彼の学校生活はぼんやりとしている。
「碇シンジ。すごいな! 満点だぞ!」
「はい。ありがとうございます」
「さすがだな。こりゃテストを作るのが大変だ」
先にあった定期テストの結果が続々と判明した。中学校の定期テストに過ぎないが大都会である以上は相応の難易度を有する。しかし、生徒が追従できるとは言っていない。平均点はお世辞にも高いと言えなかった。大半の生徒が撃沈する中で碇シンジの答案用紙だけは満点か90点台を記録している。
実はシンジの学力は高いほうに位置した。NERVでの日々から学習の時間を持てない。それ故に限られた時間で最大化することに注力した。大人を頼りにせず自力でどうにかする。それが功を奏した。大人たちから押し付けられることなく、自分の意識で勉強を積む選択ができ、詰め込み教育やゆとり教育にもかからない。
「これぐらい普通です」
「そう言ってみたいよ。とにかく、見事だった」
教科担当の先生はニコニコと笑っていた。そこに他意はない。セカンドインパクトを生き残った。教師として純粋な喜びと祝意を放出している。シンジはぶっきらぼうにしているが悪くは思っていなかった。ただ業務的に当然のことをしたに過ぎない。彼が勉強する理由は「大人への反抗」ではなく「同年代のクラスメイトを嘲笑う」ことが込められた。ワイワイと集団で群れることを嫌うと同時に人間の醜悪な習性と冷ややかに見ている。
テストの返却が終わると振り返りの時間に入った。シンジには関係ないことであるが残りの全員に関係がある。教師の声が淡々と授業を進めていった。シンジは窓際の席に座る。ノートを取るふりをして外の灰色の空を見つめていた。フレーバーの香りが制服に少し残っている。昨夜の雨の記憶がぼんやりと頭に浮かんだ。あの冷たい肌の感触と空っぽな瞳にレイの存在がある。
「お? 綾波君か。まぁ、座りなさい」
「はい」
ドアが開く音が響いた。遅刻した生徒が入ってくる。レイだった。いつものように無表情で席に向かう。クラスメイトの視線が一瞬集まるがすぐに散った。毎度の毎度のことである。しかし、シンジの視線だけはレイの背中に注がれていた。彼女は自分の席に座る。二人は隣同士じゃない。教室の空気は微かに変わった。シンジの心臓が少しだけ速くなる。感情じゃない。同調の残響が今もあった。
休み時間に入る。生徒たちは一様に立ち上がってグループを形成した。トウジとケンスケの悪ガキコンビが笑っている。シンジは動かない。机に肘をついた。ぼんやりとしている。レイがゆっくり近づいてくる。誰も気づかないくらい。静かにだった。シンジの机の隣に立つ。
「ねぇ、碇君」
彼女の声は小さかった。教室の喧騒に溶けていく。シンジは顔を上げない。視線をレイの足元に移した。聞こえてはいる。
「なに?」
「昨日の…昨夜のこと」
レイの言葉は途切れ途切れだった。シンジの肩が微かに震える。周囲の目はまだ気づいていなかった。
「業務連絡?」
シンジの声は機械的で冷たい。昨夜の記憶が、フラッシュバックした。裸の肌と寄り添う温もり。空っぽな心が触れ合った瞬間。レイは首を小さくも確かに振る。シンジの机に手を置いた。指先がシンジの袖に触れる。触れるか触れないかの距離だった。これを振り払うほどにひどくはない。
「また、来て」
シンジの瞳が初めて揺れる。虚ろな中に光を見出した。彼は立ち上がってレイの横に並ぶ。二人は自然と肩を寄せ合った。教室の隅の誰も見ていないところに言葉はない。ただ、互いの存在を確認するようだ。まじめな委員長は遠くから気づいたがチャチャは入れない。
「あの二人…変なの」
二人は聞こえない。心の空っぽさが同調する。昨夜のように寄り添う。学校の喧騒の中で静かな島のようだ。授業の再開を伝えるチャイムが鳴り響く。スピーカーの質のせいか割れていた。二人は離れる。それでも、視線が交差する。それは約束だった。また、夜に来てほしい。
