もうこの稽古場に来てから五日は経っていた。
最初の試練、基礎体力強化を目的としているこの場では、大体走り込みが多い。
走ることこそが一番の体力強化の近道であり、そしてリンクが体力を気にすることなく走り続けられたのは昔のこと。
一◯◯年前。
騎士として厳しい訓練を受けさせられ、結果出来上がったのが完璧超人だった。リンクにとってはそれが日常で、できて当たり前の世界であった。
あの時代は厄災の復活目前だったため、全ての騎士に厳しい訓練を強要していたが、リンクだけはもっと厳しかった。近衛騎士志願者が何人も脱落するほどのその訓練はあまりにも過酷で、集まった若者達の何人かは文字通り命を落としたほど。
まず、体力づくりの基本として『崖登り』をやらされた。
下は断崖絶壁、落ちればあの世行き。
騎士だから剣を振るうだけと思っているのなら、それは大間違いだ。確かに剣を振るうが、その腕が脆くては意味がない。だから当時の訓練では命綱なしの崖登りが基本で、手を離したら崖下に落ちるという極限の緊張感の中、皆が一生懸命だった。
新人達がへっぴり腰で剣や槍の訓練をしている姿を見て、ハイラルの隊長陣は日々一抹の不安を覚えていた。
果たしてこれで大丈夫なのか───と。
だからこそ。
新人達のほとんどが脱落する中で、リンクは特に体力面が優れており、誰もが脱落した『崖登り』を難なく突破した。
他の訓練、例えば水も食料も支給されず、各々が自給自足で生き残れるように七日間ほど森の奥地に放り込まれたのもある。弓も剣も持たされず、皆が何か武器になりそうなものを作る中で、リンクはそこらの木の棒に石をくくりつけて簡易的な斧を作ったり、棍棒を使用して野生の鹿や猪を狩って生き延びたりと、そういう生存戦略への知識も豊富だった。
つまりリンクはとにかく戦闘面での達人となるように育て上げられていたわけだ。
剣の才能があることを知ってから、リンクにはハイラルの希望となるようにと過酷な訓練を強いられ、結果彼は勇者となり、英傑となったわけだ。
それは彼にとっては日常、しかし他の者には地獄だったろう。
だからこそ、彼が一度隊長役に指名され、兵士達への訓練内容を考えた結果、当時の上司にあたる騎士長から『リンク、考え直してくれ。これでは誰もついていけない』と、困惑の混ざった言葉と共に訓練内容の再考を求められたほどであった。
彼にとっては当然の基準でも、凡庸なる兵士にとっては生命の灯火を削り取る地獄の宣告。
「はぁ······はぁ······ッ!!」
「つ、疲れ、る············ッ!!」
その一◯◯年前の記憶の残像が、いまこの日本の険山を這うように進む一般隊士達の悲惨な有様へと音もなく重ね合わされていく。
長い眠りは勇者の強靭な肉体から確かに当時の体力を削ぎ落としていた。全盛の力を失った肉体は、本来であればこの険しい道を前に息が上がるはずだった。実際一◯◯年後の彼は走り出すとすぐに呼吸が乱れ、弓を引き絞る際の集中力も落ちていた。
だが。
今の彼には、狭霧山で刻み込んだこの世界特有の技術がある。
「スゥ───!!」
その息は無音に近く、しかし一切乱れがない。
全集中の呼吸。
それは人体が本来持つ生命の循環を、肺の微細な伸縮によって人為的に拡張する異能の域に相当する技法であった。
等間隔に刻まれる規則正しい呼吸の周期。
気道を通り抜ける空気が細胞の最深部に至るまで均一な活力を浸透させていく。自然の恵みとされるその豊潤なる空気の恩恵は、かつての長き眠りによって失われていた肉体の限界値を補填する役割を果たしていた。
「いいなお前!! なかなかやるな!!」
「!!」
と、そんな彼の元にいつの間にかあの片目が派手な眼帯で塞がっている剣士が並走していた。
さっきまで前の方を走っていたはずなのだが、宇髄天元は空間能力を有しているのか、隊全体の様子を把握してへばっている者がいたら叩き起こすようにいつでもどこでも駆けつけるようで、
「おら!! お前らいつまでも地面舐めてないでこいつを見習え!! さっさと腕を振れ!! 足を前に出せぇぇぇえええ!!」
「「「「「「「「「「は、はい!!」」」」」」」」」」
悲鳴にも似た若者達の声が木霊する。
宇髄はそれ以上の言葉をかけることなく、巨体に似合わぬ無駄のない重心移動を以て再び影が滑るような速力で斜面の上方へと消え去っていった。
その凄まじい移動速度のまま、宇髄は前方をふらつきながら進んでいた隊士の一人へと瞬時に肉薄する。
そして。
その男の鳩尾の手前へと、容赦のない速度で竹刀の先端を突き入れた。
「グホッ!?」
「そんなんで早く動けるか!! もっと走れるように腹に空気入れろ!!」
「は、はい!!」
地鳴りの如き大声が周囲の木々を激しく揺るがす。
突然の衝撃と怒号に、突かれた隊士は思わず息を詰め、言われた通りに必死になって肺の最深部へとありったけの空気を吸い込んだ。
肺へ大量の空気が満ちて巡り出す。
すると、先程まで鉛のように重かったその男の足取りが、不思議なほど軽く滑らかに前方へと進み始めた。
動きが速くなった男の様子を隻眼で捉え、宇髄は押し当てていた竹刀をすっと退けてそのまま先へと行かせる。
「気合い入れろ!! 日が暮れる前にさっさと動け!!」
容赦のない、しかし確実に命を繋ぐための掛け声が再び険しい斜面全体へと響き渡る。
すぐ前方に展開される元忍によるあまりにも破天荒で、だが効率的な訓練の有様。
それを観察していたリンクは、後方の一般隊士達の様子も気にかけながら、その口元に心配と親近感の混ざった微かな苦笑を浮かべていた。
「宇髄さん、今日も気合が入ってますね!!」
そこで不意に、すぐ真横へと追いついてきた炭治郎が息を弾ませながらそう声をかけてきた。
炭治郎は他のみんなと違って表情は爽やかで、その額から流れる汗が気持ちよさそうであった。
あの時の言葉通り、この訓練には前向きらしい。
「そうみたいだね」
リンクは小さく頷き、少年の活気ある声に合わせるように自らの速度を一段階引き上げた。
天元の激しい怒号を浴び、斜面にしがみついていた一般隊士達が一斉に死に物狂いの形相で走り始めている。前方の山道は不揃いな足取りで必死に斜面を駆け上がる若者達の波によって、にわかに混雑を極めつつあった。
