『なんで分かってくれないんだよ!? 本当にあれは熊でも何でもない!! “鬼”だよ!! 鬼が“蔦子姉さん”を殺したんだ!!』
凄惨な光景を目にしてありのまま起きたことを伝えても、誰一人信じてくれなかった。
『俺は鬼殺隊になっていい人間じゃない·········この刀も隊服も相応しくない』
生きて帰って刀や隊服を支給されても、味わった感覚はとても空虚で後悔ばかり。
『選別で鬼を一体も倒してないのに·········なんで助けられてばかりの俺が柱に選ばれたんですか』
本部に呼ばれて何事かと思えばお館様直々に自分を柱に任命してきて、申し訳ないと思いながらもその役目は自分には務まらないと言ってしまった。
『なんで俺が生きてるんだ·········本当に生き残るべきだったのは“蔦子姉さん”と“錆兎”だ』
今はもう形見として二人が身につけていた着物を半分縫い合わせて羽織にし、自分の罪深さを忘れないようにそれを隊服の上に重ねているが、それがとても重く、辛かった。
最終的に。
自分の口から出てきたのは、決して口にしてはいけない言葉だった。
だってそれは。
二人の想いを無駄にしてしまう。
『俺が·········死ねば良かったんだ』
呪いの言葉だったんだから。
□■□■□■
「·········」
そんな過去の出来事を思い出しても息一つ乱れない。
屋敷と道場。
その二つを併せ持っている以上はここに住んでいる者はそれなりの大金持ちだと思う人もいるだろう。実際、彼は身分が高いため給料も高い。だからこんな豪邸のような場所に一人で住んでいる。
まだまだ柔らかい日の光が彼の黒い髪を輝かせ、その影を落とす。
彼は今集中しているのか目を閉じて腰を落とし、もう二時間近く同じ姿勢を保ったままだった。
凪のように微動だにせず静かに気持ちを安定させている。
流石は“現水柱”───冨岡義勇は一切気を乱さずに全神経を集中させている。
『ごめんくださーい!! 冨岡さーん!!』
「·········」
こんな声が飛んできても全く揺らがない。
何があっても瞑想を続けられるその精神力は誰もが息を呑むほどに美しいと思い、戦慄を禁じ得ない。
彼のその姿勢には一分の隙もなく、どの方向から打ち掛かってもその刃圏に入り込んだ瞬間に容赦無く返り討ちにされてしまうほどの圧を周囲に放っている。
『こんにちはー!! すみませーん!! 義勇さーん!! 俺ですー!! いらっしゃいますかー? 竈門炭治郎ですー!!』
「·········」
その声に応えることはない。
流石は柱。
どれだけ雑音を振り撒かれても完全に聞き流している。
『こんにちは〜!! じゃあ入りますー!!』
「·········?」
自分の耳がおかしくなったのか、そこでようやく冨岡の集中が途切れた。
一瞬、礼儀も弁えないような一言が飛んできたような気がして思わず目を開けてしまった。だがこの声、何より名前も言っていたことから外から声をかけているのは自分の弟弟子だろうが、彼はとても真面目な性格で礼儀正しい子だ。
だから許可もなしに人の敷地内に入り込むなんてことはしないだろう。
「·········」
よって、彼はただの聞き間違いだということで終わらせ、再び精神統一のための瞑想を始める。
目を閉じ、気持ちを落ち着かせていると不意に道場の入り口からガラガラと音が鳴る。
扉が開いた音だというのはわかった、しかし怪奇現象でも起きない限りは勝手に開くわけもない。それで片目を開けて一体どうしたのかと確認してみると、そこにはヒョコッと笑顔を浮かべて顔を出している炭治郎がいた。
「!?」
絶句、というよりも先に恐怖を覚えた。
断りもなく勝手に入り込み、それだけでなく問答無用で道場内にまで上がってきた。
不法侵入を躊躇なくやり、あの礼儀正しく超真面目で堅物な竈門炭治郎が道徳心を捨ててやってきたことに、冨岡は言葉を失っていた。
「·········っていう感じでみんなで稽古をしてるんですけど!!」
それでさらにはほぼ零距離にまで近付かれて戸惑う暇もなく話を始められてしまったせいか、内容の大半を聞き飛ばしてしまったが、最後の稽古という部分で一体何を話していたのか悟って彼は返す。
「知ってる」
