みんなは“すぱるた教育”なるものをご存知だろうか?
元々はとある軍事都市国家の古代から伝わる厳格で過酷な訓練や強い規律を伴う教育・しつけ等を指す通俗的表現として使われる言葉で、外国との関わりがまだそこまでではなかったこの日本では馴染みのない言葉であろう。
では、日本ではそういうものをなんと言い表すのか?
当時、人間がするとは思えないほど過酷で徹底的に鍛える厳しい指導のことを、人々はこう言った。
───“鬼指導”、と。
「遅い遅い遅い遅い!! 何してんのお前ら!? 意味わかんねぇんだけど!?」
「「「「「「「「「「ハ、ハイ·········ッ!!」」」」」」」」」」
とある山にそんな派手な叫びが木霊する。
派手な装飾品をいくつも身に付けて着流しに羽織をはおった男は、容赦無く肩に担いでいる竹刀を振り回す。
「まず基礎体力が無さすぎるわ!! 走るという単純なことがさ!! こんなに遅かったら上弦に勝つなんて夢のまた夢よ!? もっと早く!! 後ろから鬼が迫ってくると思って動けぇぇぇぇぇえええええええええッ!!!」
むしろ貴方が鬼なのではないかと疲労困憊の中ほとんどの隊士がそう思った。
その形相は恐ろしく、一人一人の隣で並走しては厳しい指摘をしてきて心まで抉ってくる。
「う、うぷ·········ッ!!」
何より、体力の限界が来て地面にへたり込んだらそいつはそれ以上に怒鳴りつけられる。
これが本当に辛かった。
「ハイハイハイ!! 声も出ねぇか!? 地面舐めなくていいから、まだ休憩じゃねぇんだよ!! もう一本走れぇッ!!」
「も、もう·········ダメ·········ッ!!」
元々そういう性格なのか、妥協という地味なものは一切せずに、疲れが見え始めている隊士に対して気合いを入れ直させるように竹刀をそのケツに叩き込む。
でももう隊士達は言い返す気力すら残っていないのか、最終的に力尽きて倒れ込んでしまった。
「どうしようもねぇな!! この後の現役の柱の稽古はもっとキツいんだぞ!?」
『現役の柱』という表現をするという事はつまり、この男もかつては鬼殺隊であり、その中でも最上位の柱として君臨していたということだ。
それほどの実力があったのに何故引退してしまったのか、それは彼の姿を見れば明らかだ。
羽織で隠しているが、彼の左腕は既にない。さらに彼の整った顔の左側には宝石などの装飾で目立つ大きな眼帯があり、それでもそこからはみ出す傷跡が見える。そんな状態では戦力としては心許ないだろう。片目が潰れて片腕もないのでは、全盛期のように戦う事はできずに足手纏いになる。
だから自ら戦場から退いたのだ。
自分だって本当はもっと仲間達の役に立ちたかったろう、でも今の状態では却って迷惑をかけてしまうことになる。
それでも、彼は鬼殺隊に多大なる貢献を残していた。
百年もの間、誰も成し得ることができなかった───“上弦の討伐”だ。
歴代の柱達でも敗北するほどに強敵な上弦を、彼は仲間達と共に見事討ち取ったのだ。
その代償に片目片腕を失うことになったのだが、安い代償だ。
代わりに上弦を倒し、そして誰も死ななかったのだからそれでよかった。
その功績を認められ、お館様に正式に引退を申し出た元柱である“宇髄天元”は。
これからやって来るであろう最終決戦に向けて下の者達を鍛え上げていたのだが、
「ったく、本当に質が悪いなオイ。“アイツら”を見習って欲しいぜ、全く」
誰かと比べて思わずため息をつく。
宇髄の言う“アイツら”とは、上弦を共に討ち倒した隊士達のことであり、彼らは柱の階級ではないにも関わらず勇敢に立ち向かっていった。
数ヶ月前、本当は女の隊士が必要で、蝶屋敷で看護に勤めていた後方支援を担当している隊士を無断で連れて行こうとしていた所にたまたまその“三人”が戻って来ていたのもあって、その隊士の代わりに向かうと自ら申し出て来たのだ。
その気概を気に入った宇髄は彼らの同行を許可し、一緒に遊郭へと向かった。
あの時、まだまだひよっ子でしかなかった三人が役に立つ瞬間なんてないと思っていた。精々囮として引き受けてくれるか、もしくは邪魔な一般市民達の避難誘導に勤めてくれるか、その程度しか使えないと思っていた。
しかし、彼らはそれ以上に自分たちに貢献してくれた。
行方不明だった妻達を救ってくれ、そして三人の協力のおかげで二体の鬼の頸を繋がっていない状態にしなければ倒せないという条件を見事達成し、無事に討伐できたのだ。
それだけじゃない。
正直、疫病神にしか思っていなかった『鬼の娘』も上弦の毒で死にそうになっていた自分を、特殊な血鬼術で救ってくれた。
“竈門炭治郎”と“竈門禰豆子”
“我妻善逸”
“嘴平伊之助”
彼らの協力なしでは、上弦を倒せなかっただけでなく、妻も自分も死んでいたかもしれない。
彼らの勇敢さに宇髄達は救われ、できればこいつらにも見習って欲しいのだが、
「だらしねぇな、どいつもこいつも」
「天元様、そんなに怒んないであげてください」
隊士達が次々と地面に倒れていってしまっている中で宇髄が先が思いやられるように深い息を吐いていると、妻の一人である“雛鶴”が彼らを庇うように言ってくる。
その優しさには宇髄でさえも惚れてしまうが、ここで甘やかしたらこちらが怒られてしまうのだ。
「俺もそうしたいところだが、こいつらをこのままの状態で次の柱の奴らの所に送り込んだら、こっちが責められるってもんだ」
退いたとはいえ、柱としての実力はまだ残っている。
だから今回の柱稽古では彼は第一関門の裁定者のような役割を担っており、隊士達の基礎体力の能力値を見極めながら、見込みがあったらそいつを次の柱の元へと送り込むということをしていた。しかし大体の者達が次の段階へと進むにはまだまだといった具合で、おそらく最後の試練を乗り越えられる奴もごく僅かだろうと思うと、本当に鬼に勝てるのかどうか不安になってくる。
「はい、天元様」
「塩分たっぷりのお味噌汁です!!」
「ん? おう!!」
そんな彼に差し入れとして、嫁の“まきを”と“須磨”の二人が作ってくれた味噌汁が手渡される。彼は一度竹刀をまきをに預けて交換するように味噌汁を受け取ると、一口含んで気持ちを安定させた。
流石は自分の自慢の女房達だ。
こんなにも美味い料理を作ってくれ、そして暗くなっていた気持ちも明るくさせた。
そんな彼女達の手料理でさえも食えない状態にまでへばってしまっている隊士共に大きな声で告げる。
