橋の下を流れる川のせせらぎが突如として凍結したかのような、そんな錯覚さえ覚える異様な沈黙が続いた。
「·······っ!!」
その中心で水柱である冨岡義勇の背中はどこか虚しく、まるであの世とこの世の境界線である三途の川の前に立ち尽くすような、そんな危うい場所にいるような気がした。
リンクの放った一言は、義勇の胸の中で永きに亘って苦しみ続け、誰もそのことに触れることができなかった最大の原罪へと正確に核心を突いていた。静かに握り締められた拳は微かに震え、その指の隙間からは自身の肉体を自傷のように締め付けたことで、微かに滲み出た赤き血が地面の板へと滴り落ちる。
悔しさ、それと同時にもうこのことを話してしまえば『楽になれるのかな』という愚かな思いを抱いてしまった自分に対しての苛立ち。
でも、リンクという青年の話してほしいと言われたその言葉に、彼は甘えたくなってしまった。
それにいつまでもずっとしつこく付き纏い、何度も説得を繰り返す竈門炭治郎という生真面目な弟弟子。
その二人の持つ『濁りのない純粋な想い』の前に、義勇はついに自らの心を閉ざす鎖が内側から音を立てて崩壊していくのを自覚せざるを得なかった。
鬼の出没が少なくなっても巡回を繰り返していたのと同じように、ただ義務のみに生きることで己の存在理由を誤魔化し続けてきた日々。しかしこの二人の前では、如何なる偽装も如何なる沈黙も、その苦しい真実を覆い隠す盾にはなり得ない。
だからいい機会に思えたんだ。
ここで全てを話し、冨岡義勇という人間の『本当の正体』を曝け出せば、流石の彼らも諦めて二度と自分のような『偽物』に付き纏うことはなくなるだろう、と。
「··············」
そんな冷たい思考と、半ば自暴自棄に似た絶望の果てに。
義勇は大きな川に架かる橋の上で、唐突にその胸の中にあったものを打ち明けた。
「俺は·······
「「!!」」
その一言。
橋の空間に響いた瞬間、リンクの一歩後ろを必死についてきていた炭治郎が驚愕のあまり完全に思考を停止させ、その真ん丸な目を見開いた。
「え·······最終選別って、藤の花の山のですか?」
「?」
リンクは義勇と炭治郎の言う最終選別がなんなのかわかっておらず、首を傾げるしかできなかった。
しかしそれを聞いた炭治郎の声には困惑の色が見えた。選別というものの重要性、それを突破できていないことに対しての違和感。それをリンクは、ある程度ではあるものの、冨岡義勇という男が大切な試練を乗り越えられなかったということを察した。
鬼殺隊に入隊するための最終選別。
それは夜を生きる鬼どもが極端に嫌う藤の花が特殊な気候などによって一年中狂い咲いている、狭霧山にも近い不思議な山───『藤襲山』で行われる最終試験。
その山には歴代の育手や鬼殺隊達が生け捕りにしてきた、さほど強くはないものの飢餓に苦しむ凶悪な鬼どもが多数閉じ込められており、入隊を希望する剣士達は育手から授けられた日輪刀を手に、その山の中で七日間、己の力だけで生き延びることが合格の絶対条件であった。
炭治郎自身もあの場所で命を懸けて戦い、命辛辛生き残ったからこそ今こうして隊服を纏い、自分だけの日輪刀を握る資格を得たのだ。それを現代の鬼殺隊における最高位の一角たる水柱が、『突破していない』などと言う。
仮にも柱として認められるほどの実力がある冨岡義勇がそのようなことを明かすなど、そんなおかしな矛盾が事実であるはずがないと炭治郎の理性が全力で拒絶していた。
「·······」
しかしリンクは知らないからこそ、矛盾など感じることもなく純粋に理解できた。
義勇の心に宿る虚無のような冷たい光は、それが紛れもない真実であることを物語っている。
義勇は炭治郎の動揺を一瞥することなく、ただ遠く流れる川の水面を見つめながら淡々と、自らの魂を削り取るような口調で言葉を続けた。
「そうだ。あの年に俺は、俺と同じく鬼に身内を殺された少年·······“錆兎”という、宍色の髪の少年と共に選別を受けた」
「「!!」」
だがここでようやく、リンクは炭治郎と同じ顔をした。
