「カアァァアアア!! 急ゲ!! 急ゲ!!」
空気を強引に引き裂くような、金切声に近い叫びが薄暗い山裾の小道に響き渡った。
産屋敷家の特殊な訓練を受けた鬼殺隊の目と耳である鎹鴉は、その翼を激しく羽ばたかせながら、生い茂る杉の梢や突き出た岩肌の隙間を不規則かつ急峻な軌道で飛んでいく。
「ま、待ってくれ········!!」
その影を追うリンクの口から漏れた言葉には隠しきれない困惑と、制約の多い追跡に対する焦燥が混ざり合っていた。
事の始まりはほんの数時間前、あの賑やかな街の蕎麦屋で繰り広げられた奇妙極まる大食いの応酬にまで遡る。
炭治郎の生真面目すぎる思いつきから始まったざる蕎麦の早食い勝負は、結果として異界の勇者が有する常軌を逸した底なしの胃袋を証明するだけの場と化していた。ハイラルの崩壊した大地において、如何なる料理をも瞬時に活力へと変換し尽くす体質を持つリンクにとって、百を超える麺など喉を潤す微かな前菜に過ぎない。
しかし、この世界の人間にとってそれは文字通りの限界を超えた苦行であった。一◯枚目を前にして内臓の許容量を悉く超過した炭治郎は、顔面を深海よりもさらに深そうな青色に染めて机へと沈没し、もはや指一本動かすことすら叶わない状態に陥った。
水柱としての威信を懸けて黙々と箸を動かし続けていた冨岡義勇もまた、リンクの計り知れない食欲と摂取速度の前に難なく完敗し、崩れ落ちる気力をどうにか繋ぎ止めて自邸へと這い戻るのが精一杯という有様であった。
結果として勝負の場に残されたのは、空のざるが天突くように積み上がった異様な光景と、それでもなお食い続けようとする異人の姿であった。
勝負よりも食事のことしか考えてなかったリンクは店で提供される全料理を制覇し、そして呆気に取られつつも店始まって以来の繁盛に調子に乗り、自分の蕎麦を気持ちよく食ってくれる外国人の青年に感動してほとんどタダにしてもらった。とはいえ何も払わないというのは申し訳なく、リンクは持ち合わせとしてこちらで言う金剛石の原石を店主へ手際よく支払いを済ませた後、意識を失いかけている炭治郎をその背へと慎重におぶった。
満腹のあまり微かな振動にすら苦悶の呻きを漏らす少年を刺激せぬよう重心の移動に細心の注意を払いながら来た道を戻り、一歩一歩踏みしめて冨岡邸へと進まなければならなかった。
冨岡の住む水柱邸へと辿り着き、静まり返った客間の奥に手早く布団を敷き、意識を失うように眠る炭治郎を、慎重にそこに下ろした。冨岡は少し用があると言って厠がある方へと歩いていき、それから一時間経っても出てくる気配はなかった。
そこで、だ。
ようやく一息つけるかと思われた安息の瞬間、静寂を突き破るように寝所の障子を力任せに開け、あの喋る黒い鳥が滑り込んできたのだ。
鎹鴉はリンクの頭上を狂ったように旋回しながら甲高い声で命令を叫び立てた。その言葉の意図を咀嚼する猶予すら与えられぬまま、青年は再び夜の帷が降りそうな中の外へと連れ出される羽目になったのである。
そうして始まった現在の疾走は、リンクにとって極めて変則的な試練となっていた。
狭霧山での過酷な修行。
そして精神世界における古の剣士との果てなき対峙を経て、青年の肉体は異界で培った並外れた身体能力と、この世界の呼吸の技術を高度に融合させつつあった。
肺組織を巡る空気の循環は極めて円滑であり、どれほど速度を上げて斜面を駆け上がろうとも、呼吸が乱れて息切れを起こすような段階はとうに超越している。強靭な脚力は湿った腐葉土や砕けた石を確実に捉え、前方への推進力へと変えていた。
しかし、肉体的な疲弊とは異なる次元の障害が彼の行く手を阻み続けている。
何よりも目指すべき最終的な目的地がどこであるのかをリンク自身が全く知らない。先導する鴉の気まぐれな飛翔だけが唯一の指標であった。そのため、青年は前方の路面状況を詳細に確認する余裕を奪われ、絶えず上空の小さな黒い輪郭を視線の中心に据え続けねばならなかった。
視線を上方に半ば固定したまま疾走するリンクの視界の端を、大正の夜の情景が、目まぐるしい速度で後方へと流れ去っていく。
それはハイラルの果てしない平原や見通しの良い街道とは根本的に異なる、密集し閉鎖された地勢の連続であった。町を抜けた途端、道は険悪な斜面へと変貌し、容赦のない山越えの行程へと突入する。幾つもの尾根を越え、深い谷を跨ぐたびに、周囲の景観はその密度を変えていった。
落ちてくる松の葉が青年の肌を擦り、夜露を浴びた水滴が微かな飛沫となって散る。
行く手を阻むようにして地表から覗く巨木の根、荷車の車輪が穿った不均一な深い轍、そして前方の闇から突如として現れる突き出た岩塊。
普通の人間であれば足元を狂わせて奈落へと転落しかねない険路を、リンクは野生的な直感と跳躍力だけで飛び越えていく。視界の端では月光に照らされた杉の群生がまるで巨大な黒い格子のように絶え間なく風に煽られ、遠くから聞こえる虫の鳴き声が、瞬く間に自然と同化するように消えていった。
急激な下り斜面に差し掛かると地表の湿気は一段と強まり、そしてそこで周囲の空気に変化が生じ始めた。
「?」
何か一瞬、
陽炎のように光が屈折したような、奇妙な空間の歪みがリンクの網膜を掠める。
長年の戦闘経験によって培われた野生的な直感が、明確な違和感を告げていた。
今しがた跨いだ目に見えぬ境界の先は、自然の光景から意図的に切り離された、異質な気配に満ちている。
周囲の山々には幾重もの結界や、侵入者の視覚と方向感覚を狂わせる特殊な術が施されており、一般の人間や通常の人喰いが偶然迷い込むことは決して叶わない。