「あ、知ってたんですね!! 良かった!! 俺、あと七日で復帰許可が出るから稽古つけてもらっていですか?」
本当、礼儀はどこに置いてきたのか。
もはやそれすらも忘れてしまっている炭治郎はそんなことを頼んできた。
それで冨岡は。
真顔のままこう返した。
「つけない」
「どうしてですか? じんわり怒っている匂いがするんですけど、何に怒ってるんですか?」
自覚さえもない。
怪我の後遺症で人格がおかしくなったのではないかと心配になる境地にまで達してしまいそうだった。
だが冨岡の憤りを感じている部分はそこではなかった。
「お前が水の呼吸を極めなかったことに怒っている。お前は········水柱にならなければならなかった」
炭治郎を鬼殺隊の道に導いたのは他の誰でもない、この冨岡義勇だ。
彼は水の呼吸の使い手であり、そしてその呼吸を教わった師の元に炭治郎を送り込んだのも彼。
そこまでは分かる。
しかし、
「それは申し訳なかったです。でも鱗滝さんとも話したんですけど、使っている呼吸を変えたり、新しい呼吸を派生させるのは珍しいことじゃないそうなので·········特に水の呼吸は技が基礎に沿ったものだから、派生した呼吸も多いって」
嘘をつけない性格だからこそ、ここまで入って来られたのだろう。その馬鹿正直さ、それ故に彼は少なからず申し訳なさを感じつつも素直に正論染みたことを言い返した。
人によって得手不得手はある。
だから彼は水の呼吸を土台にはしていたものの、本当の適性は別の呼吸であると分かったため、使っているうちに矯正して型を変えていった。
それを咎められても正直困る。
でも。
冨岡が責めたい部分はそういうことではないようだった。
「そんなことを言ってるんじゃない·········水柱が不在の今、一刻も早く誰かが水柱にならなければならない」
「水柱が·········不在?」
炭治郎は思わず唖然とする。
彼の言っていることの意味が全く分からなかったからだ。
「義勇さんがいるじゃないですか?」
そう素直に聞き返した。
誰であっても首を傾げるような言葉、しかし冨岡はその質問と疑問に対し、何も感じていないような無表情のままこう言った。
「俺は水柱じゃない」
「·········え?」
再び彼の口から出てきた言葉の意味が分からなかった。
柱である冨岡が、柱ではないと言った。
正式に認められ、鬼殺隊として皆を支えていく立場であるはずの者が自身の在り方について否定し、その真意を明かさぬまま彼は無言のまま立ち上がって、弟弟子である炭治郎に突き放す言葉を冷たく言い放った。
「帰れ」
それ以上は目も合わせてくれなかった。
一瞥さえもなく、ただ炭治郎の横を通り過ぎていく。
「·········」
炭治郎は兄弟子の義勇が去っていくのをただ見つめることしかできない。その場ですぐに何か言うべきだったのかもしれないが、彼の言葉の意味が分からなすぎて何を言っても逆効果になってしまう気がしたのだ。
しかし。
この程度のことで炭治郎は挫けない。
彼には大事な使命がある。
もう動けなくなってしまったお館様に託された、その優しい想い。
それを叶えることが炭治郎の、彼にしかできない任務。
送られてきた手紙には冨岡義勇に対するお館様の想いが綴られていたが、ただ彼と根気強く話をしてやってほしいとしか書かれていなかったので、つまりは代弁する言葉は炭治郎自身の口から言ってやって欲しいということだった。
とはいえ、竈門炭治郎はお館様のように言葉を口にするだけで人を納得させられるような力はない。
あの人の場合は一言二言だけで人の心を開かせられる。炭治郎がお館様と同じ言葉をそのまま言ったとしても、それは相手に響かない。だから産屋敷耀哉は自分の想いを敢えて手紙には書かなかったのだろう。手紙で自分の言いたい事を書いて炭治郎に代弁してもらっても、良くて渋々納得するくらいにしかならないと思う。
だから託した、彼に命を救われた竈門炭治郎に。
竈門兄妹を死刑から守り、もしも禰豆子が人を襲った場合は自分も腹を切って死ぬことを選んだ。
それだけの覚悟を持って二人を鬼殺隊から庇った冨岡を、ここで終わらせるわけにはいかない。
その恩返し、その機会を与えてくれたお館様の意思を無駄にせぬよう、炭治郎は耀哉の言葉を思い出して力強く頷いた。
「はい!!」
