あの戦いを終えて回復したシンジは自転車で高台まで上がった。一人で行動することを好むと言うが、実際は他者との交流を否定しており、父親から捨てられて一人で生きてきたことが人格形成に影を落とす。本人はそれでいいと思っていた。永遠の安らぎを得られるならば構わない。
「これが守った。ろくでもない、しみったれた、世界か。壊れてしまえ」
高台から眺めているとサイレンが鳴り響いた。それは避難を促す音でなく単純な警告の音である。痛々しいビル群は轟音と共に地下へ格納された。その代替と言わんばかりに真新しいビルやマンションが建ち始める。第3新東京市は戦闘時と平時で切り替わる。この都市そのものが対使徒決戦都市こと大要塞だった。
「面白いものが見られるからって来たけど。そうでもないな」
自転車で30分かけた割に面白味に欠ける光景である。使徒と戦う方が遥かに面白かった。この建物と道路で人々が生活することに何も見いだせない。自分が守った都市ということを見るだけで痒みが生じた。いわゆる思春期のため思考が捻じれても仕方ないが中二病の範疇を超えている。
大人たちを拒絶することは彼なりの自衛活動だった。幼少期に父から捨てられたこと、母の愛を知らないこと、様々な要素が積み重なる。大人から使役されることが子ども当たり前だ。都合よく扱われることが正解だ。なにをどう抵抗しても抑圧されるだけだ。面従腹背の四字熟語を身に宿して好機を待っている。自分が死することが最大の報いだ。
「ふぅ~」
髪は少し乱れて目つきは完全に死んでる。彼の口元には合法のフレーバー(メンソール強め、コンビニで買った安いやつ)がくすぶった。シンジはベンチに背を預ける。ゆっくり煙を吐き出した。白い煙が夕方の空気に溶けていく。まだ消えない第四使徒の残骸から上がる煙をぼんやり見つめた。NERVのスタッフがサンプルを回収して解析と研究に努力する。
彼のささやかな楽しみだった。合法のフレーバーを含んで吐き出している。ニコチンやタールなど成年以上の成分は含まれていない。好きな香料を水蒸気に変えて香りを楽しむことができた。フルーティーからメンソールまで幅広い。その時々の気持ちに応じてカートリッジを変えた。今日はスッキリしたいのでメンソール強めを選択する。いつもポケットやカバンに忍ばせていた。合法のため処罰は難しい。さらに、命を賭している立場のため、いつ死んでもおかしくないのに楽しみを奪うのか、こういえば大人たちは黙るしかなかった。
「また、生きてやがる」
煙をもう一口を深く吸い込んで、ゆっくり吐きながら独り言である。
「死に損ねて、父さんに『まだ必要だ』って言われて、ミサトさんには『よくやった』って笑われて、はは、笑える」
ベイプの先が赤く光った。指先で軽く叩いてた。灰(というか水蒸気の残り)を落とす仕草を真似する。不良漫画みたいだ。しかし、どこかぎこちない。シンジは本物の不良じゃない。ポーズが中途半端なんだ。オラオラすることはないがニヒルは大人の怒りを買いやすい。ビンタされても殴られても構わなかった。それが反抗の証明書になる。
「次はもっと派手にやろうかな。初号機が暴走する前に、自分でコア抉ってやればいいのかもな」
ふと振り返った視線の先にネオンの反射がシンジの顔を青白く照らした。虚ろな瞳にわずかに赤い光が映り込む。初号機の目みたいだ。煙を長く吐き出して、シンジは小さく笑う。乾いた、ひび割れた、空っぽな笑いだ。そこに生気は感じられない。惰性で生きているだけだ。
「でも、きっとまた邪魔されるんだろうな。母さん……いや、初号機に」
ベイプを唇から外す。指でくるくる回しながら肩越しにNERVの方角を睨んだ。地下にあるため視覚には収まらない。