その死屍累々とも言える乱れた隊列の隙間を、リンクと炭治郎は並んで滑らかに縫い進んでいく。
肺の伸縮が齎らす無音の循環はリンクの肉体を信じ難いほど軽く、そして強靭に維持していた。長き眠りの代償として失われていた無限の体力を補うように、絶え間なく体中を巡る自然の恵み。驚くべきことに、傾斜がどれほど鋭さを増そうとも、その足に疲弊の重みが伸し掛かる気配すら存在しない。ただひたすらに、地表を蹴り出す感触だけが心地よく脳の奥へと伝わってくる。
ただ移動の持続を保つという一点において、この呼吸法を得た勇者の肉体は、過去の記憶にある自身の全盛期すら超える軽さを獲得していた。
一切の息切れを見せず、どれほど走っても疲弊という概念そのものが体に訪れないのだ。
リンクは自らの内に湧き上がる静かな高揚感を噛み締めながら、前方の難所へと視線を向けた。
足元がふらつき、今にも後方へと滑落しかねない隊士達の不規則な動き。
あるいは、宇髄の竹刀を避けるために慌てる若者の背中。
それらの崩れた重心や衣服が擦れる微かな風切り音を、調和を取り戻したリンクの五感は完全に先読みしていた。
「右から抜けるよ、ついて来れる?」
「はいっ!!」
短い合図と共に、リンクは上体を滑らかに変転させた。
密集した人波の僅かな隙間を紙一重の距離感で、一切の減速を伴わずにすり抜けていく。
険しい斜面を縦横無尽に滑るような機動力。
鬼殺隊の呼吸法という未知の技術を得たことで勇者が本来持っていた卓越した生存戦略の体術は、今や完全に新しい異次元の並走戦へと昇華されつつあった。
「·········っ!!」
背後で必死に食らいついてくる炭治郎が、その驚異的な身のこなしの洗練さに呆気に取られたような短い感嘆を漏らす。
隊士達の波を完全に置き去りにし、二人の足取りがさらに加速していったその時。
上方から彼らの動きを凝視していた宇髄天元の隻眼が、派手に歪むのをリンクの鋭い視覚が確かに捉えていた。
□■□■□■
それから一時間が経過した、昼下がりの河原。
清涼な川のせせらぎが響く稽古場の一角には、午前中の地獄のような過酷さから一転して、食欲をそそる香ばしい匂いと日本の美味が齎らす賑やかな熱気が満ち満ちていた。
宇髄の最愛の妻達である雛鶴、まきを、須磨の三人が汗を拭いながら手際よく立ち働き、山盛りに用意されたおにぎりや汁物を帰還した隊士達へと次々に配膳している。
「皆さん、たくさん食べて午後に備えてくださいね」
雛鶴が柔らかな微笑みを浮かべて大振りの椀を差し出すが、それを受け取る若者達には、もはやまともに箸を動かす気力すら残っていなかった。
天元の容赦のない叱咤に晒され、険しい斜面を死に物狂いで往復させられた一般隊士達全員が顔面を白く引き攣らせ、地面に力なく蹲っている。全身の疲弊は彼らの消化器官の許容量をも著しく低下させており、雛鶴達の心尽くしの料理を前にしても『もう、何も、入らない···········っ!!』と無様に力なく倒れ伏す者が大半であった。
しかし。
そんな過酷な訓練で数多くの犠牲者が生まれた惨状でも、ただ一人だけ無限の食欲を見せつける異常者がいた。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよあんた!!」
「──────!!」
まきをが驚愕を通り越して呆れ返ったような大声を響かせる。
ガツガツガツガツバクバクバクムシャムシャーッ!! と勢い良く食べていくその姿はもはや怪奇現象だ。
リンクが座る周囲には、すでに数百個分にも及ぶ空の器や握り飯を包んでいた竹皮の山が凶悪な高さにまで積み上がっていた。
「な、なんて食欲してるんですか!? こんなに食べられるなんて!! もうおかわりが無くなっちゃいそうですゥゥゥウウウウウウウウッ!!」
須磨が身振り手振りを交えながら涙目でその驚異的な光景に絶叫する。
周囲で息も絶え絶えになっていた一般隊士達もその騒がしさに重い頭を上げ、リンクの底なしの胃袋の有様を目撃した瞬間に『嘘だろ!?』や『あんなに動いておいて········!?』に『あの体のどこに入っていくんだよ········ッ!?』などという声が交錯し、全員が驚愕のあまり思考を停止させていた。
この異国の人型怪人はあれほどの険しい山道を誰よりも早く駆け抜けておきながら、体内から『満腹』という気配が微塵も漂ってこないのだ。
ハイラルの過酷な平原において、如何なる重量の料理をも瞬時に活力へと変換し尽くしてきた神の胃袋。
全集中の呼吸を得たことで五感の調和を取り戻し、さらなる変化を遂げたリンクの肉体は、日本の美味しい物への暴食を全身で体現するように箸を動かし続けていた。
「ご馳走様·······それじゃあ次のお代わりを貰ってもいいかな?」
信じ難いほどに平然とした口調で、さらなる追撃の言葉を響かせる。
皆が食欲をなくしている中で、脅威的な暴飲暴食を見せつけるリンクはどんな時でも我が道を行く。
腹が減っては戦はできぬというが、彼の場合は戦いそのものと同等か、それ以上にこの食事の時間が重要であった。
崩壊したハイラルの地において、如何なる強敵の襲撃を受けようとも、ただ焼き上げた肉や果実を口の中へと納めるだけで瞬時に活力を全快させてきた超常の肉体。鬼殺隊の呼吸術とは異なる勇者だけが有するその固有の性質は、誰もが大きな動揺を隠せないほどの唯一無二の燃料補給として機能していた。
「ま、まだ食べるっていうの!? す、須磨、まだ残ってたっけ!?」
「え、ええと········っ!!」
あまりの食欲に戸惑いを隠せないまきをと須磨が引き攣った笑みのまま振り返り、配膳を続けていた雛鶴もまた未だかつて見たことのない大食漢の有様に目を丸くしながらも『ふふ、気持ちのいい食べっぷりですね。すぐに追加を用意します』と嬉しそうに頷いた。
その傍らで、どうにか己の限界まで飯を掻き込んでいた炭治郎が、
(リンクさん、やっぱり凄いな········あのざる蕎麦の時も思ったけど、あの人の胃袋は一体どうなってるんだろう?)