彼は諦めない。
お館様の言葉通り、無視されても突き放されても聞く耳を持たなくても。
根気強く。
彼と話をするまで毎日通う。
□■□■□■
『自分が死ねば良かったなんて二度と言うなよ。もし言ったらお前とはそれまでだ。友達をやめる』
同じ歳で天涯孤独の身。
だからその痛みはよく分かる。
『翌日に祝言を挙げるはずだったお前の姉もそんなことは承知の上で鬼からお前を隠して守っているんだ。他の誰でもないお前が·········お前の姉を冒涜するな』
だからこそ、彼は自身と同じような経験をした少年の頬を力強く打った。
自分自身の考えを改めさせるために。
『お前は絶対に死ぬんじゃない。姉が命を賭けて繋いでくれた命を、託された未来を』
□■□■□■
「·········随分と昔のことを思い出してしまったな」
二つに割れた大岩、その前に少年が立っていた。
彼はずっと仮面の奥で目を開けていた、頼まれたことを最後まで果たすために。それでずっと見張っていたのだが、いつの間にか視界は目の前にある光景を見ることを忘れてしまって、代わりに過去の記憶を見せてきていた。
何でこんな時に思い出してしまったのか、それはおそらく懐かしいと感じたからだ。
こんな風に誰かと剣を合わせたのは久しぶりで、同じ時期に弟子入りした“アイツ”のように自分を楽しませてくれた。
しかし、時間はない。
だから少年は、目の前で休む暇もなく戦い続け、弱音を吐くこともなく剣を振り続けている彼に、さらに厳しく言った。
「もう準備運動は充分だろう·········そろそろ掴め、リンク」
「あぁ········ッ!!」
力強く応えるリンク。
そのまま二人はまた打ち込み稽古を開始する。
ただ剣を合わせる、二人はこれをすでに三日も続けていた。
何故そうまで動けているのか、それは彼に“全集中の呼吸”を教えたからだ。
□■□■□■
意味も分からぬまま着いていって、そこでまず彼がやらされたのは、息をすること。
「呼吸とは何か、答えてみろ」
少年が折れた木刀を捨てながらリンクに問う。
そう言われてもリンクにはどう答えて良いのか分からない。しかし何も言わずにいるとまたさっきみたいにいきなり襲われそうなので、わずかばかりの知識を総動員して答えた。
「体内に酸素を取り入れ、力を作り出す過程で生じた不純物なものを体外に排出する生命維持に不可欠な働き、かな?」
「違う」
一瞬で否定された。
何も間違ったことは言っていないはずなのに、それでも首を横に振られてリンクは少々気分が沈んだ。
すると少年の代わりに、隣にいた少女がそんなリンクにこう言う。
「まずは姿勢を正して、気を楽にしてみて?」
少女は自分の真似をするようにとでも言いたげに上半身はゆったりと、下半身はどっしりと構えるように立つ。
それに倣ってリンクも彼女と同じ姿勢になる。
それを確認すると、少女は笑みを失くし、今までにないくらいに威厳を帯びた声で言う。
「貴方の言っていることは概ね正しいけど、“全集中の呼吸”はね、ただ息をするだけじゃ意味がないんだ。それを極めれば人間のまま、鬼のように強くなれるの」
少女は語る。
呼吸をするということは肺を酷使するということ。
口や鼻だけで空気を吸い込むだけなら誰でも出来る。問題はその先だ。例えば、人は過度な運動をすればそれだけ身体中の酸素を使用し、最終的には疲労と同時に呼吸困難に陥って動けなくなる。
動けなくなるのはその人の肺がまだ弱いからだ。
つまり、運動不足だ。
人によって体力が違うのは生まれ持った体の作りが違うのもあるが、ある程度はそれを増やすことができる。増やす方法で一番良いのは日々の鍛錬だろう、どんな人間も一日一◯分の散歩や朝夕五から一◯回の腹筋など、たったそれだけの小さな負荷から毎日継続するだけでも効果が現れる。
地道な努力。
それが一番の方法だ。
「·········」
そんな説明をされて、リンクは自分が答えたものとの違いが分からなかった。
そんなの常識だろうに、それが自分の持っている知識と一体何が違うというのか。
「それで、結局何の違いが?」
「目を閉じて?」
自分の認識の違いについて訊ねたリンクに対して少女は特に何かを語ることはなく、ただそう言うだけであった。
