鬼滅の伝説   作:織姫ミグル

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第十二章

 

 

「本当にもう行かれるのですか? ついさっきこちらに到着されたばかりではありませんか」

 

 

藤の花の家紋の家の者が、天狗の面をつけた老人の背中に困惑と気遣いの混ざった声をかける。

 

真夜中を何度も過ごして険しい山道を駆け抜けてきたはずの鱗滝左近次は、出された茶に口をつけることすらなくただ静かに首を振った。

 

 

「お気持ちだけいただいておく。しかし今は家に残してきた者が心配なのだ。早急に戻らねばならんので、もう発たせてもらう」

 

 

それだけを言い残すと鱗滝は懐から一通の書状を取り出し、準備運動のように漆黒の翼を震わせている鎹鴉の脚へとしっかりと括り付けた。

 

書状に記されているのは、“上弦の鬼との遭遇”。

 

そしてそんな鬼と遭遇して生き延びたあの外人の青年、“リンクの安否”。

 

だがそれだけではない。

 

鱗滝の手によって嘘偽りなく書かれたその報告にはもう一つ、鬼殺隊にとってはその根幹を揺るがしかねない最悪の凶報が記されていた。

 

 

“鬼殺隊の剣士が、鬼へと堕ちた”

 

 

リンクに同行していたはずの若き剣士が敵を前にして刀を置き、無防備だったリンクの後ろを取ってそこを日輪刀で刺されたという話だったが、鬼となった直後にすぐ裏切り行為を見せるとは。

 

全集中の呼吸を極め、鬼を滅することを誓ったはずの人間が異形の化物に魂を売ったという事実の重さは、鱗滝にとっても胸を鋭く抉る話だった。

 

これが後に、

 

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さらにあの青年が刃を交え、その隊士を鬼へと変えたという六つの瞳を持つ鬼─────“黒死牟”の名。

 

 

これもまた、鬼殺隊の総本山たる産屋敷家にとっては筆舌に尽くしがたい激震をもたらす話であった。

 

その話を知っている者はごく僅かで、当時の産屋敷一族によって語り継ぐことを意図的に封じたのが、今から約四◯◯年も前の話。当時の産屋敷家当主がその鬼の手によって惨殺されて以来、産屋敷一族はその存在を忌むべき『負の遺産』として、全ての情報や記録を意図的に歴史の闇へと葬り去っていたのだ。

 

鬼殺隊の裏切り者と、歴史から消された古の亡霊。

 

鱗滝の腕から鴉が夜空へ飛び立ち、その恐るべき二つの報せが産屋敷家の元へと届くには、早くとも一日の猶予を要する。鬼殺隊を統べる長があまりにも重すぎる過去と対峙するまでには、まだ少しの時間が残されていた。

 

しかし今の鱗滝にとって、組織の歴史や世界の命運などは二の次であった。

 

 

「では」

 

「はい、どうかお気をつけて」

 

 

鴉の姿が夜の深淵へと消え去るのを見届けたその瞬間、鱗滝は切り火を受ける間もなく藤の花の家紋の家を後にし、草履の底で静かに地を蹴った。

 

とにかく彼の頭にあるのは、狭霧山の小屋にたった一人残してきたあの異国の青年のことだけだった。

 

内臓全てを抉るような致命傷を負い、死の淵を彷徨っていた肉体。不思議なことに飯を食うことで回復していたとはいえ、普通の人間ならまともに寝返りすら打てぬはずの重傷を負ったのは事実。つまりは完全には元には戻っていない状態だ。

 

そんな中でもし、自分が留守の間に新たな鬼に襲われでもしたらと思うと·······。

 

育手としての、そして一人の人間としての強烈な胸騒ぎと焦燥感が、鱗滝の背中を冷たく、激しく突き動かす。

 

───戻らねばならぬ、一刻も早く。

 

全集中の呼吸を深く絶え間なく体内に巡らせ、全神経を走ることに集中させた。普通の一武道家であれば往復に丸四日は要する気の遠くなるような山道を、己の限界を削り落とすかのような超人的な速度で駆け戻り始めた。

 

足音一つなく、けれど老人とは思えない速度を保ったまま駆けていく。

 

夜の帳が降りたままの暗闇の世界を、鱗滝は一筋の青い疾風となって突き進む。

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

民家もほとんどない道からやがて、鬱蒼と生い茂る原生林へと足を踏み入れても、その歩度が衰えることは決してなかった。

 

闇に隠れた木の根を、突き出た岩肌を。

 

天狗の面の奥にある瞳と並外れた嗅覚、そして水流の如き滑らかな身のこなしで瞬時に見極め、跳躍し、躱していく。

 

地を蹴るたびに周囲の夜景がもの凄い速度で後方へと置き去りにされていった。

 

夜が更け、冷気が大気を支配し、やがて東の地平線が仄白く染まり始める頃、鱗滝は狭霧山のある地域へと差し掛かっていた。

 

常に濃密な霧が立ち込める険山。

 

仕掛けられた過酷な罠の数々。

 

常人であれば一歩足を踏み入れるだけで呼吸困難に陥る希薄な大気。

 

だがそれらをものともせず、鱗滝は狭霧山の冷え切った大気を全て取り込み、肺の隅々にまで呼び込んだ。

 

往復でもおよそ四日、どれだけ急いだとしても最低三日は掛かる距離を不眠不休で走り続けてきた肉体の疲弊を強制的に調律し、同時に青年の身に異変が起きていないか、その鋭敏な嗅覚をさらに鋭く研ぎ澄ます。

 

 

「······ん?」

 

 

その瞬間、何かがおかしいことを悟った。

 

山を登るにつれ、鱗滝の優れた嗅覚がいつもとは違う『空気の乱れ』を捉え始める。

 

狭霧山の霧は本来静かに漂うものだ。

 

しかし今、山の上層から流れてくる空気はまるで巨大な渦に巻き込まれたかのように妙に引き締まり、激しく掻き回されている。

 

怪我人が一人眠っているだけの山のはずなのに、上空に漂う大気の密度がまるで神域に近付くかのように重く、厳かに変化しているのだ。鱗滝がその異質な気配に足の筋肉を一段と強張らせ、最後の急斜面へと差し掛かった、まさにその瞬間だった。

 

 

ズウゥゥゥンッ!!