錆兎。
その名前が義勇の口から零れ落ちた瞬間、リンクの脳裏にあの世のような世界からこの世に呼び戻してくれ、そして狭霧山の巨大な割れた大岩の前で、己の剣技を全盛期の次元へと引き戻すきっかけとなってくれた、あの『狐の面をつけた少年』の幻影が鮮烈に重なり合った。
「一三歳だった。同じ歳で天涯孤独、すぐに仲良くなった。錆兎は誰よりも正義感が強く、誰よりも心優しく·······そして誰よりも強かった。あの年の最終選別で、山にいたほとんどの鬼を一人で討ち倒したのは、俺ではなく錆兎だったんだ」
話すごとに彼の声が冷たくなっていく。
顔を顰め、自身の罪深さと弱さを悔いるように。
「俺はと言えば、最初の鬼に襲われた際に一撃を浴びて頭を負傷し、その時も錆兎が救ってくれた。錆兎は負傷した俺を別の少年に預け、助けを呼ぶ声の方に行ってしまった。俺はそのまま何もできずに意識を失って、選別が終わるその時まで倒れていたに過ぎない」
義勇の半々羽織の左半分───緑と黄色を不規則に繋ぎ合わせた毘沙門亀甲の模様が、冷たい川風に吹かれて寂しげに翻る。
「俺が意識を取り戻した時には七日間の夜は既に明け、選別も終わっていた。山に閉じ込められていた鬼は錆兎の手によってほぼ討伐していたため、他の者達は全員が生き残り、選別を合格していた·······だがただ一人、全ての鬼を倒し、全員を救い出した錆兎だけが、そこでその命を落とした。俺は一本の鬼すらも倒さず、ただ助けられただけで、何の成果も上げぬまま時の運だけでこの隊服を纏い、『水柱』という不釣合いな位置に座り続けている」
義勇の語る言葉は一文字ごとに血の滴るような、凄絶なる自己否定の塊であった。
「俺は水柱になっていい人間じゃない。本来なら俺が死んで、鬼をほとんど倒した錆兎こそがその座に就き、多くの人々を救うはずだったんだ。柱達と同じ位置に立つ資格など、最初から存在しない。俺が鬼殺隊にいること自体が死者に対する冒涜であり··············恥だ。だから俺に関わるな。本当の柱に稽古をつけてもらえ。俺には教えることなど、何一つとして無いのだから」
「「··············」」
その場からさろうとする義勇。
それを聞いていた二人は言葉をかけることすらできなかった。
「···········っ」
けれどリンクは、それら全てを聞いた上で、憤りを覚えた。
己を柱として相応しくないと呪い、錆兎という少年の死を未来へ進むための糧ではなく、自分の時間を永遠に凍りつかせるための呪縛の檻として背負い続けている冨岡義勇。その歪みきった呼吸の波形をリンクは静かに、だが誰よりも深い理解を以て見つめていた。
何故なら───彼もまたハイラルの地において、後悔を残して亡霊となった仲間、『英傑』のみんなの想いを受け継いだ立場だったからだ。
だからこそ言える。
死者の想いは、
「·········」
リンクは無言のままゆっくりと一歩を踏み出し、木橋の床板を静かに鳴らした。
「リンクさん?」
炭治郎がそんなリンクに声をかけるが、彼は無視した。
足を止めない冨岡義勇に、彼は言った。
「君は·········
□■□■□■
「リ、リンクさん·········!?」
後ろから動揺した炭治郎の声がする。
川のせせらぎを割って響いたリンクの声は、決して大声ではなかった。
しかしそれには力強い意志が宿っており、この空間を確実に縛り上げる逃れ得ぬ至高の圧があった。
「··········っ!!」
冨岡義勇の背中が、目に見えて硬直した。
だが義勇は尚も振り返ろうとはしない。その視線は凍てついたまま遥か遠くの景色を見つめ、ただ赤くなるほどに握り締められた拳の震えだけが、彼の心の奥底で吹き荒れる激情の暴風を証明していた。
義勇は己が水柱という栄光の位に就くべき人間ではないと、誰よりも自らを呪い続けてきた。
自分はただの落ちこぼれであり、課せられた義務のままに、ただ淡々と人喰い鬼どもを屠り続けているだけの、魂の抜け殻に過ぎないのだと。
しかしリンクの眼光はその頑なな自己憐憫の仮面を容赦なく剥ぎ取る。
