魔法少女マギアリエル 〜魔法少女は個人事業主?〜   作:ろくさん

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第22話 市場崩壊(マーケット・クラッシュ)

 

夜が、明ける。

コンビナート地帯の向こう、東京湾の水平線から、再生を告げるかのような優しい朝日が差し込み始めていた。しかし、その光景を眺める三人の少女の心は、決して晴れやかではなかった。

 

燃え尽きた鉄骨の残骸、アスファルトを溶かした灼熱の跡。地獄のような戦いの爪痕が生々しく残る中、羽川みりあ、雪代まりん、そして、鬼道院るなは、誰かがどこからか見つけてきた、一枚の薄汚れたブランケットに、身を寄せ合うようにして座っていた。

魔法少女の豪奢なドレスは、もうない。後には、あちこちが破れ、煤と泥に汚れた、ただの女子中学生の制服姿だけが残されている。

 

みりあは、自分のスマホの画面を、ただ、呆然と見つめていた。

そこに表示された『収支合計:-2,852,400円』という、中学生にはあまりにも重い赤字。それは、彼女の自己破産を告げる、冷たい墓標だった。

 

その、静寂を破ったのは、みりあの肩口で丸くなっていたピンク色の毛玉の、ひきつったような声だった。

「にひゃく…はちじゅうごまん…?」

マギたんが、スマホの画面を覗き込み、震える声で数字を読み上げる。そして、次の瞬間。

 

「ぎゃぁぁぁぁっ! 自己破産だにゅぅぅぅっ!」

 

マギたんは、まるで火がついたように飛び上がると、みりあの頭の上で、狂ったようにジタバタし始めた。

「と、取り立てが来るにゅ! ミスター・リッチ様に、このプリチーな毛を全部むしり取られて、ピンク色の生ハムにされてしまうにゅ〜っ!」

その、あまりにも情けない絶叫に、みりあは眉をひそめる。

「うるさいわね…あんたの毛皮なんて、誰も欲しがらないわよ」

「何を言うかだにゅ! こうなったら…道連れだにゅ!」

 

逆上したマギたんは、みりあの破れた制服の襟元に飛びつくと、その小さな前足で、必死に服を脱がそうとし始めた。

「お前の身ぐるみ剥いで、オークションで売って、少しでも借金の足しにしてやるにゅ! さあ、脱ぐにゅ! 脱ぐのにゅ!」

「なっ…!? ちょっと、やめなさいこのエロ毛玉っ!」

「いやだにゅ! 脱げーっ!」

 

その、あまりにも低レベルな攻防を、冷ややかに見下ろす影があった。

近くの瓦礫の上に、いつの間にか、歪んだ笑顔のピエロ、フラたんが、ゆらりと姿を現していた。

 

「くふふ…みっともないノンねぇ、マギたん」

「な、なんだとぉ!」

「一流の投資家(笑)が、投資対象と一緒に破産とは、傑作だノン。ボクの『作品』は、今、心は壊れていても、資産価値は過去最高だというのにノン。お前は、ビジネスの才能も、セクハラの才能もないようだノンねぇ」

 

フラたんの下卑た嘲笑。マギたんの金切り声。みりあの抵抗する声。

その、混沌としたやり取りのおかげか、多額の赤字ではあったが、いつもの「あぅあぅぁ〜」という悲鳴は出てこない。隣で、泣き疲れて眠るように意識を失っているるなの穏やかな寝顔と、その手を優しく握りしめるまりんの横顔を見ていると、なぜか、心は凪いでいた。

お金は全て失った。でも、一番大切なものは、守れたのだから。

 

その、あまりにも静かで、あまりにも人間的な感情の交錯。

みりあの、お金への執着と、それでも守りたかった家族への愛。

まりんの、お金では測れないものを信じ抜いた、無償の絆。

そして、るなの、お金で全てを守ろうとし、そして全てに絶望した、壮絶な魂の叫び。

 

三人の、あまりにも強く、あまりにも矛盾した巨大な感情エネルギーが、夜明けの空の下で、静かに共鳴した、その瞬間だった。

 

世界が、軋んだ。

 

それは、物理的な音ではない。もっと、根源的な、世界のルールそのものが悲鳴を上げるような、不快な感覚。

空気が、薄くなったように感じる。朝日の光が、どこか色を失い、まるで作り物のように、白々しく見えた。

 

「…なに、これ…」

最初に異変に気づいたのは、まりんだった。

彼女が指さす空の、天頂。そこに、一本の、黒い亀裂が走っていた。

いや、違う。黒ではない。それは、『無色』だった。光も、闇も、あらゆる概念を吸い込む、絶対的な『無』。まるで、世界のキャンバスそのものが、ナイフで切り裂かれてしまったかのような、異質な傷跡。

 

その亀裂から、音もなく、色のない波紋が、同心円状に広がっていく。

波紋が、三人の頭上を通り過ぎた瞬間、みりあは、全身の血が凍るような、奇妙な感覚に襲われた。

 

(価値が…消えていく…?)