「アイツらの稽古はこんなもんじゃねぇぜ!! ホント!!」
自分が如何に優しいか、それをわかっていない奴らに厳しく言う宇髄であるが、確かに彼のやり方はまだ優しい方だ。
一見地獄のしごきに見えるが、妻達に彼らの分の食事を作ってもらうように頼んで休憩を挟んでいるところを見ると、彼も一応は隊士達の限界をちゃんと見て判断しているようだった。
噂で聞いたが、現役の柱達はこれ以上に過酷な試練を与えてきているらしい。
「天元様は、基礎体力の向上担当ですよね? この後はどんな訓練があるんですか?」
須磨がずっと気になっていたことを宇髄に聞いてくる。
いい機会だった。
地面に倒れている連中にも聞こえるように、他の柱達がどんな訓練をしているのかを説明する。
「この後はだな·········まずは、時透の高速移動の稽古だ。奴は表情を変えないでキツいことをやらかすからなぁ。その次は、甘露寺による地獄の柔軟がお出迎えだ。そん次は伊黒だな、太刀筋矯正。蛇の稽古はねちっこいぞ。で、不死川だろう? 無限打ち込み稽古って聞いてるが、その名の通り際限ねぇぞきっと。最後に悲鳴嶼の旦那の筋肉強化訓練、これは人間捨てるっきゃねぇな」
どれもまともでない稽古ばかりだった。
聞いているだけで気を失いそう。
全員の性格を考えると一番マシなのは甘露寺の稽古かもしれないが、彼女のやり方は強引で、それも悪意なくやるから誰も責められない。
この稽古で体力以上に何より大事なのは、精神力かもしれない。
柱相手に稽古をつけてもらうのは大変名誉なことかもしれないが、上に立つ者だからこそ、下の者には厳しくするというのが彼らのやり方なのかもしれない。
「柱にしてみても、次から次へとかかってくる隊士を延々と相手にするわけで、さらなる体力の向上も見込めるってわけだ。どうだ? 派手だろ? 俺も全力の稽古、してみたかったもんだぜ········」
一番の目的は隊士達の更なる成長であるが、柱達にもこの稽古をやることで利点が生まれる。
何人もの隊士を相手にすればそれだけ自分達も鍛えられるということだ。
そうしてきたる決戦に備えるわけだが、自分も全盛期の状態であったらと思うと残念に思えて仕方がなかった。
自分はもう足手纏いにしかならない。
でもせめて彼らを鍛え上げてまともな戦力にしてみせる。
だから彼は味噌汁を飲み終えると、器を返しつつまきをに預けておいた竹刀を受け取って、未だにぶっ倒れている奴らを起き上がらせるように叫ぶ。
「ほらいつまで地面を舐めてんだテメェら!! 俺の妻達が作った飯が冷めちまうだろうが!!」
「む、無理っす········ッ!!」
「とて、も········食べる、なんて········ッ!!」
疲れ果ててしまっているせいか食欲まで失われているらしい。今食べたらおそらく戻してしまうだろう。
しかしそんなの関係ない。
せっかく自慢の嫁達が愛情込めて作ってくれた料理をお粗末にするなんて、そんなの許せるはずもなかった。今と違って昔はまともな食事を満足に食べられること自体稀だったため、残すということは貴重な食糧を粗末にすることであるので、忍びの家系で生きるか死ぬかわからない厳しい環境にいた宇髄が不快に思うのも無理はない。
今こうして無事に食事が出来るということ自体が幸運だと思わなければ、こんな組織に属している以上は明日どうなっているのかわからないのだ。
もっと生きたかった人だっていたはずだ、もっと美味しいものを食べたいと思った人もいたはずだ。
小さな幸福を願っても生きられなかった、そこで無念にも息絶えた人達のために、自分達はありがたくご飯は食べて生きなければならない。
そう。
いつの時代でも。
「飯残した奴は稽古の量を倍に増やすぞ!! それでもいいのか!?」
「「「「「「「「「「た、食べます!!」」」」」」」」」」
もはや脅しである。
稽古を倍にするという言葉に全員が拒否反応を示すように立ち上がると、彼女達が用意したご飯の元へと一斉に走っていく。
彼らはおにぎりや味噌汁を口の中に放り込んでいくが、やはり疲れもあってか中々受け付けないらしい。
でも味は大変美味だった。
隊士達が自分達の作った料理を食べる姿を見ると嬉しくなるが、無理に食べようとしているからかその顔はとても青白く、そんな顔色をされると妻達は苦笑いするしかなかった。
「音柱様」
と、そんな彼らの中から二人ほど、初めその声が自分に向けられた者だとは気付かなかった。
もう柱ではないため、その呼び名で呼ばれたことに対して違和感を拭えない宇髄は、困ったように頭を掻きながら振り返る。
「もう柱じゃねぇよ········で、何だ?」
「俺達、そろそろ今日の巡回警備に行こうと思います」
「担当地域がここより離れているため、早めに行かないと間に合わなくなるので」
すでに準備を整えているのか、隊服と日輪刀まで着込んでそう話しかけてきた。
「········そうか」
それに対し宇髄は特に何も言うことは無さそうに応じた。
巡回警備は以前からやっていることだ。
鬼の出没が減少したとはいえ、まだ奴らはどこかに潜んでいる可能性があるので油断ができない。だから日に日に隊士達が当番制で夜の街を巡回するという活動を行なっている。
鬼を滅するためというその心意気は買うが、宇髄は気付いていた。
その日の巡回警備を担当した者は次の日の朝の稽古は免除となり、彼らもそれ目的で向かおうとしているということに。だがそれを言ったら彼らの自尊心を傷つけてしまうことになるので、責めの言葉を言うつもりはなかった。
今は大事な時期だ。
戦力は一人でも多い方が良い。
一人も欠ける事なく決戦に挑んでほしいというのがお館様の望みでもあるので、宇髄は特に言うこともなく手を振って見送る。
それに対し彼らは礼儀正しく一礼すると、山を下る道へと歩いていく。
「あ、そういやお前ら」
「「?」」
その前に、宇髄が呼び止める。
表情一つ変えずにこちらへと歩いてくる姿は厳しそうに思えてどこか恐ろしく感じるが、彼の声色はいつも通り落ち着いていた。
サボりたいという思考がバレたのかと緊張で縛られていた彼らに、宇髄はこう言った。
「一番最初の日の稽古········名前は知らねぇがなんか地味に“首に勾玉の飾り付けた野郎”がいたろ? アイツも夜の任務に行って以来ここに全然顔を出してないんだが、お前ら何か知らねぇか?」
「「?」」