それでは───
あの日あの山で錆兎が己の命の灯火を擦り減らし、自分を無下に扱いながらも義勇を救い出したのは何のためだったのか。他でもない冨岡義勇という一人の人間に、生きていて欲しかったからだ。たとえ自分を犠牲にしてでも、友には日の光が照らす明日を歩んで欲しかったからに他ならない。
それなのに、救われた当の本人はまるで魂をあの山に置き忘れてきた死人のように、ただ暗い日陰の中で自分を責め苛むことだけに終始している。
生者が死者の想いを都合よく解釈し、自らの歩みを止めるための言い訳に使うことほど、残酷な背信行為はない。
リンクの引き締められた瞳に、いっそ無慈悲なまでの義憤の炎が灯る。
彼は逃げるように佇む義勇のその背中に向けて、さらに踏み込んだ刃を突き立てた。
「君はどうしたいんだ? その少年、錆兎のことや最終選別に通過していないという過去をただの言い訳にして、本当の義務から逃げているんじゃないのか?」
「ちょ!? リンクさん!?」
「───ッ!!」
炭治郎がリンクの言い方に対して、それは言い過ぎだと感じたのか止めに入ろうとするが、負傷した足では間に合わない。
そしてその瞬間、義勇の瞳が驚愕と、そして初めて沸き立った感情の戦慄きを伴って大きく見開かれた。
ゆっくりと、さらに信じ難いほどの重圧を伴って冨岡義勇が振り返る。
その顔にはこれまで如何なる任務においても決して見せることのなかった、決定的な『苛立ち』の波紋が静かに浮かび上がっていた。
それは、彼が自らの心の中身を隠し、何人たりとも触れてはならないと固く禁じていた不可侵の聖域であり、同時に最も醜悪な傷口でもあった。そこを、この出所の分からぬ異国の者に、あまりにも正確に、そして手厳しく指摘されたのだ。義勇の端正な顔が、明確な不快感と微々たる敵意の混ざり合った峻烈な憤りの色に染まっていく。
───錆兎のことを何一つとして知らないくせに。
自分がこれまでどれほどの怨嗟と襲い来る悪夢に苛まれてきたか、その苦しみを何も知らないくせに。
特例の扱いで鬼殺隊へと紛れ込んできたばかりの、階級すらも定かではない新人が柱である自分に対して何を偉そうに知ったような口を利いているのか。そんな言葉にならぬ冷徹な怒りの波形が、義勇の全身から放たれる殺気となって空間をピリピリと震わせる。
(義勇さん········怒ってる!?)
炭治郎はリンクのあまりにも容赦のない追及を止めようとして、松葉杖を懸命に動かして前に進もうとしていた。しかしそれよりも先に彼の鋭敏な鼻が、兄弟子の全身から噴き出した異様なまでの感情の激流、凍りついた氷山の底で煮えたぎる溶岩の如き逆鱗の匂いを嗅ぎ取り、驚愕のあまりその足を完全に止めてしまっていた。
「········」
対してリンクは、その圧倒的な水柱の威圧を正面から一歩も退くことなく受け止めた。
その凛とした顔にはかつての彼、百年前に存在した『英傑』としての威厳がそこにはあった。
ハイラルの地において、数多の神獣を鎮め、厄災の放つ絶望的な怨念の波動と対峙してきた勇者の精神は、この程度の殺気で揺らぐほど脆くはない。リンクが習得したばかりの全集中の呼吸は些かも乱れず、むしろその声色の重みをさらに一段上げるような言葉を叩きつけた。
「君は本当は何をしたいんだ? 錆兎に報いたいのか?」
「················」
「だとしたらそれは立派なことだ、ちゃんと彼の意思を継いでいることになるからね········でも今の君は、それすらも出来ていない。自分は柱に相応しくない、俺があの時死んで、彼が生き残って柱になるべきだったなんて、そんな風に思い悩むこと自体が命を懸けて君を繋いだあの少年に対する─────最大の『侮辱』だ」
「な··········っ!?」
侮辱、という痛烈な刃。
それが義勇の魂そのものを直撃し、彼の呼吸が完全に肺の中で凍りついた。
「君は一体何をしてるんだ? 救ってもらった命を次へと繋ごうともせず、ただ諦めて自分の殻に閉じこもっている。君はその錆兎という少年の死を、自分が傷つかないために、自分が前に進まないために··········都合のいい『言い訳』の道具として利用しているだけだ!!」