と、額の汗を拭いながら畏敬の念の混ざった丸い瞳で異国の青年を見つめていた。
□■□■□■
その驚異的な食事の様子を、少し離れた川沿いの大岩の上から凝視している男がいた。
太い腕を組み、宝石の埋まった眼帯が派手に目立つ元音柱の宇髄天元は、どれほど急峻な斜面を往復させようとも息一つ乱さず、それどころか帰還した途端に常軌を逸した量の料理を食らっているリンクの姿を、その片目で見つめていた。
(ホント、派手にいいなあいつは。それだけじゃねぇ、他の奴らにはないものもある。流石は時透達と一緒に上弦を倒しただけはあるな)
ただ身体能力が優れている、という次元の話ではない。
鬼殺隊として正式な選別を受けていない外人の身でありながら、微動だにしない重心の置き方や周囲の雑音に紛れ込ませる気配の制御に至るまで、その立ち居振る舞いの随所には修羅の戦場を幾度も潜り抜けた者だけが有するものが宿っていた。
地面を舐め、未だ疲弊の底から這い上がれずにいる一般隊士達の脆弱な姿を一瞥し、天元の唇が凶暴な笑みへと歪む。
(あいつを手本にさせれば········他の奴らも少しは考えが変わるかもしれねぇな)
天元は大岩の上から音もなく地へと着地すると、食欲がなくとも飯を必死に喉の奥へと流し込んでいる隊士達全員の鼓膜を直接揺さぶるように、腹の底からの大声を響かせた。
「おい聞けお前ら!!」
「「「「「「「「「「!!」」」」」」」」」」
地鳴りのような怒号が周囲の空間全体へと反響する。
突然の衝撃に近い大声に箸を止めて肩を強張らせる剣士達へ向けて、天元は手にした竹刀の先端を無造作に地面へと突き立てた。
「その飯を食い終わった後、今日の締めにやっている長距離走は中止だ」
「「「「「「「「「「え!?」」」」」」」」」」
そんな唐突の指示が言い渡された瞬間、河原のそこかしこに這いつくばっていた数十人の隊士達の間に安堵の波紋が広がっていった。誰もが顔面に生気を取り戻し、地獄の追撃とも言える過酷な稽古が免除されたことで、お互いに顔を見合わせて小さく息を吐き出す。
張り詰めていた緊張が僅かに緩み、これでようやく今日の地獄から解放されるのだという甘い安堵が、彼らの弛んだ表情に浮かび上がる。
だが。
元忍の瞳は、そんな若者達の甘い考えを一切許してはいなかった。
「その代わり、特別に実戦に沿った稽古を行う。夜になったら山に入るぞ!! 全員覚悟しとけ!!」
容赦のない、しかし本物の命のやり取りを見据えた追撃。
一度救われたはずの若者達の表情が、今度は夜の闇が齎す未知の恐怖によって一瞬にして白く引き攣っていく。
夜の帷が降りた暗黒の森。
それは夜を生きる人喰いの『鬼』どもが最も猛威を振るう戦場に他ならない。
天元の放つ圧倒的な風格と、逆らうことを許さぬ威圧感を前に、隊士達はもはや不満の声を漏らすことすらできず、ただ呼吸を詰まらせながら自らの拳を強く握りしめるしかなかった。
□■□■□■
昼の温かみが失われ、冷血な夜の帳が険しい山林を深く包み込んでいく。
「「「「「「「「「「········っ!!」」」」」」」」」」
生い茂る杉の梢が月光の侵入を徹底的に排除するその暗黒の領域へと、鬼殺隊の隊士達は一様に竹刀を両手で握り締め、周囲の暗がりを厳しく警戒しながら足を進めていた。昼間の長距離走によって疲弊しきった体は未だ重く、地面を覆う湿った腐葉土を踏みしめるたびに鬼殺隊達の草履の底は微かな泥濘へと沈み込んでいく。
風が木の葉を揺らす音や、遠くから響く獣の唸り。
それら自然の音の全てに過剰な怯えを抱く彼らの手のひらは、滲み出た冷や汗によってじっとりと湿っていた。
その時。
どこからともなく。
皆の鼓膜を直接殴りつけるような男の声が、遮光された暗黒の森全体へと反響した。
「鬼と戦うのはいつも夜だ。だから俺達は闇の中で戦う術を磨かねぇとならねぇ。暗闇に目を凝らし、目で見えねぇもんは感じ取るしかねぇ」
地鳴りの如き宇髄天元のその訓戒は、密集した杉の木立に衝突して不規則に反響し、発信源がどこであるのかを完全に狂わせるような独特の響きを帯びていた。
その言葉が頭上から、あるいは背後の暗闇から降ってくるたびに、隊士達の呼吸は浅く硬直していく。
いつ、どこから、どのような速度で襲撃が仕掛けられるのか、その予測が一切成り立たない恐怖。
まさしくどこにいてもおかしくない、もしかしたらもう隣にいるかもしれないという、尋常ならざる緊張感が生まれる。
誰もが木刀を小刻みに震わせ、自らの間合いの全てに猜疑の目を向けていた。
「今から俺は鬼になる、お前達を食う鬼だ。どうにか生き延びてみるんだな········そして竈門!! リンク!!」
「「!!」」
宇髄が隊士達にさらなる警戒心を抱かせた直後、彼は特定の人物達にだけ特殊な指令を下す。
「お前達はこいつらを守りながら俺を倒すのが役目だ。上弦を倒したからって、いつまでもその戦績に甘えてたら意味がねぇ。その腕を確かなものとするために、真剣に守り抜いてみせろ!!」
その言葉の余韻が暗闇の奥へと消え去った途端、大気の動きが完全に沈黙した。
衣服の擦れる音も、土を踏む足音すらも皆無。
元忍の姿は最初からそこに存在しなかったかのように、闇の奥へと一瞬にして掻き消えていた。
「来る········!!」