その質問に二人は首を傾げていた。
宇髄の言う“首に勾玉の首飾り付けた野郎”という奴に心当たりがなかったのだ。でも自分達と同じように、最初の稽古の日に巡回警備などの任務に向かった奴なんて確か一人しかいなかったはず。
二人は互いの顔を見合わせて、
「ひょっとして“アイツ”のことでしょうか? すみませんが何も聞いてないですね」
「何より“アイツ”俺達と全然話したがらないし。一度だけ同じ任務に就いたことがありましたがその時も無愛想な感じで接してきて。名前を聞いても無視するような奴だったので近寄る人もおらず、だから誰も“アイツ”の事は何も知らないと思います」
「········あっそ」
それを聞いたら宇髄は早々に諦めるようにため息をついて目を逸らす。
大方········逃げたのだろう。
稽古の厳しさに嫌気がさして逃げようとする奴は他にもいた。その場合は追いかけて屈服させていたのだが、夜の任務中までは追いかけられない。その機会を狙って逃亡を図ろうとした者は今までいなかったが、そいつが初めての事例となったということだろう。
流石にそこまでは宇髄でもどうにもできない。ここを離れるわけにもいかないし、逃亡に成功した奴をこれ以上追いかけようとする暇なんてない。
とにかく今はこいつらを鍛え上げることに集中せねば。
「となると········“同行していた奴”はどうなった?」
任務は大体二人以上組んで向かう事が決められている。
鉢合わせた相手が強敵であった場合でもお互いに力を合わせて対処できるように、二人以上は絶対に行くことが義務付けられているが、もし仮にそいつが無事に逃げられたという事は、そいつと同じように一緒に逃げたか。
あるいは················
「········」
宇髄はそれ以上は考えようとしなかった。
何もわからない状況の中で考えても無駄だと判断したのだ。
鬼殺隊との縁を切ったというのならそれでいい、その程度の者だったという事だ。
でも、もしもだが。
逃亡のために口封じとして同行していた奴を手に掛けたのならば、話は変わってくる。
今は鴉からも何も情報が届いていないため判断できないが、そのたった一人の身勝手な行動によってここまで悩ませることに宇髄は素直に苛立っていた。
でも今はどうにもならない。
「お前らもっとしっかり食えよ!! 食わねぇと午後からの稽古はもっときついぞ!!」
「「「「「「「「「「は、はい!!」」」」」」」」」」
もう一度隊士達を脅すように叫ぶ宇髄。
とにかく、目の前のことに集中だ。
今はこいつらをあの少年達のように逞しく鍛え上げる。
それが鬼殺隊の柱を引退した自分に出来る、最後の役割だ。
□■□■□■
まだ正確に歩くのに時間が掛かる。
ずっとベッドに寝っぱなしでほとんど体を動かしていなかったのもあってか、自分の体ではないのではないかという錯覚さえ覚える。
「うん、歩けるな」
それでも何とか歩けるくらいにまでは回復した。
と言っても、脇の隙間に松葉杖を挟まないと足に体重がかかってしまうので、あまり早くは歩けない。
やはり、適性もないのに雷の呼吸の壱の型の真似をしてしまったせいか、彼の足には罅がいくつも入ってしまっていた。元々あれ自体が負担がかかる技であり、音速に近づくほど空気は物体と化して個体のように体にぶつかってくる。呼吸の正しい使い方もせずに土壇場での賭けに出た代償が大きかったせいか、健康な足を取り戻せるようになるまではずっと安静にしていなければならなかった。
でもようやく、外出する許可を出された。
「スゥー、ハァー」
軽く息をして呼吸を整える。
眠気の残滓を体の中から追い出すようにして全集中の呼吸を終えると、松葉杖に体を預けるようにして入院病棟から出ていく。
まずは外の空気に慣れようと、縁側の戸を開け、
「あら? 炭治郎さん?」
と、ちょうど外で落ち葉を箒で掃いていた神崎アオイと目が合ってしまった。
「どうしたんですか? こんな時間に?」
「あぁ、アオイさん」
「もしかして········もう柱稽古に?」
外出の許可も貰っていたし、別に内緒で出て行こうとか思っていなかったが、いつどこへ出掛けるという報告はしていなかったからか鋭い目をして聞いてくる。
炭治郎は軽く首を横に振って優しく微笑むと、
「稽古の前に、会いに行かなきゃいけない人がいて」
「·········それならいいんですが」
アオイは一安心という顔をして、掃除の続きをするために落ち葉が溜まっている方へと歩き出す。
「アオイさん!」
「? 何ですか?」
呼び止められて炭治郎の方へ再び向き直る。
「一つ質問したいんだけど、いいかな?」
「? うん·········」
炭治郎のその目。
その瞳から伝わるのは自分でもまだ言葉にできないような悩みを抱えているという感じだった。アオイも直感でそれを察したからか、自分に果たして答えられるのかと一瞬不安になってしまった。
でも頼られた以上はその想いに答えなければならない。
アオイは掃除の手を止め、縁側の柱に箒を立て掛けて炭治郎の右隣に腰掛ける。
炭治郎は治りきっていない足に気を配りながらアオイの隣に座ると、
「もし、独りぼっちの人がいたとして·········その人に、独りぼっちじゃないですよって·········どう伝えれば分かってもらえると思いますか?」
案の定、彼は自分でも分からないことを訊ねてきた。
そもそもとして判断材料が少なすぎる。その独りぼっちというのは一体誰のことなのか、何故そいつは独りぼっちになっているのか、どうしてそんな状況になっているのか、それが分からねば正確な受け答えは難しい。
だからアオイはそれがどんな人物であろうと関係なく、あくまで仮定の話として自分の意見を述べる。
「それは私にもよく分かりませんが、炭治郎さんはその人を元気付けようと思っているんですよね?」
「·········」
隣からわずかに息を呑む音が聞こえてきた。
それから分かる通り、炭治郎が今からやろうとしているのは落ち込んでいる誰かと話し合って前に進んで貰うこと。
その人が誰なのか、誰であろうとそんなことになっているという事はその人物にとって何か嫌なことがあった事は容易に察せられる。嫌なことにも様々な種類があるため、それを解決するための対応策もいくつかあるが、一番効率的で傷付いた本人をこれ以上嫌な思いをさせない方法がある。
アオイはそれを言う。
