極楽はあるか。
そんなこと聞かれても誰にも分からない。
そもそも極楽ってなんなのか、一体どういうところなのかすらも分かっていないのに、何故人はそんな曖昧で不確かなものを欲するのか。ただ単に人が苦しみから解放される為に都合良く作り出しただけの妄想物を、しかし皆誰もがそこに行きたがるのは何故なのか。
おそらく、皆が真に望んでいるのは極楽といった天国のような高みの存在ではなく、何か自分にとって支えとなってくれるような、所謂“拠り所”というものを本当は欲しているのだろう。
辛いことや苦しいこと、それから逃れるために人は何か行動するわけだが、誰もがまずやるのは神頼みだ。神というのは人々にとっては救いの手を差し伸べるような高貴な存在であり、人によってはその形は様々であるため信仰する対象も違う。
仏みたいな姿を思い浮かべる者もいるだろう、もしくは如来だったり菩薩だったり明王だったり、なんならそこらにあるような大岩でさえも誰かが最初に神聖なものとして扱えばそれに続く者達が勝手にそう解釈して祈り崇めるだろう。
つまり、何でもいいのだ。
苦しみから解放してくれさえすれば何だっていい。
それがたとえ───人の世に仇なす“鬼”であろうとも。
「そうかそうか·········それは辛かったねぇ」
とはいえ。
この世の理不尽に苦しむ一般人にとって、それの見分けがつくものではない。鬼という概念はあっても空想上の産物、御伽話の中だけの存在としか見ていないからそれに気付く事はない。
しかし実際に鬼はいる。
何ならもう目の前に。
「君がこれまでの時間理不尽に苦しんでいた事は想像に難くない·········ずっと一人で抱えて辛かったよね」
「·········はい」
一つの寺院、だがそこに来る者達にとっては極楽なのかもしれない。
だから目の前にいる奴の正体に気付くこともなく、ただただどうでもいい身の上話をする。
「でもね」
けれどそれを聞いて寄り添ってあげるのが“教祖”の役目。
「君は偉いよ、これまでよく頑張ったね」
「え?」
苦しみから解放して幸せな道へと導くために、
「君はそんな苦しみを背負ってでも生きてきた·········理不尽で不運だらけの人生を投げ出す事なく、必死に今この時まで生きてきた。それは間違いなく君の努力の賜物だ」
「!!」
厳しい思考の人間であれば、そんなの甘い言葉を並べただけの戯言にしか聞こえないだろう。
それでも。
心を弱らせて“拠り所”を欲している者からすれば、それは“神のお告げ”に等しい。
「これからもずっと生きるのは辛いと思う事だってあるだろうけど、でも君は自分の足でここまで来てくれた。たったそれだけでも大きな進歩だよ。だって·········ずっと一人で抱えていた苦しみを、これからは俺も一緒に背負っていってあげられるんだからね」
「·········ッ!!」
畳張りの部屋の奥、そこで彼は泣きながらここへやって来た者にそう告げた。
その人には一体そいつがどう見えただろうか?