 

 

突如としてこの大地を支える地面そのものが、悲鳴を上げるように激しく鳴動した。

 

 

「······ッ!?」

 

 

いつもとは違う山の雰囲気と今の異様な振動、明らかに偶然とは思えなかった。

 

足元の地面の土が跳ね、山全体が一度歪むように大きく震える。

 

これは地鳴りでもなければ、落盤の類でもない。

 

それは超質量に圧縮された極大の一撃が、大地の芯を正確に叩き割った時にしか生じ得ない、特有の『震え』そのものだった。

 

育手としてその体に刻み込まれた警戒と恐怖の記憶が、一瞬にして脳裏を支配する。

 

───襲撃か。

 

彼から聞いていたあの六つの瞳を持つ異形の鬼がリンクの命を狙ってこの狭霧山まで追ってきたのではないか。

 

その最悪の仮定が頭を過った瞬間、鱗滝の全身の血が凍りついた。まともに動けぬはずの青年がそんな化物と再び相対しているのだとすれば、一刻の猶予もない。

 

 

「ッ!!」

 

 

鱗滝は飛沫を上げるような猛烈な速度で、山の中へと飛び込んだ。

 

今まで静かだった足音が一変、焦燥に駆られていた。

 

視界を遮る濃い霧の白濁の帳を、元水柱の驚異的な動体視力で切り裂きながら道なき道を弾丸の如く突き進む。地を蹴るたびに周囲の空気が狂風となって背後に消え去り、仕掛けられた修行用の罠の縄が足元で虚しく躱されていく。

 

目指すは山の中で最も空気の流れが異質となっている、あの因縁の場所。

 

彼の鼻腔を焼き焦がすのは、空間そのものが摩擦で爆ぜたような鋭い匂い。そして大気そのものが水平に切り開かれ、真空の溝が生まれたかのような、感じたこともない気配が山を駆け抜けていく。

 

戦慄の汗が頬を伝う。

 

木々を毟り取るようにして、ようやくその開けた場所へと躍り出た。

 

そこには、

 

 

「ッ!?」

 

 

すると鱗滝の身体が、その場のあまりの光景を前にして、思わず足が地面に縫い付けられたようにピタリと硬直した。

 

そこには鬼の姿などどこにもなかった。

 

静まり返った空間。

 

立ち籠める白煙の向こうで鱗滝の眼球を射抜いたのは、言葉を失うほどの常軌を逸した光景だった。

 

なんなら幻覚を見たような気がする。

 

 

───竈門炭治郎。

 

 

もう二度と自分の弟子は死なせないと誓って己にとって『最後の弟子』となるはずだったあの真っ直ぐな少年。彼が二年の間、血を吐き、涙を流し、それでもと刀を振り続け、ようやくの思いで自身の覚悟を持った一撃の刃によって叩き割った、あの因縁の大岩。

 

それが今。

 

滑らかな断面を晒しながら、上の半分をごうごうと音を立てて。

 

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「馬鹿な······ッ!?」

 

 

鱗滝の喉から掠れた声が漏れ出た。

 

この大岩はかつて、鱗滝が『この岩を斬れたら最終選別に行くことを許す』と無理難題を突きつけた、途方もない試練の壁の証だった。

 

あの時でさえ、人間の域を超えた奇跡だと確信した。

 

だが、今目の前で起きていることは、その奇跡すらも容易く超越していた。

 

あの時炭治郎は上から下へと叩き斬る、重力に従った水流の如き一撃で岩を割った。

 

それが刀の常道だ。

 

横の力には弱く、縦の力には強い。刃の向きと振る時の込める力を真っ直ぐ乗せることで、刀は破損することなく相手を斬ることができる。

 

しかし目の前の大岩は、重力に逆らうように『真横』に、ただの一筋の狂いもなく両断されている。

 

刀の刃渡りを遥かに超える巨大な質量を、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

そして。

 

凄まじい質量が硬い地面を削り、周囲の霧を巻き上げる凄絶な轟音の渦の中心に、

 

あの外人の青年───リンクが佇んでいた。

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

リンクは剣を水平に振り抜いた。

 

完璧な円を描く『回転斬り』の姿勢のまま、時間を止められたかのように微動だにせず固まっていた。

 

数日前まで死の淵を彷徨っていたはずのその五体からは、今や陽炎のように濃密で圧倒的な“生命の息吹”が、周囲の空間を歪めるほどに立ち上っている。

 

規則正しく、しかし地響きのように深く繰り返される呼吸。

 

身体の隅々の細胞にまで爆発的な酸素が行き渡り、内なる活力と外なる自然の境界が完全に消失している。

 

それは紛れもない───“全集中の呼吸”

 

 

「············」

 

 

岩を斬ったことをようやく自覚したのか、リンクは姿勢を崩し、己の右手に持つ剣をずっと見つめていた。

 

退魔の剣といえど、岩を斬り裂く力は備わっていない。鉱床を叩くことはできても、いずれは刃毀れして、しばらくの間は力を取り戻すための眠りにつく。

 