そんな領域に侵入してしまったリンクは違和感を感じながらも頭上を飛ぶ鴉を必死で追いかける。見失わないようにするので手一杯で、違和感に疑問を持つ暇もないのだ。
いくつもの険しい山を越え、谷を渡る狂騒の果てに、ようやく鴉がその翼の羽ばたきを緩め、高度を下げた。
「到着ゥ!! 到着ゥ!!」
「うん分かった、分かったから········ッ!!」
その鴉の鳴き声がリンクを苛つかせる。とにかく着いてこいと言われて必死に追いかけていたリンクは、別の意味で疲れていた。不規則な軌道を描く鳥を視界に捉え続けるのは、いかに百戦錬磨の勇者といえど容易ではない。過剰な集中力を強いられたリンクの精神は、すでに限界を迎えつつあった。
リンクは思わず空を旋回する鎹鴉を睨むが、カァカァと気にしていないどころか煽るように鳴いていた。
「はぁ········」
これ以上苛立つのは不毛であると判断したリンクは、必死に追いかけてきたせいで噴き出た額の汗を拭う。
それにしても、だ。
密集した樹木の結界が拓けたその場所に現れたのは、事前に予測していたような所ではない。
生い茂る巨木と、不自然なほどに繁茂した野花に囲まれた、地図にすら載っていないであろう“古びた邸宅”。
「ここは────」
「
「!!」
不意に投げかけられた冷ややかな声に、リンクの全身の皮膚が粟立った。
声の主は薄暗い軒下の陰影から這い出るように姿を現した、“年若い少年”であった。
短く切り揃えられた頭髪に、書生風の衣服を纏っている。
その佇まいは一見すれば人間と変わらないが、リンクの直感は彼が先程山中で感じ取った『人ならざる生命』の波長の源であることを即座に識別していた。
少年の瞳には突然の来訪者に対する剥き出しの不快感と、張り詰めた警戒の念が宿っている。
「えっと、君は?」
「“あの方”と“あの女”が呼んだとはいえ·······本当にこんな不審な外人が来るとはな。おい、突っ立ってないでさっさとその貧相な足を動かせ。お前がその足で結界の境界を跨ぐたびに、俺の術に不快さが伝わって頭痛がするんだ」
「·······」
無視された。
少年は低く、ひどく苛立った声で吐き捨てると、青年に背を向けて邸宅の奥へと歩き始めた。
自己紹介もせずに淡々と背を向ける少年に思わずリンクはその無愛想な態度に僅かに眉を顰めつつも、先導する少年の足元へと視線を落とす。歩行の際に生じる衣擦れの音や足音が極限まで抑制されている。
やはりこの少年もまた、普通ではない。
気配を消すことに長けている。
古びた廊下を進む間も、少年の口から漏れる不満の呟きは止まる気配がなかった。
「お前をここまで連れてきたあの目障りな鴉もそうだ。隠れ家の真上で勝手に鳴き声を撒き散らし、追っ手や周囲の眼を晦ますために俺がどれほどの血を使ってこの土地の景色を捻じ曲げて視覚を欺く術を維持していると思っている? “あの方”の研究は───あの忌まわしい“鬼の始祖”を絶つための、この世界における唯一の希望なのだ。それをお前のような出所の分からぬ外国の剣士一人を招き入れるために術の一部を一時的に解除せねばならんとは·······未だに理解できん」
「あぁ、えっと·······なんかごめん」
「話しかけるな、異人と交わす言葉などない」
不快そうに背を向ける少年からはどことなく黒い気配が漂っているような気がする。
別に視覚化されてるわけではないが、直感でわかるのだ。
足音もなんか重いし、少年を見ていると体が突き刺すように痛いし、鼻もムズムズする。
それに少年の口調からはこの隠れ家がいかに徹底した秘匿の中に置かれているか、そして彼自身がその部屋の主である者の研究と安全に対して、異常なまでの傾倒と使命感を抱いているかが執念となって伝わってきた。
「いいか外人、あの方の前では絶対に無礼を働くな。その妙な衣服の汚れを部屋に落とすな。少しでも妙な動きを見せたら、お前の骨と内臓を潰してまともに歩けない身体にしてやるからな」
「え?」
それだけで少年の脅迫は終わらなかった。
一歩進むごとに、背後を振り返ることもなく、呪詛のような制約が次々と追加されていく。
「それからあの方に三尺以上近付くな。いや、半間たりとも間合いを詰めるな。同じ空気を吸い込むのもおこがましい、息をするのも控えろ。目線を合わせるなど以ての外だ、視線を床に縫い付けておけ。あの方の清らかなお声をお前のような不審な異人の鼓膜に通すのも忌々しい、耳を塞いでおけ。当然、こちらから許可するまで発言は一切許さん。言葉を発するな」
(·······息も吸うな、目も合わせるな、声も聞くな、喋るな、か)
いや·······無理があるだろう、と。
リンクは言葉には出さず歩みも崩さぬまま、内心で深く溜息をついた。
これまでにハイラルの地で出会ってきた一癖も二癖もある部族の長や、気難しい古代の研究者達の顔が脳裏を過ぎる。
だがここまで徹底して道理の通らぬ、生存そのものを否定するかのような理不尽を突きつけてくる存在には、流石に遭遇した記憶がない。そんな挙動を同時に実行すれば、それはもはや人間としての機能を完全に停止した動かぬ骸になる他ないではないか。
そんな理不尽極まりない注文に、リンクの内心は処理しきれない困惑で満たされていったが、少年はその沈黙を肯定と受け取ったのか不機嫌な気配を纏ったまま、通路の突き当たりにある一枚の重厚な木製の扉の前でようやく足を止めた。
彼はそれまでの刺々しい態度を一瞬で消し去り、背筋を正して、恭しく室内の主へと声を掛けた。
「“珠世様”·······“異界の勇者”と称される者が到着しました」
