィィィンッ!

 

咄嗟に展開した『マネー・バリア』に、凄まじい衝撃が走る。これまでのプアーズの攻撃とは、桁が違う。重さが、密度が、殺意が、全く違うのだ。

バリアには、蜘蛛の巣のような亀裂が入り、数千円分の魔力が、一瞬にして蒸発した。

 

「くっ…!」

「おおっ! さっすが300万の敵は格が違うにゅ! 頑張れみりあ! コストを恐れるな! これは未来への投資だにゅ!」

マギたんの無責任な声援が、耳障りに響く。

マギアリエルは、すぐさま距離を取り、反撃の隙を窺う。

(落ち着け。相手はデカい。動きは、きっと遅いはず…!)

しかし、その思考は、次の瞬間、絶望に塗り替えられた。タイラントは、その巨体に似合わぬ俊敏さで、第二、第三の鉄鎖を、休む間もなく叩きつけてくるのだ。

 

回避、防御、回避、回避。

戦いは、完全に一方的な展開となった。まりんがいない。援護も、回復もない。たった一人で、この暴風雨のような猛攻に耐えしのぐしかなかった。

攻撃のチャンスは、皆無。ただ、防御魔法のコストだけが、まるで壊れた水道のメーターのように、凄まじい勢いで積み上がっていく。

 

その、絶望的な攻防の最中だった。

鉄鎖の嵐を必死で避けながら、柱の影に身を隠した、ほんの一瞬。

マギアリエルの耳に、直接、あの冷徹な声が響いた。ミスター・リッチの声だ。

 

『――損耗率30%。許容範囲内だ』

 

(え…?)

それは、みりあへの指示ではなかった。まるで、誰か、別の存在と通信しているかのような、淡々とした報告。

 

『ああ、問題ない。この駒(ポーン)の耐久性は、想定以上だ。市場(いくさば)は、依然として、こちらの優勢で推移している』

 

市場? 駒?

その、自分たちの命がけの戦いを指しているとしか思えないビジネス用語に、マギアリエルの背筋を、冷たい汗が伝った。

 

『このまま、最終フェーズに移行する。次の投資の準備を――』

 

そこで、通信は途切れた。

目の前では、ギルティ・タイラントが、さらなる追撃のために、その全ての鉄鎖を、禍々しく蠢かせている。

しかし、みりあの心は、もはや目の前の敵にはなかった。

 

(今のは…何…?)

(私たちは…ただの、駒…?)

 

壮大な、誰かのビジネスゲームの盤上で、ただ踊らされているだけの、消耗品の駒。

その、あまりにも冷たい可能性に気づいてしまった彼女の心に、初めて、本当の意味での『戦慄』が、音もなく、しかし深く、深く、突き刺さった。

 

世界から、音が消えた。

背後で響いていたはずの工場の唸りも、吹きすさぶ潮風の音も、何も聞こえない。ただ、自分の心臓が、耳のすぐ側で警鐘のようにドクドクと鳴り響いている。

 

(駒…? 私が…?)

 

ミスター・リッチの、あの体温を感じさせない声が、頭の中で何度も反響する。

私の命がけの戦いも、父を救いたいという必死の想いも、この胸を締め付ける恐怖も。その全てが、ただの『駒』の損耗率として、誰かの天秤の上で、冷徹に計算されていた。

あの300万円という成功報酬は、私へのご褒美などではない。私の命に付けられた、『値札』だったのだ。

 

全身から、力が抜けていく。戦う意味が、目的が、全てが、砂のように指の間からこぼれ落ちていく感覚。

その、思考が停止した一瞬の隙を、ギルティ・タイラントが見逃すはずもなかった。

 

ゴウッ!

 

凄まじい風切り音と共に、鉄鎖の腕が、マギアリエルの華奢な身体を、まるで虫けらのように薙ぎ払った。

「――がっ!?」

息が詰まる。金色の光を放っていたはずのドレスがコンクリートの床に叩きつけられ、受け身も取れずに数メートルも無様に転がった。磨き上げられた金塊のようだったビスチェには無残な傷が刻まれ、白銀のフリルは泥とオイルで黒く汚れていく。

 

(痛い…苦しい…もう、やだ…)

心が、折れかけていた。

しかし、その薄れゆく意識の中で、彼女の脳裏に、一つの光景が焼き付いていた。

病院の、真っ白なシーツの上で、静かに本を読んでいた父の、痩せた背中。

 

『無理は、するなよ』

 