けれど。

 

退魔の剣のその刃を見ると、一切の傷を負った様子はなかった。

 

それだけリンクの剣筋が素晴らしかったということなのか、だとしても岩を丸ごと斬るなんて、あのイワロックでさえも頭の弱点を叩かないと倒せなかったのに。

 

自分がこれをやったことを未だに信じられないリンクは、四つに斬り裂かれた大岩を見つめていると、

 

 

「馬鹿な······ッ!?」

 

「!!」

 

 

近くで息を呑むような声が聞こえた。

 

リンクの集中力はいつの間にか途切れ、そこにいることを感じ取れていなかった。

 

しかし、いつの間にか背後にいた鱗滝はそれどころではない。

 

育手である鱗滝はこの青年にまだ呼吸のこの字すら教えていない。それどころか、まだまともに立ち上がるなと釘を刺したはずだった。

 

何故まだこの国に足を踏み入れ、そして鬼殺隊に特例で入隊してからそこまで経っていない異国の青年が、鬼殺隊にとって極みの存在である“全集中の呼吸”を完全に己の物とし、あの炭治郎でさえも命を懸けてようやく超えられた壁の大岩を、こんな異質な形で成し遂げてしまっているのか。

 

本来縦に割れていた大岩は、横に新たに亀裂を入れられたことで四つに分割されていた。

 

よく見たらそれだけではない。

 

周囲、近くにある大木の何本かもまとめて斬られていた。

 

 

「······ッ!?」

 

 

あり得ない。

 

怪異を見た。

 

現状について何も理解できずにいる鱗滝の背筋を、かつてない戦慄が駆け抜ける。

 

 

「あ······えっと」

 

 

青年の何とも言えない声音が、静寂の満ちる空間に染み込んでいく。

 

 

「··················」

 

 

その言葉の直後、鱗滝は何も言わなかった。

 

天狗の面の奥にある瞳は微動だにせず、ただ張り詰めた空気を切り裂くように一歩、また一歩と、リンクに向けてゆっくりと歩みを進めた。

 

ジャリ、と。

 

草履の底の硬い土を踏み締める音が奇妙なほどに大きく鳴り響く。元水柱の身体から自然と漏れ出る無言の威圧感は、周囲の空気さえも圧し潰さんばかりに重い。だがリンクの瞳に宿る邪気のない光と、鬼のような下劣な気配など微塵も感じさせないその清廉な佇まいを確かめると、鱗滝は抜けかけていた意識から静かに彼が斬ったであろう大岩へと眼を向ける。

 

鱗滝はリンクのすぐ横を無言で通り過ぎ、崩れ落ちた巨岩の前へと歩み寄った。

 

鱗滝は新たに加えられたその鏡のように滑らかな横一線の断面に向けて、ゴツゴツとした大きな掌をそっと這わせた。

 

未だ微かに熱を帯びた断面。

 

刀の刃渡りを遥かに超える巨大な質量を、まるで最初からそこには何も無かったかのように空間ごと斬り開いている未知の剣筋。

 

天狗の面の奥で、鱗滝は再び深く息を詰まらせた。

 

岩から手を離し、ゆっくりと振り返る。

 

彼の未だに衰えていない剣士の鋭い鼻が、じっとリンクの全身から漂う異質な気配を捉えた。

 

───匂いが、変わっている。

 

数日前、瀕死の状態でこの山へと倒れていた時の不快な死臭は微塵もなく、今のリンクから溢れているのは圧倒的なまでの“生命の息吹”だった。

 

山どころか空間そのものと完全に一体化したかのように澄み切った、その息吹。

 

鱗滝は天狗の面をリンクへと真っ直ぐに向け、地を這うような重厚な声でついにその口を開いた。

 

 

「お前、儂が留守にしている間に何があった? それにその“呼吸”は、その人知を超えた技は··········一体どこで身に付けた?」

 

「···············」

 

 

鱗滝がそう訊ねてくるのにも無理はないことだった。

 

およそ病み上がりの人間が成せる業ではないのだから。

 

しかしそう問われたリンクは、匿われた恩を返すように嘘偽りなく、穏やかな声音でこう言った。

 

 

「······ここに、“二人の子供”がいたんです」

 

 

リンクは静かに退魔の剣を持つ手を下へと降ろす。

 

 

「一人は、“右の頬に深い傷がある狐の面をつけた男の子”。もう一人はとても優しくて、“花柄の着物を着た女の子”でした。二人とも最後まで名前は教えてくれませんでしたが、留守を任されている間ずっとそばにいてくれて、自然と一体になる呼吸を·············“全集中の呼吸”の全てを、三日三晩ずっと俺に叩き込んでくれたんです」

 

「な·········に、を·········っ!?」

 

 

リンクが一体何を言っているのか、鱗滝は自分の耳を疑った。

 

彼の口から出てきた、謎の二人の特徴。

 

それを聞いた瞬間に鱗滝の喉から押し潰されたような声が漏れた。

 

覚えのある特徴だったのだ。

 

狐の面、右頬の傷の男の子。

 

花柄の着物を着た女の子。

 

それはかつて最終選別へと送り出し、そして二度と帰ってくることのなかった、我が子同然の“弟子達”の特徴そのものだった。

 

信じられない、そんな感情を自分の卓越した嗅覚が打ち砕く。

 

リンクの全身から立ち上る生命の匂いの奥に、ほんの微かに、かつて毎日汗水垂らしてずっと剣を振り続けてくれたあの子達の残り香を、確かに捉えたのだ。

 

そして鱗滝の脳裏に、

 

 