「!!」
一瞬、聞き捨てならない言葉が聞こえた気がした。
静まり返った廊下に、少年の一際通る引き締まった声が吸い込まれていく。
最上級の敬意の姿勢のまま微動だにしない少年の横顔をリンクは見つめた。少年から放たれていたあの刺すような肌の痛みと黒い気配が、この扉の手前で劇的に抑制され、内側へと抑え込まれていくのが分かる。
その直後。
扉の向こう側から、穏やかで気品に満ちた返答が響いた。
「入りなさい、“愈史郎”」
その一言で、少年の名前が初めて明かされた。
“愈史郎”と呼ばれた少年は、まるで神聖な儀式を執り行うかのように慎重な手つきで取っ手に手をかけ、木製の扉を静かに内側へと押し開いた。
開かれた室内の光景は、リンクがこれまで目にしてきたこの国の如何なる民家とも、あるいはハイラルの古代研究所とも異なる、独特の調和と知的な熱気に満ちていた。
部屋の四方を囲む棚には、複雑な曲線を描く硝子の蒸留器や試験管、禍々しい色の薬液が詰まった無数の小瓶が整然と並び、中央に据えられた大きな机の上には高度な医学書や経年で変色した古い巻物が広げられている。
部屋の隅にある炉からは、先程廊下で感じた薬草の香気が微かな蒸気となって絶え間なく立ち上っていた。
そして。
その机の傍らに、“彼女”は座していた。
古典的な友禅の和装を美しく纏った女性。
その肌は白磁の如く血色を欠き、目はどこか虚だった。その気配は今まで出会ってきたような『鬼』そのものの特徴を備えている。
だが。
その佇まいから漂うのは、命を脅かす捕食者の残虐さではなく、気の遠くなるような年月を隠遁と復讐の思索に費やした者だけが有する、深い慈愛であった。
「·······」
リンクの身体がこれまでの経験によって培われた警戒心を一段階緩める。
心臓の鼓動は常人のそれよりも遥かに緩慢であり、呼吸の周期は測ったかのように等間隔である。
眼前の存在が人間ではないこと。
同時にこれまで遭遇したどの魔物とも、そして人を捕食対象と見て地獄の飢餓に囚われた狂暴な鬼達とも根本的に異なる生命形態であることは、呼吸から伝わる五感の全てが告げていた。
女性は立ち上がり、リンクの方へと歩み寄ってくる。
「初めまして、リンクさん。私は“珠世”と申します」
□■□■□■
“珠世”という女性はリンクに向けて深々と一礼した。
その仕草には異界から訪れた者に対する、最大の敬意が込められていた。
「愈史郎。先程から随分とこの方に無礼な口を利いていたようですね。私達がこの世界で唯一信頼を置くことのできる産屋敷一族の今代の長、産屋敷耀哉·······その信頼を得た人物に対して、どのようなことがあろうとも、そのような態度は許されませんよ」
珠世の静かな、しかし有無を言わせぬ叱責の言葉に、先程まで尊大な態度を崩さなかった愈史郎が目に見えて狼狽し、深く頭を垂れた。
「·······申し訳ありません、珠世様」
部屋を支配していたあの刺すような肌の痛みと黒い気配が、彼女の一言によって中和されていくのをリンクは感じていた。
先程まで廊下で生存すら否定するような無茶な制約を並び立てていた少年が、いまや借りてきた猫のように大人しくなり、主の前で直立不動のまま縮こまっている。
そのあまりの豹変ぶりに、リンクは声には出さぬものの内心で呆れに似た息を吐いた。
「リンクさん、どうぞそちらへお掛けください。愈史郎が不快な思いをさせましたこと、重ねてお詫び申し上げます」
「いや、俺は別に全然気にしてないけど·······」
リンクがそう言うと、珠世は穏やかな身のこなしで部屋の中央に置かれた一対の背凭れのある椅子を差した。
リンクはその穏やかな案内に従い、衣服の汚れを払って一礼してから静かに腰を下ろした。彼が席に着いたのを見届けてから、珠世もまた対面の席へと滑らかに腰を落ち着ける。
部屋を支配する空気は確かに珠世の存在によって穏やかな調和を保っている。しかしリンクの鋭敏な五感は、部屋の壁際に影のように退いた一点から放たれる尋常ならざる重圧を正確に捉え続けていた。
思わず額から、困った時に流れ出る冷たい汗が流れる。
愈史郎は主の手前、これ以上の無礼を働くわけにはいかないため、完全に直立不動の姿勢を維持している。
しかしその内面から滲み出る敵意は、もはや皮膚を物理的に削り取るかのような鋭利な波長となって青年にぶつけていた。珠世という存在が放つ清廉で静謐な気配の檻がどうにかその凶暴な衝動を縫い留めているが、もしこの場から彼女の姿が消え去ればその瞬間に抑制の鎖は崩壊し、この狂信的な少年は一切の躊躇なく牙を剥いて、リンクの肉体を血の海へと沈めるに違いない。
それほどまでに濃密な排他性が、部屋の隅の暗がりで沈黙していた。
普通の人間であればその気配を浴びるだけで硬直するところであろう。
だが、異界の過酷な戦場において数々の巨大な魔物や邪悪の眼光を受け流してきたリンクは、その一途すぎる忠誠の暴走を内心で冷ややかに見つめつつも、正面の女性へと意識を集中させた。
珠世は机の上に置かれていた細身の硝子管にそっと指先を触れ、目の前のリンクを見つめた。
「産屋敷耀哉からの伝書により、貴方の戦果は聞き及んでおります」
「!!」
リンクは思わず僅かに目を見開いた。
彼女が発した鬼殺隊の最高指導者の名を呼び捨てにする独特の響きと、その後に続いた驚くべき言葉に、青年の思考が一瞬だけ停止する。
「そして······
珠世の声はどこまでも静かでありながら、一切の迷いなくリンクの本質を射抜いていた。
