薄く曇った空をサイレンの音が切り裂いた。避難を促す放送は聞き飽きた。それでも止むことはない。人影はどこにも見られなかった。市民の無駄に洗練された動きのおかげで避難は完了している。皆が自分の命が大事なんだ。結局のところ、虚無に還るのだから変わらない。
「馬鹿馬鹿しい…」
唾と合わせて側溝に吐き捨てた。
少年は迎えを待つ。
「碇シンジか…嫌な名前で仕方がない。戸籍なんていくらでも変えられるのに」
碇シンジは14歳だ。彼の瞳は年齢に似つかわしくないほど冷え切っている。
胸の奥で、少年は呟いた。
(いつも通り。僕を利用するだけ利用して捨てるつもり。親父も母親もエヴァと言う兵器も同じなんだ。僕は単なる道具なんだ。それなら道具として壊れてしまおう)
最寄り駅まで使った乗車券は汗でびしょ濡れになっている。本来は改札に放り込むが緊急避難が発令された。ホームからあれよあれよと追い出されてしまう。合法的に購入しているが、どうせ手続きも省略された。あの一通の手紙を受け取ってから心は決まっている。もちろん、逃げることもできたが悪い方に腹を括り、少年は虚無と共にやってきた。
「親父に復讐するんだ…」
最後まで言い切る前に暴風と衝撃が襲い掛かる。14歳の華奢な肉体は揺らぐが必死に踏ん張って耐えた。ちょうどよく戦略自衛隊の戦闘機かヘリコプターの残骸が落下して盾となる。金属やコンクリートの欠片から守ってくれた。
「この世界は僕に味方している。どうしようか…」
これから先をどうするか思案を巡らせると直ぐに答えは提示された。いかにも頑丈そうな装甲車が見事なターンを決めた上で迎えと参上する。ご丁寧にNERVのマークが刻まれていた。運転席側の窓が開くと大人の女性が誘ってくるかと思いきやである。彼女は物騒な拳銃を突き付けた。
「碇シンジ君よね。拒否権はないから。早く乗ってちょうだい」
「親父の命令ですか。大人って子供に厳しくて本当に強引ですね」
「痛い目に遭いたくないなら言うことを聞いて」
「はいはい」
どうやら、碇シンジのことは広く知れ渡っているよう。
ただの14歳の華奢な少年では済まされない。
「どうせみんなが僕を利用するんでしょ?」
「あなた…」
大人として叱責しようと試みる。瞳の奥の虚無に吸い込まれそうになった。一瞬でも気を抜いた途端に魂を奪われかねない。本能的な恐怖心から言葉を紡ぐことができなかった。さらに、己の過去を覗き込まれそうで会話を中断せざるを得なかった。バックミラーを介しての会話だが無意味な詮索は止める。
「先にいっておくけど、私も他の職員も甘くないから。その生意気を粉砕できるのよ」
「生意気ではないです。無関心なだけですから」
「それが…生意気というの」
表情を欠片も変えない。彼は黄金仮面を被った。
装甲車は高速道路に入ると制限速度を無視して暴走の如き走りを見せる。都市部からグングン離れていくにつれて景色が開けた。先から続いている爆発音の原因を目視する。運転手と乗客は同時に化け物の姿を見た。黒い肉体に白い骨が通る。頭部らしき仮面のような顔を有する。無機質で異様を振り撒いた。
あれが使徒である。
「そのマニュアルを読み込んでおいて。あなたにはアレと戦ってもらうから」
「どうせ僕の命なんか安く使い捨てだ。死ぬなら戦って死んでやる」
「馬鹿なこと言わないで」
「僕は父さんの命令だからここにいる。どうせ僕は使い捨てなんだろ?死んだら死んだで、また代わりを呼ぶんじゃないの?」
(碇司令の息子だから曲者とは聞いていたけど想像以上ね。思春期特有に一括りできない)
「いいよ。それでいい。僕は利用されて壊れるための存在だ。せめて父さんの目の前で、壊れてやるからさ」
「そう…」