『もう一つの記憶』が───激震となって蘇る。

 

 

随分前、この山から選別のために旅立っていった最後の弟子である竈門炭治郎が別れ際に放ったあの言葉。

 

『“錆兎”と“真菰”によろしく!』

 

あの時は、何故死んだあの子達の名を知っているのかと一人で驚愕するしかなかった。

 

だが今、全てが繋がった。

 

炭治郎があの岩を斬れた本当の理由が、そしてあの言葉が、紛れもない真実であったのだと。

 

あの子達は、本当にこの山にいた。

 

死してなお留まり続け、炭治郎を助け、そして今度は死の淵にあったこの異国の青年をも救い、導いてくれたのだ。

 

 

「············そうか」

 

 

鱗滝の肩が微かに震えた。

 

仮面の奥、その瞳から静かに雫が伝い落ちていた。

 

 

「あの子達が、お前を選んだのだな······リンク」

 

 

気持ちを切り替えるように息をすると、鱗滝はリンクにこう訊いた。

 

 

「その子達は············別れ際に何か言い残していなかったか?」

 

 

それは何かを期待しているような声色だった。

 

何か伝え忘れたこと、そして選別へと送り出してしまった自分をどう思っているのか、ずっと気になっていたことをリンクに何か言い残していないかと期待しているような雰囲気にも見えた。

 

リンクは嘘偽りなく。

 

彼らが言い残した言葉を伝えた。

 

 

「“現水柱の元へ向かえ”············そう言われました」

 

 

リンクの声が響いた瞬間、鱗滝は再び深く息を詰まらせた。

 

 

現水柱───冨岡義勇。

 

 

錆兎の形見である着物を今も背負い、孤独な闇の中に蹲っているもう一人の愛弟子。

 

もうこの世に存在しないあの子には、直接義勇の元へ行ってやることはできない。

 

だからこそ、自分が認めたこのリンクという青年に、義勇の凍りついた心を救うための光を繋ぎ託したのではないか。

 

 

「············そうか」

 

 

そう思えたからこそ、鱗滝はそれ以上は何も聞かなかった。

 

剣士だった頃と変わらぬ息をゆっくりと吐き出すと、鱗滝は再び希望に満ちた瞳で彼にこう言った。

 

 

「支度をしろ、リンク。その子の言う通り───現水柱の元へと今すぐに向かえ」

 

「··········」

 

 

リンクはその手に握る退魔の剣を弄ぶように左右に振ると、その刃先を回しながら背中の鞘へと戻した。

 

全身に満ち溢れる全集中の呼吸による息吹を感じながら、自らの行く先に待ち受ける新たな運命に向けて。

 

リンクは鱗滝を見つめ返し、静かに、そして力強く頷いた。

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

狭霧山を包む朝靄が、東から差し込む陽光に白く透き通る、静かな朝だった。

 

山小屋の前に、二人の影が並んで立っている。

 

リンクの手には鱗滝から受け取った現水柱の元へと続く案内の地図、そして肩から胸を横切るように斜めに掛けた袋には旅路の食糧が分け与えられていた。

 

数日前まで死の淵にいたとは思えないほど、青年の佇まいは全集中の呼吸によって清廉な生命力に満ち溢れている。

 

 

「元気でな、リンク。お前が初任務で負傷してここで眠っている間にも、すでにあちこちで『柱稽古』が始まっていると聞いている。お前もまた近いうちにその渦中へ身を投じることになると思うが、決して無理はせぬように」

 

 

天狗の面越しに、どこか不器用な、しかし確かな慈愛を帯びた鱗滝の声がかけられた。

 

しかし。

 

その言葉を聞いたリンクは、手元の地図を見たまま動きを止め、不思議そうにパチパチと瞬きをした。

 

 

「はしら··········げいこ··········?」

 

 

リンクは案内の地図を握ったまま、こてんと小さな子供のように首を傾げた。

 

彼はすぐに初任務へと向かわされたため、そんな話一つも聞かされていなかった。

 

あんな強大な絶技を放った剣士とは思えぬほど素朴で無垢な反応に、鱗滝は仮面の奥でほんの微かに、しかし愛おしむように声を綻ばせた。

 

 

「鬼殺隊の最高位である“柱達”が、全隊士を一から鍛え直す特別な合同稽古だ。お前がこれから向かう現水柱である“冨岡義勇”という男も、その稽古の場を設けているはずだ。まぁ、お前ほどの腕があれば心配はないと思うがな」

 

 

それを聞いたリンクは感嘆したような表情を浮かべている。

 

リンクは以前に産屋敷の屋敷で柱の一人と戦ったが、彼でも思わず驚いてしまうほどに剣の腕に優れた者達があそこに集まっていた。

 

そんな彼らが自ら指導してくれているというその話を聞いたリンクは、改めて覚悟を決めたように深く頷いた。

 

 

「はい、ありがとうございます。では、行きます」

 

「··········ちょっといいか?」

 

「?」

 

 

リンクが鱗滝に別れを告げて歩き出そうとした、その時だった。

 

鱗滝が静かに手を伸ばし、青年の前に一歩、歩み寄った。

 

それはかつて、最後の弟子となるであろう竈門炭治郎がこの山から初任務へと旅立つその間際、鱗滝が彼の隊服を優しく正してやったあの瞬間と全く同じ動きだった。

 

鱗滝の手が、リンクが身に纏う蒼い上衣へと伸びる。リンクが黒死牟との死闘の最中、同行していた少年の裏切りによって深手を負った際に破れ、夥しい血によって汚れてしまっていた、彼にとって大切な『新式・英傑の服』であった。

 