厳しい口調で罪人を裁くと言われている閻魔大王を思わせる姿をしていながらも、それとは真逆の性質を含んだ甘い言葉をいくつも投げかけ、相手を洗脳するなんてことは日常茶飯事だとでも言うように同情の涙を流す“そいつ”のことを。
少なくとも───自分にとって都合のいいものにしか見えなかっただろう。
「“万世極楽教”はいつでも君の側にいる。だからもうこれ以上は一人で抱え込まず、またいつでも頼るといい」
「はい!!」
全ての言葉が自分にとって都合のいいように作り変えられる。
本当はただ単に相談に乗ってあげて誰にでも言ってあげているような決まり文句を聞かせているだけなのに、ここに来る者はそれを特別なお告げとして受け取る。
そう。
人というのは至極単純だ。
ちょっと辛いところに寄り添って優しい言葉を聞かせたら、簡単に目の前にいる“教祖”が素晴らしく神秘的で尊い存在だと思ってくれるのだから。
本当は神も仏も、極楽なんて都合のいいものなんてただの幻想でしかなく、存在なんてしないのに。
“鬼”は信じていないのに“神”は信じるなんて、一体どこまで可哀想な人達なんだ。
「ありがとうございます·········教祖様」
「いえいえ、また来るのを待っているよ。俺はいつだって君の味方だ」
その救いの言葉によって新たな信者となったその人は、微かに瞳に涙を浮かべていた。
今までどうしようもないほどに辛かったというのに、それを教祖はあっさりと解決してくれた。その菩薩のような笑みだけでなく、共感するように一緒に泣いてくれた。他人の心に寄り添うことができるその心優しいお姿を見て、既に信者にとっては神仏のような存在として認知している事だろう。
何ならその背には神々しい後光すら射していた。
もう夜だというのに輝いて見える教祖はまさに光を齎す救世観音だ。
信者が一人増え、新しく自分を信仰してくれるようになったその人は何度も頭を下げながら部屋から去っていった。
部屋から出ていくその時も彼は恵比寿様のように屈託なく笑いながら手を振って見送った。
みんなもはや彼を神として崇めている。
姿は同じでも、色んな神々を思い浮かべては彼をそれと同等な存在として扱い、しかしそいつの本当の正体には誰も気付いていない。
皆神だと崇めるが、実際は全く異なる、むしろ逆の存在だ。
正体を隠したそいつはどちらかと言うと───“疫病神”だ。
「教祖様、今のが最後の一人でございます。お疲れ様でした」
すると、すぐ隣の襖がゆっくりと開かれて頭を完璧に剃り上げた男が彼にそう言った。
かしこまった様子でそう言ったことから、この男もそいつを信仰している者の一人なのだろう。
それを聞いても彼は笑みを崩さず、いつものように優しい口調で答える。
「あぁ、本当かい? それは良かった! 今日もみんなを救えたようで何よりだよ」
「はい、全て教祖様のおかげです」
男が感謝を述べるようにそう言うと、教祖はさらに目を細めて仮面のような笑いを浮かべる。
相談に乗って相手が欲しがっていた言葉をいつものように与えていただけだというのに、やはり人間という生き物の頭は空っぽでしかない。話を聞いて会話するだけでこうも簡単に悩みを解決してしまうなんて一体どこまでおめでたいのだろう。
憐れで愚かで可哀想すぎて同情してしまう。
そんな風に思っていた教祖様であるが、そこで何やら突然天を見上げた。小蝿でも飛んでいたのを見つけたのか、それとも何か考え事をしているのかと思ったが、そうではない。
用事を思い出したように天を見上げているようにも見えるが、それは一つの合図であり、彼にとっての“神からのお告げ”だった。
教祖様は特に表情は変えず、そのまま笑みを浮かべたまま立ち上がって、
「じゃ、今日も俺は夜の散歩に行ってくるよ」
「はい、行ってらっしゃいませ」
男は特に呼び止めることもなく、むしろ笑って彼を見送った。
教祖を神として信仰しているのなら夜の出歩きは危険だからと止めてもいいはずだろう、しかしそうしないのは教祖の言うことは神の言葉と同等であると認識しているのか、ここで何かを言ってしまえば神の意志に反することになるので、そんな無礼は許されないとでも思っているのだろう。
だからこの宗教の教祖は結構好きに動けている。
この宗教独自の教えもあって何かに縛られることもなく、いつでもどこでも好きな時間に自由に移動できるというのもこの“万世極楽教”の魅力の一つだ。
教祖は薄く笑って感謝すると、そのまま外へと繋がる襖を開ける。
本来であればこのまま入り口まで歩いていくのが普通であろうが、この教祖は皆が思うように人ではない存在であるから、一々そこまで行かずとも、
シュン!! と。
空気を裂くような音を残して虚空へと消えた。
実際は単に早く移動しただけだ。目にも止まらぬ速さで素早く動いているので消えているように見えるだけだが、その人間離れした移動速度によってあっという間に目的地にまで辿り着いた。
「この辺かな?」
彼はゆっくりと周囲を見回した。
ちょっと田舎で歩けばどこでも見かけるような、普通の森の中の光景だった。
ただし、空気が違う。突き刺さる気配は悪意に満ちた視線のようで、そこかしこに生えている木からはいつでも襲撃できるようにという考えが勝手に伝わってくる。
「
誰に言っているのか、だがどうも独り言のように言ったとは思えない。
周囲にある木立。
緊迫した空気が漂う中、不意にがさりと木の葉が動いた。
そこから次々と、
その数はおよそ八。
出現した影は人型ではあるものの、皆同様の姿をしており、『化物』と呼べるような奴らばかりだった。
石竜子。
変色龍とも呼ばれる爬虫類の化物達は、鱗まみれの緑の皮膚の上に中世の鎧を纏い、全方向を見えるように左右の眼球を別々に動かして回転させている。
これには思わず彼も気持ち悪いと思ってしまう。
だが、
「面白いねぇ、もしかして君達が“あの方”の言っていた子達でいいのかな?」
その声には誰も応じなかった。
元からそんな言葉に応える思考を持ち合わせていないのか、全員がくの字に曲がった武器を構え、早い者勝ちだと言わんばかりに走り出した。
頭の鋭く尖った角を槍のように向け、ジグザグな軌道を描きながら襲いかかり、もしくは飛びかかって彼の逃げ場を塞ぐようにそれぞれが連携した動きをして取り囲むと、
バキリッ!!