答える気もなくそう言われてリンクは思わず眉を顰めるが、一先ずは言われた通りに目を閉じる。
すぐに音だけの世界に引き込まれる。
風の音、虫の鳴き声、二人の抑えた息遣い。
「深呼吸して」
言われた通りに呼吸をした。
霧が濃い空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「·········」
鼓動が落ち着き、気持ちも穏やかになる。
今まで感じたことがないほどに、静かな心持ちだった。
そのせいか、自分がしているはずの呼吸がどこか遠くから聞こえてくる気がする。無論そんなことはあり得ない、感覚への集中がかなりのものとなっているためにそう感じるだけだ。
でも。
この風を切るような呼吸音、そこから何かを感じる。
誰かに身体中をくすぐられているような、奇妙な感覚だった。
いや、
これは。
(
気のせいなんかじゃない。
それは自分の体の中に流れている血から伝わる、自分自身のエネルギーだった。
こそばゆいほどに身体中を動き回っている血の流れが分かってからというもの、自分の欠点というか力が入りやすい箇所が掴めた気がする。
「それが“全集中の呼吸”だ」
リンクが何かを掴んだことに気付いた少年がそう教えてくれた。
「俺達は普段から無意識に呼吸をしているが、その本当の意味を知らない。呼吸に必要なのは空気だが、その空気とは万物の間を流れる力そのもの。それによってこの世界は成り立ち、俺達の命は繋ぎ止められている」
どんな神秘にも当てはまりそうなことを言うが、言われてみれば確かにそうだとも思える。
それを再度分からせるために、少年はリンクに近づいて彼の手のひらが下を向いて地面に触れるように手を添え、そのまま屈ませる。
リンクの左手が地面に付く。
霧が発生するほどこの山は湿度が高いので、その湿気もあってか手のひらから伝わる感触は冷たい。
「今は深呼吸して? それだけでいいの」
少女の声が耳に入ってくる。
とにかくリンクは言われた通りに深呼吸を繰り返した。ゆっくりと、だが確実に空気が体に入っては出ていく。吐く息と共に、分からないことや知りたいことが消えていき、穏やかな気持ちがさっきより深く染み込んでいく。
「目や耳だけじゃない、全身の全ての感覚を研ぎ澄ませ」
リンクは考えず、ただ身を委ねた。すうっと息を吸い込んで全身に気を巡らせ、体が大気と一心同体になる。
五感の全てが遠くへ伸びていき、これまで見えなかった小さなことに気が付く。世界が新しい姿を見せる。
真っ二つに割れた岩の湿り気を感じ、霧の中でも分かるほどに風景の匂いを嗅ぎ、周囲に吹く冷たい風を舌で味わい、野生の虫や動物達の恋の歌を聴く。
「視えるか?」
少年が訊ねた。
「今貴方は何を視てるのかな?」
少女が訊く。
「·········」
リンクは瞼の裏に様々なイメージが浮かんでは消えていった。ほっとするような見慣れた光景が浮かんだ。大気を通して、リンクの感覚に情報を伝える。
幻覚のように思えて、しかし色鮮やかなこれは、世界そのものだった。
そのうち、それを一体どうやって見ているのか分からなくなった。
唯一分かるのは、
周囲に漂う空気から見下ろす、
「“世界”」
香り豊かに咲き誇る花々の、
「“生と”」
同時に。
手をついている土から伝わる、埋められて忘れ去られた冷たい者達の、
「“死”」
そこから芽吹く新たな可能性の、
「“命”」
それを育むための空から降り注ぐ、
「“光”」
リンクは呼吸をするごとに繊細な情報を得る。
これが何を意味しているのか、理解するのに時間はそこまでかからなかった。
大気と一つになったせいか体の外に意識を広げて自分と周囲の森の光景をすっぽりと包み、現実のものとして経験しているように感じた。
だから分かったのだ、自分を取り巻くすべての生命の気配を。
自分自身を、他にもたくさん分かる。
花や草や低木、鳥、昆虫、そして目に見えないほど小さな生物。それらの全てが感覚に押しよせ、何か深くて強いものに引きずりこまれる感覚はかつてないほどに不思議に思えた。一瞬、自分は別の何かになってしまったのではないかと思ったが、そんなことは不可能だと悟った。
なぜなら、
自分も彼らと同じ生命の一部なのだから。