「私なら·········そっとしておいてほしいです」
「·········」
結局はそれしかないのか、炭治郎も薄々思っていたのか目を下に向けたまま表情を曇らせる。
心というものはとても繊細であり、一度傷付けば中々治らないのが難しいところだ。物理的な傷と違って付ける薬もなく、治す方法は本人次第のため、他者ができる事は限られている。できるのは精々見守ることくらいだろう。下手に慰めればそれが却って刺激となって、悪化させてしまうことになってしまうかもしれない。無理に元気を出そうとせず、ただ寝る、好きなものを食べるなど、自分を甘やかすことに専念してもらうようにして、気持ちを落ち着かせて回復してもらうしかない。
だが。
それでは遅いのだ。
今は皆が真剣に鬼との最終決戦となるその日のための準備をしている。
現在行っている大規模な合同訓練は、現役の柱達が下の隊士達を限界まで鍛え上げ、強力な鬼共に挑んでいけるように必死になっている。もう引退した“元音柱”でさえも、腕と片目を失っても尚立ち上がって稽古に参加している。
そんな中で、たった一人。
稽古に不参加の者がいる。
竈門炭治郎にとってそいつは命の恩人であり兄弟子的な存在。
だから彼にお館様直々のお願いの便りを寄越してきたのだ。
お館様に頼まれ、そして自分達を救ってくれた兄弟子が元気になって一緒に稽古に参加してもらえるように頑張ろうと決めたのだ。
「·········」
その想いはアオイにも伝わっていた。
彼はどこまでも優しい少年だ。
鬼と戦うのが怖くて刀を持つ事をやめた自分とは違い、彼は恐れる事なく挑んでいける程の逞しさがある。自分が無理やり任務に連れて行かれそうになった時も代わりに行くと言って庇ってくれ、そして上弦と戦って大怪我を負って帰って来た。
死んでもおかしくなかった戦場に赴くなんて、それも自分の代わりにという理由で。
彼は人のために本気で挑んでいける強い心がある。
であれば。
その人物も、その強さに支えられてまた立ち上がることができるかもしれない。
「もうお出かけになるんですか?」
「あ、はい」
「ちょっと待っててください。会いに行かれる方はお一人ですか?」
「はい」
アオイはそれだけ聞くと立ち上がり、すたすたと屋敷の裏手の方を目指して歩き始めた。
確かあちらには調理場があったはず。
敷地が無駄に広いこの蝶屋敷は元々負傷した鬼殺隊の傷を癒すために作られた施設だ。だからそこに勤める神崎アオイだって傷を癒すための術を身に付けている。
··················心の病については専門外だが。
「よし!!」
それでも、自分にできることはある。
戦場から退いた代わりに後方支援として皆を支える役割を与えられたアオイにとって、ここが戦場だ。
アオイは腕を捲って手を洗う。
幸いにも今朝の残りはまだ残っている。
アオイは手慣れた手付きで、調理を開始する。
□■□■□■
数分後。
屋敷の入り口前で待っていた炭治郎に、アオイは風呂敷に包んだ弁当を手渡す。
「簡単ですが、おにぎりを用意しました。炭治郎さんと、その方の分です」
「!!」
「何をおいてもまずしっかり食べないと、心も体も元気にはならないと思います!」
それが彼女なりの気遣いだった。
確かにそうだ。
どんな状況であっても、腹が空いていては元気になる事はない。
どれだけ傷付いていたとしても、お腹は空くものだ。そしてその時に美味しいものを食べると少なからず幸福感を抱くものだ。さらにそこで誰かと一緒に食事をすることで、心理的な安心感や親近感が深まる。
だから彼女は炭治郎に元気付けるためのものを持っていくように提案した。
ご飯を食べても物理的に回復できるわけではないが、疲れた心を癒す効果はあるはずだ。
「アオイさん·············ありがとう!!」
炭治郎はアオイが丹精込めて作ってくれたおにぎりをありがたく受け取ると、背中に背負って出口の方を振り向く。
「それじゃあ行って来ます!!」
「はい、行ってらっしゃい」
炭治郎はアオイに手を振って、負傷した足に負担をかけないように歩き出す。
これで準備は整った。
あとは元気になってもらえるように必死に説得するだけだ。
「あ、そうだ」
「?」
と、炭治郎は何か忘れ物でもしたのか、またアオイの方に戻ってくる。
「リンクさん········まだ戻ってないの?」
「!!」
かなり心配している顔で、アオイにそう聞いた。
数日くらい前、もしかしたら一昨日くらいか。ずっと入院生活を強いられていたせいで安静にする日々が続き、その結果炭治郎は昨日のことが一週間も前に感じ、逆に一週間も前に出来事がつい昨日にも感じられるという状態となっていた。
そんな彼でも、一つだけちゃんと分かっていることがある。
自分と自分の妹のもう一人の恩人である、リンクの姿を見ていないということだ。
彼は確か初任務を言い渡され、内容は調査をするだけの簡単なものだったはずだ。鬼の出没も減少し、もはや全く現れなくなったと言っても良い今の世の中でも油断大敵ということで、夜の見回りや怪しいところの調査は今も行われており、リンクはそれに行ったっきり帰って来ていなかった。
鎹鴉からの連絡もなく、正確な情報を得られないから素直に心配していた。
それで。
自分が入院治療で寝込んでいる間にそういった連絡はなかったのかアオイに訊ねるも、彼女は首を横に振った。
「申し訳ありませんが、そちらについてはこちらでも把握していなくて········何よりあの人にはあの人用の鎹鴉もおりませんし、だから報告も遅れているのではないかと思われます」
アオイもやっぱり何も聞いていなかった。
その件に関しては完全に力になれなかったからか、アオイはとても申し訳なさそうにしていた。
「そっか········」
炭治郎は残念そうに俯く。
そうだ。
彼は鬼殺隊となってまだ間もない。
本来鬼殺隊となったその日に隊服や鎹鴉に日輪刀を作るための鋼が支給されるものなのだが、彼の場合は例外での入隊であったため間に合わず、自分の刀を担当している鋼鐵塚が独断で作った日輪刀以外の物は何も持っていない。
よって、任務の報告を逐一する鎹鴉がいないため、リンクが今どこで何をしているのか全くわからない。
こればかりは仕方がない、そう思うように炭治郎は深いため息をついた。
················しかし、ここまでリンクに対しての情報が出回らないものなのか?