炭治郎が木刀を構え、その優れた嗅覚を周囲の空間へと鋭く張り巡らせる。
守るべき対象である一般隊士達は、いつどこから襲われるか分からない恐怖に縛られ、互いの背中を合わせるようにして円陣を組み、ただ震えながら闇の奥を見据えるしかなかった。
その誰一人として呼吸すら満足にできない張り詰めた状況の只中で、リンクの感覚は周囲の誰もが陥っている困惑とは全く異なる領域で凪いでいた。
「········」
無音に近い状態を維持し、全身へと効率的な空気の循環を送り込み続ける全集中の呼吸法。
そして。
先程の食事によって腹を満たした彼の肉体には、どれだけ集中しても途切れることはない集中力を充分に蓄えていた。
リンクは料理によって様々な効果をその体に発揮させることができる特殊体質であるわけだが、今回彼が習得したのは『異常な精神力』であった。
目蓋の裏を泳ぐ暗闇の色の深さ。
地表の礫石や苔が放つ微かな匂い。
それらの情報が脳の奥で乱れることなく、一枚の明確な写本の如く整然と識別されている。
腹を満たしたおかげなのか、どれだけ情報を頭の中に複雑にぶちこまれても、その精神が揺らぐことはなかった。
リンクは静かに上体を低く沈め、支給された木刀の柄を両手で確かに握り締めた。
刀鍛冶の里での一件以来、感覚が過剰に鋭敏化していた彼の耳の先端が、周囲の剣士達の乱れた心音の隙間を縫って、決定的な異変を感知した。
右後方、頭上の梢。
木の葉の揺らぎすら聞こえない、重心の巨大な塊が音もなく滑り落ちてくる独特の気配。
ハイラルの王家を守護する影として暗躍していた古の種族、シーカー族達が体現していた完璧なる隠密の歩法。
それと全く同じ、磨き抜かれた影の威厳が。
たった今、無防備な隊士達の背後から音もなく襲いかかろうとしていた。
「後ろだ!!」
「「「「「「「「「「!?」」」」」」」」」」
短い合図と共に、リンクの体は一切の減速なしで弾かれたように地を蹴った。
闇の最深部を見据え、一人の剣士としての闘志をその瞳に宿したまま、異国の勇者は音なき強襲を仕掛けてくる元最高位の剣士の軌道へと、真っ直ぐに自らの身を滑り込ませた。
カン!! と。
木刀と竹刀がぶつかり合い、その衝撃で空気が炸裂し、周辺に強風が吹き荒び、あたりの闇が一時的に晴れたように思えた。
しかしそれ以上に。
二人の威力が規格外すぎて、皆の体が宙へと吹き飛ばされ、最終的にはそれぞれの背中が背後の木に激突する。
「へぇ、やるな!!」
「········ッ!!」
突然現れた宇髄の襲撃を先読みしたようにして隊士を救ってみせたリンクに、全員が目を見開いていた。
リンクと宇髄は剣を引き、軽く後ろに跳んで距離をとった。
「リ、リンクさん········!!」
リンクの後ろでは、片膝をついてこちらを見ている炭治郎の気配がする。彼だけは吹き飛ばされずにその場に留まったようだが、咄嗟に周囲を見渡せばリンクと宇髄以外の全員が周りの木に背中を押し付けて呻き声をあげている。
そんな中でも、リンクは集中を途切れさせないように宇髄を見る。
(片手で今の威力········ゴロン族にも匹敵するほどだ。やっぱり鬼を倒していた中でも最高位の地位にいただけはある。片目片腕でも油断すればすぐに足を掬われる)
リンクのその揺らがない瞳。
それを見た宇髄は笑みを浮かべたまま言った。
「やっぱりいいな、お前」
「!!」
「ただの外人だとは初めから思ってなかったが、流石に初見で俺の動きを捉えたのはお前が初めてだ」
宇髄は言葉を切ると、圧倒的な眼光でリンクを見据え、そして周囲にいる奴らへと喝を入れるような怒号を飛ばす。
「お前らよく見とけ!! これが、上弦を倒した男の実力だッ!!」
「「「「「「「「「「ッ!?」」」」」」」」」」
皆がその言葉の意味を理解しようとする中で、宇髄は自分の姿すらも置き去りにするように右足を蹴って駆け抜ける。
瞬きの隙すら与えず、リンクとの距離を一瞬で縮め、右手で竹刀を捻りながら振り下ろす。
尋常ならざる踏み込み。
爆発的な推進力によって、残像が大きく後方へと取り残されるように霞む。
宇髄の片手に握られた竹刀は、すでに限界以上の速度に乗っていた。狙うはリンクの脳天。最短距離を縦一文字に疾走する竹刀が、夜の空気をヒュブォッ!! と激しく圧縮し、耳を劈く風切り音を鳴り響かせる。
直撃すれば肉も骨も叩き折られるほどの一撃に対し、リンクは冷静の極みを以て応じた。
竹刀が前髪を掠めるまさにその瞬間、リンクは右足の親指ひとつで軌道を捉え、上半身を斜め左へと傾ける。
風を斬り裂く激しい音を鳴らしながら降りかかる竹刀が、リンクの耳の先を通り過ぎた。
完全な見切り。
しかし、宇髄の恐ろしさはここからの連撃にあった。
「そらそらそらそらァアッ!!」
縦に振り下ろした竹刀の重力と遠心力を、宇髄は常軌を逸した腕力だけで強引に制御した。力尽くで軌道を反転させ、返す刀でリンクの胴体を真横に両断する水平の薙ぎ払いへと変化させる。刀身が闇を切り裂き、鋭い軌跡が弧を描く。
リンクは即座に体勢をさらに低く沈めた。
膝が地面につく寸前まで重心を落とし、頭上を通過する竹刀の風圧をやり過ごす。
すれすれの回避。
だが潜り込みながらも、リンクの瞳はすでに宇髄の次の一手を完璧に捉えていた。
カァァァンッ!!