無数の硝子が砕け散ったかのような音が連続すると共に、全員の思考が停止。周囲を包む凄まじい『冷気』によって石竜子達の体は一瞬で凍りつき、そして脆くなった体は崩壊して跡形もなく粉々になる。
そいつは特に大した動作はしていない。
強いて言うなら持っていた扇で周囲に風を送るように軽く扇いだだけだ。それだけで、自分の周囲を取り囲んでいた奴らは全員凍死した。
これがこいつの異能、血鬼術だ。
そもそも、こいつに挑んだ時点で負けは確定しているようなものだった。
化物は化物でも、爬虫類と同じ姿をしている以上は自力で体温を作れない『変温動物』であることには変わりない。そのため、冷たい環境では代謝が極端に低下し、活動できなくなるだけでなく、最悪の場合は命を落とす。
それだけでなく、こいつは人に化けて暮らしているが、本当の正体は今襲って来た奴らと同様に人を喰らう化物、“鬼”である。
それも“上弦”という、圧倒的な力を持った個体だ。
それほどの実力を持った奴相手に愚かにも挑むなんて、なんて憐れで可哀想な奴らだ。
自分達の生態系も理解せず、そして相手が誰なのかも分かっていないなんて。
「可哀想に·········」
手に持っていた扇で口許を隠し、労わるように偽りの涙を流す。
そいつ視点から見れば奴らは勇敢にも自分に挑んできたのに、その努力虚しく一瞬で片が付いてしまったのでせっかくの命を無駄にしてしまってとにかく可哀想としか思えなかった。
しかし仕方ない。
「ごめんよ。君達に恨みは特にないんだけど、あの方にとって君らは邪魔で仕方ないんだ。本当は下の子達に任せたいんだけど、今までいた鬼達は君らの仲間に食べられちゃったし、最近鬼になった子達は皆頭の悪さは絶望的だし、結局は俺達上弦が片付けなくちゃならなくなってさぁ」
誰もいなくなった空間で泣きながらそう言うが、その涙はいったいどこから湧いてきたものなのか。
倒した奴らを憐れんでのものなのか、それともこんな辛い仕事を押し付けられて悲しいと思ってのものなのか、もしくは面倒臭すぎて嫌になった末のものなのか。
いずれにしても、その瞳から流れる涙は冷酷なものだろう。
凍りついたこいつの心は誰に対しても残酷なほどに冷たく扱う。表面上は暖かく接しているようには見えても、裏では何も感じていないほどに冷たく、単純なことも受け入れられないような頭で辛いよねと蔑んだ目をしながらただ嘆く。
世界の冷酷さ、彼はこの世の理不尽そのものを体現している。
死は万人の終着点、善人だろうが悪人だろうが死というものこちらの都合なんて考えずお構いなしにある日唐突に平等に訪れる。
そして。
その先にあるのは何もない。
それを教えようとしても、人々は受け入れようとしない。だからせめて、未来永劫共に生きられるようにと願って自分が喰ってあげている。
それが、救いだと思っているから。
死なずに人を喰えるようになったこの体の中に取り込めば、自分が死なない限りは魂も永遠にこの世に残り続ける。
それが彼。
“上弦の弐”の“童磨”という鬼の生き方だ。
「本当にごめんね、君達も人だったら食べてあげられたんだけど·········申し訳ないけど俺には君らみたいな下手物を口にする趣味はないんだ」
最後の一言まで冷酷に告げると、周囲に漂っていた化物の欠片は空気に溶けて消えていった。
これで今日の仕事は終わり。
それにしても最近はこればかり任せられる。
探知探索が不得意だから雑魚処理なんて、本来上弦の鬼がやるべき仕事ではない。
なんだかつまらない仕事を押し付けられて本当に辛そうに嘆いている童磨は涙をこれ以上溢さないように上を見上げていると。
不意に結構すぐ近くから人の気配がした。
童磨は瞬間的にピクッと肩を震わせてそちらを見る。
新たな一段の訪れを告げる足音と、提灯程度の淡い光が見えた。と思ったらその光はこちらに近付くごとに強くなっていっていて、そしてやたらと金属音まで聞こえてきていることから、おそらく腰なんかに何かをぶら下げている。