そう言って、弱々しく笑った父の顔。無理をしてほしくない母の、祈るような瞳。

そうだ。私は、駒なんかじゃない。羽川みりあだ。

二人の、たった一人の、娘なんだ。

 

「…まだよ…!」

瓦礫の中から、マギアリエルは、血の滲む唇を噛みしめながら、ゆっくりと立ち上がった。その金色の瞳には、絶望の色を塗りつぶすように、再び、闘志の火が宿っていた。

「あんたの…あんたたちの、思い通りになんて…させて、たまるもんですか!」

 

それは、誰に向けた言葉だったのか。

目の前の怪物か、あるいは、盤の向こう側でこの光景を眺めているであろう、冷徹な投資神か。

マギアリエルは、残されたけなげな魔力をかき集め、反撃の機会を窺う。

 

だが、タイラントの猛攻は、さらに激しさを増していた。

鉄鎖が、まるで生き物のように縦横無尽に走り、コンクリートの柱を豆腐のように砕き、地面を抉る。

マギアリエルは、その死の嵐の中を、必死で駆け抜ける。転がり、跳躍し、時にはパイプラインの影に身を潜めながら、活路を探す。

 

(ダメだ…! 正面からの攻撃じゃ、ジリ貧になるだけ…!)

彼女の天才的な計算能力が、この絶望的な状況下で、一つの、あまりにも無謀な活路を弾き出した。

視線の先、タイラントの背後にそびえ立つ、巨大な球形のタンク。そこには、赤い文字で、こう書かれていた。

 

『高圧可燃性液体』

 

(あれを、爆発させる…!)

街への被害、環境への影響。そんなものを計算している余裕はない。この閉鎖された戦場で、あの怪物を仕留めるには、これしかない。

(タンクの弁償代と、治療費と…父さんの手術代…。勝てば、全部、お釣りがくる!)

 

覚悟を決めたマギアリエルは、大きく息を吸い込んだ。

彼女は、自らの財布に、残された全財産を、そして、自分の未来そのものを、一気に注ぎ込む。

これまでのバイト代、魔法少女として稼いだけなげな黒字、その全て。

 

「私の全財産…! これが、私の最後の投資よっ!」

 

彼女の絶叫に呼応し、杖の先端に、これまでにないほど不安定で、巨大な黄金の剣が形成されていく。それは、制御しきれないほどの魔力が、悲鳴を上げながら形を成した、絶望の光だった。

 

「エンゲージメント・ブレードッ!!」

 

狙うは、タイラントではない。その背後、巨大なタンクの、最も脆いであろう接合部。

放たれた黄金の斬撃は、夜の闇を切り裂き、正確にターゲットを撃ち抜いた。

 

次の瞬間、世界から、再び音が消えた。

そして、コンマ数秒の静寂の後――。

 

――閃光と、轟音。

 

凄まじい爆発が、コンビナート地帯を、真昼のように照らし出す。

衝撃波が、マギアリエルの身体を、木の葉のように吹き飛ばした。熱風が、自慢のプラチナブロンドの髪を焦がし、爆散したタンクの破片が、容赦なくその身を切り刻んでいく。

 

どれくらいの時間が経ったのか。

煙が立ち上り、灼熱の液体がアスファルトを溶かす、地獄のような光景の中で、みりあは、ゆっくりと目を開けた。

ドレスは、もはや原型を留めていなかった。あちこちが焼け焦げ、破れ、覗く肌には、無数の切り傷と火傷の跡が生々しく刻まれている。

 

しかし、その視線の先で、炎の中から、ゆらり、と巨大な影が立ち上がった。

ギルティ・タイラント。

爆発で半身を失いながらも、まだ、生きていた。その空洞の瞳の奥で、赤い憎悪の光が、みりあを、明確な殺意をもって捉えている。

 

(うそ…)

みりあは、最後の力を振り絞り、自分の財布を確認する。

スマホと連動した残高表示には、無慈悲な数字が浮かんでいた。

 

『残高: ¥0』

 

もう、魔法は使えない。立ち上がる力も、残っていない。

ゆっくりと、絶望の影が、彼女に近づいてくる。

(…ごめん…なさい…お父さん…お母さん…)

そして、

 

(…まりん…)

 

薄れゆく意識の中で、みりあは、最後に親友の名を、心の中で呟いた。

その瞬間だった。

夜空を切り裂いて、一つの、温かい光が、この地獄に舞い降りてきたのは。

 

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