周囲に高周波の空気の悲鳴が炸裂した。
体勢を低くしたまま、リンクが下段から斜め上方へと放った神速の振り上げ。
宇髄は引き戻しが間に合わないと見るや、竹刀の柄に近い腹を突き出し、盾のようにしてリンクの木刀の刀身を受け止めていた。
木と竹が超高速で激突し、凄まじい衝撃によって空気が周囲に飛び散る。
その空気の爆発によって二人の顔は圧倒的な風圧に叩きつけられ、それでも二人は変わることなく、派手な戦いに愉快そうに歪む宇髄の口元と、冷静さが研ぎ澄まされたリンクの眼光はなおも続いている。
「ほらほら!! もっと打ってこい!!」
「ハァッ!!」
宇髄がその剛力を以て、竹刀の腹でリンクの木刀を上方へ押し込もうとする。
体格差を利用した強引な力押し。
しかし、リンクはその圧力を真っ向から受け止めはしなかった。押し込まれる瞬間にあえて自ら武器を引き、宇髄の力が前方に突き抜ける隙を突いて、斜め右へとステップを踏んだ。
ここから、二人の残像だけが交錯する超高速の乱撃戦へと突入する。
リンクは独楽のように鋭く旋回しながら、宇髄の左側面から木刀を鋭く振り下ろした。宇髄は即座に竹刀の向きを変えてガン!! と弾く。だが、リンクはその反動をそのまま次の回転力へと変換し、間髪入れずに右側からの横薙ぎを放つ。
空気の炸裂が絶え間なく鳴り響く。
右、左、そして斜め下からの突き。
リンクの放つ神速の打撃は一撃ごとに軌道を変え、残像となって宇髄の片目の視界を侵食していく。対する宇髄も、片手で竹刀を扱っているとは信じがたい手首の返しで、リンクの木刀を悉く最小限の動きで受け流していく。
打撃の応酬のたびに異なる衝撃波が短い時間の中で連打され、夜の森に反響した。
暗闇を強引に切り裂く、衣服の擦れる音すら伴わない神速の猛攻。
宇髄が片腕でありながらゴロン族の怪力に匹敵する重圧を乗せて竹刀を縦横無尽に振るえば、リンクもまた肺の伸縮を正確に維持し、呼吸の加護を得た全身のバネを以て、その全ての軌道へと寸分の狂いもなく木刀を叩きつけて弾き返していく。
二人の戦いは異次元。
これが上弦を倒した者同士の戦い。
その光景を目にした誰もが目を疑うかのような表情をその顔に浮かばせていた。
「す、すごい············」
「あいつ············元柱相手に互角にやり合ってる!!」
周囲にいる鬼殺隊の剣士達は、元柱相手についていけてる外人の青年に思わず息を呑む。
稽古の時といい、規格外な食事をした時といい、リンクという外人は自分達の常識をその根本から覆すような圧倒的な力を見せつける。
リンクが鋭い踏み込みから、宇髄の喉元を狙う突きを放つ。
宇髄は竹刀を斜めに傾け、リンクの木刀の軌道を敢えて滑らせるようにして受け流した。
シュゥゥゥという耳障りな摩擦音を立ててリンクの木刀が逸れた瞬間、宇髄の反撃が火を噴く。
がら空きになったリンクの胸元へ、鋭い蹴りを打ち込んできたのだ。
リンクは半身を引いてそれを辛うじて躱すが、宇髄はそのまま流れるような動作で竹刀を上段へと持ち上げ、再び激烈な叩き付けを繰り出す。
逃げ場を狭められたリンクは、いつの間にか一本の木へと追い詰められていた。
ドン!! と。
宇髄の放った一撃が、リンクが間一髪で頭を下げて避けた直後、その背後にあった木の幹へと直撃した。凄まじい破壊力により、木の幹の一部が減り込む。
しかし、リンクはその隙を利用した。木を蹴るようにして横へと鋭く跳び、宇髄の死角へと回り込む。崩れ落ちる木の破片を掻き分けながら、二人の武器は再び空中で激しく噛み合い、空気を散らす。
宇髄が大きく竹刀を振り回して空間を制圧しようとすれば、リンクはその僅かな軌道を見極め、刀身が一線を越える前に自身の武器にぶつけて軌道を強引に変えていく。
まさに肉眼の限界を超えた攻防。
気配を頼りに互いの武器をぶつけ合う音だけが、まるで激しい雷雨のように周囲の空間に満たしていた。
□■□■□■
「ここまでだッ!!」
「!!」
宇髄との戦闘の最中、その地鳴りの如き一言を以て夜の森を激しく震撼させていた雷雨の如き衝撃音は、突如として完全に消失した。
リンクと武器を交差させたまま、宇髄はゆっくりとした動作で木刀にぶつけていた竹刀を離し、
「ホント、最高に派手だぜお前。あの不死川が負けたっていうのにも納得がいく」
「·······」
リンクは肺の無音の伸縮を正確に維持したまま、手にした支給品の木刀をゆっくりと引き、一人の剣士としての静かな眼差しを大柄な男へと見返した。
宇髄もまた手首の返しを解いて竹刀を肩へと担ぎ直し、派手に唇を歪める。
「お前ら!! ちゃんと見たか!? これが時透達と共にあの上弦を討ち倒した男の実力だッ!!」
「「「「「「「「「「ッ!!」」」」」」」」」」
その怒号が山へと木霊した瞬間、這いつくばっていた数十人の隊士達の間に、激しい衝撃が広がっていった。
誰もが息を詰め、暗闇の中で繰り広げられた人間の領域を遥かに超越した速度の応酬を、ただ呆気に取られた表情で見つめることしかできない。
彼らにとって宇髄天元の稽古は、いつどこから襲われるか分からない暗黒の恐怖。
しかし。
目の前の異国の青年は、その暗闇そのものを手玉に取るかのように、元柱と互角に渡り合ってみせたのだ。
「ただ闇雲に目を凝らすんじゃねぇ!! こいつみたいに目で見えねぇもんは空気の揺らぎや重心の移動で感じ取るんだよ!! それが出来てねぇとこれから先の稽古で生き残っていけるはずがねぇってことくらいわからねぇのか!?」
「「「「「「「「「「·····················」」」」」」」」」」
その容赦のない、しかし偽りのない夜の戦場の現実を剥き出しで突きつけるかのような宇髄の言葉に、周囲にいた隊士達は一様に言葉を失い、静まり返った森の奥でただ俯くことしかできなかった。
人間の肉体の限界を遥かに逸脱した、先程までの神速の攻防の残像。
自分達がどれほど汗を流し、血の滲むような修練を重ねようとも、一生かかっても決して到達できぬであろう高みの世界。目の前の異国の青年が当然のように体現してみせた世界の重みを前にして、彼らの胸の内にはただ冷たい無力感だけが雪のように降り積もっていく。