童磨は耳がいいからすぐに分かった、それは鬼殺隊が持っているような日輪刀の音ではない。
この音からしてそれを抜くというよりは見せる方に注力しており、どちらかというと単なる身分の象徴と化した剣を腰に差しているように聞こえ、ならばおそらくはこれは西洋から流れてきた武器、つまりはサーベルと呼ばれるものだろう。国家権力や権威を象徴するためにぶら下げるもので、刃はあっても模造刀に毛が生えた程度の殺傷力しかない。今一番使われているのは拳銃と呼ばれるものであり、そっちの音の方がより重く耳の中に響いてきた。
そこから察するに、この先にいるのは日本の警察だろう。
日本の治安維持に大きく貢献している警官、もしくは巡査が何故ここにいるのか。まあおそらくは巡回なのだろうが、人のいないここにまで見回りに来ることは今までなかった。
それがどうして今になって、と考えるのもどうでも良くなってきたのか、そちらの方を注視していた童磨は鬼殺隊でないのならばとりわけ気にする必要もないと思って冷たい息を吐いた。幸いにも返り血とか物騒なものは浴びていないし、目さえ人のような瞳に擬態してしまえば誤魔化せるだろうと、そう思った童磨は自慢の虹のような眼球を黒く染め、自身にとっての最大の名誉とも言える数字を隠す。
そしてそのまま警官らしき人物はこちらの方へと近付いてきており、
「おい貴様、ここで何をしている?」
「なんだ、やっぱり警官か·········はぁ焦ったぁ」
「いや、焦ろよ。焦ったままでいろよ。こちとら警察だぞ? 今ちょうどお前みたいな不審人物を見つけてこっちは検挙してるところだぞ?」
警官は二人だった。
そのうちの一人が童磨の前までやって来ると、手に持っている懐中電灯をこちらに向けて厳しい声で訊いてきた。懐中電灯の光は熱を含んでいるから、その明かりに照らされると眩しいと思うよりも先に肌に熱を伝わらせるためそれが鬱陶しく感じる。太陽よりも全然弱いとはいえ、その感触には不快感を覚える。
しかし予想通りだったことに童磨が胸を撫で下ろしていると、舐めた態度だと受け取ったのかもう一人の警官が訝しげな視線を向けてくる。
もはやこちらを捕まえようとしている目をしている。
いっそのことやっちまうか········と思ったが、ここで今騒ぎを起こすわけにもいかない。
“あの御方”にくれぐれも騒ぎを起こすなと言われた後なのだ。
できれば今は目立ちなくないのだろう、太陽を克服するために余計な面倒ごとは増やしたくないとお考えで、人を喰うのも制限されていた。だからここで殺すことだけは避けたい、しかも鬼殺隊のような非公式の組織とは違って政府から正式に認められた役人を殺せばそこから足がついてしまう。
だから童磨は若干辟易しながら、
「あぁ、すみません。ちょっと夜の散歩中でして」
「はぁ?」
妥当な反応だった。
そりゃこんな森の中で一人で、しかも明らかに派手な服装でいたら誰だって不審に思う。
「貴様ふざけているのか? そんな格好で、しかもこんな森の中で一人でいる時点で怪しいにも程があるだろう」
「え〜? 本当のこと言ってるだけなんだけどな〜。それを言うんだったら君達こそなんでこんな所にいるの? ここ明らかに君らの管轄外でしょ?」
「俺達は正式な仕事で来てるんだ。最近ここらで人が行方不明となる事件が多発していてな。目撃者によると石竜子みたいな奴らの集団に襲われたなんて話もあったくらいだ。それでここら一帯では俺達が定期的に見回りをしているんだ········そんな中で貴様のような明らかに怪しい奴を見つけたわけだが」
さらに目を鋭くして睨む警官。
どうやらあの石竜子達が彼らをここへ招いたようだ。てっきり鬼だけを狙っているのかと思ったが、普通に人間まで襲っていたようであった。あの御方が警戒している“影”の仲間だし、つい最近も自分よりも一個下の階級である“上弦の参”の鬼も岩の巨人に襲われたという話を聞いていたわけだし、それであの石竜子達も鬼である自分を狙っているとばかり思っていたが、案外獲物の対象は区別していないのかもしれない。