彼も一応鬼殺隊となったのならば、逐一情報を共有できるように鎹鴉を一羽ぐらい同行させても良いはずだが。
なんだかまるで───できるだけ彼の情報は洩らさないように徹底的に配慮されているような気がする。
それは考え過ぎだろうか?
なんにしても、彼のことは何も聞けなかった。
「ありがとう、アオイさん」
炭治郎は気持ちを切り替えるように顔を上げてアオイを見ると、今度こそという感じで手を振って屋敷を後にする。
「それじゃあ、今度こそ行って来ます!!」
「はい、お気をつけて」
アオイは笑って炭治郎を見送ってくれる。
彼のことを心配するのはいいが、今は目の前のことに集中だ。
自分にとっての恩人であり兄弟子が心を塞いで稽古に参加しないのは大変もったいないことだ。
早急に自分がなんとかしなければならない。
意気込むようにして松葉杖を掴んでいる手の力を強めると、目的地に向かって歩き出す。
□■□■□■
鍋だった。
「〜〜〜!!」
そして何も言えなくなるほど口の中いっぱいに放り込んでいた。
「················」
それを無言で眺める老人が一人。
今天狗のお面から見える視界の向こう側で、鬼殺隊と思われる外人の青年が自分の作った鍋料理をガツガツと勢いよく食らっていた。
そして何故そんな状況を見守ることになっているのか、全くもって謎である。
もはや青年の早食いには慣れた雰囲気、喉に詰まりかけた食い物を胸をドンドンと叩いて押し流そうとしているのを見るとつい水を差し出してしまう。二人は小屋の中央で向かい合って、その室内の中心の床を四角く掘り下げて灰を敷き詰めて炭や薪を燃やし、鍋料理の温度を一定に保っていた。
一応念のため言っておくが、老人はほとんど食べていない。この外人青年が一人でほとんど食べてしまった。
そもそもこんな事になったきっかけは、鱗滝がきたる決戦のために小屋から出ようとした所、いきなり目の前にこのリンクという青年が血まみれでぶっ倒れていた事にある。彼はまさしく今際の際を迎えるといった姿であったので、前後の事情が呑み込めなくとも鱗滝はついリンクを救ってしまったわけだ。
普段であれば医者の所まで運んでそれでおしまいという話で終わっていただろうが、彼は本当に死ぬ直前で運んでいる最中に息絶える可能性があったので鱗滝が看病し、そして現在に至るという訳だ。
鱗滝も元は鬼殺隊の一員であり、さらには柱の階級であったため引退の際には大金を渡されている。隠居生活をして、あとは自分が余生を過ごせるほどくらいしか普段は使っていないからいくらでも食料を買いに行けるので、金銭面に関しての問題はないのだが········それにしてもこのリンクという青年の辞書には遠慮という言葉はないのだろうか?