そんな息をすることすら忘れて完全に気落ちしてしまった隊士達の力ない様子をその隻眼に収め、宇髄は肩の竹刀の位置を微かに変えながら、呆れたように小さくため息を漏らした。
「ったく強がりも言えねぇのかよ、ホントこのままじゃ先が思いやられ───」
「───俺たちじゃ無理っす」
沈黙の中に沈んでいた暗黒の空間を破り、地面に両膝をついたままの一人の隊士が、血を吐き出すかのような消え入りそうな声で、自らの胸の内にあった弱音を吐き出した。
その男の丸く見開かれた瞳には、目の前で繰り広げられていた戦闘の余波に対する、深い自責の念と絶望が滲み出ている。
「元柱相手にあそこまで、しかもそいつのように動けません!!」
「あぁ?」
その悲痛極まる若者の叫びは、夜の山林の冷え切った大気を震わせ、周囲で硬直していた他の隊士達の胸の奥へと重く突き刺さっていった。
宇髄はその言葉を聞いた瞬間、眼帯の施された顔を僅かに傾け、その隻眼から放たれる尋常ならざる鋭い眼光を以て弱音を吐いた隊士を容赦なく睨みつけた。引退した身とは思えぬほどの圧倒的な殺気の波動が空間をピリピリと震わせ、全員の背筋に冷たい緊張が走る。
しかし。
睨まれた若者は、恐怖のあまりに木刀を握る手のひらを小刻みに震わせながらも、その瞳の奥にある魂の光だけは決して消していなかった。
彼はさらに細い喉を上下させ、不安を内側から切り裂くようにして、声を張り上げながら言葉を続けた。
「でも!!」
激しい、しかし確かな熱量を宿した叫びが、再び森の奥へと響き渡る。
「柱や竈門、そしてその男ならば!! 上弦や鬼舞辻無惨に勝てるって希望が持てましたッ!!」
その一言。
たったそれだけで皆の目が変わった。
自分達は脆弱で、どれほどもがこうともあの境地には一生届かない。
けれど。
命を懸けて自分達を鍛え上げてくれる最高の『柱』達が、そして時透のような最年少で柱となった剣士と共にあの地獄のような死線を潜り抜けて生還した竈門や、この異国の青年が最前線に立っていてくれるならば、何百年もの間成し遂げられず、何人もの命を奪い続けられてきた鬼どもとのこの陰惨な負の連鎖を、自分達の代で終わらせることができる。
彼らの胸の奥底で蝕んでいた敗北の念が、目の前の青年の揺るぎない佇まいによって、本物の『希望』へと完全に反転した瞬間であった。
「················俺も!!」
「自分も········自分もそうです!!」
最初の一声をきっかけにして、周囲の巨木の幹に背中を打ち付け、呻き声を上げていた若者達の間から、堰を切ったように次々と熱い声が飛び交い始める。
「だから俺達も········その支えになれるように頑張ります!!」
「稽古して、強くなります!!」
誰一人として、この過酷な夜の山から逃げ出そうとする者はいなかった。
宇髄の厳しい叱咤の裏にある真っ直ぐな慈悲の現れを、そしてリンクの示す圧倒的な背中の意味を、彼らはその魂の最深部で確かに理解していた。自分達が少しでも盾となり、少しでも彼らの力となることができれば、必ず鬼の始祖を討ち果たすことができる。
涙を流しながらも、その手に木刀の柄をきつく握り締め、皆が一丸となって『強くなります!!』と、力強い宣誓を響かせた。
「お前ら················」
その涙ながらの熱い叫びの数々を耳にした宇髄は一度だけ言葉を途切れさせ、隻眼を僅かに見開いて若者達の顔を見渡した。
かつて、上弦の陸との死闘において自らも死線を彷徨い、そして多くの尊い犠牲を出したからこそ、これからの隊士達が抱く責任の重さは誰よりも知っている。それでもなお、眼前の怪物達の脅威に怖気付くことなく、その背中を支える盾になると誓ってみせた彼らの覚悟。
宇髄天元という元柱の厳しかった唇の端が、やがて滑らかに動き、不敵で、しかしどこか誇らしげでド派手な笑みへと吊り上がっていった。
「へっ、地味に泣き言を並べやがって··········だったらその言葉絶対に忘れるんじゃねぇぞ!!」
宇髄は担ぎ直した竹刀の柄を地面に勢いよく突き刺すと、この山全体へ届くような、どこまでも力強い声を響かせた。
「お前らみたいな奴らが必死に繋ぐその『地味』な足掻きこそが、最後にあの鬼の始祖の頸を撥ねるための最大の『派手』な一撃になるんだよ。それを理解したならさっさと構えろ!! 夜の稽古はまだまだこれからだぞォッ!!」
「「「「「「「「「「はいッ!!!!」」」」」」」」」」
さっきまでの絶望に満ちた悲鳴とは全く異なる、腹の底から絞り出された掛け声が木霊した。
「みんな··········!!」
その一丸となって再び闘志を燃え上がらせる隊士たちの様子を見つめながら、リンクのすぐ隣にいた炭治郎の口元には温かい微笑みが自然と宿っていた。
生真面目すぎる彼は、仲間達が恐怖を乗り越え、無惨討伐という同じ未来を見据えて歩み出してくれた現実が何よりも嬉しかったのだ。
その目から流れる雫が、夜の闇の中でも不思議なほど清々しく煌めいている。
「··········」
リンクは、そんな若き剣士達の不屈の覚悟と少年の邪気のない生命力の空気を肌で感じながら、思わず静かに目を細めた。
全集中の呼吸という加護を得たことで、長い眠りの代償を完全に克服し、疲弊を一切忘れて動くことができるようになった現在の肉体。
しかし。
今の彼を導いているのは、単なる呼吸の循環だけではなかった。
時空を超え、この日本において出会った者達の、誰かを護るために支え合おうとする、その繋がる心。
それこそが。
勇者の内に眠る『誰かを守るための力』と深く共鳴し、その精神を全盛期以上の確かなものへと引き上げているのだと、リンクは静かに確信していた。
□■□■□■
「「「「「「「「「「いち、にい!! いち、にい!!」」」」」」」」」」
朝霧がゆっくりと晴れゆく河原の稽古場に、昨日までの悲痛な悲鳴とは完全に異なる、やる気に満ちた剣士達の掛け声が響き渡っていた。
数十人の隊士達が一糸乱れぬ動作で並んで地面に仰向けに倒れては上体を引き起こし、一呼吸ごとに己の限界を押し上げるような修練を繰り返している。