鱗滝は彼が眠り続けている間にその異国の衣服を己の大きな掌で丁寧に洗い、血を全て抜き、一針一針手作業で修繕してくれていたのだ。

 

彼が目を覚ました際に返却した色鮮やかな蒼い布地についた微かな皺を、鱗滝は愛おしむように大きな手首で撫でて伸ばす。

 

そして、

 

彼の勇者の象徴たる退魔の剣······マスターソードをその背へと背負うための年季の入った革製の肩掛けベルトに目を留めた。

 

わずかに緩んでいたその留め具を、鱗滝は戦いの中で決して刃がブレぬようにと、グッと力を込めて確実に締め直してやった。服を整え終えると、鱗滝は青年の両肩にその分厚い掌を置き、ポン、ポンと優しく、そして確かな重みを持って叩いた。

 

その手の温もりには、言葉以上の重責と願いが込められていた。

 

今まで、この狭霧山から何人もの愛しい弟子達を送り出してきた。そのたびに、『必ず生きて戻れ』と願い、衣服を正してやった。だがそのほとんどが最終選別で鬼の手にかかり、二度とこの山へ戻ってくることはなかった。

 

炭治郎という奇跡が生まれるまで、鱗滝の心は千々に乱れ続けていたのだ。

 

もう子供が死ぬのを見たくなかった。

 

だからこそ。

 

死んだ我が子達の魂に選ばれたこの青年にも、絶対に生きていてほしい。

 

その切実な祈りが、叩かれた両肩からリンクの全身へと伝わっていく。

 

 

「··········」

 

 

リンクはもう一度、鱗滝の天狗の面を真っ直ぐに見つめ返した。

 

二人は言葉に頼らず、剣士として、あるいはわずかであっても共に時間を過ごした家族として。

 

深く、無言のまま頷き合った。

 

リンクが反転し、朝靄が立ち籠める山を降りる道へと静かに歩を進めていく。

 

 

「··········」

 

 

鱗滝左近次は小屋の前に立ち尽くしたまま、その逞しい背中が霧の向こうへと小さく消えていくのを、いつまでも静かに見守り続けていた。

 

まるで。

 

かつて送り出した全ての愛弟子達の門出を、その背中に重ね合わせるかのように。

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

狭霧山を後にしたリンクは、日本のどこか鄙びた、そしてとても穏やかな田園風景の広がる道を一人ずっと黙々と歩み進めていた。

 

青々と広がる水田、風にそよぐ木造の長屋、見守るように佇む山々。

 

しかし、

 

歩みを進める青年の胸中に去来するのは、その長閑な景色とはあまりに不釣り合いな、硬質で冷徹な決意の塊であった。

 

鬼殺隊の者達はすでに死力を尽くし、遠からず訪れるであろう最終決戦に向けて牙を研ぎ澄ませている。

 

あの夜、絶対的な最強の存在として立ち塞がった『上弦の壱』───黒死牟の強さは異次元とも言えるほどに別格だった。

 

だとしても。

 

自分がもっと強ければ、もっと早く動けていれば、あの隊士───獪岳を救えていたかもしれなかった。

 

命惜しさに人としての尊厳を放棄し、それでも生きたいと願った末に鬼側へと堕ちてしまった彼の選択を止めてやれなかった己の不甲斐なさ。

 

その責任の重さは、リンクの心へと容赦なく圧しかかっている。

 

 

(だからせめて、彼を化物へと変えたあの鬼は·······黒死牟は。俺がこの手で、必ず斬る!!)

 

 

色鮮やかな蒼い英傑の服の袖を風に靡かせ、リンクは一歩、深く地面を踏みしめた。

 

その瞳の奥にはかつてハイラルの地で幾多の災厄を退け、世界の命運を背負ってきた勇者としての揺るぎない覚悟が宿っていた。

 

 

 

ピピィイイイッ!!!

 

 

 

そんな彼の元に。

 

突如として。

 

静謐な空気を引き裂くような、鼓膜を刺す甲高い笛の音がすぐ側で鳴り響いた。

 

 

「おいそこの外人ッ! 貴様あァアアアアアアアアアッ!!???」

 

 

裂帛の咆哮が、リンクの背中に叩きつけられる。

 

 

「え·······?」

 

 

リンクは思わず足を止め、間の抜けた声を漏らした。

 

気付けば、彼はいつの間にか人家の密集した少し開けた町の中央を歩いていた。道行く人々が一様に物珍しそうな、あるいは怯えを孕んだ視線で自分を凝視している。それは彼が言葉も通じぬ『外人』だからという理由だけではなかった。

 

彼らの恐慌に満ちた視線は、リンクの背中に厳かに背負われた退魔の剣のマスターソードと、腰に帯びた日輪刀、そして大量の矢が入っている矢筒にそれを放つための弓。

 

それらの殺伐とした冷たい『武器』へと一点に集中していたのだ。

 

黒い詰襟の制服に身を包み、腰の木製の短い警棒を不穏にチラつかせた男が、血相を変えて指を指してくる。

 

 

「なんだその背中と腰にある物騒なものは!? まさかそれは本物の武器かあッ!?」

 

「へ? え·······?」

 

 

怒号を真っ正面から浴びせられ、リンクは完全に訳が分からずにただただ戸惑いを頭の上に浮かべて首を傾げた。

 

時代はすでに近代化の波が押し寄せる大正。異世界から流れてきたリンクが知る由もないことだが、この国にはたとえ異国の人間であろうとも例外なく一般人が刃物を公然と持ち歩くことを厳しく禁じる『廃刀令』という絶対的な法が存在していた。

 