リンクの怒号にも似た一喝が、雷鳴の如く激しく轟き渡った。
その一撃は冨岡義勇という男が永きに渡って頑なに維持し続けてきた『偽りの水柱』という愚かな考えを、根底から粉砕するに足る破壊力を秘めていた。義勇の喉は微かに鳴り、何かを言い返そうと開いた唇は言葉を紡ぐ資格を失ったかのようにただ虚空を彷徨う。
そして。
リンクの瞳に宿る『英傑』としての眩しい光は、彼を『甘え』の中に留まらせることを許しはしなかった。
リンクはさらに半歩踏み出し、言葉の重みを義勇の魂へと直接叩きつける。
「本当に彼に対して申し訳なく思い、そして報いたいなら───“
「あ────ッ!!」
冒涜、という言葉の刃が義勇の精神の最深部に穿たれた瞬間。
義勇は唐突に自分の頬に手を当てた。
その言葉はまさに──────
彼の脳裏を支配していた凍てつくような暗闇に、突如として鮮烈極まる『過去の光景』が激流の如く甦ってきた。
せせらぎの音も、リンクの放つ怒気も、全てが遠のいていく。
それは───義勇が自らの過去を打ち明けた時の、血を吐くような記憶。
夕暮れ時の狭霧山。
涙ぐみながら激しい衝撃に赤く腫れ上がった己の頬を手で押さえ、冷たい地面へと惨めに座り込んでいる幼き日の自分。
そんな不甲斐ない自分を、燃えるような怒りと哀切をその瞳に宿しながら、傲然と見下ろしていた宍色の髪の少年───錆兎の姿。
『自分が死ねば良かったなんて二度と言うなよ。もし言ったらお前とはそれまでだ········友達をやめる』
錆兎の声が記憶の奥底で、まるで今しがた放たれたかのような明瞭さで鳴り響く。
『翌日に祝言をあげるはずだったお前の姉も、そんなことは承知の上で鬼からお前を隠して守っているんだ。他の誰でもないお前が········お前の姉を冒涜するな!!』
『ッ!!』
その瞬間、義勇の身体が激しく強張った。
かつて錆兎の手によって叩き込まれたあの痛み。肉体を震わせたあの生々しい痛みが数年の時を超えて、今の彼の左頬へと言い知れぬ熱量を持って鮮烈に蘇生されていく。
『お前は絶対に死ぬんじゃない。姉が命を賭けて繋いでくれた命を········託された未来を!!』
“お前も繋ぐんだ義勇”
その言葉が、ようやく彼の元に蘇った。
(そうだ············俺は················ッ!!)
何故、忘れていたのだ。
何故、あの少年が命を懸けて自分に遺そうとした想いを、己を呪うための『言い訳』へと摩り替えてしまっていたのか。
彼は。
姉は。
自分に惨めに蹲って涙を流すためではなく、前を向いて未来を進み、そして繋いで欲しくてその尊き命の全てを自分に託してくれたのではなかったか。
「···········ッ!!」
堰を切ったように溢れ出す記憶に、義勇の凍りついていた呼吸がついに大きな音を立てて瓦解した。彼の瞳から永きに渡る孤独と羞恥の結晶たる涙が、一筋、橋の板へと零れ落ちる。
静寂が戻りゆく空間。
義勇はずっと握り締めていた拳をゆっくりと解き、己の手のひらを見つめた。
その全身から放たれていたピリピリとした殺気は完全に消滅し、代わりに果てなき暗闇の中で迷い続けていた愚か者が、ようやく光を見出したかのような、確かな意思が宿り始めていた。
義勇はゆっくりと顔を上げ、正面に佇むリンクのその瞳を見つめ返した。
その声は震えてはいたが、先程までの拒絶の意思は微塵も存在しなかった。
「····················“贖罪”、しろと?」
わかっているくせに、彼はそう訊ねた。
それは自らが犯してきた傲慢と死者への背信行為をこれからの生涯を懸けて償えという命令なのか、という水柱としての最後の、そして最も不器用な問いかけであった。
「··········」
そのまだ真意に辿り着ききれていない不器用な問いに対し、リンクは厳格だった表情を僅かに和らげ、静かに首を横に振った。
そして。