 

目の前にある、錆びついた鉄骨。それはもはや、「古い」とか「朽ちている」といった価値観を失い、ただの「鉄の塊」になった。足元のコンクリートは、「硬い」のではなく、ただの「石の集合体」に。美しいはずの朝焼けすら、「綺麗」という感情を喚起させない、ただの「光の現象」へと成り下がっていく。

世界から、意味が、価値が、根こそぎ奪われていく。

 

その、概念的な崩壊は、すぐに、物理的な現実となって世界を侵食し始めた。

みりあが手にしていたスマホの画面が、激しく明滅を始める。

『-2,852,400円』と表示されていた数字が、意味不明な記号の羅列へと変わり、そして、通貨単位を示す『円』の文字が、まるで存在を否定されたかのように、ノイズと共に、消えた。

 

『ERROR: VALUE NOT FOUND』

 

その無機質なエラーコードが表示されたのを皮切りに、遠くの市街地から、一斉に、世界の断末魔が響き渡ってきた。

けたたましいクラクションの不協和音。鳴り止まない銀行の警報。人々の、混乱と、絶叫。

 

視線の先の、大通り。一台の車が信号を無視して交差点に突っ込み、大破する。ATMに駆け寄ったサラリーマンが、出てきたものがただの真っ白な紙切れだったことに気づき、乾いた笑いを漏らし、やがて、その場に崩れ落ちて泣き叫ぶ。

 

秩序が、常識が、文明が、その土台である「価値」という概念を失い、リアルタイムで崩壊していく。

 

その、地獄絵図の中心で、三人が呆然と立ち尽くしていた、その時。

彼女たちの目の前の空間が、激しいノイズと共に歪んだ。

いつもは、完璧なビジネススマイルを浮かべて、優雅に現れるはずの男。

投資神、ミスター・リッチが、まるで放送事故の映像のように、その姿を不完全に明滅させながら、転がり込むようにして、出現した。

 

完璧に仕立てられていたはずのイタリアンスーツは、あちこちが乱れ、その美しい顔には、これまで一度も見たことのない、焦りと、そして、純粋な『狼狽』の色が浮かんでいた。

 

「…あり得ない…!」

彼の声は、いつもの冷静さを失い、ひどく上ずっていた。

「私のビジネスゲームの、盤そのものが破壊された…! 市場が…全ての価値が、消失していく…!」

 

彼は、初めて、投資対象(クライアント)としてではない、ただの助けを求める人間として、三人の少女を見た。

「君たちのせいだ…! 愛、絆、そして絶望! あまりにも強大で、矛盾した君たちの感情のエネルギーが、世界の価値観のパラドックスを引き起こし、システムの許容量を超えてしまった!」

 

ミスター・リッチの背後、空に走る無色の亀裂が、さらに大きく、深く、口を開いていく。

そこから、世界の全てを無に帰す、絶対的な虚無の気配が、ゆっくりと、この世界に降臨しようとしていた。

 

「あれが、プアーズの根源…『虚無市場(ゼロ・マーケット)』…。全ての価値を喰らい、無に還す、概念のブラックホールだ」

 

ミスター・リッチは、震える声で言った。

「これは、もはや依頼(ビジネス)ではない。…世界の、危機だ」

 

ミスター・リッチの、震える声。

その言葉は、燃え盛るコンビナートの轟音の中に、しかし、あまりにもはっきりと響き渡った。

いつもは完璧に結ばれていたはずのシルクのネクタイは緩み、その美しい額には、脂汗が滲んでいる。絶対的な支配者(プレイヤー)だったはずの彼が、自らが作り上げたゲーム盤の崩壊を前に、ただ狼狽する、無力な一人人間に成り下がっていた。

 