耀哉が何故自らの命が尽きかけてなお、そして相手が『鬼の女性』という鬼殺隊にとって本来は相容れぬ敵である存在に対して、異界の青年の最も重大な秘匿事項を明かしたのか。
それは、彼女の纏う空気の中に私欲による血への渇望ではなく、ただ一筋の、数百年に及ぶ『復讐』の意志が混ざり合っているのを、当主が完全に見極め信託を授けたからに他ならなかった。
一方は異界の過酷な戦いの中で百年の眠りを経てなお若き肉体を維持し、一方は数百年の闇を生きながら人としての理性を繋ぎ止めている。
その規格外の生存期間が、沈黙の中に独特の説得力を与えていた。
普通の人間であれば到底理解し得ない時間の歪みを、二人は互いの存在を通して共有していた。
珠世はさらに、その紫の瞳に学術的な熱を帯びさせて言葉を重ねる。
「早速ですが、本題に入ろうと思います······日輪刀という陽光を蓄えた刃を用いず、身体能力を爆発的に高める独自の呼吸法すら行使せぬ身でありながら、貴方は如何にして鬼を消滅させていたのですか? 私達が歩んできた数百年の医学の歴史において、彼らの再生細胞をそこまで完璧に無効化し得た事例は、陽光そのものを除いて他には存在しないのです」
「······」
珠世の真摯な問いかけに対し、リンクは即座には答えず、僅かな沈黙を選んだ。
自らが有する異界の技術や物資は、この世界の人間にとっては常識を根底から覆す危険な代物になり得る。見ず知らずの、それも人ならざる存在に対して容易に手の内を明かすべきではないという、長年の戦いによって培われた慎重さが彼の思考に歯止めをかける。
しかし、リンクはすぐにあの病床の当主の姿を思い出した。
産屋敷耀哉は自らの命が尽きかけてなお、この鬼の女性を完全に信用し、全てを託していた。
あの深い洞察力を持つ耀哉が、自らの、そして『百年の眠りから目覚めた異界の者』という重大な秘匿事項を明かしたのだ。
そこには必ず、相応の合理的理由と確固たる信頼がある。
(······あの人がこの人を完全に信用しているなら、俺も隠す必要はないな)
そう心の中で結論を下したリンクは、席からゆっくりと立ち上がった。その僅かな重心の移動に反応し、壁際に控えていた愈史郎の周囲の空気が一瞬にして凄まじい緊迫感を帯びて跳ね上がる。
だが、リンクはその重圧を完全に無視し、自らの背へと静かに右手を伸ばした。
流れるような動作で引き抜かれたのは、この大正の如何なる名工が鍛え上げた日輪刀とも異なる、特異な形状の白刃であった。
大空のような蒼色と翼を彷彿とさせる美しい護拳と、柄の頭に刻まれた三つの三角形からなる紋章。
その剣が鞘を離れた瞬間、室内を占めていた薬草の空気が、まるで一瞬にして一掃されるかのような圧倒的に清廉な気配へと塗り替えられた。
「ッ!!」
「ッ!?」
珠世はその紫の瞳を限界まで見開いた。
愈史郎にいたってはあまりの衝撃に言葉を失い、その場に縫い付けられたように硬直している。大切な人の前で剣を抜くという切腹ものに等しい行いをしておきながら、その剣を見た瞬間に息を呑んでいた。
自身の生命よりも重い主の眼前で、得体の知れない異人が刃を剥き出しにしたのだ。
本来であればその瞬間に血鬼術とか人間離れした体術を解き放ち、狂暴な突撃を以てリンクの肉体を八つ裂きにしていなければ説明がつかない。しかし、激昂の衝動が少年の肉体を突き動かすよりも早く、剥き出しになった白刃から放たれる圧倒的な気配が彼の全神経を強制的に支配し、縫い留めていた。
二人の鬼にとって、目の前にあるのは陽光を蓄えた鉄などという物質的な次元の代物ではなかった。
それ自体が邪悪を消し去り、闇を祓うためにのみ存在を許された概念としての輝きを放っている。
鬼という生命形態の根底にある邪の本質を、ただそこに存在するだけで内側から否定し、消滅させるほどの調和がその一振りの中に凝縮されていた。
彼らの細胞が、生存のための本能的な戦慄を上げて脳に警鐘を鳴らしている。
しかし。
それは無惨の血が放つ凶暴な支配の恐怖とは異なり、冬枯れの木々に積もった万年雪を春先の陽光が音もなく解きほぐしていくかのような、穏やかで慈悲深い光の顕現であった。
「これはマスターソード······俺の国に伝わる、退魔の剣だ。日輪刀のように太陽の光を蓄えているわけじゃない。でもこの剣自体が世界を脅かす邪悪な魔力や、闇の性質を持った存在を根底から打ち消し、滅ぼすことができる聖なる力を持っている。この世界の『鬼』が放つ気配も、俺の国にいる魔物達と根底にある本質は同じだった。だから日輪刀を使わなくとも、この刃で頸を捉えれば奴らの再生能力を無効化し、塵に変えることができる」
珠世は机に両手をつき、吸い寄せられるようにその白刃を凝視した。
その細い指先が、微かに震えている。数百年に及ぶ彼女の医術と、鬼の生態研究の常識が、異界の勇者が齎した一振りの奇跡の前に、いま音を立てて覆ろうとしていた。
そう説明しつつリンクは剣を背中に戻し、
「でも、この剣は一つしかない。だから他のみんなは鬼に対して対抗する手段を持っていない」
「それは、つまり············」
珠世は微かに息を詰め、その先の言葉を促すように青年を見つめた。
もしその唯一無二の武具が失われれば、あるいはリンクが戦線から離脱すれば、鬼に対して対抗する手段は途絶えてしまうのではないか。
「······ではどうやって?」
そんな珠世の純粋な疑問に対し、リンクは無言のまま、腰のポーチへと手を伸ばした。
取り出されたのは、表面が微かに自発的な燐光を放つ、『未知の木の実』であった。
「「ッ!!???」」