彼は百年前の厄災討伐のために騎士として模範となるように心を縛られていた頃とは違い、今を、未来を生きる一人の剣士のリンクとして。
明るい声で、その答えを告げた。
「違う─────“恩返し”、だ」
□■□■□■
「え、えっと··········」
炭治郎は場の空気についていけてなかった。
魂を抉り合うような凄絶なる問答の気配から一転、静寂を取り戻した橋の上で二人の姿を交互に見つめながら、竈門炭治郎は額にびっしりと冷や汗をかいていた。
(ど、どうしよう··········俺、何もできていない。義勇さん、すでにだいぶションボリ状態だったようだし、加えてリンクさんのあまりの正論の追いうちもあってさらにへこませてしまったのかな)
炭治郎の鋭敏な鼻は義勇の全身から噴き出していたピリピリとした殺気が消滅し、代わりにこれまでの過去の己の行いを恥じて小さく萎縮してしまったかのような、酷く沈痛で悲哀に満ちた匂いを敏感に察知していた。
四日四晩、真面目で頭の固い炭治郎はずっと稽古を拒んできた兄弟子を説得しようと執拗に通い詰めていた。だが結果として義勇の心を溶かしたのは、つい先程合流したばかりの異国の青年、リンクの放った刃の如き一喝であった。
しかし、生真面目の権化たる炭治郎は、そこで気落ちしている場合ではないと必死に思考を巡らせる。
今の義勇に必要なのは自責の念に駆られてさらに殻に閉じこもることではない。
託された命の重さを噛み締め、未来へと歩み出すための気力───すなわち、元気を出すことだ。
なにかないだろうか。
彼を元気づける方法。
今の自分にできる、最大限の至誠を尽くした何かが。
(そうだ───“ざる蕎麦の早食い勝負”をするのはどうだろう)
あっ、なんかもの凄くいい案のような気がする。少なくとも彼はそう思った。
一体何がどうしたらそんな考えを思いつくのか、真面目すぎるが故に出た答えはあまりにも常識はずれだった。
でも炭治郎の真ん丸な瞳の奥に、ぱああと一筋の輝かしい光が見えた気がした。
(勝負で俺達が勝ったら、元気出して一緒に柱稽古を始めませんか? みたいな誘い方をすれば。俺はまだ上弦の鬼達との戦いで負った傷の復帰許可がおりていないから、刀を握っての手合わせ的な稽古はアオイさんたちに叱られてできないし)
でも、食べるだけの早食い勝負なら怪我の有無に関わらずできる。
何より、自分は育手である鱗滝左近次の元での過酷な修行時代、山籠りの中で鍛え上げられた強靭な胃袋と、飯を掻き込む速度には結構自信がある。
(義勇さんは寡黙で人と喋るのが極端に苦手みたいだけど、早食い勝負ならそもそも喋る必要が全くないし、これ以上ない名案だな!!)
思いついた斜め上の解決策に、炭治郎が一人で深く納得し、得たり賢しとばかりに拳を握り締めた、まさにその時。
(未熟でごめん·········錆兎)
全ては自分の思い上がりだった。
それを自覚し、リンクもそれを感覚で分かったのか微笑みを浮かべる。
(これで、いいんだよな·········?)
あの時の借りは返した。
そう思うようにリンクは空を見上げていた。
自分に呼吸術を教えてくれた、あの錆兎という少年に向かって。
「炭治郎」
張り詰めた沈黙を破り、義勇がその半々羽織を翻して炭治郎のほうへと静かに振り返った。
その瞳には、かつて錆兎から託された未来を繋ぐという、水柱としての覚悟の息吹が宿っていた。
「遅れてしまったが俺も稽古に───────」
「義勇さん!! リンクさん!!」
「「?」」
リンクの説得によって己の非を認め、ようやく共に歩み出そうと不器用な唇を開いた兄弟子の言葉を、炭治郎は満面の一点の曇りもない輝かしい笑顔を以て。
「
「「え·········?」」
百年前から厄災と闘ってきた勇者リンクと、現代の鬼殺隊における最高位たる水柱の冨岡義勇。
立場も、生まれ育った世界も、全く異なる二人の男の精神が今この瞬間に完全にシンクロした。
二人は一寸の狂いもない全く同じタイミングで、全く同じ感情、そして全く同じ呆気にとられた表情のまま、心の中で同時に激しい突っ込みを炸裂させていた。
──────なんで?