だから手のひらから伝わってくる地面の土の中からは死を感じた。死んだ者達の肉や植物は、この世界の過去の骨や枯れ枝を含む土壌となる。この新しい発見に怯んだが、すぐに気付いた。恐れることは何もない。生と死があるからこそ新しい命が生まれ、かつてそこにあった存在に培われるのだ。
世界を包み、生きとし生ける者達に捧げる暖かい光は、昼夜問わずに自分達を見守ってくれる。
それらの感覚が教えてくれるものは全て、ただの一瞬の出来事だ。
その瞬間は無数のうちの一つにすぎず、命が生まれる前に始まり死後も永遠に続く無限の廻りの一部である。その廻りはまた、もっと巨大な何かの一部だった。リンクの心では把握しきれないほど大きく、その広大さに比べれば世界や歴史もごく微細なものにすぎない。
今この時も新たな可能性が産声を上げ、いつかはこの境地に辿り着く。
それを理解したからこそ、視えた。
全ての感覚が研ぎ澄まされ、まるで内と外の境目などないかのように。
世界が。
“透き通って視える”。
「·········ッ!!」
そこで気付いた。
気付き、喜びに浸る暇もなく、世界がリンクの五感に押し寄せる。
初めてのことだったからか、それはとてつもなくリンクに苦痛を与えた。
眩しい、うるさい、臭い、不味い、痛い。
情報量が多すぎて全ての感覚が不快感を覚える。
落ち着くのは無理だった。
情報過多の影響から負荷が掛かって透き通っていた世界も一気に暗闇に染まり、周囲が見えなくなる。
「───!!」
誰かに呼ばれている気がする。
あの子達はどこだ?
近くにいたはずなのに、自分の血の流れさえも視覚化できたのに、さっきまでは世界そのものすら見えていたのに。
「落ち着け!! 呼吸が乱れているぞ!!」
「ッ!!」
リンクは過呼吸気味になっていた。それに気付くことも出来ずにずっと続けていたことで、これ以上はまずいと判断したのか少年が叩き起こすような声でリンクを呼んでいた。
「ハァ·········ハァ·········ッ!!」
ハッと気付くとリンクは大きく息を吸い込み、通常の呼吸へと戻す。
体を震わせた。
まるで深海のような暗い世界から引きずり出されたような気分だ。
少年が平手打ちを喰らわせた手を引っ込めるのが見えた。それに気付かないほどに集中していたということなのか、さっき深海にいたような気分だったと言ったが、そう思わせるようにリンクの髪から液体が滴り落ち、それがたまたま口に入ったら潮のようにしょっぱい味がした。
正確にはそれは自分の汗なのだが、極限状態にまで集中しすぎていたせいで彼の体が拒否反応を起こして悲鳴を上げていたのだ。
「大した才能·········いや、男だなお前は」
少年はそう言うと、くるりと背を向けた。称賛してくれたように思えたが、その背はどこか落胆しているようにも見える。
期待通りではあっても、自分が望んでいたような結果ではなかったのだろう。
少年はそれ以上言うことはなかったが、彼の言葉を少女が代わりに言ってくれた。
「ちょっと教えただけですぐに“全集中の呼吸”を会得したのは貴方が初めてだよ。こういう霧の中でも充分なほどに空気を取り込めてるし、あらゆる環境下でも普通に動けていたのを見ると、元々そういう素質があったんだと思う」
少女は周囲を見渡しながらそう言った。
確かに、この山は霧が濃い。さらには気圧が下がり空気が膨張して密度が低くなっているため酸素も薄かった。
『空島』にいた時よりも薄いように感じたが、さっき教えてもらったような呼吸をしたらかなりの酸素を体の中に取り込めた。これでもリンクは全力で走りさえしなければハイラル王国を何周でも出来るほどに体力には自信がある。
けど、と少女が言うと、
「貴方は集中の際は一つのことしか頭に入れていない。剣を振るのならそれだけに集中して、他のことは一切考えない。無意識のうちに自分の体力の使い所を分けてるんだと思う。だからさっきの呼吸では息が乱れた、集中している自分にとって必要じゃない情報まで取り込んでしまったから」
それを聞いたリンクは心当たりがあるように目を見開いた。
先程体力に自信はあると言ったが、全力で走ったり、力を溜めて最大の威力を広範囲に繰り出す回転斬りや、宙に浮いている間であれば精神が研ぎ澄まされて時間の流れがゆっくりになる時などでは、どういうわけかかなりの体力を持っていかれる。