それを見た瞬間に、珠世と愈史郎の二人は体に鋭い電撃が走ったかのような強い恐怖心を覚えた。
彼らの内に流れる鬼の細胞がその小さき物質に対して、夜の支配者たる無惨の怒りすら生温く感じられるほどの本能的な拒絶反応を示していた。
それは生命そのものを消滅せしめる、あの忌まわしき日の光に対する恐怖に他ならなかった。
「あ·········!!」
二人の肌が瞬時に青白く染まり、愈史郎が主を守るように身を強張らせるのを見て、リンクは即座に相手が抱いた感情の正体を察知した。
話している相手が鬼であったこと、そしてこれが太陽の光と同じ性質を持つ木の実であるからだと理解したリンクは、すぐさまそれをポーチの奥深くへと戻し、隠した。
「驚かせてすまない。今見せたのは“カガヤキの実”。地面に投げつけると太陽のような強烈な光を発するんだ」
「カ、カガヤキの実··········?」
青年の穏やかな謝罪と共に細胞を焼くような不穏な波動が室内の空気から消え去っていく。
珠世は浅い呼吸を整えながら、先程まで眼前にあった恐怖の木の実が残した残像を、未だに信じられない思いで凝視していた。
「·········あれは単なる発光現象を遥かに超えている。日輪刀の刃が鋼に陽光を蓄えるものであるなら、あの実は植物の器官そのものが光の性質を内包しているというのですか」
彼女の驚愕に満ちた呟きを背に受けながら、リンクは今度こそ自らの目的であるもう一つの生薬について語るべく、慎重に次の物資の準備を進めた。
「でもこれも現在の持ち合わせがあるだけで、この世界の土や気候じゃ育たないみたいなんだ。だから、使い切ればそれでおしまいになる」
「やはり、そうなのですね········それほどまでの自然に反した奇跡の代物、この地で容易に量産できるはずがない。決戦における主力兵器として配備するにはあまりにも有限な資源ということですか」
珠世は深く息を吐き出し、医学者としての冷静な計算を脳内で巡らせる。
しかし落胆する彼女の前で、リンクは今度こそ自らの本来の手段であるもう一つの生薬について語るべく、静かに腰のポーチへと手を伸ばした。
「だからお館様は“これ”を使ってほしいって、その可能性を信じて貴女達に俺のことを教えたんだと思う········ほら」
青年がポーチから取り出したのは、まるで日中の陽だまりそのものを閉じ込めたかのような黄金色の花弁を持つ花であった。
「これは、“ヒダマリ草”。天空に浮かぶ特殊な高地で自生する植物だ」
□■□■□■
その花弁は自発的に光を放っているわけではない。
しかし。
薄暗い研究室の灯火の下にあってもなお、まるで雲を遥かに見下ろす高空の過酷な陽射しと大気をその身に直接吸い込んで育ったかのように、鮮烈な黄金色に染まりきっていた。花でありながら、そこからは瑞々しいまでの陽の生気と、この世界のいかなる四季の植物とも異なる独特の香気が、微かな熱量と共に周囲へと放出されている。
だが、それでもなお壁際に控える愈史郎の身体が微かに強張った。
その目には、主の安全を脅かしかねない未知の物質への根深い猜疑心が宿っている。
「これは········!!」
珠世は吸い寄せられるように、その黄金の薬草を見つめていた。
彼女は震える指先を伸ばし、割れ物を扱うかのような慎重さでその花を手に取る。
「気を付けて、俺と一緒にいた竈門禰豆子は触れても平気だったことから体内に入れない限り害はないみたいだけど、貴女もそうだとは限らない。上弦の鬼にも効くか確かめてないんだ。その前に倒しちゃったから」
その警告の言葉に珠世は指先を僅かに止めつつも、静かに花弁の表面へと触れた。
鬼という生命形態にとって、太陽の光は一瞬で肉体を灰へと帰せしめる最大の脅威である。しかし、日輪刀に鍛え上げられた鋼がそうであるように、その花の中にある光の因子は刃や生薬を媒介にして『肉体の内側、細胞の深部』へと直接侵入せねば、本来の劇的な破壊作用は発揮されない。
そのため皮膚が直接この葉の表面に触れたところで、鬼としての致命的な消滅反応が起こることはなかった。
珠世は手の中に収まった薬草を、卓の明かりに近づけて直接に観察し始めた。
拡大鏡を用いるまでもなく、その独特な葉脈の走り方や、花なのに陽の生気を物質として閉じ込めている異常な組成は、彼女の鋭い目に焼き付いていた。
「これは·······まさか·······!?」
注視を続ける珠世の頭脳の奥深くで、何百年もの間決して色褪せることのなかった古い記憶の断片が唐突に蘇り始める。
それは彼女が未だ無惨の絶対的な呪縛に囚われ、その傍らで医学の知識を搾取されていた時の記憶。
『鬼となったからには私に従え───私のために“青い彼岸花”を見つけ出し、調合しろ』
あの残虐極まる鬼の始祖が千年の時を費やしてなお血眼になり、配下の鬼を日本全国へと派遣して捜索させ続けている、幻の花。
日光を克服し、全知全能の完全なる存在へと至るために無惨が渇望してやまない、あの青い色を宿した花。
この世界のどこに咲くのか、どのような環境で育つのか、無惨が増やした鬼達の目を通して日本中を探し回っても、未だに誰一人としてその所在を突き止めることが叶わない、歴史の闇に隠された幻の植物。
そして今。
彼女の細い指先の上にあるのは、その誰も知らぬ青き花とは対極を成すかのような、天空の陽射しをその身に凝縮した眩い黄金色の草であった。
(対を成している。あの男が千年間求めて止まない青い花と·······この天の光を宿して育つ黄金の花は、互いの因果の対極に位置する存在·······ッ!!)
