魔法少女マギアリエル 〜魔法少女は個人事業主?〜 作:ろくさん
『虚無市場(ゼロ・マーケット)』との最終決戦から、数ヶ月の月日が流れた。
世界から『価値』が消失したあの日――後に『グレート・バリュー・ショック』と呼ばれるようになった大混乱は、三人の魔法少女の、命を賭した戦いによって、辛うじて収束した。
ミスター・リッチのシステムが、少女たちの『想い』を新たな価値基準『TP(トラストポイント)』として再定義したことで、世界は、まるで大病から回復するように、ゆっくりと、しかし確実に、元の姿を取り戻していった。
銀行の残高表示は再び『円』に戻り、人々は、当たり前のようにパンを買い、電車に乗り、働く。あの、全てが無意味になった灰色の数日間は、まるで集団で見た悪夢のように、人々の記憶から少しずつ薄れ始めていた。
そして、羽川家にも、ささやかだが、確かな変化が訪れていた。
「ただいまー」
夕暮れのチャイムが鳴り響く頃、制服姿のみりあが玄関のドアを開けると、味噌の香ばしい匂いが、ふわりと彼女の鼻をくすぐった。
「おかえり、みりあ」
リビングでは、父の正一が、咳き込むこともなく、穏やかな顔で新聞を読んでいる。あの日、みりあたちが稼いだ『TP』は、ミスター・リッチによって、世界の混乱を収めた功績として、一部が現実の資産に変換された。それは、父の高額な手術を可能にするには、十分すぎるほどの金額だった。
病から解放された父の背中は、以前よりも少しだけ、大きく見える。
キッチンでは、母の優子が、エプロン姿で鼻歌を歌いながら、夕飯の支度をしていた。無理なパートを重ねる必要がなくなり、その目元の隈は、すっかり消えていた。
「あら、みりあ、おかえりなさい。今日は大根が安かったのよ」
「うん、ただいま」
みりあは、使い古された革のスクールバッグを床に置くと、母の隣に並び、当たり前のように、夕飯の支度を手伝い始める。
食卓に並んだのは、けして豪華とは言えない、しかし、滋味あふれる夕食だった。
湯気が立ち上る、豆腐とわかめと油揚げの味噌汁。焼き網の上で、香ばしい焼き色がついた塩鯖。そして、母が安売りで手に入れたという、瑞々しい大根のサラダ。
「「「いただきます」」」
三人で囲む、小さな食卓。
交わされるのは、学校であった、他愛のない出来事。ご近所の噂話。次の日曜日は、どこかへ出かけようかという、ささやかな相談。
以前のような、お金に対する焦りや、将来への不安が、この食卓の空気には、もう微塵も存在しなかった。
(そういえば、あの時のTPの残りは、どうなったんだろう…)
ふと、みりあは思う。
父の手術費を払っても、まだ、大金が残っていたはずだ。しかし、それは、いつの間にか、羽川家の口座から、綺麗さっぱり消えていた。
ミスター・リッチに問いただしても、『市場の安定化のために、必要経費として相殺された』という、ビジネスライクな返答が返ってきただけ。
(まあ、いっか)
みりあは、味噌汁を一口すする。大根の甘みが、じわりと、身体中に染み渡っていく。
お金は、また失った。羽川家は、また、決して裕福とは言えない、元のつつましい生活に戻った。
でも。
(でも、私たちは、もう貧乏じゃない)
目の前で、美味しそうにご飯を頬張る、父と母の笑顔。
この、何にも代えがたい温かい時間。
これこそが、あの日、自分たちが命を賭けて守り抜いた、本当の『報酬』なのだから。
食後、みりあは、まりんとるなとの約束を思い出し、夜の街へと足を向けた。
向かう先は、すっかり彼女たちの第二の我が家となった、あの場所。
『スナック来夢』の、控えめなネオンサインが、優しく、彼女を迎えてくれた。
カラン、とドアベルを鳴らして店に入ると、そこには、いつもの光景が広がっていた。
カウンターの中では、まりんが、白いフリルのついたエプロン姿で、常連客の水割りを作っている。その太陽のような笑顔は、今夜も、店全体を明るく照らしていた。
そして、その隣。
まりんと同じ、少しだけサイズが大きいエプロンを身につけ、慣れない手つきで、しかし、一つ一つ丁寧に、グラスを磨いている少女がいた。
鬼道院るなだった。
派手だった銀髪は、落ち着いた黒髪へと戻り、飾り気のないポニーテールに結ばれている。人を射抜くようだった鋭い瞳は、今は、凪いだ湖面のように、どこまでも穏やかだった。