朝露に濡れた小石に背中を押しつけ、自身の頭を力強く支える彼らの手のひらは疲れのあまり震えていたが、その瞳に宿る輝きには、もはやこの地獄の稽古を前にしても全く揺らぐことはなかった。
「あいつら········なんだかんだ言って力をつけてきてやがる」
腕を組み、その光景を眺めていた宇髄が派手に口角を上げた。
その隻眼に宿る眼光は下の者を切り捨てる修羅のそれではなく、自らの課した過酷な稽古を耐え抜き、本物の剣士へと成長しつつある隊士達への信頼感そのものであった。
少し離れた場所でその様子を並んで見つめていたリンクと炭治郎に、宇髄は静かに告げる。
「お前らはもうここでやることはないな、先に進みな」
「「!!」」
引退した最高位の剣士からの合格。
宇髄はそれ以上の余計な言葉を挟むことなく、自らの元で得られる基礎の底上げを完了した二人のその姿を、元忍としての鋭い感性でじっと見つめ返した。
呼吸の初歩を会得し、失われた体力を完全に無視して動けるようになった異国の勇者。
そして。
怪我からの驚異的な復帰を見せ、前向きに今回の稽古の全てを吸収した竈門炭治郎。
この二人が次の柱の元へ合流すれば、隊全体の練度はさらに派手に加速していくに違いない。
だが送り出す言葉を投げかけた直後、宇髄は片腕を組んで、衣服の擦れる音すら立てずにリンクの正面へと一歩を踏み出した。
「俺達は上弦を倒した··········しかし、鬼舞辻無惨。あいつを倒さない限り、何も終わらない」
「···············」
その名前が紡がれた瞬間、川のせせらぎすらも一瞬にして凍りついたかのような、不穏な風が山の奥から激しく吹き荒んだ。
杉の梢がざわざわと不気味に鳴り動き、日本の空を覆う雲の隙間から差し込んでいた微かな陽光が一瞬だけ隠れてしまい、その雲の濃い影が地表へと落とされる。
千年もの間、この国に夜の絶望を齎らし続けてきた諸悪の根源。
その重みを、リンクは鋭敏な五感で確かに感知していた。
宇髄は眼帯の奥にある傷と自らの片腕を奪ったあの戦場の激しい死闘を噛み締めるように、リンクの揺るぎない瞳を真っ直ぐに見据えた。
「お前の強さは確かに見させてもらった··········だからこそ、俺からも頼みたい」
一瞬の沈黙。
元忍として影の世界に生き、誰よりも誇り高く、誰に対しても不敵に振る舞い続けてきた大柄な男がその頭を下げ、一人の剣士としてリンクへと、自らが果たせなかった鬼殺隊としての任務を託した。
「どうか········みんなを支えてやってくれ」
「················」
言葉の裏にある、次代の若者達を、そして残された仲間達を『絶対に死なせない』ための慈悲の現れ。
リンクはその想いを、かつてハイラルを護るために誰よりも誇らしく戦い、そして英霊となった『英傑』達の姿と深く重ね合わせながら、確かな決意を以て元音柱の眼光をただ真っ直ぐに見つめ返した。
「必ず········みんなの想いを繋いでみせるよ」
□■□■□■
稽古がひと段落したのも束の間。
別れの瞬間に涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃに濡らした須磨はリンクと炭治郎の旅支度を遮るようにして、抱えきれないほど巨大な包みを二人の胸元へと強引に押し付けてきた。
「どうか二人とも元気でねぇ!! これ、お昼ご飯の分とおやつの分と、それから夜食用のおにぎりですぅ!! リンクさんがあれだけ食べるからこれでも足りないかもしれないですけどぉぉぉおおおおおッ!!!!」
「うるさいのよアンタは!! 次の稽古の場に送り出すだけでしょうがッ!!!!!!」
泣き止まない須磨にまきをが呆れたようにその頭を殴るが、彼女に渡された包みもまた、尋常ではない重量の薬や食料がこれでもかと詰め込まれていた。
須磨的にはリンクが自分達の作ったご飯を誰よりも美味しく食べるから、そのおかげで作り甲斐もあり、彼らがもう行ってしまうことで猛烈な寂しさを覚えたらしい。
そんな中で一番に落ち着いている雛鶴が、柔らかな微笑みを浮かべて一歩前へと進み出た。
彼女はリンクの衣服や炭治郎の隊服を丁寧な手つきで洗い、そして破れた部分も直してくれていた。二人の衣服が綺麗に畳まれた包みも渡され、雛鶴はその慈愛に満ちた瞳を向ける。
「二人とも、どうか怪我だけには気を付けて。次の稽古場でも頑張ってくださいね」
「ありがとう、今日まで俺達を支えてくれて助かったよ」
リンクは渡された大量の弁当の重みを確かめながら、彼女の持つ独特のたおやかさと温かさに再びふわりと表情を和らげた。
炭治郎もまた、満面の笑みを浮かべ、
「ありがとうございます!! 宇髄さんや皆さん達のおかげで、俺達もっと強くなれます!!」
そう何度も深く頭を下げて感謝の意を伝えていた。
そしてリンクと炭治郎は短く視線を交わし、互いに深く一度だけ頷き合うと、
「では行きます、今日までありがとうございました!!」
「次のところに行っても頑張るよ」
「おう、元気でな!!」
「頑張ってねぇ!!」
「元気でねぇ!!」
「またな〜!!」
背後から響く宇髄達の力強い声や妻達の賑やかな応援の声に包まれながら、リンクと炭治郎は口元に柔らかな笑みを浮かべ、何度も大きく手を振り返した。
河原に残る隊士達の闘志、そして第一の稽古場で育まれた絆の余韻をその背に受けながら、二人は静かに前方の険しい山道へと向き直る。
託された想いの重みを次なる死線を超えるための心地よい燃料へと変換しながら、時空を超えた勇者と不屈の覚悟を宿した若き少年剣士は、全集中の加護をその足の裏へと均一に巡らせ。
次の柱が待つ稽古の場へ向けて、二人は力強く地を蹴り出した。
IFストーリー
厄災プレイ
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それは稽古の合間に起きた、ささやかな出来事。
清涼な川のせせらぎが響く河原の炊事場では、宇髄の最愛の妻達である雛鶴、まきを、須磨の三人が隊士達の昼飯に向けた手際よい支度の真っ最中であった。
しかし大振りの鍋に火をかけようとしたその瞬間、須磨が薪を保管していた棚を覗き込み、その豊かな表情を絶望に染めて短い悲鳴を上げた。