そこにいたから襲う、鬼とは違う人喰いの化物の考えはよくわからない。
なんにしても、面倒なことになった。
あの御方の命令通り片付けにやってきたのに、まさかそいつらを追って表の連中に見つかってしまうなんて。
もう二人ともこちらを捕える気満々だ。
これ以上面倒なことになる前に、口封じのためにもうやってしまおうと、手に持っていた扇で魂も凍るほどの冷たい風を二人に送ろうとした時。
ドゴォオッ!!
何が起こったのか、その場にいた者達全員わかっていなかった。
懐中電灯を持ったまま目を鋭くしてこちらを見てきていた警官の隣から、勢いよく赤黒い血が飛び散った。急な出来事にもう一人の警官も状況が把握できず、ただずっと放心状態のままさっきまで同僚がいた方へと目を向けていた。
「「········え?」」
警官だけじゃない、童磨までもそんな声を漏らしていた。
つまりは今のは童磨の仕業ではない。
そもそも。
「········ッ!?」
童磨よりも先に警官がその大木の存在に気付いた。
そこらに生えていた木を引っこ抜いたのか、まだ枝も残っているその大木が棍棒のように勢いよく振り下ろされたことで同僚の警官は叩き潰されてしまったらしい。
それで。
不意打ちのようにそんな大木を振り下ろしたであろう者を見ようと後ろを振り返ると、幻覚でも見ているのかと思ってしまった。
それが、
自分達の後ろ、童磨からすれば目の前、優に自分達より倍の高さを誇る“
「おっと········?」
呆然とそんな声を漏らした童磨。
自分でも見たことがないものに、素直に驚いているようだった。
あれは一体なんだろうか?
その頭部はまるで妖怪の一つ目小僧のように顔の真ん中に大きな目が一つだけあり、その上には潰した廃材を固く縛り付けた木槌状の角がある。首には錆びついた武器を首飾りのようにして巻いて、こちらを捕食しようとしているのか豚のような鼻から噴き出す息を荒くし、猪のような牙の覗く口からも視認出来るほどに白い息が漏れている。
夜の闇に紛れるように黒い肌に包まれた全身は、一見肥満そうにも見えるがその図体は見た目通りでとんでもないほどの怪力の持ち主であることが窺える。
実際にそこらの木を引っこ抜いたわけだし、なんにしてもその姿はこの世のものとは思えない。
少なくとも警官はそう思っただろう。
人ではない化物を見て、恐怖したはずだ。
だから、
「う、うわァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!??」
その恐ろしい姿を見て恐慌の叫びを上げ、手に持っていた懐中電灯を落としても気にせずに急いでそこから逃げようと恐怖によって震えてしまっている頼りない足を懸命に動かす。
何度も転んだ、それでも逃げようと必死になる。
その姿を面白がったのだろうか、最初の標的をそんな逃げ腰の警官に決めたように、一つだけしかない眼球が後を追いかける。
その瞬間、恐ろしい速度で巨人の手が動いた。
あの大木を地面から引っこ抜くほどの怪力の持ち主なのだ、人なんて簡単に握る潰せそうなほどの巨大な手が警官を容赦無く鷲掴みにする。
「ごあッ!?」
あっさりと捕まった警官は、身体中の血を搾り取るように力強く握り締められる。
鮮血が飛び散る。
最終的に警官は意識が残っているうちに頭から牙に呑まれ、ガキゴキと固い音を鳴らしながら絶命した。
「おぉ〜」
童磨はただ見守っていた。
あまりの過激な光景を見ても童磨は特に何も感じず、強いて言うなら呆然してしまったくらいだった。童磨は警官の末路なんて興味は示さず、それよりも急に現れた巨人の方に注目していた。
一体どこから現れたのか。