ちなみにこの青年、本当に生死を分ける重傷を負っていたのだが、食えば食うだけ元気になっていった。
まるで日本昔話に出てくる一場面でも見ているようだった。
鬼退治に行く前にとある子供がご飯を一口食べるごとに同じ分量だけグングンと大きくなったとされ、おじいさんとおばあさんがくれるご飯を山盛り食べて、あっという間に立派な若者に成長するあの話。
彼の場合は別に大きくなっているわけではないが、食べるだけ元気になるという部分がなんか似ているような気がした。
鱗滝は目の前に広がる暴飲暴食の光景を眺めつつ、こう呟いた。
「まさか本当に桃太郎のような存在がいるとは·······」
「うん?」
「こちらの話だ、気にするな·······」
外人だから勿論そんな御伽話を知っているはずもないだろうが、しかしこれは大変な人間を拾ってしまった。
というかもはや人間の域を超えている気がする。
外人というのはみんなこういう体質なのだろうか、そんな失礼な偏見が生まれそうになったため、鱗滝は竹筒の中にあった水を飲み干すリンクにこう聞いた。
「お前は何故あそこに倒れていた? 一体どこから来たんだ?」
「··············」
その問いにリンクはつい動きを止めてしまい、そしてゆっくりと飲み口から口を離して、竹筒を静かに床に置いた。
その反応からわかること、おそらくは自分でもよくわかっていないのだろうが、それ以上に自分のことを責めているような感情が読み取れる。鱗滝だって元は鬼殺隊の隊士であり、柱の階級であったのだから人を見る目はある。
そんな彼だからわかる。
このリンクという青年に一体何があったのか。
「···········
「ッ!?」
そう言ったことでリンクの体が思わず強張ったのを見て、自分の考えは当たっていたと実感する。
だが当たったことに対してはどうでもいい。
問題は、この青年がそれに対してかなり自分を責めているという点だった。
「お前が一体どんな相手と戦ったのか、それはお前の口から聞くまで分からん。しかし、お前のその反応から見るに、かなりの強敵であったことは容易に察せられる」
天狗の面で隠れたその顔が今どんな表情をしているのかは分からないが、鱗滝が喋る度に声色が低くなっていくことから、おそらくは。
「辛い気持ちはよく分かる、敗北ほど悔しいものはないだろうからな。だが、いつまでもそうやって落ち込んでいるようでは、強くはなれん」
「···········すみません」
「何を謝っている? 儂は謝ってほしいわけじゃない。ただ何があったのか聞きたいだけだ。戦いというのは情報一つで戦況が傾くんだ、一刻も早くお前が持ち帰った情報を鬼殺隊に共有せねばならん···········聞かせてくれるか?」
「···········」
リンクは最終的に黙ってしまっていた。
悔しい気持ちでいっぱいで、言葉を紡ぐことすら難しかったのだ。
真正面から正論を言われて、リンク自身もそれは分かっている感じではあったが、暗い心を拭えないでいた。正直に言えば別に敗北自体はそこまで悔しくはない、まだ生きているのだからまた挑む機会が訪れるかもしれないんだし。
問題は、“自分の無力さ”だった。
もっと早く、リンクが助けに行けていたらこんなことにはならなかったはずだ。
任務に一緒に同行していた少年、獪岳を救えていたはずだった。
彼とあの鬼の間に何があったのかは知らないが、彼の言動からして裏切ったことだけは分かる。でも、そうなったのはもしかしたら自分のせいではないかと思うと、剥き出しとなった刃物が自分の胸を貫いたのと同じ痛みに襲われる。
獪岳も生きようとしたのだろう。選択し続けて、しかし打開策が見つからず、唯一生き残るためには鬼側へと寝返るしかなかった。上弦の中でも別格の強さを持っていたあの鬼相手に獪岳も敵うわけがないと判断し、リンクの助けを待とうにも遅すぎると感じ、だから彼は刀を置いたんだ。
勿論、これはリンクの単なる考察に過ぎず、でもそう思わないと説明できない部分が多すぎるのも確かだった。
生まれて初めて仲間に裏切られたという、経験をしたことがない出来事が彼の心を抉っている一番の原因だろうが、そうなったのは自分が無力だったせいだ。
早く助けに向かえていたら、ああはならなかった。
それ故にリンクは、自分を責めてしまった。
もっと良い方法があったのではないか、そう思うと気分が沈んでしまう。
「···········」
リンクは、口を開けなかった。
自分の無力さに絶望し、俯いてしまっていた。
そんな彼に。
パァン!! という。
乾いた音と共に謎の痛みに襲われる。
「···········?」
唐突な痛みにリンクは実感が湧かず、表面が赤くなるほどに強く打たれた頬を押さえる。
すると鋭い声が飛んできた。
「判断が遅い!!」
「???」
いつの間にか立ち上がってこちらへと近づいてきていた鱗滝から急にそんなことを言われる。
だからリンクは訳がわからないという顔をするしかなかった。
赤く長い鼻が付けられた面がリンクの鼻先に当たりそうなほどに近づいてきている鱗滝は、いつまでも悩んでしまっているリンクに厳しい言葉を浴びせる。
「いつまでそうやって落ち込んでいるつもりだ。お前が何かをしくじったというのは分かる、しかしそれにいつまでも縛られて気を沈ませているようでは、その剣も泣くぞ!!」
鱗滝はリンクが持っていた日輪刀と退魔の剣の方を指差してそう言った。
表情は読み取れない。
けれどその声の凄みに、リンクは唖然としていた。
「お前は剣士なのだろう? ならばもうどんな苦しみにも黙って耐えろ! いくら現実から目を背けようとも、お前が敗北してしまったという事実は変わらず、そしていつまでもお前の喉元に突きつけてくる!!」
厳しい言葉がいくつも飛んでくる。
鱗滝はじっとリンクを見つめ、
そして彼の胸に拳を優しく当てて、続けた。
「己の無力さを嘆くな。お前はまだ生きている。であれば次は負けぬように努力しろ。剣を持てば強敵と遭うことは必然、そこで打ち倒されたとしてもまだ生きているのなら立ち上がれ。歩みを止めず、常に前へと進み続けるんだ!!」
「···········ッ!!」
鱗滝は何かを否定しているわけではない。
むしろ。
いつまでも落ち込んでいるリンクをもう一度立ち上がらせるために、敢えて辛い現実を押し付けて、強引にでも受け入れさせようとしていた。
リンクだって現実を見ようとはした。
でも辛い現実というのは目を背けたくなるものだ。
百年前のリンクであったのなら、精神力も強くなるように厳しく育てられていたために黙って耐えられたかもしれない。誰にも負けることがなかったあの頃、ただひたすらに剣を振るうことにしか脳がなかった彼は、苦しいことも苦しいと思えず、辛いことも辛いとは思えなかった。