つい数瞬前まで死者の想いを背負う覚悟、生者としての『恩返し』という、自分達の使命を思い出させる話し合いをしていた空間。
それが、炭治郎の放った『ざる蕎麦』というあまりにも日常的かつ突飛な単語によって、木っ端微塵に粉砕されたのである。
唖然としたまま言葉を失って炭治郎を見つめる義勇。
対してリンクは、あまりの空気の変貌ぶりに思わず額を押さえ、深いため息を漏らす。
シドのような熱血さとユン坊のような勇ましさを兼ね備えた少年だとは思っていたが、どうやら彼は時折こちらの理解の範疇を遥かに超越した『天然』の爆弾を投下する性質があるらしいと、リンクは内心呆れるのだった。
□■□■□■
冨岡邸の付近の橋の上で、異国の勇者と水柱の魂が交錯した劇的な和解からおよそ三時間ほど経過した昼下がり。
薬の微かな匂いと、傷病に喘ぐ隊士達の重い息遣いが漂う『蝶屋敷』のとある部屋には、異様な空気が漂っていた。
燦々と降り注ぐ陽光が皮肉にも屋敷の廊下へ鋭い陰影を落とし、部屋の隅々にある暗がりを濃く浮き上がらせている。
その空気の奥。
胡蝶しのぶの『姉』の仏壇がある部屋では外の明るさとは隔絶された、重苦しい宿怨の気配が満ちていた。
「どうかお願いしますね·········“カナヲ”」
「··················ッ!!!!」
そのおよそ常軌を逸した狂気の告白を、しのぶは自らの唯一の継子あり、実の妹の如く慈しんできた“栗花落カナヲ”に対して一切の感情を失くしたような、そんな声で話し終えたばかりだった。
室内の奥に設えられた仏壇。
そこにはかつて上弦の鬼によって命を奪われた、最愛の姉である“胡蝶カナエ”の遺影が安置されている。
生前に撮られた写真の中の姉は、色がなくても変わらぬほどに慈愛に満ちたも優しい微笑みを浮かべているが、その微笑みこそが今やこの部屋を満たす狂気的なまでの執念を逆説的に際立たせていた。
胡蝶しのぶはずっとその日を夢見て、ただ鬼を殺すためだけに全てを『猛毒の塊』へと変貌させていた。
「で、でも·············そんなのッ!!」
カナヲはそれを聞いてずっと困惑していた。
話された内容、それはあまりにも残された者達にとっては悲しく、そして寂しさを覚えさせる残酷な手段だった。あまりにも非人道的で痛々しすぎる真実の全てを語り終えた室内に、ただ庭から聞こえる小鳥の囀りの音だけが響く。
仏壇から数歩離れた畳の上。
カナヲは未だその場から一歩も動けずに、激しい動揺に震えていた。
いつもなら自らの意志を持たず、指示がなければ銅貨を投げて行動を決めるはずの少女。そのカナヲの目が信じ難いほどの恐怖と絶望に大きく見開かれ、小さな肩が目に見えて小刻みに震えている。
師であり、姉でもあるしのぶが、自らの命を『餌』として差し出そうとしている。
その計略の全容は、まだ幼いカナヲの心を容赦なく打ち砕くに充分な衝撃だった。
何かを言わなければならない。引き止めなければならない。
しかし、しのぶの背中から立ち上る透き通った圧倒的な『怒り』の気配を前に、カナヲの喉は完全に凍りつき、ただ涙を堪えることしかできなかった。
でも。
それでも、だ。
「師範·······私は··············ッ!!」
カナヲの乾いた唇から消えてしまいそうな声が漏れ出た、その瞬間。
バササササササササ!!