あれだけの巨体を隠せる場所なんてなかったはずだ。どこからやって来たのか分からない巨人を見て、童磨は畳んだ扇を口許に当てて考えているが、結局は何も分からず思考を停止してしまっていた。
そこでようやく我に返った。
巨人がまだ足りないとでも言いたげにこちらの方を向き、汚い涎を垂らしてズシンズシンと重たい足音を鳴らしながら近付いてくる。
「おっと、ぼーっとしてる場合じゃないな」
などと呑気なことを言いながら扇を広げる。
今現在狙われているのは自分だというのに、彼は相変わらず笑っていた。その蠱惑的な笑みは男女関係なく魅了し、そして神だと崇めるほどに神秘的に見えた。
だが。
その奥にある本性、それを隠すためにある仮面の笑みは巨人には通じなかった。
その一つだけしかない眼球は、相手がどんなに美しく神秘的であろうと関係なく、とにかく捕食対象としか見ていない。
こちらとしてもそれで構わない。
どっちにしろ、お互いにそんなの関係ないのだから。
「グゥオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!」
特に合図はない。
巨人と教祖は互いに殺意に満ちた冷酷な目を向けると、極悪な笑顔と共に童磨はこう言った。
「今日は本当に良い夜だね、次から次へと楽しいことが起きる」
□■□■□■
夜は平等に訪れる。
だがそこはどこよりも静寂で、白い霧に包まれていた。
「時間がない、まずはお前の実力を見る」
そんな静まり返った空間で、少年が途端に動いた。
奇襲。
息一つ乱さず突進してくるその姿を見て、それでもリンクは特に焦ることはなかった。
「ッ!!」
足音一つ鳴らさずに右上から斬り込んでくる少年の木刀を、リンクも自ら一歩前に出て受け止めた。
それで。
少年の木刀を受け止めた武器は、
「なんだ、どういうつもりだ?」
「········ッ!!」
彼の木刀を受け止めたのは、左腰に差してあった日輪刀だった。
それを鞘から抜刀することなく、鞘ごと根刮ぎ引き抜いて木刀を受け止めてみせたのだ。日輪刀は普段使わないとはいえ何かあった時のために利き腕で扱えるように左の腰に差してあったものの、右手にはすでにマスターソードが握られていたから必然的に日輪刀を持つ手は左手で、しかも逆手となってしまった。
シーカー族のような隠密部族がよく使う戦術、狭い屋内や背後からの奇襲に対し素早く抜刀して相手の急所を制するための技術でなんとか攻撃を止められた。
相手は木刀だ、対してこちらは真剣。
リンクの優れた腕前ならば怪我をさせる心配はないのかもしれないが、今の彼はまだ病み上がりの状態。万全の状態ではないから、万が一手元が狂えば少年の怪我をさせてしまう。だから殺傷力のない鞘に収まった状態の日輪刀で対応したのだ。
しかし。
何故そんなことをしたのか、リンクの行動が少年には理解し難いらしい。
「一体どういうつもりだ? 俺にはその剣を使うに値しないとでも言いたいのか?」
「違う········ッ!!」
本来は次の一手として跳ね返す動作を行うはずだった少年は、リンクが予想外の行動をしたことに不満を抱いているのか、木刀と鞘に収まった日輪刀は衝突点に留まったまま小刻みに震えている。
二人とも譲らないとでも言いたげに力を篭める。
だがリンクの利き腕は右手。左手でも武器は扱えるが、長いこと右手を酷使していたせいで力があまり入らなかった。
その状態のリンクに少年はさらに身を乗り出すと、狐の面の奥から鋭い眼光を突き刺すようにして顔を近づけ、低い声で言った。
「まさか、お前もか?」
「何が········ッ!?」
「お前も“アイツ”と同じように、俺に怪我をさせることを恐れているのか?」
「ッ!!」
鋭い追求にリンクは目を見開いてしまった。
それはもう『その通り』と肯定したようなものだ。
舐めた真似をされて少年は憤っているのだろうか、木刀から伝わる力がさらに強くなった気がする。
しかし。
少年はしたたかな笑みを見せるように、