しかし、そんな歴史の事情も知らぬリンクからすれば、目の前の男が何故これほど異様な敵意を剥き出しにして怒っているのか見当もつかない。平穏を脅かす脅威である悪しき鬼共を討ち、人々を守るための武器を背負って歩いているだけなのに、何故これほど罪人であるかのように糾弾されなければならないのか。魔物が当たり前のように出没するハイラルという世界の常識の中で生きてきた身としては、到底この近代国家の法理には理解が追いつかなかった。

 

だが。

 

言葉の意味は分からずとも、全集中の呼吸を身につけたリンクの鋭敏な五感は、異常なほどの正確さで『目の前に迫る危機』を克明に察知していた。

 

大気を通じて肌の微細な産毛にまで伝わってくる男の急激な血圧の上昇と、問答無用で敵を組み伏せんとする剥き出しの捕縛の意志。鼻を突く、常識的な義務感による圧倒的な怒りの匂い。その懐に潜む、相手の自由を奪うための不吉な拘束具の金属音。

 

それら全ての知覚情報が、リンクの天性的な直感へとダイレクトに、冷酷にこう告げていた。

 

───ここにいたら絶対にやばいことになる、と。

 

 

「ッ!!」

 

 

そう本能が命じた瞬間、リンクの身体は考えるよりも先に動いていた。

 

その顔はあまりにも焦燥感に満ちており、そのまま地面を滑るようにしてするりと重心を後ろへと傾ける。

 

そのあまりに滑らかな逃走への予備動作を、老練な警察官の厳しい目は逃さない。

 

 

「あ!? おい待て!! 止まれええぇええええええッ!!」

 

 

警察官が地を引き裂くほどの絶叫を上げるのとリンクが脱兎の如く身を翻すのは、完全に同時だった。

 

青年は一筋の蒼い疾風となって、町中を全力疾走し始めたのだ。

 

 

「逃げるな曲者ォオオオオオオオオッ!!」

 

 

再び鳴り響く笛の音。

 

その絶叫に呼応するように、町の中に潜むあちこちから次々と別の警察官達が『何事だ!?』『不審な外人を逃がすな!!』と伝染するようにピーピーと激しく笛を吹き鳴らしながら、その警鐘に群がるように湧き出てくる。

 

瞬く間に、一人の異国の青年を大勢の国家権力が遮二無二に追いかけるという、前代未聞の果てしなき鬼ごっこが幕を開けた。

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

リンクは町の入り組んだ細い路地をすり抜け、民家の生垣を羽毛のように軽々と飛び越え、水田の畦道を一筋の蒼い残像となって駆け抜けていく。

 

驚くべきはその肉体の驚異的な変化だった。

 

ハイラルにいた頃も人並み外れた頑強な身体能力を誇っていたリンクだったが、今の彼には狭霧山の冷たい霧の中で、名も無き二人の魂から命懸けで授かった“全集中の呼吸”が、その五体を完全に支えていた。

 

どれだけ走る速度を上げようとも、どれだけ長い距離を、いくつもの町を跨いで走り続けようとも、肺が焼けるような痛みは一切訪れない。

 

深く、驚くほど規則正しく体内に取り込まれる酸素が、肉体の疲労物質を瞬時に消し去り、細胞の隅々にまで無限の生命力を爆発的に供給し続けている。

 

三日三晩、休むことなく剣を振り続けた時と同じく、もはや疲れや衰えという概念そのものがその肉体から完全に消失しているかのようだった。

 

───いや、それだけではない。

 

リンク自身、一◯◯年の眠りの果てにその大半を失ってしまい、もう明確には思い出せないはずの遥か古い記憶。それがこの“全集中の呼吸”という新たな技術によって、肉体の奥底から激しく呼び覚まされようとしていた。

 

かつてハイラルを襲った大厄災、その終わりなき戦場。

 

無数の魔物の大群をたった一人で薙ぎ払い、どれだけ全力で大地を駆け、どれだけ重い剣を振り回し続けようとも決して息一つ切らすことがなく、己の体力の限界そのものがどこにも存在しなかった、あの全盛期の肉体。

 

頭の記憶にはなくとも、魂と骨に刻み込まれていた一◯◯年前の『本当の自分の身体能力』が、呼吸の会得によって今完全に呼び戻されている。

 

リンクはその確かな全能感を、全身を巡る暖かい息吹と共に自覚していた。

 

かつてハイラルにおいて、天賦の才に恵まれた『一◯◯年に一度の天才』と謳われた若き英傑。

 

その失われていた肉体の本領が、この異国の地で“呼吸法”という異質な力を身に付けて、再び完璧な形で現世へと顕現しつつあった。

 

·······だが追う側にとってはそれはただの『天災』でしかなかった。

 

 

「はぁ、はぁ、ま、待て·······ぇ! 待て、ぇ、こら··············ぁッ!!」

 

 

背後の遥か遠くから聞こえる声はもう一つしかない。

 

喉から血を吐くような荒い息を切り、汗にまみれて地面に膝を突く最後の警察官の目には、すでに驚愕の色が浮かんでいた。

 

 

「化け物か、アイツは·······!? 人間の足じゃ、ねぇ、ぞ·······ッ!?」

 

 

どれほど俊足の者を揃えようとも、ただの一度も速度を落とさずに風のように走り抜けていくその姿。

 

彼らとは文字通り、生物としての次元が違っていた。

 

───それでも諦めずに追いかけてくるのはいいことだ。

 

リンクは並外れた全集中の呼吸による五感で背後の悲鳴を捉えながら、どこか呆れたようにそんな感想を抱いていた。

 

自分は狭霧山での過酷な修行を経て、かつての感覚を取り戻して走っているのだから疲れないのは当然であった。しかし背後で執念深く追いかけてくるあの警察官は、呼吸法など何一つ知らぬ、至って普通の人間のはずなのである。

 

それなのに、何故そこまで脚を動かし続けられるのか。

 

自分は特殊な呼吸を使っているが、あの男は呼吸も使っていない。

 

それなのによくぞここまでついて来れるものだと、リンクはその常軌を逸した執念深さに本気で呆れ果てていた。

 

 

(俺からすればそっちの方が人間かどうか疑わしいんだけど··············!!)