陽の光が差し込む庭の一角から静寂を切り裂くようにして、天を駆ける羽音が響き渡った。
室内の障子戸の隙間から滑り込んできたのは鬼殺隊の本部、そしてお館様である産屋敷耀哉の言葉を伝える鎹鴉であった。
「伝令! 伝令ィィイ!! 竈門炭治郎、行方不明ノ『リンク』ヲ発見!! 冨岡義勇邸付近ニテ、異国ノ剣士、リンクノ無事を確認ッ!!」
産屋敷の元へたまたま立ち寄った際に手紙を託されたのだろう。
その誰かの鴉の放ったその甲高い音声が、重苦しく停滞していた室内の空気を一瞬にして一変させた。
「そう·······リンクさんが冨岡さんのところに」
しのぶの瞳に、怨恨の炎とは異なる明敏なる智者の閃きが走った。
リンク。
階級こそ定かではないが、あの上弦の鬼との戦いに参加して刀鍛冶を救った実力、そして驚異的な戦闘技術によって瞬く間に柱達の間でも一目置かれる存在となった異国の青年。
鬼舞辻無惨、および上弦の鬼どもを確実に葬り去るためには、しのぶの毒だけでなく、薬学の限界を超えた彼の『異国の知識』の解明も不可欠な要素だった。彼は各地に現れた鬼とは異なる化物をも倒し、そして『痣』が出る基準の数値を超えた熱を出し、身体中についた血までも蒸発させていたという。
その人智を超えた肉体。そして知識。
もし行方不明であったリンクが帰還し、彼が鬼に対して独自の知見、あるいは異国の知恵を持っているのであれば、それは胡蝶しのぶが今進めている『作戦』を根本から覆し、鬼殺隊の長年の悲願である『鬼舞辻無惨の討滅』を実現するための唯一無二の希望になり得るかもしれない。
しのぶは、未だに驚愕に目を見開いているカナヲを一瞥すると、すっとした動作で立ち上がった。
その羽織が、蝶の羽ばたきのように軽やかに翻る。
「カナヲ、少し席を外します·······急いで手紙を書かねばなりません」
しのぶは迷いのない足取りで机へと向かうと、素早く硯に墨をすり、白き紙へと筆を走らせた。
手紙の中で彼女が求めたのは、リンクの無事の確認と、何より無惨を打倒するための薬学における『共同開発』の提案であった。彼の持つ未知の力やその秘密に関する情報を分けてもらうため、すぐにでも来てほしいという切実なる執念が、流麗な文字の行間から滲み出ている。
しのぶはその書状を素早く丁寧に折り畳むと、室内で息を整えている鎹鴉の脚へと確かに括り付けた。
「これをすぐに冨岡さんの屋敷にいるリンクさんへ届けてください。一刻を争います」
鴉はこくりと頷いて短く啼くと、開け放たれた部屋から再び青空へと溶け込むようにして、天高く飛び去っていった。
「もしかしたら·······」
と、何やらしのぶは思った。
だがしかし、そんな甘えは捨てる。
カナヲに言ったのだ、甘い考えは捨てろと。それなのに自分だけそんな考えを持つなんて、そんなの狡すぎる。
しのぶは鴉が去った空をじっと見つめながら、己の胸に手を当てる。
異国の剣士が齎すであろう『未知の可能性』が、この絶望的な局面にどのような変革を与えるのか。
自らの命を賭す覚悟の裏側で、水面下で進む薬学の共同開発という新たな一筋の光に向けて。
胡蝶しのぶの知性は、決然たる一歩を踏み出していた。
□■□■□■
一方で。
とある蕎麦屋では、日本の美味しい物への讃歌と飽和状態の絶望に満ちていた。
それは、当初こそ張り詰めた空気を和らげるための突飛な提案に過ぎなかったはずだったんだ。
だから遠慮はいらないとまで言ってしまったんだ。お金もいくらでも出すからと。
だって、自信があったから。
だが。
結果としてその戦場に刻まれたのは、大正の剣士達の常識を根底から覆す、勇者による圧倒的なる『蹂躙』の記録であった。
ズゾゾゾゾ!!
これだけ蕎麦を啜る音が連続で鳴り響いたのは初めてかもしれない。
机の上に凶悪な高さまで積み上げられた空のざるの山。
それは既に百の数値を遥かに突破し、座敷の天井に届かんばかりの威容を誇っている。
「いやぁ!! いい食いっぷりだねぇ、外人のあんちゃん!! うちの店が始まって以来の快挙だよ!!」
「──────!!」
ズゾゾゾゾ!!