少女の言う通り、リンクにとっての体力の使い方というのがあるのかもしれない。
普段戦う時はある程度しか体力を使わない、つまりは本気でない状態だ。そうすれば剣を一度振る際のロス体力が限りなくゼロに近い状態であり、代わりに大技を決める時は本気となる。その本気度によって彼は無意識に体力の使い方を変えている。
それがリンクの悪癖となっている。
言うなれば彼の場合は『一点集中型』なのだ。複数の作業を並行して行うのではなく、一度に一つの物事に没頭し、質や完成度を高める特性は並の相手ではそれに対応することはできないだろう。リンクほどの天賦の才に恵まれている者であれば、その程度の奴には通用する。
だがこれからの敵、生き残っている『上弦の鬼』含め、『鬼の始祖』相手にそれは通用しないだろう。
“全集中の呼吸”の適性はあっても、その悪癖がある以上は充分な力を引き出せない。
これを改善するため、再びリンクの方へと振り向いた少年は、まさしく鬼畜の所業の稽古をリンクに押し付けてきた。
「これから俺と寝る暇もなく戦ってもらう」
「え?」
さっきの戦いで折れたのとは別の武器、真剣をいつの間にかその手に持っていた少年は、その剣先をリンクに向けてそう言った。
その狐の面の奥では一体どのような表情をしているか分からないが、何となく真剣そうな顔をしていると思えた。いきなり言われて胸が強く締め付けられるような感覚があったが、それを乗り越えなければならないと少年が告げてきているような気がした。
「·········」
だからリンクは覚悟を決めた。
彼はそれに応えるように剣を中段やや担ぎ気味に構え、前傾姿勢で腰を落とす。明らかに突進系の上段攻撃の気配、それで勝負を仕掛けるという意思を示している。
つまり、剣で語り合おうという少年の意図を理解したということだ。
手取り足取りで教えられても身につかない、何度も手合わせをしてそこで掴み取れということなのかもしれないと思ったから彼は応じた。
「·········ふっ」
その姿勢を見た少年は狐の面の奥で悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
少年が静かに刀を構えてくる。
対してリンクも真剣、マスターソードで受けて立つつもりだった。
リンクは彼らに教えてもらった呼吸法を使用し、少年も静かに息をする。
そして、
「「ッ!!」」
二人の姿が同時に消えた。
二人が先程までいた場所からは地面に埋めた爆弾が起爆したかのように砂が飛び散り、次の瞬間には彼らは剣をぶつけ合っていた。
もう言葉はいらないな、とでも言いたげに。
二人は何度も剣で語り合う。
□■□■□■
それからというもの、彼らは舞い踊るように戦い続けた。
不思議だった。
これだけ動いても、疲れというものを感じない。日没から夜明けまで、ずっとずっと、何百どころか何万回剣を振るっても、息切れ一つしなかった。
もはやそれは打ち込み稽古というより、純粋に子供達が遊んでいる光景のようにも見える。純粋無垢な子供は無限の体力があるように見え、そしてどんな時でも楽しそうに動いている。二人は確かに剣を合わせているが、笑い合って剣を振るうその姿はちっとも苦しそうではなく、むしろもっと遊びたいと訴えているようだった。
リンクは息を吸い込むたびに全身に体力が漲り、大気と自分が一つになって世界が広がっているように思えた。
森に霧、空気といった自然と自分が連動したら意識と世界の境界がなくなったようで、一体感が増して楽しく思えた。
気持ちの良い空気、それを真の意味で感じたのはこれが初めてだった。
生命を感じる。
息吹を感じる。
ずっと化物ばかり相手にしていたから、人と人とでの剣を交わすことが久しぶりすぎてこの時間がとてつもなく心地良く感じられた。
少年と少女に教えてもらった、落ち着いた呼吸をするたびに世界が広がる。
深い息をすれば体の隅々まで熱が行き渡り、しかし心は水のように静かだった。
何より耳は冴え、目は澄み切って、全てがくっきりと視える。
だから、
「そこだ!! 打ち込め!!」
「シェアアアアアアアアッッッ!!!」
少年の叫びにリンクは咄嗟に反応した。