運転手はハンドルを握りしめた。急カーブをドリフトする構えを見せる。怒りと悲しみなど様々な感情を押し殺すために両手に力を込めた。その甲斐あって山間部特有の急カーブを攻めたドリフトで突破する。あくまでも、軍隊が運用する装甲車だ。スポーツカー並みの機動性を発揮する。
「言い忘れていたけど、私の名前は葛城ミサト。これからあなたの上官になります」
「よろしくお願いします」
「あら、意外と素直なのね」
「地下に閉鎖された組織で生きるために」
「苦労するわよ」
「とっくに慣れている。僕は母親を事故で失って、父親に捨てられて、親族には厄介者とされ、同年代は避け回った」
「…」
地下区間へ直通するエレベーター兼ケーブルカーに変わった。いかにも閉鎖的な空間だが少年には居心地が良い。鉄筋コンクリートの壁とマニュアルを交互に見た。マニュアルは数千ページにわたる分厚さだが速読を以て突破する。仮にマニュアルを読破したとしても理解し切っているわけではない。
装甲車はエンジンを切って完全に固定されているため両手を自由にできた。本当はコミュニケーションを図り、彼と浅くとも打ち解けたいところだが、前評判以上の頑迷さに舌を巻く。自分の上司である司令官譲りなのか心の障壁は万里の長城の比でなかった。
「こちら葛城ミサト。サードチルドレンは確保しました。もう向かっているわ。初号機の準備をお願い」
「初号機…エヴァンゲリオン…パイロット」
「戦略自衛隊がN2地雷を使った? どうりでひときわ大きな音と衝撃がしたわけ。はいはい、今直ぐに送るわ」
(切羽詰まっているみたいだ。本当にギリギリなんだろう)
「あなたには悪いけど、質問や意見に応じる時間はなく、すぐにエヴァ初号機に乗ってもらいます」
「はい」
「人類のために戦いなさい。命令だから」
最初の出会いから険悪なムードは続いている。
むしろ、閉鎖的な空間で濃度を増した。
オペレーターたちがコンピューターと睨めっこ。
「お前の息子は少々やりづらいぞ。碇」
「あぁ、だが、初号機はサードでしか動かせない」
「彼の代わりの人材はいくらでもいると言うがいないんだがな。私は彼と仲良く付き合うのが良いと思うぞ」
「考えておく」
メインモニターは煙の中で不気味に立つ使徒を映した。ちょうど先程に日本の事実上の軍隊である戦略自衛隊が切り札の窒素爆弾ことN2兵器を使用した。地図を書き換える程の威力を有するが、核兵器のような放射能汚染を引き起こさず、とても使い勝手のよい切り札らしい。
しかし、軍人たちの歓声は悲鳴に変わった。メインモニターが映す現実こそが証明する。使途に通常の兵器は通用しないのだ。古来から続く火薬はもちろん、新時代の幕開けである原子力、最新の化学力を結集した窒素兵器も豆鉄砲に過ぎない。
「これより使徒殲滅に係る指揮権の一切をNERVに移譲する。現場に展開中の部隊は速やかに退避せよ」
「見ての通りだ。碇ゲンドウ司令の手腕を見せてもらおうか」
「我々のNERVにお任せください。使徒はエヴァが撃滅する」
戦略自衛隊の制服組がいそいそと退室していった。
最上段に居座る成人男性は両手組を崩さずに命じる。
「エヴァ初号機の発進準備だ。零号機とレイは待機させる」
「シーケンスの省略できるところは省略して! パイロットはすぐそこに!」
「母親との感動の再会は無しか? お前も感慨深いんじゃないのか?」
「冗談を言うな。シンジは駒にすぎない。初号機も同じ駒にすぎない」
「冷酷だな」
サブモニターに視線を落とすと最愛どころか憎悪の息子が到着するところだった。どうやら、己のいる指揮所ではなく格納庫へ直接に通されたらしい。今はコンマ秒を争う事態のため当然だ。わざわざ会いに行くことも面倒である。
「冬月。ここは頼んだ」
続く
碇シンジは巨人と対面する
それは最愛の母の肉体を残して閉じ込める呪いだった
母の慈愛を拒絶する
彼は代わりに契約を結んだ
次回
『見慣れた、天井』