その真実に思い至った瞬間、珠世の胸にこれまでの医学研究では味わったことのない、震えるような執念の焔が灯った。
もし。
このヒダマリ草の成分を解析し、自らが精製している『毒薬』の核として組み込むことができたなら。
それは無惨が求めた夢の形を最悪の結末へと反転させる、究極の『兵器』となり得る。
彼女は深く息を吐き出し、その瞳に激しい熱を灯してリンクを見つめた。
「仰る通りです、リンクさん。これ単体では上弦と呼ばれる強力な個体を完全に消滅させるには至らないかもしれません。彼らの変異速度は毒素を瞬時に分解してしまいます·······ですが、もし私が現在開発している、無惨の細胞の再生能力を根本から阻害し、人間のそれへと退行させる薬·······その核としてこの成分を配合できたなら、話は完全に変わります」
珠世の言葉に、背後で張り詰めていた愈史郎の気配が揺らいだ。
「この植物が持つ太陽の因子を、薬によって鬼の遺伝子情報へと直接送り込むのです。そうなれば、
彼女は両手を卓につき、深く頭を下げた。
その細い肩には数え切れないほどの同胞の無念と、己が犯してきた過去の罪への贖罪の念が目に見えぬ重圧となって圧しかかっている。
「リンクさん、不躾なお願いであることは百も承知しております。ですがこの貴重な植物を、どうか私に分けてはいただけないでしょうか? この世界の全ての人間の未来のために······そして、あの男との長年の因縁を終わらせるために」
静まり返った研究室の中に、珠世の切実な訴えの余韻が重く充満していく。
目の前の女性が背負う宿命の重みと、そこに込められた並々ならぬ復讐の意志の強さを、リンクはただ静かに受け止めていた。
彼は椅子からゆっくりと身を起こすと、腰の帯に吊るしたあの小さなポーチへと再び手を伸ばした。
外見からは想像もつかないほどの収容量を有するその不思議な袋の中から、先程提示したものと同等の鮮烈な黄金色に染まりきった『ヒダマリ草』の束を、惜しむことなく次々と卓の上へと並べていく。その数は、一輪や二輪という実験用の端数ではなく、彼女がこれからの研究と精製に充分な試行錯誤を繰り返すことができるほどの、確かな分量であった。
「もちろん。元々そのために俺はここへ案内されたんだと思うから。使えるだけ使ってくれ」
リンクの迷いのない、そして極めて真っ直ぐな返答に珠世は伏せていた顔をゆっくりと上げ、その紫の瞳を微かに震わせた。
「これほど貴重な資源を、こんなにも多くいただけるのですか?」
「あぁ······ただ、さっきも言った通り、この世界では新しく育てることができない有限の物資だ。だからこれが俺が今渡せる全ての在庫になる。鬼の始祖を倒すための薬、必ず完成させてほしい」
青年が差し出した黄金の花の山を見つめ、珠世は胸の奥から湧き上がる熱い感情を噛み締めるように。
再び深く、感謝を込めて頭を下げた。
「はい······必ずや、このいただいた花と私の研究の全てを以て、あの男の呪いを断ち切るための薬を創り上げてみせます」
「············ッ!!」
主がこれほどまでに頭を下げ、未知の異人と固い約束を交わす姿を背後で見つめていた愈史郎は、その場から動くこともできず複雑に入り混じった感情をその目に宿していた。
主の悲願が成就するための決定的な糸口が見つかったことへの安堵と、それを齎したリンクとかいう存在への根深い嫉妬、あるいは『もしこの男が持ち込んだ物資が原因で、珠世様が予期せぬ危険に晒されたら』という狂信的なまでの懸念が少年の体中を駆け巡っていた。
愈史郎は壁際から一歩前へ踏み出し、リンクに向けて未だ刺々しさを完全に隠しきれない声で釘を刺した。
「おい、外人。珠世様がここまで仰る以上、俺がこれ以上口を挟むことはしない。だが、もしお前が持ってきたその妙な花のせいで珠世様のご研究に少しでも悪影響が出たり、危機が及ぶようなことがあれば·····お前がどこへ逃げようと、俺は絶対に許さないからな」
「··········」
リンクは言葉を返す代わりに、困ったように引き攣った笑みをその顔に浮かべるしかなかった。
さっき扉の前で『息をするな、目も合わせるな』と言われた時と同様、この少年の思考回路を覆う偏愛の深度、そして理性を超えた過剰な情愛は異界の勇者であるリンクの理解の範疇を遥かに超越している。どのような理屈を並べたところで、主以外の存在をすべて敵と見なす彼には届かないのだろう。
だが。
その少年の暴走一歩手前を制したのは、他ならぬ主の凛とした一喝であった。
「愈史郎!! リンクさんは私達を信用して貴重なこの花を全て譲ってくれたのです!! 次にそのような無礼な態度を取ったら許しませんよ!!」
研究室の硝子器具が微かに微動するほどの、いつになく激しい珠世の叱責。
その紫の瞳には、異界から信頼を携えて訪れた使者に対する無礼への、本気の怒りが灯っていた。