謂わばどんなに厳しくされても壊れない人形のような状態であったので耐えられたが、記憶を失って人格が変わってしまっている今では素直に辛いことは辛いと思えるようになった。
だから、目の前の現実を呑み込むのが怖かった。
そうする事で、自分はなんて無力なんだと改めて実感してしまうから。
「···········」
しかし。
鱗滝に言われて、リンクは自分の考えはまだまだ甘いと再認識させられた。
そうだ。
この人の言う通りだ。
剣士として、勇者としての道を歩む以上。
どれだけ過酷なことがあろうと、いつまでも目を背けていてはいけない。
勇者とは民の何倍もの重積をその背に負わなければならないのだ。
ここにくるまでの道のり、そこではいくつもの苦難に遭ってきたことは今でも思い出せる。
それから逃げるのではなく、一つ一つを内包し、そして立ち上がってこそ真の勇者たりえる。
そこまで思い出して、リンクは小さく笑っていた。
自分が今抱えている問題が、あまりにも小さくなった気がしたのだ。
「···········ありがとうございます」
微笑んで、リンクは鱗滝にそう言った。
迷いは晴れた。
その様子が見れた鱗滝は無言のまま、ただ小さく頷いた。
まだ青く輝いていた空は、すでに赤く染まっていくところだった。
それくらい悩んでしまっていたということだろう。
それでもやがて、リンクは話し出した。
鱗滝に助けられる前、一体何があったのか。
今度こそ負けぬと、覚悟を決めたように。
□■□■□■
「··········そうか、『上弦の壱』とな」
「はい··········それで俺はその獪岳という少年と一緒に任務に行っていたんですが、彼は鬼にされてしまって」
リンクはただ真実のみを語った。
リンクがすでに鬼殺隊の一員であることはこの老人も理解しているようだし、ならば鱗滝も元は組織に属していたのだと察せられる。
実際、鱗滝は自分の事を“育手”と言い、元は“水の呼吸”を極めた“柱”であったと明かされた。育手は山ほどおり、それぞれの場所でそれぞれのやり方で剣士を育て、鱗滝もその一人だと説明された。ほぼ隠居生活をしているが、今でも鬼殺隊としての務めを果たすために後継人となる者を立派に育てあげるという事をしているらしい。
その過程で、本部とのやり取りも続けているとのこと。
だからリンクは何があったのかを全て話した。
情報は一秒でも早く、組織に共有した方がいい。
それが、 妥当な判断だと思ったから。
「まさか鬼殺隊から鬼が出るとはな··········」
「すみません··········俺がもっと早く助けに行けていたら」
「いいや、これはお前のせいではない。まさか上弦の鬼、ましてや壱の位の鬼が現れるなんて誰にも予想できなかっただろうからな。誰が向かっていても同じ結果となっていただろう」
そうは言うものの鱗滝はリンクの話を聞いて今までよりも当惑したような声色だった。
当たり前だろう、鬼殺隊から鬼が出て、さらにはリンクと戦った鬼は『上弦の壱』という別格の鬼だったわけだから。
それだけじゃない。
『上弦の壱は“月の呼吸”と呼ばれる“呼吸術”を使っていた』という事も、リンクは包み隠さず何もかも全て話した。
見たのは二つの型だけだったが、あれは不死川達鬼殺隊が使っている“呼吸術”に間違いなかった。
つまり。
リンクと戦った鬼は、
「しかし、“月の呼吸”··········か」
「何か知ってるんですか?」
「··········いいや、儂は知らん。そのような呼吸がある事も一度も聞いていない」
長いこと生きてきて鬼殺隊に貢献してきた鱗滝でさえも聞いたことがない呼吸術であったらしい。
元々、呼吸術には様々な流派が存在し、炎・水・風・岩・雷の五系統が基本であり、それ以外の他の流派は各々に合うように自らの力で編み出した派生の流派だ。その中でも特に炎と水は歴史が古く、“炎柱”と“水柱”はいつの時代でも必ず一人は存在していた。
鱗滝がそうだった。
彼は元々水柱として鬼殺隊を支えていた凄腕の剣士であり、そして水の呼吸は如何なる敵にも対応できる柔軟な型が多く、その使いやすさから多くの鬼殺隊がその呼吸を使っているとのこと。
呼吸の歴史は古く、それでも“月の呼吸”と呼ばれる流派は聞いたことがないという。
それに違和感を感じてしまうのは自然なことだった。
(それほどの威力を誇る呼吸術が知れ渡っていない··········となると、産屋敷一族の者の誰かが意図的にその呼吸術の存在をもみ消したということか?)
鱗滝は手を顎に当てながら考える。
産屋敷一族の歴史も古く、噂では鬼の始祖である鬼舞辻無惨が生まれた時代から存在しているという。ならば千年以上も産屋敷一族は絶えることなく、その最中に呼吸法という剣技が生まれたわけであるが、それでも“月の呼吸”なんてものは一度も聞いたことがない。
おそらくは派生の流派なのであろうが、もし仮に誰にも受け継がれることなく歴史の闇に葬られたということは、その呼吸を使う鬼は鬼殺隊の剣士だった頃に何か産屋敷一族に対して牙を剥いたのかもしれない。
鬼となった以上はその剣士も無惨に服従せねばならず、拒否権なんてものは与えられずに命令を必ず遂行しなければならない。ずっとこちらを葬ろうとしてきた産屋敷の命を奪えとでも命令したのだろう、しかし今でも一族は絶えていないということは失敗に終わったということだ。
今は憶測の域を出ないが、それほどの呼吸術が鬼殺隊の歴史から消え去ったということは、その剣士に関しての情報を後世に残さないように産屋敷家が手を回していたということだろう。
鱗滝でさえ今日初めて聞いたので何も知らない可能性があるが、産屋敷の人間ならば何か知っているかもしれない。
そう考えた鱗滝は立ち上がると、小屋の入り口前に置いていた頭巾を被る。
「? どこか出掛けるんですか?」
「あぁ、お前から聞いた話を一刻も早く上に伝えねばならん。儂はこれから近くの『藤の花の家紋の家』へと向かい、伝令の鎹鴉に手紙を持たせてくる」
そう言われてリンクは窓から小屋の外を見る。
夕暮れだった景色は完全に陽が落ちて、空には星々が瞬いていることだろう。
であれば、今は鬼にとっての活動時間。
そんな時間に外に出るのは危険なのではないか、そう危惧していると鱗滝もそれは承知しているのか、
「心配はいらん。お前の話が本当ならば鬼が完全に現れなくなったわけではないことは分かっている」
「···········なら」
「それを含めての心配はいらん、だ。とにかく儂はこれから出掛けてくる。と言っても、一番近いところでも二日は掛かる距離だ。それまではしばらく留守にすることになるが──────」