彼女は、みりあの姿に気づくと、少しだけはにかむように、ふわりと、微笑んだ。
その笑顔は、かつての女王のそれとは全く違う、ただの、年相応の少女の、優しい笑顔だった。
カラン、とドアベルが涼やかな音を立てる。
『スナック来夢』の店内は、いつものように常連客たちの笑い声と、昭和歌謡のメロディー、そして響子ママが作る美味しいお酒の匂いで、温かく満たされていた。
「いらっしゃい、みりあちゃん!」
カウンターの中で、白いフリルのついたエプロン姿のまりんが、太陽のような笑顔で手を振る。その隣では、鬼道院るなが、まりんとお揃いのエプロンを少し照れくさそうに身につけ、慣れない手つきで、しかし、一つ一つ丁寧に、グラスを磨いていた。
かつて夜の女王として君臨した彼女の面影は、もうどこにもない。派手だった銀髪は、艶やかな黒髪へと戻り、飾り気のないポニーテールに結ばれている。人を射抜くようだった鋭い瞳は、今は、凪いだ湖面のように、どこまでも穏やかだった。彼女は、みりあの姿に気づくと、少しだけはにかむように、ふわりと、微笑んだ。
その笑顔は、かつての計算された商品としてのそれとは全く違う、ただの、年相応の少女の、不器用で、優しい笑顔だった。
「…遅い」
るなが、少しだけ拗ねたように言う。
「ごめんごめん、家の手伝いが長引いちゃって」
「いいのいいの! るなちゃん、ずっとそわそわして、みりあちゃんのこと待ってたんだから!」
「ま、まりん! 余計なこと言わないで!」
顔を真っ赤にして慌てるるなの姿に、まりんとみりあは、思わず顔を見合わせて、くすくすと笑った。
カウンターの隅の席に座り、みりあは、まりんが作ってくれたジンジャーエールを飲みながら、その光景を眺める。
常連客に、少しだけぎこちなく、でも一生懸命に水割りを作るるな。そんな彼女を、優しい眼差しで見守るまりん。そして、そんな二人を、カウンターの向こうから、母親のような顔で、響子ママが見つめている。
(…そっか)
みりあは、静かに思う。
ここにも、『プライスレス』は、あったんだ。
るなは、まだ、自分の罪を完全に許せたわけではないだろう。時折、その瞳には、遠い過去を見つめるような、深い影がよぎることがある。
でも、彼女には今、こうして帰ってこられる『居場所』がある。損得も、計算も関係ない、ただ「おかえり」と言ってくれる、温かい場所が。
それだけで、人は、きっと、何度でも立ち上がれるのだ。
「…じゃあ、私、そろそろ行くね。夕飯の買い物、頼まれちゃったから」
「うん! また明日ね、みりあちゃん!」
「…また、明日」
二人の声に見送られ、みりあはスナックを後にした。
帰り道、すっかり日も暮れた商店街を、みりあは一人、ゆっくりと歩く。
以前は、ただ「安い店」を探すためだけに通り過ぎていたこの道が、今は、全く違って見えた。
八百屋のおじさんの威勢のいい声。魚屋から漏れる、香ばしい匂い。すれ違う人々の、何気ない笑い声。その全てが、色鮮やかに、そして愛おしく感じられた。
スーパーマーケットの、自動ドアをくぐる。
煌々と光る蛍光灯、特売品を告げる賑やかな音楽、そして、人々の生活の匂い。
それは、この物語が始まった、あの場所だった。
みりあは、慣れた足取りで、店内を巡回する。
そして、精肉コーナーで、あの時と同じように、鮮やかな赤色の『30% OFF』のシールが貼られた、豚のコマ切れ肉のパックを見つけた。
彼女は、そのパックを、そっと手に取る。
そして、自分の古びたがま口財布を開き、中身を確認する。
(よし、これなら、今日の予算内でいけるはず…)
そこまで考えて、彼女は、はっとした。
そして、まるで長年の癖のように、無意識に、その口から、いつもの言葉が漏れていた。
「あぅあぅぁ〜…」
頭を抱え、小刻みに揺れる、その姿。
それは、プロローグの彼女と、全く同じ仕草だった。
お金に悩み、家計を心配する、どこにでもいる、貧乏な女子中学生。
でも。
たった一つだけ、決定的に違うものがあった。
ゆっくりと顔を上げた、羽川みりあのその表情は。
これまでの人生で、最高に、幸せそうな笑顔に満ち溢れていた。
【最終収支報告書】
夕食の材料費: -1,250円
まりんとのジュース代: -150円
家族の笑顔: プライスレス
仲間との絆: プライスレス
最終資産:計測不能なほどの、幸福!!