「はい!! 珠世様!!」
言葉が終わるよりも早く直立不動の姿勢を取り、弾かれたように少年は返事をした。
その声には微塵の躊躇も逆らう意志もなく、ただただ絶対的な従順さだけが満ちている。
だがそれほど厳しく窘められ、破門を言い渡されかねない局面に立たされていながら、少年の脳内を占めていたのは反省や恐怖ではなかった。頭を深く垂れた少年の視界の先、怒りによって微かに頬を染め、語気を強めた珠世の横顔を見つめながら、彼の心は別の熱情で満たされていた。
(ああ、珠世様。怒った顔もなんと神聖で、美しいのだろう··········!!)
「····················」
その狂信的なまでの心酔ぶりは、リンクの鋭い直感にも生々しく伝わっていた。
少年の周囲から放たれていたあの皮膚を刺すような敵意が珠世の一言によって一瞬にして吹き飛び、代わりに奇妙なまでの充足感と熱烈な思慕の気配へと変質していく。そのあまりの変わり身の早さと複雑な生体反応に、リンクは今度こそ完全に呆れ果て、引き攣った笑みのまま内心で天を仰いだ。
珠世は深く息を吸い込んで自らの昂ぶりを静めると、改めてリンクに向き直り、今度は心からの申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ありません、リンクさん。本当にこの子は私のことになると周りが見えなくなってしまって··········」
「いやいいよ、それだけ貴女のことが大切なんだろうし··········」
リンクが苦笑交じりにそう告げると、壁際の少年が『当然だ、お前に言われるまでもない』と言いたげにフンと鼻を鳴らした。
そのやり取りを経て、室内の張り詰めていた空気はようやく確かな信頼に基づくものへと変化していった。
珠世は卓の上の黄金色の山、『ヒダマリ草』の束に視線を戻し、その細い指先で慎重に一本の茎を持ち上げた。
「早速ですが、この植物の成分抽出と現在進行している薬の開発への実験を開始しようと思います。リンクさん、もしよろしければこの花が自生していた環境や、貴方の世界における薬理的な利用法について、もう少し詳細にお聞かせいただけないでしょうか」
「ああ、俺の知っていることなら何でも話すよ。実は俺の故郷でも、料理や薬を作る時には色々と組み合わせて効果を高めたりしていたんだ」
こうして。
世俗から完全に隔離された山奥の隠れ家において。
百年の眠りを経た異界の勇者と、数百年の闇を生き抜いた鬼の医学者による。
無惨討伐に向けた歴史的な共同研究が本格的に幕を開けた。
□■□■□■
夜を明かすまで続いた対話の果て、研究室の空気は調合の熱気と無数の薬草が混ざり合った独特の香気で満たされていた。
頑丈に閉ざされた板戸と愈史郎が敷地に施した特殊な細工によって、邸宅の内部には外の気配が一切届かない。しかし、リンクが自身の感覚で時間の経過を逆算すれば、外の世界には既に夜明けが訪れているはずであった。彼らがいる部屋、遮光された空間は暗黒のままであったが、外の世界は刻一刻と二人の鬼にとっては命を脅かす陽の領域へと変わりつつある。
「───つまり、貴方の世界における『調合』とは、ほぼ『調理』と同じであると?」
珠世は長時間の思索による疲弊を微塵も感じさせない眼差しで、卓上に書き連ねた記述を注視していた。
彼女が驚嘆していたのは、リンクが語った異界の『調理』の仕組みであった。
青年が有する知識は、厳密には学術的な医学書に基づくものではなく、広大なハイラルの旅路で培われた、極めて実践的な料理の経験則に過ぎない。
しかし、その内容はこの世界の医学を修めた彼女にとって、未知の知性に満ち溢れていた。
「うん。ヒダマリ草は体内に入り込んだ『瘴気の毒』を打ち消すだけの強い生気を齎すんだ。でも、これを野生の獣肉や特定のキノコと合わせて高温で一気に調理することで、食材が持つ本来の生命力が跳ね上がる。傷を塞ぎ、肉体の損傷を瞬時に癒す。一種の薬膳として機能するんだ」
リンクの説明は詳細を極めた。
植物の繊維に含まれる陽の因子が動物性の脂質と熱によってどのように安定し、摂取した者の活力へと変換されるのか。顕微鏡も硝子管もない世界で、ただ生存のために洗練されたその技術は、珠世が開発中の『秘密兵器』の、特に成分を安定させて鬼の遺伝子情報へと浸透させるための大きな着想源となっていた。
壁際に佇む少年は不満を顔に張り付かせたまま、しかし主の役に立つ情報である以上、一言半句たりとも聞き漏らすわけにはいかないという執念で、その言葉を悉く書き留めていた。
「充分に参考になりました、リンクさん。貴方が齎してくれたこの調理の仕組み·········熱による因子の結合という視点は私が精製している毒物の浸透速度を高める鍵となるでしょう」
珠世は深く感謝を込めて一礼した。