「それはそれは心配していただけてありがたいことだ!! だが心の底から安心しろ!! 俺は今のお前なんかよりずっと強い!! そう、未熟者となっているお前よりはなッ!!」
強がりにも聞こえるが、実際に彼の腕前は素晴らしいと言える。
もはや手加減は不要と判断したのだろう、リンクの受け止めていた日輪刀を跳ね上げるように木刀を振り上げると、短い気合と共に大剣でも振り回すように横に一閃してきた。
それでもリンクはマスターソードを使わない。
背中に戻す機会を失っているため右手に持ったまま戦うしかないが、そうなれば力が入りにくい左手一本で相手しなくてはならない。マスターソードを一度そこらに放り投げるという手段もあるにはある、しかしそれが出来ない理由が彼にはある。
このマスターソードは、“大事な御方”に一万年をかけて鍛え直してもらったものだ。それを無下に扱うなんて無礼にも程がある。
だからといって、素直にマスターソードを使えば少年に怪我をさせてしまう可能性がある。これはただの剣ではないのだ。神聖な力で満ちており、リンクの体力、精神状態が万全だった時には斬撃が放たれる。
少年は邪悪な存在じゃない、それは直感で分かった。
だからマスターソードで斬るわけにもいかない。これはあくまで魔物や邪な存在に対してのみに使うことが許される。
少年の心は正義で満ち溢れている、だから使えない。
なんて甘い考えを持っていることに察したのか、少年は木刀を振るにつれて厳しい声を響かせる。
「躊躇いは命取りになる!! 死はいつだって無慈悲で理不尽で不公平!! こちらの都合なんて一切考えてくれない!! そんなのはお前だって何度も味わっているから分かっているはずだ!!」
「ッ!!」
「だから俺はいつでも本気で稽古に取り組んだ!! いつ死んでもおかしくない厳しい訓練にも耐え、抗う術を身に付けられた!!」
彼の動きはまさしく水のように変幻自在、流れが読みにくかった。
慣性力と捻転力を全て乗せた振り、自身の体の中心からやや右に向けての軌道。僅かなタイミングを敢えてずらして右から攻める。なんてことのない普通の剣術なのに流れが早く、さらに狙いは正確だ。
全て受けているものの、いつものリンクならこういう攻撃は初見でも躱せるはずだった。
それが出来ないのは一体何故か、それを少年は指摘する。
「お前は甘い!!」
「ッ!!」
「こっちは命懸けで取り組んでいるのに、お前はなんだ!? いつまで躊躇っている!? それでも男なのか!?」
「くっ!!」
声を漏らし、鞘に収まった日輪刀を引こうとしたリンクに、少年は飛び上がってのし掛かるように体重をかけてきた。
片手では辛かった。
これでもなお躊躇うリンクに、少年は告げる。
「その甘さがお前を死へと誘った!! 忘れたのか!? 一人の隊士に裏切られたことを!? お前がいくら強くても、その甘さを見せて油断すれば負けるのは当然だ!!」
「········ッ!!」
「本気でやれ!! 男なら!! 男に生まれたなら!!」
「ハアアアアアアアアッッッ!!!!!」
彼が言うと同時、渾身の力で押し込んでくる少年に対しリンクは予想外の行動に出た。
左手の力が右手よりも弱いなら、相手の攻撃を利用する。少年の方が力が強いならその力に逆らわずにわざと押し込ませ、身を崩したところで地面を滑るように転がって彼の背後へと回り込んだ。少年の木刀がしたたかに地面へと落ちる。渾身の力があったからこそ、その反動は大きく地面にぶつかった瞬間に木刀はバキリッ!! という音を立てて盛大に折れた。
途端、ずっと勝負の行方を見守っていた少女が息を呑んだ。
次の彼の動きを見て、
転がりながら背後へと回ったリンクは起き上がると同時に地面を蹴って天高く飛び上がり、宙で身を翻しながら少年の背中へと一撃を浴びせる。逆さまになりながらも体勢は保ったまま、そして水平に僅かなブレも無く横に一閃したその技。