学校が終わった放課後に向かうはNERVだった。非常事態の招集がなかった日も訓練やテストが積み重なる。プライベートの時間はないに等しいが暇つぶしと考えた。くだらない日常を過ごすことに比べて有意義である。何よりもお給料が出た。基本給と危険手当よりサラリーマンよりも良い。税金の対象であるが組織が組織なので課税はできず満額をもらえた。
「お疲れのところ悪いけどシンクロのテストをするから」
「いいですよ。疲れるようなことはしていません」
「そう。それはよかった」
シンクロテストは地下施設で行われた。薄暗いラボである。リツコの声がモニター越しに響く。
「シンクロ開始。異常発生時は即時中断します」
シンジはエントリープラグに沈んだ。LCLの感触に身を委ねる。プラグスーツが肌に密着して少々息苦しい。シンクロ率はゆっくり上昇していった。
「……」
シンジの指が、無意識に動く。ポケットを探る仕草だ。
(ない)
寮の部屋に置いてきた。テスト中は持ち込み禁止である。でも、喉が渇いてしまった。口の中まで乾燥している。メンソールの味が頭に浮かんだ。煙を吸い込み、吐き出す。一連の動作による感覚が染みついた。あの白い霧が絶望を少しだけ薄めてくれる。
「吸いたい」
呟きはLCLに溶ける。シンクロ率が跳ね上がった。リツコの声が緊張する。
「シンクロ率異常上昇。シンジ君集中して」
シンジの意識は揺らぎ始めていた。欲求が渇望に変わる。指が震えた。
「今すぐ…吸いたい」
その瞬間のことである。世界が歪んだ。彼も皆も誰も知らない。初号機の深層心理世界だった。それは、誰かの意志が宿る空間でもある。シンジの心を映す鏡も兼ねていた。今は闇に満ちていたが次第に視界が広がる。灰色の空の下で古いアパートの部屋だ。ボロボロの壁と剥がれた壁紙である。雨の音が染みた。レイの裸の背中は昨夜の記憶らしい。寄り添う冷たい肌だ。
「綾波…レイ」
でも、それはすぐに溶ける。景色が変わる。幼いシンジの姿と実の父親であるゲンドウの背中だ。一生について回る。最悪の記憶が投影されていた。なんてことをしてくれる。碇シンジという人間が空っぽになることの入り口だった。
「用済みだ。お前はもういらない」
父の声が冷たく響く。そう捨てられた瞬間である。心が折れる音が聞こえた。
「やめろ」
シンジの声が虚空に響く。でも止まらない。
今度は母の死だ。事故死と聞かされているが存在しない記憶が流れる。事故の光景が広がった。コアに吸い込まれる女性の姿。
「母さん……!」
トラウマが次々と掘り起こされる。存在しない記憶もなぜかトラウマになっていた。存在しないのではない。あった記憶を消されていた。最後に死に損ねた第四使徒戦である。光の槍が胸を貫くはずだったのに意図しない暴走で生き延びた。それも絶望に含まれる。フレーバーの煙が記憶の中で渦巻いた。吸いたい。その煙ですべてを覆い隠したい。
「吸わせてくれよ!」
叫びは届かなかった。しかし、シンクロ率が規定数値をはるかに超える。プラグも危険深域に突入した。このままではパイロットの精神と肉体が取り込まれてしまう。センサーが異常を感知してすぐに警報が鳴り響いた。リツコの声が慌てる。
「テスト中断! シンジ君! 応答して!」
シンジは深層に沈んでいた。トラウマの渦の中で、煙を求める指が、虚しく動いている。母の声がかすかに聞こえた。
「まだ、死なせない」
ようやく、外部からの信号によりプラグが強制排出される。シンジはLCLを吐き出して床に倒れ込んだ。息が荒い。指が震えた。
「煙を…」
そう呟きながら天井を見上げる。トラウマは掘り起こされたままだ。心の空っぽさがさらに深くなる。存在しない記憶を植え付けられた。本当になんてことをしてくれている。
「コンビニで新しいやつを買おう」
続く