二人の距離が相対的に凄まじい速度で縮んでいく。だが同時にリンクの知覚も加速され、徐々に時間の流れが緩くなるような感覚を味わう。世界と一体化していることによって生まれたものなのか、それともリンクがいつものように集中力が極限に達していたからなのか、それすらも曖昧に感じた。
ただ、分かるのは。
リンクの目には少年が剣技を繰り出す際の全身の動きがはっきりと見て取れる。大きく後ろに振りかぶられた刀がリンクに迫る。それはもはや必殺と呼べる威力を孕んでおり、つまり少年はリンクに躊躇をさせないように武器を振るってきて、よってリンクも背水の陣の覚悟で剣を振るう。
先を取り、一瞬早く動き出したリンクはどこから打ち込まれても対応できる技を繰り出した。
それはあの“骸骨の剣士”から受け継いだ技ではなく、リンクが最も得意とする大技だった。
全方向への水平斬り。
すなわち、“回転斬り”。
リンクの退魔の剣は綺麗な軌道を描き、
だからか。
生命が漲っている彼の剣からは、美しい太陽の光が差す蒼空を連想させる強い光の帯を引きながら、まだ振り途中で攻撃が当たる直前の少年の刀の横腹に命中した。
凄まじい火花が散る。
同時に少年の刀がリンクの振りの威力に負けて折れてしまう。
だけじゃない。
カラン、と。
そんな軽い音がしたと思ったら、ずっと隠されていた少年の顔がついに明らかになる。少年の顔はまだ幼く、右の口から耳にまで広がっている傷跡があった。
果たして───耳をつんざくような金属音が周囲に響き渡り、折られた刀の半身が凄まじい勢いで回転して上空へと打ち上げられたかと思うと、リンクの背後、二人の戦いをずっと見守っていた少女の足元の地面に突き刺さった。
「········」
「········」
沈黙がその場を覆った。
リンクは回転斬りを決めてもその姿勢を崩さず、ずっと自分と剣を合わせてくれていた彼の顔を見る。その顔はとても穏やかで、泣きそうな、嬉しそうな、しかしどこまでも落ち着いて心安らぐ優しい笑顔。
折れた刀を右手に下げたまま、彼は闘気を失くしたようにそこに立っていた。
それでも変わらずリンクは姿勢を崩さない、いや崩せなかった。
何故なら、
「この感触········
何かに気付いたようにリンクは愕然とした。
いや、元々気付いていた。
それが確信に変わって、それでも信じられなかったのだ。
刀や少年の仮面を斬った際の感触は退魔の剣を通して伝わってきた。それだけじゃない、周囲の木や草まで根刮ぎ抉り取ったことを証明するように、全方向から不気味な軋み声を発しているのも聞こえてきていた。
回転斬りは、広範囲にいる敵に当てる技だ。
つまりリンクがやったことは、戦っていた少年だけでなく離れたところで見守っていた少女にまで攻撃を当ててしまう行為だった。
それなのに。
それはつまり。
「リンク」
そばで見守っていた少女がそんなリンクに近づいて、名を呼びながら開いた口が塞がらない状態となってしまっている彼の口元に彼女の細い指がつんと触れる。
まるで。
彼にそれ以上は言わせないように。
「よくやったね、今のを忘れないで」
周囲の霧がさらに濃くなる。
少年と少女の顔も見えなくなっていく。二人はそのまま並ぶように立ち、霧に呑み込まれるようにその姿を消していく。
その際。
少年はリンクに何らかの価値を見出したのか、その力強い声だけが響いてくる。
「現水柱の元へ向かえ───
リンクはその声を黙って聞いていた。
その言葉にはどういう意図があるのか分からなかったが、リンクのやるべきことを思い出させるような意味合いが籠められているような気がした。
そして、そのまま。
二人の気配はどんどん小さくなり、霧の中へと溶けていった。
だが最後に聞いたこの声は幻聴ではない気がする。
だって、
「··············ッ!!」
霧が晴れて目にしたもの。
リンクは周囲のものをほとんど斬ったという実感はあった。
しかし。
“あんなもの”まで斬っていたという自覚はなかった。
目の前の光景が信じられなくて、息をすることすら忘れてしまっていた。
ゴゴゴッゴ、と。
大きすぎる自重に耐えきれず、不気味な振動音を発しながら。
ゆっくり、ゆっくりと。
重力に屈して横へと流れていくその光景を、リンクはただ眺めることしかできなかった。