 

 

リンクは背後に向けて呆れを隠しきれない視線を送りながら、内心で小さく呟いた。

 

どれだけ距離を引き離しても、道行く先々にある陰から次々と新鮮な追手が補充され、鋭い眼光を向けながら網を狭めるようにして襲いかかってくるのだ。

 

この世界では不審者にしか見えないリンクを捕えようとするその姿はまさに守護者のような貫禄を感じ、そしていくつもの甲高い笛による警鐘音なんて軽くトラウマになりそうであった。

 

ここで帯刀の不審者を逃せば国家権力の面目が丸潰れとなる警察組織の意地と、文化の違いから理由も分からず、けれど捕まるわけにはいかない異国の青年の生存本能。

 

結局その奇妙で苛烈な追いかけっこは、いくつもの山を越え、周囲の長閑な田園風景が悉く深い夕闇に塗り潰されるまで続いた。夜の帳がすっかりと降り、家々の灯火が点々と灯る時間になってようやく、地を這うようにして追いかけてきた男の悲痛な体力の限界の訪れと共に、リンクはその異常な追跡の網を完全に振り切ることに成功したのだった。

 

ドサリ、と。

 

背後の遥か遠くで、異常に執念深かった最後の男が力尽きて地面に大の字に倒れ込む音と気配が、全集中の呼吸によって底上げされた五感に伝わってくる。

 

静寂がようやく戻ってきた。

 

 

「ふぅ··············」

 

 

まばらな月明かりだけが白く照らす夜の一本道の真ん中で、リンクは一安心したように小さく息を吐き出し、背中のマスターソードの位置を確かめるように肩を竦めた。

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

予期せぬ異国の文化の洗礼に巻き込まれ、随分と遠回りを強いられてしまった。

 

彼らには申し訳ないが、あそこで捕まるわけにはいかない。

 

こっちだってやることがたくさんあるのだ。

 

リンクは手元の地図を開き、全集中の呼吸によって夜目が利くようになった瞳で、現水柱のいる屋敷へと続く道筋を確かめる。ここから先は人家の灯火も途絶え、鬱蒼とした緑に囲まれた静かな峠道へと繋がっているようだった。

 

地図を懐へ仕舞い、リンクは再び夜の闇の中へと歩き出す。

 

夜露に濡れた草木の匂いを嗅ぎ取りながら進むうちにいつしか周囲の景色は両側から堆く聳え立つ、不気味なほどに見事な竹林の道へと姿を変えていた。

 

さらさらと夜風に揺れる竹の葉がまるで誰かの囁き声か衣擦れのような、冷たく湿った音を立てて鳴っている。月光が竹の隙間から幾筋もの白い矢となって地面へと降り注ぎ、暗がりに黒々とした縞模様を描き出していた。

 

その時。

 

リンクの足が、何かに縛り付けられたように不意に止まった。

 

 

「·········あれ?」

 

 

リンクは周囲を見渡し、小さく声を漏らした。

 

ぞわり、と。

 

全集中の呼吸によって極限まで研ぎ澄まされた皮膚の産毛が一斉に逆立つような、悍ましいまでの『寒気』が彼の肌を鋭く刺した。

 

大正の世になり、足元こそ微かに砂利や砂で舗装され、当時とは僅かに形を変えている。

 

だがこの空気の冷たさ、天を突くように立ち並ぶ竹林の不気味な影、出来損ないの檻のように路面に落ちる月光の角度。

 

その全てにリンクは強烈な、息が詰まるほどの既視感を覚えていた。

 

───()()()()()

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 

「いや、そんなはず·········っ!!」

 

 

ない、そう思うのも無理はない。

 

実際リンク自身がこの場所に足を踏み入れたのは、間違いなくこれが生まれて初めてだった。

 

しかし。

 

彼の脳裏には今、かつて夢の中で授けられた、あの“骸骨の剣士”の戦いの記憶が断片的に蘇ろうとしていた。

 

あの時、言葉も交わさぬまま記憶へと流れ込んできた太陽の円を描くような無数の剣技。その技と共に脳髄へ焼き付けられた、あまりにも哀しく美しい、圧倒的な“記憶の欠片”。

 

眩いばかりに爆ぜる火花、流れるような美しい太刀筋。

 

そして。

 

その刃の前に立ち塞がっていた全身に不気味な気配を宿した、()()()()()()()()()()()姿()

 

あの骸骨の姿をした謎の剣士は、夢の中でリンクにこう言い残していた。

 

 

『私にまた会うことをお前が望むのならば、自ら訪ねに来い』

 

『手掛かりはお前の記憶に刻まれた────()()()()()()()()()()()()()()()()。そこで私は待っている』

 

 

その言葉の意味。

 

それらが全て繋がった気がした。

 

あの時、呼吸を教えてくれた少年の言葉、『現水柱の元へ向かえ───()()()()()()()()()()()()()()』というのも、ここへ導くためのものだったのだと察せられた。

 

現水柱へと続くこの静かな峠道。

 

その途中に横たわるこの古びた竹林の一本道こそが、かつてあの“赫い着物の剣士”が全ての災厄の元凶である『鬼の始祖』を極限まで追い詰めた、“因縁の地”。

 