馬耳東風と言うかのように、とにかくリンクは初めての日本文化の象徴の一つである蕎麦を貪り食っていた。
厨房の奥から汗を拭いながら次々と蕎麦を茹で上げ続けていた蕎麦屋のおやじさんが、驚愕を通り越して狂喜乱舞の混ざった大声を響かせ、リンクの驚異的な大食漢の有様を心の底から称賛していた。
対して。
その隣で死屍累々たる惨状を晒し、机の上に無様に倒れ伏していたのは、
「も、もう·······む、り·······ッ!!」
最初に脱落したのは、まだ上弦の鬼達との死闘による負傷の復帰許可すら下りていない炭治郎であった。
彼は己の限界を超えて蕎麦を掻き込み続けたものの、一◯枚目の壁を前にあえなく撃沈。松葉杖を壁に立てかけたまま、緑と黒の市松模様の羽織を大きく波立たせて机の上に突っ伏し、最早指一本動かす気力すら残っていなかった。
「う·······うぷっ!!」
そして、炭治郎の自信に満ちた天然の挑発に乗り、水柱としての不器用な誇りを懸けて受けて立ったはずの冨岡義勇もまた無様な敗北を喫していた。
彼は普段の寡黙さをかなぐり捨て、ただ黙々とざる蕎麦を胃袋へと流し込み続け、一時は炭治郎を遥かに突き放す驚異的な速度を見せていた。
だがしかし、それすらも異国の青年の前には障子紙ほどの抵抗にもなり得なかったのだ。
義勇はざるの山に囲まれながら、半々羽織の袖で口元を押さえ、顔を青褪めさせて机の上に力なく倒れ伏していた。
「──────!!」
その二人の胃袋の飽和状態による絶望的な惨状を完全に無視して、リンクはなおも悠然と箸を動かし続けていた。
ズゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾ!! と。
いつまで続くんだこの時間、と二人はリンクのその姿を見てそう思った。
彼の精神と肉体はハイラルの地において、如何なる過酷な環境をも生き抜くために最適化されていた。
極限の寒冷地や灼熱の火山帯を駆け巡り、体力が満タンであろうとも、たとえ傷一つ負っていなかろうとも、強靱な重量の岩肉や猛烈な熱量の料理を『無限』に食らい尽くすことができる神の胃袋。
日輪刀を振るう剣士達の、人の限界の技『全集中の呼吸』を以てしても、リンクの持つ並外れた食欲の前にはあまりにも無力であった。
「··············ふぅ」
最後の蕎麦を食ったリンクは胃の中に溜まっていた空気を吐き出す。
そして口元についた蕎麦つゆを手の甲で拭う。
と、次の瞬間。
彼は信じ難いほどに平然とした口調で、さらに決定的な破滅の言葉を響かせた。
「すみません、もう一枚」
「「〜〜〜〜〜ッ!!!??」」
机に突っ伏していた炭治郎と義勇の身体が、その一言を聞いた瞬間にビクリと同時に跳ね上がった。
まだ食うのか。
この異国の人型怪人は、まだ胃袋の底を見せていないというのか。
炭治郎の鋭敏な鼻はリンクの体内から『満腹』という言葉に伴う気配が微塵も漂ってこないことに絶望し、義勇のぐらついた瞳には最早恐怖すら浮かんでいた。二人は完全に戦意を喪失し、ただリンクの圧倒的な胃袋の前に心からの絶望を噛み締めるしかなかった。
それどころかリンクは手元に残った蕎麦つゆを覗き込むと、少しだけ味の雰囲気を変えたくなったらしく、厨房のおやじさんに向けてさらなる追撃の言葉をかけた。
「あの、おやじさん。ちょっと味を変えてみたくて。もし良ければこのお店で他におすすめの食べ方や別の小皿料理なんかはあるかな?」
「おおよ!! どうやらあんちゃんもうちの蕎麦を気に入ったようだな!! なら次はうちの秘伝の胡麻ダレを試してみな!! それと特別に、揚げたての天麩羅もつけてやろうじゃねえか!!」
「あ、ありがとう。じゃあそれもお願いするよ」
楽しげに注文を重ねるリンク。
その傍らで炭治郎は、
(もう駄目だ··········!! このままじゃ財布の中身が完全に空っぽになってしまう!! 説得はリンクさんがしてくれたからそのお礼も兼ねたけど、俺の提案のせいで別の悪夢が始まってる···········っ!!)
と、涙を流して現実的な金銭の絶望に打ちひしがれていた。
一方の義勇は、
(俺は一体、何のためにここへ来たんだ? 錆兎·········俺は今、ざる蕎麦の山に潰されている·········)
と、心が救われたはずの感動を全て蕎麦つゆの中に押し流され、魂が抜け殻のようになってただ虚空を見つめていた。
炭治郎の天然が引き起こした、早食いから大食いへと変わったこの勝負の結果は。
リンクの圧倒的な『暴食』を曝け出す形で決着を見るのだった。