「あ、あれ!? 予備の薪がもうなくなってるぅぅぅううう!?」
「嘘でしょ!? あんた確認を怠るなんて何やってんのよ!?」
「す、すみませぇぇぇん!!」
まきをが包丁を握ったまま鋭く叱り飛ばし、須磨が涙目で頭を抱える。
「皆さん!! 今悲鳴が聞こえましたけど、どうしたんですか!?」
ちょうどそこへ。
稽古を難なく終えたリンクと炭治郎の二人が、額の汗を拭いながら戻ってきていた。
「あ、二人とも!! 実は───!!」
ただならぬ騒がしさに気付き、須磨から事情を聞いたリンクは、口元に穏やかな微笑みを浮かべながら二人の前へと進み出た。
「それなら俺が取ってくるよ。ちょうど暇だったしね」
「うわぁッ!! リンクさん!! ありがとうございますぅぅぅ!!」
須磨が弾かれたように飛び起きて深く感謝の意を伝えれば、隣にいた生真面目すぎる炭治郎もまたその大きな瞳を熱心に輝かせて拳を握りしめた。
「俺も手伝います、リンクさん!! 二人で集めた方が早いですから!!」
「いいよいいよ、俺に任せて。すぐに終わるから休んでて」
リンクは両手を軽く振って少年を宥めると、そのまま大切に保管されていた自分の荷物がある方へと進んでいく。
そして。
雛鶴達に預けてあった伝説の武具である退魔の剣を、迷いのない動作で鞘から一気に引き抜いた。
その様子を後ろから見ていた炭治郎は、怪訝そうに首を傾げる。
「あれ? リンクさん? なんで鉈を持って行かないんですか? 薪を割るときにはそれが必要だと─────」
少年がそう言いかけた、まさに次の瞬間であった。
リンクはすぐ近くに生い茂っていた巨木の前へと立つと、手にしたマスターソードを、まるで藁でも薙ぎ払うかのような軽快な軌道で横一文字に直に切り込んだ。
ドッゴオオオオオオッ!! と。
ド派手な音が鳴り響き、次の瞬間には大人が数十人で抱えてようやく持てるほどの重さがある巨木の幹が斜めに滑り落ちるようにして、轟音と共に地表へと倒れ伏した。
「リンクさんッ!?」
炭治郎が驚愕のあまりにその場に縫い付けられたように硬直する。
急にリンクが剣で巨木を切り落とし、しかもその直後にその場に薪が出来上がっている。いつの間にか薪の束は紐で縛られ、そしてリンクは何事もなかったかのようにそれを持って須磨がいる方へと向かう。
自らの腰のポーチから火起こし用に持っていた二つの小さな『火打ち石』を取り出した。
そして並べた薪のすぐ近くへとそれを置くと、あろうことか世界を救うための邪悪を祓う退魔の剣の刀身を使い、その石を上から力任せにガギィン!! と鋭く砕いて火花を豪快に散らせた。
「え!? あ、あの!! それって貴方の大切な剣なんじゃ────!?」
須磨が目を限界まで見開いて、切腹ものの光景を前にしたかのように頭を抱えて絶叫する。
だがリンクは特に表情を変えず、火が点いた薪を満足そうに見つめると、今度はまきをが人参を刻んでいたまな板の前へと移動。
そして再びマスターソードのその白刃の先端を以て、まな板の上の野菜をトントントントンと、恐るべき正確さと神速の速度で細切れに捌き始めた。
「な、何やってんのアンタッ!? 剣で捌くとか正気!?」
まきをが驚愕を通り越して持っていた包丁を落としそうになりながら怒号を飛ばす。
邪悪な鬼をも消滅せしめる概念としての輝きを持つ聖なる刃が、台所においてただの人参の千切りに浪費されているのだ。
しかし、勇者の破天荒さはまだ終わらない。
最後に彼は雛鶴が大きな鍋で汁物を作っているすぐ隣へと移動すると、切り刻んだばかりの野菜の束をそのまま鍋の中へと惜しむことなく次々と放り込み、手にしたマスターソードの刀身をそのままスープの奥へと深く沈めて、手際よくグルグルと楽しげに混ぜ合わせ始めた。
「ちょ、ちょっと········!?」
雛鶴までこの表情。
思わず眼球が飛び出してしまいそうな目でリンクを見つめるも、そんな彼は呑気に鼻歌を唄っている。
「な、何やってんですかリンクさん!?」
「?」
ここでようやくリンクは炭治郎達が驚愕のあまりに硬直していることに気付き、不思議そうに首を傾げた。
「え? どうかした?」
悪気など微塵もない、あまりにも純真無垢な声。
手にした退魔の剣は未だに熱々の煮汁をその刀身から滴らせており、立ち上る湯気と共に人参や出汁の素朴な香気を漂わせている。
世界を救うための聖剣が、完全に汁物をかき混ぜる調理器具と化していた。
「何とぼけてるんですか!?」
炭治郎が普段の生真面目さをかなぐり捨て、今にも額がぶつかりそうな勢いで顔を寄せて叫ぶ。
「その剣、特別な剣だって言ってましたよね!? それを薪を叩き割るだけならまだしも石を砕いて火を起こしたり野菜を刻んだり、あまつさえ鍋の中の汁をかき混ぜるなんて···········!!」
「あぁ、大丈夫だよ。この剣はどれだけ木を伐採しても、硬い鉱石を砕いても壊れないんだ。まあ、使いすぎると少しの間だけ眠っちゃって光を失うけど、時間が経てば勝手に元通りになるし」
「違います!! そういう問題じゃないですッ!!!!」
炭治郎の絶叫が木霊した。
ハイラルという過酷な大地において手に入る道具を臨機応変に使い倒し、生き延びるためにあらゆる手段を講じてきた勇者の生活感覚。
それが、刀を大切に扱い、鬼を倒すための神聖な武具として敬意を払う炭治郎にとっては見過ごせなかった。刀を一本でも壊したら殺されそうになっている炭治郎だからこそ、リンクのその行動はどうしても許せなかった。
そんな大騒動の最中、唯一我を取り戻した雛鶴が引き攣った笑みのまま鍋の中を恐る恐る覗き込んだ。
「あ·······でも野菜の切り口もすごく綺麗で、お出汁も均一に混ざって、とても美味しそうに仕上がっていますね」
「雛鶴さん!? 呑気に褒めてる場合じゃないですよぉぉぉオオオオオオ!!???」
炭治郎の悲痛なツッコミが響き渡る中、リンクは満足げに頷くと、汁のついたマスターソードを無造作に払って水気を飛ばし、何事もなかったかのように鞘へと納めてしまった。
まだマスターソードで良かったのかもしれない。
これがもし日輪刀であったなら、あの刀をこよなく愛する刀鍛冶が、まさしく鬼のような形相で襲いかかってきたかもしれなかったのだから。