 

「·········」

 

 

リンクは全てを悟って小さく息を呑み、己の記憶に深く刻み込まれていた景色の答え合わせをするように、じっと竹林の奥を見つめた。

 

ぴたり、と。

 

風の音が、草木のざわめきが、まるで世界から色彩と時間が消え去ったかのように完全に静止した。

 

全集中の呼吸で底上げされた五感が、大気の尋常ならざる歪みを捉える。

 

そこには生き物としての気配が何一つとして無かった。

 

脈動はない。匂いもない。呼吸の音すら存在しない。

 

ただ生物としての全ての法則から隔絶された、完全なる『死』そのものの圧倒的な質量が、月明かりの届かぬ竹林の闇から空間を侵食するようにじわりと滲み出し始めていた。

 

四◯◯年前、あの夜に『鬼の始祖』がその身を細切れに爆散させてまで逃げ延びるしか無かった、脳髄に刻まれた絶対的な死への恐怖。

 

その恐怖の光景が今、現世の闇を割って具現化しようとしている。

 

 

 

シャリ、シャリ············

 

 

 

この世のものとは思えぬ、恐ろしく不気味な『()()()()()()()()()』だけが、永遠のような静寂を冷たく揺らした。

 

リンクの心臓が、緊張のあまり跳ねるように強く脈打つ。

 

知っている。

 

この不気味で、どこか神聖な音を、自分は確かに聞いた。

 

あの夜、黒死牟との戦いで不意を突かれ、鬼へと化した獪岳によって致命傷を負い、薄れゆく意識の中で日の出の光の中で確かに耳の奥に響いていた、自分を救い上げてくれた『あの異質な足音』の正体。

 

それが今この瞬間に、完全に結びついた。

 

月光に照らされた道の先。

 

漆黒の闇に沈む竹の影から、ゆっくりと、音もなく、その異形の『怪異』が姿を現そうとしていた。

 

 

 

長い───“黒と赫の髪”が夜風に揺れ、古びた『赫い布地』がカサリと不気味に鳴る。

 

月明かりに照らされたその耳元でかすかに揺れたのは、“太陽が描かれた古風な耳飾り”。

 

 

 

そして。

 

リンクのその澄んだ目が捉えたのは、決して幻覚なんかではない、確かな真実。

 

神聖でありながらも悍ましいほどに所々が風化して破れている赫い着物を羽織り、肉も皮も削げ落ちている身でどうやってあの耳飾りを付けているのか分からないほど、しかし静かな慈愛の灯火だけを眼窩に宿した。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()

 

 

 






IFストーリー

※もしもリンクが呼吸法を身に付けず、警官に追われていたら?



□■□■□■



「逃げるな曲者ォオオオオオオオオッ!!」


ピピィイイイッ!!!


町中に一人の執念深い警察官の怒号と、鋭い笛の音が鳴り響く。

その身を捕獲せんとする国家権力の魔の手から逃れるべく、リンクは逃げるために爆走していた。

本来であれば、全盛期の肉体を取り戻していないリンクには『がんばりゲージ』という絶対的なスタミナの限界が存在する。

本来であれば、である。

だが。

この時のリンクが選択したのは、かつて元の世界のハイラルで、そしてとある世界線によっては『厄災リンク』などという不名誉な仇名であらゆる魔物や一般市民から恐れられた、あまりにも不条理な『古代シーカー流・無限ダッシュ』であった。

リンクは走りながら、おもむろに手の指を口元に当てる。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!!


「ひっ、悲鳴!? いや、口笛だと!?」


前方を走る不審者が突如として高らかに口笛を吹き鳴らしたことに、追跡する警察の男は一瞬唖然とした。

だが、本当の驚愕はここからだった。

リンクは口笛を吹く、所謂馬を呼ぶ時の合図の動作を連続で入れることで、『走っている最中なのに何故かシステム的にスタミナゲージが減らない』という世界の秘技、もとい裏仕様を平然と連打し始めたのである。


ピヨピヨピヨッ、ピィヨオオオオオオオオッ!!!


口笛を吹いては走り、吹いては走り。

それを繰り返すリンクの挙動は傍から見れば、一ミリもブレることのない姿勢で、狂ったように口笛の騒音を撒き散らしながら爆走する不審者そのものであった。



ピピィイイイッ!!!(止まりなさいッ!!)


ピヨピヨピヨッ(ごめんなさい!)ピィヨオオオオオオオオッ!!!(それは事情があって無理なんですッ!!)


ピピッ!(おいッ!) ピィイイイイイイイイッ!!!??(止まれと言っとるんだッ!!!??)


ピヨピヨピヨッ!!(本当にすみません!) ピィヨオオオオオオオオオオオオッ!!!(無理なものは無理なんですッ!!!)



取り締まりの笛と、謎の口笛が交互に鳴り響く地獄のようなセッション。


「ハア、ハアッ·······!? な、何なんだアイツは·······!? なんで口笛を吹くたびに加速する·······!? 肺活量はどうなっとるんだ··············ッ!?」


警察官はすでに息も絶え絶え、足は生まれたての子鹿の如くガクガクだった。

一方。

前方を走って騒音を撒き散らす不審者(勇者)は、完全にがんばりゲージを無視してどこまでもピンピンと突き進んでいく。

最終的に警察官が過呼吸でその場にぶっ倒れた時、遠ざかっていくリンクの後ろ姿からは、夜空の彼方まで楽しげな口笛の音が『ピヨピヨピヨッ、ピィヨオオオオオオオオッ!!!』と愉快に虚しく響き渡っていたという。



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