鱗滝は念を押すように、リンクに言う。
「お前はまだ休んでいろ、今必要なのは休養だ。ここにいる間、水も食料も好きにしてもらっても構わんが、儂が戻るまではこの小屋から出ることは許さん。いいな?」
「···········」
リンクは無言で頷いた。
鱗滝にもかつては伝令用の鎹鴉がいただろうが、そんなところまで行かないといけないということは···········つまりはそういうことなのだろう。
誰かが鎹鴉を伝令に寄越してくれば返事の手紙を持たせるついでに得た情報を記載して共有できるだろうが、そんな時間も惜しいのか、鱗滝は準備を整えると戸を開けて外へと出る。
「あぁ、これも聞いておかねばならんかったな···········」
「?」
完全に外へと出る前に、鱗滝はリンクの方を振り向いて、聞き忘れていたことを訊ねる。
「その獪岳という隊士···········
「?」
「一緒の任務に同行していたのだろう? 何の呼吸術の使い手かを聞かなかったか?」
「···········う〜ん」
リンクはそう言われて思い出そうと努力するも、獪岳が自分の流派を明かした記憶は存在しなかった。
そもそも彼と任務を同行したと言っても、獪岳は戦わず、リンクはそんな彼に逃げろと言ったから戦う姿を見ることはなかった。
今思えば反省点が多いが、少なくともリンクは獪岳が何の呼吸を使っているのか知らなかった。
「ごめんなさい···········それについては俺は何も」
「···········そうか」
何故そんなことを聞いてきたのか分からなかったが、どれだけ思い出そうとしてもそれらしいことを聞いた記憶がないので首を横に振って申し訳なさそうにリンクが言うと、鱗滝は静かに背を向けた。
そして小屋の外へと一歩踏み出して、
「では行ってくる」
結局、一体何故そんなことを聞いてきたのか分からなかったが、鱗滝はそのまま小屋を後にする。
□■□■□■
リンクはただ眠ることに集中していた。
鱗滝が小屋から去ってからそこまで時間は経っていない、まだ一時間かそれくらいだ。
食べ物食べて回復したとはいえ、まだ疲れは完全には取れていなかった。だから布団の上で目を閉じているものの、今日は珍しく中々眠気は訪れなかった。
「···········」
リンクは寝苦しい思いを払拭するために起き上がると、水を飲もうと真水が溜めてあった水瓶の方へと向かう。
近くに置いてあった柄杓で水を掬うと、一口ほど飲んで心を落ち着かせる。
これで少しは眠れるようにと飲んだわけだが、逆に目が冴えてしまった。
何故なら、
「ッ!?」
リンクは驚きのあまり思わず地面に尻餅をついてしまう。
色んなところを旅して様々な現象を目にしてきたリンクでも、何の脈絡もなくいきなり目の前に訳のわからない物体が浮いていたら誰だって驚く。
驚きのあまり尻を地面に強く打ってしまったせいか、痛みで完全に目が覚めた。
水で顔を洗う必要もなく、痛みが目の前で起きている現象は現実であると告げられる。
リンクは警戒しながら出口付近に立て掛けておいた装備へと手を伸ばす。
するとどういうわけか“それ”は小屋の中に侵入するわけでもなく、ただゆっくりとリンクの視界から消えていった。厳密には窓から見えなくなっただけであるため、もしかしたらまだ近くにいるかもしれない。
リンクは口の中に溜まった唾を呑みながら外へと繋がる戸を開ける。
警戒を解かずに周囲を見回すと、先程見た“人魂”が遠くの方に浮いているのが見えた。その方向はこの山を登るルートで、先には森が続いている。
“人魂”はまるでついてこいと言うかのように浮遊しており、しかしリンクからすれば不可解すぎて近付くことすら恐ろしくてできなかった。
でも、いつまでも消える様子はなく、何となくこのまま放っておいたら付き纏われる恐れがあるので、リンクは勇気を持ってその“人魂”の方へと一歩ずつ近付く。それを理解しているのか、“人魂”はリンクが近付いてくる度に遠ざかっていき、どんどん追いかけてくるように誘導してくる。
未だに恐怖心は解けないが、悪意や敵意はないように感じた。
しばらく追いかけ、霧が濃いのでどこをどう通ったか分からずついていくと、開けた場所へと出た。
「?」
気付けば“人魂”らしきものは見当たらず、けれどその中心には何かがあった。
綺麗に割れた───“岩”
元々神聖なもので崇めるものだったのか太いしめ縄のようなものが巻き付いていたようだが、岩が割れるのと同時期に切られ、地面に落ちていた。
一体何がどうしてこんなところに岩があるのか、何故綺麗に割れているのか、謎が深まるばかりだった。
リンクは真っ二つに割れている岩へと近付き、割れた表面を撫でる。
しかし、本当に見事に割れている。
まるで切れ味が鋭い剣で一刀両断されたみたいだった。
「
「!?」
いきなり背後から声がした。
リンクは唐突に声をかけられたことに驚いて飛び退き、振り向きざまに背のマスターソードへと手を伸ばす。
剣を引き抜いて声をかけてきた者が何者か確認しようとすると、そこには“一人の女の子”がいた。
花柄の赤い着物、頭の上に狐の面を斜めにつけている。
変わった子供だというのが第一印象だった。
だって警戒しているリンクに対してこの子は笑っているんだから。剣を向けられいても笑っていられるなんて、正直変わっているとしか思えなかった。
「
「?」
一体誰のことを言っているのか。
少女は一人で楽しく話しているが、そもそも今は子供が出歩いていい時間ではないはずだ。
だからより一層警戒するのは当然であり、鋭い目付きで彼女を睨んでいると、
「
「!!」
背後の岩、その上からまた別の声。
リンクはまた飛び退いて声がした方を向くと、割れた岩の上に“少年”が立っていた。
デザインは違うが少女と同様に狐の面をつけており、彼の場合は正しく顔につけているので一体どんな顔をしているのか見えなかった。
宍色の髪をした少年はこちらを見下ろしており、背後にはあの少女がいる。
挟まれた。
一体いつの間に現れたのか知らないが、得体の知れない子供達に囲まれている以上は危機感をさらに持たねばならない。
そんなリンクに、岩の上に立っている少年は告げる。
「
「ッ!?」
聞き覚えのある言葉だった。
黒死牟との戦いで獪岳に不意打ちで一撃もらい、死の淵を彷徨っている時に聞いたその言葉に、リンクは目を見開く。
その時、全ての記憶が繋がった。
二人の声。
それはあの時、自分を現世に呼び戻してくれたものと同じだった。
「
少年は岩の上から飛び降りると、いつの間にか握られていた木刀をこちらに向けて言う。
「