刃が抜かれていない日輪刀から赫い炎が燃え上がったように見えた。
そう。
リンクが夢の中で“骸骨の剣士”から受け継いだ、“ 漆ノ型 ”。
“ 斜陽転身 ”
日没間近の太陽が夜の訪れに抗うように夜明けを齎す剣技。
それを背中から受けた少年は、予想を遥かに超えた剣技に驚きを隠せなかった。リンクが刃を抜いていたら確実に上半身と下半身は泣き別れとなっていただろう。少年は背中を討ちつけられた衝撃でしばらく動けず、そのまま地面に倒れてしまっていた。
だが、それよりも。
痛みなんかよりも先に今の技を見て、少年と少女は共に全身の産毛が残らず逆立つような感覚に襲われた。
全身を駆け巡るものが何なのか、いやそれすらも意識しないままに、ただ一つの思考だけを繰り返す。
勝てる。
流石は───“
あの技をリンクが自分のものとすれば、鬼殺隊は確実に『鬼の始祖』を討ち倒せる。
しかし。
問題があった。
「ゴホッ!? ゲホッ!! ゲホッ!! ガッ········グッ!?」
まるで炎に包まれた場所で息をしてしまったせいで、煙を大量に吸い込んだ時のような苦しみに襲われているリンク。
息切れ、頭痛、眩暈、吐き気、意識の混濁。
たった一回の技を出しただけでこの有様だった。確かにこれではまだまだ未熟だと言わざるを得ない。
ここの周囲の酸素は薄くても、リンクは元の世界でさらに空気の薄い『空島』を歩き回ってきたはず。そこでも彼は問題なく酸素を充分に取り込んで動けていたのに、“始まりの呼吸”を使った途端に一気にダメになってしまう。
何より、技もまだまだ磨かれていない。優れた剣技であっても、リンクの息が続かないからぶつけた攻撃の威力もまだ中途半端の段階だ。実際、少年が受けた痛みはかなり早く薄れていく。もっと踏み込んでいれば鞘に収まった状態であっても骨に罅を入れるどころか、かなり遠くの方まで斬り飛ばすことだってできたはずだ。
呼吸を習得してないからまだ未完成。
それを全てを理解し、少年と少女の二人は自分達の役割を思い出す。
痛みによる痺れが次第におさまっていった少年は立ち上がり、リンクの方へと近付いていくと、膝をついているその姿を咎めるように厳しい声を浴びせる。
「剣技は素晴らしいが、それが今のお前に足りていないものだ」
「········ッ!?」
「技だけでは敵には勝てない········それを肝に銘じておけ」
息が乱れっぱなしの中、少年は厳しく指摘し、そんなリンクをいつの間にか近付いてきた少女が彼に肩を貸して起き上がらせると、
「でも大丈夫」
「え········?」
「私達が今からその技を充分に使えるように、“全集中の呼吸”を教えるから」
立ち上がらせた後、少女は少年の方へと歩いていき、その隣に立つ。
「基礎は身に付いてる、あとは息が長く続くようにするだけだよ」
そう少女は言うが、それがよく分からなかった。
だからリンクがどうすればいいのか訊ねたら、少女は純粋に笑って、結構単純で残酷なことをあっさりと告げた。
「死ぬほど鍛える、結局それしかできることはないと思うよ」
それを聞いたリンクは一瞬耳を疑ったが、それも束の間。
隣にいた少年がもっと残酷なことを言ってきた。
「しかし時間がない。お前には今から四日間、休む間もなくこの山に籠って稽古に励んでもらう」
時間が止まった。
そんな感覚に陥ってしまうくらい、少年の言ったことが受け入れられなかったのだ。
だからリンクの口から最初に出た言葉は、
「································はい?」
それからは時間の流れが早く感じた。
それほど、過酷な稽古をつけられた。
『ついてきて』と言われて二人の後を素直についていったら、そこで行われたのは文字通りの地獄の鍛錬。
空気が薄い中で舞い踊るように戦い、
戦い。
戦い。
戦い。
戦い。
昼夜問わずに少年と剣を合わせ。
一切眠らずに、起きている間はずっと剣を振り続けた。