「次は、許さないからな」
煙が風に流される。シンジはベイプをポケットに突っ込んでゆっくり歩き出した。彼の背中は小さくい。でも、どこか決意みたいなものが滲んでいた。不良の真似事みたい。本物の絶望を抱えた少年の夕方である。彼の帰るところは一人暮らしのアパートだった。一人暮らしには慣れている。
そんな夜だった。
彼の姿が廃墟の如きアパートにある。
「ピンポンも鳴らないし」
綾波レイの自宅を訪問したのは雨の降る夕暮れだった。学校のクラスメイトであるが会ったことはない。書類を届けるために訪問した。NERVの寮から少し離れた古い団地の最上階である。エレベーターは止まっていた。階段を上るしかない。シンジは雨に濡れた制服のままビニール袋に入れた書類を抱えて部屋の前に立つ。インターホンは壊れていた。やむなく、ノックをする。中からかすかな物音だ。
「入って」
声は小さく、感情がない。ドアを開けると、薄暗い部屋。カーテンは閉め切られ、蛍光灯が一つだけ、チカチカと点滅している。フローリングの上にマットレスが直に床に置かれているだけだ。壁紙は剥がれて湿気で黒ずんだシミが広がっている。空気は冷たくて埃とカビの匂いが混じる。彼女は部屋の中央に立っていた。シャワー終わりで濡れた髪をそのままにしている。彼女の瞳は虚ろで焦点が合っていない。
「碇君?」
「書類。学校の。ミサトさんが、渡すようにって」
シンジは袋を差し出した。レイは無言で受け取り床に置く。それだけだった。二人は互いに視線を合わせない。ただ、同じ空間にいた。シンジは踵を返そうとする。しかし、なぜか足が動かない。フレーバーを探してバツが悪そうにした。
「ここ、寒い」
レイが呟く。シンジは頷いた。
「うん」
言葉が途切れる。外の雨音だけが響いた。レイがゆっくりとシャツのボタンを外し始める。上着を脱ぎ、ブラウスを脱ぎ、スカートを落とす。下着も、淡々と。裸になった彼女の体は傷一つなく白かった。どこか壊れかけの人形のよう。シンジは驚きもしなかった。ただ、見つめるのみ。
「君も…なのか」
シンジの声は命令ではない。ただの事実確認だった。シンジまで制服を脱ぎ始めた。濡れたシャツが肌に張り付いている。引き剥がすようだ。ズボンから下着まで。裸になる。二人は互いに触れもせずにただ向き合った。シンジの胸にレイの胸である。心臓の音が微かに聞こえる距離。
「空っぽだね」
シンジが言う。
「あなたも」
レイが返す。言葉はそれだけ。二人はマットレスに座る。背中を預け合い、膝を抱え、寄り添う。肌と肌が触れる。冷たい。確かな温もりを感じる。それは、熱ではなく、ただ「存在」の確認なんだ。レイの指が、シンジの背中に触れる。シンジの指が、レイの肩に触れる。それ以上は何もない。抱き合うわけでも、キスするわけでもない。ただ、寄り添う。
「死にたいよ」
シンジが呟いた。
「私も」
レイが返す。
「でも、死ねない」
「うん」
雨が窓を叩く。雷が遠くで鳴る。二人は夜通しそうしていた。裸のままのボロボロのアパートである。言葉はほとんど交わさない。お互いの空っぽな心が同じ周波数で振動しているような気がした。朝が来る頃にシンジは立ち上がる。服を着る。レイも無言で着替える。
「また、来る?」
レイが初めて自分から問いた。シンジは振り返る。彼の虚ろな瞳だ。わずかに頷く。
「うん。書類、忘れたら」
嘘だった。もう書類はない。二人はそれでいいと知っていた。ドアを閉めて階段を下りるシンジの背中。雨は止んでいた。空は灰色である。心はまだ空っぽのままだ。昨夜だけは、少しだけ、誰かと共有できた気がした。
続く