青年もまた、椅子の背から立ち上がり、軽く身体を動かして硬直した関節を解きほぐす。
「役に立てたなら良かった·········俺はそろそろ行かないと、鈍った体を戻さないといけないから」
「そうですか·········そういえば今鬼殺隊は『柱稽古』をしているんでしたね」
リンクの脳裏には、狭霧山の鱗滝左近次から事前に言い含められていた、鬼殺隊の次なる動向が浮かんでいた。
隊士達の練度を引き上げるための大規模な合同訓練。
通称───“柱稽古”。
日輪刀も呼吸も持たぬ異界の勇者ではあったが、彼もまた一人の戦力として、その試練の場への合流を求められていたのだ。
「健闘を祈ります、リンクさん」
「そっちも、研究が上手くいくように祈ってるよ」
互いに言葉を交わし、短く頷き合う。
珠世の穏やかな見送りの言葉と、背後から突き刺さる愈史郎の『二度と来るな』と言わんばかりの無言の不満を背に受けながら、リンクは邸宅の頑丈な出口へと向かった。
幾重もの遮光の幕を潜り、外へと一歩を踏み出した瞬間、リンクの視界に眩い朝の光が飛び込んできた。杉の木立の向こう側から東の空が白く染まり、朝露に濡れた苔の石畳が白銀の小道のように輝いている。背後を振り返れば、少年の術によって景色が陽炎のように歪み、古びた邸宅の姿は最初からそこになかったかのように深い木々の緑の中に完全に消え去っていた。
世界から隔離された秘密の隠れ家を後にし、結界の外へと続く小道を歩き始めた、まさにその時であった。
「───おや? 随分と早いお出ましですね、リンクさん」
「!!」
不意に。
木陰の先から、穏やかな声が響いた。
そこに佇んでいたのは、蝶の羽を模した羽織を軽やかに揺らす女性───胡蝶しのぶであった。
本来であれば、彼女も昨夜の時点でこの隠れ家にてリンクと合流する手筈となっていたはずであった。しかし他所での急を要する患者の診察、あるいは何らかの事情が重なり、到着がこの朝方にまで遅れてしまったのだという。
「できれば私もお話ししたかったですが、これから柱稽古へ向かわれるのですか?」
「うん、もう俺が持ってる知識は全部話したからね。もしかして、君がここに来たのって────」
「ふふっ、相変わらず精が出ますね。道中くれぐれもお気を付けになさってください」
しのぶはいつものように完璧な形の微笑みをその顔に張り付かせ、小首を傾げて青年を見上げていた。その佇まいはいつも蝶屋敷で負傷者達を治療している彼女と、何ら変わりはないように見えた。
「··········」
リンクはそれ以上、言葉を重ねることができなかった。
目の前の剣士が放った、流れるような、しかし明確な境界線を引くための相槌。
それは自らの内側にある『何か』に、彼であってもこれ以上は一歩たりとも立ち入らせないという、氷のように冷たく頑なな拒絶の意思が込められていた。
会話を遮られ、別れの言葉を告げられたリンクは僅かに目を細めて眼前の蝶の剣士を凝視した。
────何かがおかしい。
「ねぇちょっと」
すれ違いざま。
リンクの口から漏れた呼びかけに、しのぶの羽織が小さく揺れて動きを止めた。
「何か気分悪い?」
直球の、しかし純粋な気遣いを含んだその問いに、しのぶの動きが静止した。
「何故?」
ほんの数拍の、しかし重い沈黙の後に返ってきたのは、いつもの穏やかな響きとは僅かに質の異なる声色であった。
しのぶは完璧な笑みを顔に張り付かせたまま、その瞳でリンクを真っ直ぐに見つめ返してくる。
その視線を正面から受け止めながら、リンクは静かにこう訊いた。
「·········
その一言が落ちた瞬間、周囲の空気が文字通り揺らぎを帯びた。
言葉そのものが鋭利な刃となって、彼女が頑なに維持していた調和の壁を切り裂いたかのような、張り詰めた緊張が空間を支配する。
しのぶの瞳の奥が一瞬だけ大きく見開かれ、羽織を揺らす風の音さえも消失したかのような錯覚をリンクに抱かせた。
これまでに遭遇したどの強敵の威圧とも異なる、“
だが、それもほんの一瞬のことであった。
しのぶは細い喉を僅かに上下させると、何事もなかったかのように再び唇の両端を吊り上げ、いつもの声を響かせた。
「いいえ?」
それ以上の言葉は交わせなかった。
彼女は軽やかな足取りを再開し、リンクを置き去りにして、先程彼が出てきた不自然に歪む森の奥へと消えていく。
「·········」
リンクはその場に立ち尽くし、彼女が去っていった道の先を見つめていた。
最後の瞬間にしのぶが見せたあの表情。
微笑の仮面がほんの僅かに罅割れ、その奥から覗いた凍てついた違和感の正体が何であるのか、今の彼には知る由もない。
だが。
あの太陽の光を吸収した花が、彼女の内に秘められた想いを叶える鍵となることを願いながら。
リンクはその胸に言い表せない不穏な予感を抱えたまま、ゆっくりと朝露に濡れた道を歩き始めた。