彼の視線の先、天頂に走る無色の亀裂が、さらに大きく、深く、口を開いていく。

それは、まるで世界の皮膚が裂け、その向こう側にある、あってはならない『無』が、この世界に溢れ出してくるかのようだった。

 

ゴオオオオオ……

 

それは、音ではなかった。

全ての音を喰らい、全ての意味を消し去る、絶対的な『静寂』の奔流。

『虚無市場(ゼロ・マーケット)』が、その裂け目から、ゆっくりと、しかし確実に、この世界に降臨し始めていた。

 

それは、具体的な姿を持たない。

ただ、その存在が顕現するにつれて、世界の法則が、根底から書き換えられていく。

燃え盛る炎から、「熱い」という価値が奪われる。それはもはや炎ではなく、ただ、赤く揺らめく現象に過ぎなくなる。

吹き荒れる風から、「冷たい」という価値が奪われる。それはもはや風ではなく、ただ、大気が移動する現象となる。

近くの壁に描かれていた、色鮮やかなグラフィティアート。その、攻撃的で、生命力に満ちた色彩が、まるで溜息をつくように、すぅっと色褪せ、ただの単調な灰色の汚れへと変わっていく。

 

「ひっ…!」

マギたんが、金銭的な恐怖とは全く質の違う、根源的な恐怖に、みりあの肩口で小さく悲鳴を上げた。

「くふふ…これは…これは、ボクの理解を超えているノン…」

混沌と破壊を愛するはずのフラたんすら、その歪んだ笑顔を凍りつかせ、後ずさっている。

 

「価値消失率70%…80%…! くそっ、思考速度が追いつかない…!」

ミスター・リッチは、空中に投影した、意味不明なエラーコードで埋め尽くされたパネルを前に、頭を掻きむしる。

「オーダー! 全魔法少女に通達! これはビジネスではない、絶対命令(オーダー)だ! あの『虚無市場』を、破壊しろ!」

 

しかし、その声は、虚しく響くだけだった。

お金という対価(コスト)を失った今、彼のシステムは、もはや何の強制力も持たない。魔法少女たちは、もはや彼の盤上の駒(ポーン)ではなかった。

 

世界から、価値が消える。

お金も、名誉も、善も、悪も。全ての意味が、等しく『ゼロ』になっていく。

その、絶対的な虚無を前に、みりあは、不思議と、心が凪いでいくのを感じていた。

 

(そうか…お金が、なくなったんだ…)

 

もう、父の手術代に、悩む必要もない。

自己破産の、マイナス285万円という数字に、怯える必要もない。

マギモナータのように、心を殺してまで、稼ぐ必要もない。

全てが、ゼロになったのだから。

 

彼女は、静かに立ち上がった。

破れ、焼け焦げた制服。それはもはや、「リリアーナ学園の制服」という価値を失い、ただの布切れになっていた。

しかし、そんなことは、どうでもよかった。

彼女は、そっと、隣で眠るように気を失っている、るなの頬に触れた。そして、その手を固く握りしめ、不安げに自分を見つめる、まりんの瞳を、まっすぐに見つめ返した。

 

(ううん…違う)

(全部が、ゼロになったんじゃない)

 

みりあの胸の中心、心臓がある場所から、ふわり、と、小さな、金色の光が灯った。

それは、豪華絢爛な魔法少女の輝きではない。もっと、ささやかで、儚くて、しかし、絶対に消えない、温かい光。

 

お父さんとお母さんの、心配そうな顔。まりんの、太陽みたいな笑顔。そして、るなの、初めて見せた、子供のような泣き顔。

お金では買えなかったもの。お金を失っても、ここに残っているもの。

 

「…まだ、残ってるよ」

みりあは、誰に言うでもなく、呟いた。

「私たちの『価値』は、まだ、ここに残ってる…!」

 

その言葉に呼応するように、まりんの胸からも、温かい桜色の光が灯る。

二つの光は、この、色と意味を失っていく世界で、あまりにも、あまりにも、鮮やかに輝いていた。

 

「な…なんだ、その光は…? 私のシステムでは、測定不能なエネルギーだと…?」

狼狽するミスター・リッチを背に、みりあとまりんは、るなの身体をそっと支えながら、立ち上がった。

三人は、天頂で全てを無に還そうと口を開ける『虚無市場』を、まっすぐに見据える。

 

これから始まるのは、世界の、最後の値決め。

お金ではない、本当の価値を賭けた、最後の戦いだ。

 

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