鬼滅の伝説   作:織姫ミグル

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第十九章

 

 

頭上を緩やかに旋回しながら飛翔する炭治郎の鎹鴉が翼を僅かに傾け、街道から外れた山道の上空で等間隔の羽音を響かせている。

 

今回の柱稽古は短期間での戦力底上げを至上命題としているため、次の柱が陣取る拠点までの距離はできるだけ短くなるようにされていた。

 

移動にいたずらな時間を費やせば、それだけ強化の機会を損なうからに他ならない。

 

本来最高位の剣士である柱達は、この国の広大な領域へと個別に差配され、日夜鬼の討伐に奔走していなければならなかった。しかし鬼の出没が不気味な沈黙を保っている今この時だからこそ、後進の大規模稽古という前例のない試みに全力を注ぎ込める。

 

とはいえ、隊士一人一人を個別に見るほどの猶予は残されていない。

 

合同訓練という形式を採り、柱ごとに特化した別々の試練を課す。

 

そして互いの拠点を近接した地勢に配置することで、隊全体の循環速度を最大限に早めているのだ。

 

山道がゆるやかな道へと差し掛かったところで、木々の隙間から吹き抜ける冷涼な冬風が二人の頬を撫でた。

 

吐き出した息が白く滲み、薄暗い山林の空気に溶けていく。

 

頭上を飛んでいた鎹鴉が枝先へと舞い降り、羽を休めるように一声短く鳴いた。その動きに合わせるように先頭を歩いていた炭治郎が歩調を緩め、振り返った。

 

 

「リンクさん、あそこの木陰で少し休みませんか? 須磨さん達にいただいたお弁当、傷まないうちにいただきましょう」

 

「あぁ、そうだね」

 

 

指差された先には、厳しい冬の寒風を遮るように葉を落とした巨木の根元があった。太い幹が北風の防壁となり、足元には枯れ葉が厚く敷き詰められている。

 

リンクも異存はないというように小さく頷き、背負っていた荷を下ろした。

 

ごつごつとした木の根元に腰を落ち着けると、凍てつく空気の中に腐葉土と冬枯れの木々の冷たい香りが静かに漂う。炭治郎が丁寧に紐を解いた包みからは、冬の寒さの中にあっても奇跡のように温もりを残した炊き立ての米と香ばしい味噌の匂いが立ち上った。

 

中には整然と並べられた大振りの握り飯や塩気を利かせた干し肉、丁寧に炊き込まれた冬の根菜が所狭しと詰め込まれている。須磨が泣きながら押し付けてきたあの凄まじい分量は決して大袈裟なものではなく、包みを開けた今になってもその確かな重量感は揺らいでいなかった。

 

 

「本当に········すごい量」

 

「でもすごく美味しそうです!! さ! 早速いただきましょう!!」

 

 

炭治郎の声に頷いたリンクは手早く自らの分を手に取ると、一切の躊躇なく口へと運んだ。

 

寒風に晒されながらも全集中の呼吸によって常に高出力を維持し続ける彼の肉体にとって、食事は失われた生命力を直接補填するための何より重要な作業である。温もりを宿す握り飯を二口、三口で平らげ、間髪入れずに干し肉へと手を伸ばすその滑らかな手際。先程までの激しい山道の移動などなかったかのように、次々と包みの中身が吸い込まれていく。

 

炭治郎もまた自らの握り飯を両手で持ち、かじかむ指先に伝わる温もりを感じながら手を合わせた。

 

 

「いただきます!!」

 

 

口いっぱいに広がる米の甘みと、具材の素朴な味わい。

 

宇髄の妻達がそれぞれの想いを込めて作ってくれたそのご飯は、冬の厳しさに身を投じる二人の身体の隅々にまで染み渡るように活力を注ぎ込んでいく。

 

 

「美味しいですねリンクさん。雛鶴さん達、あんなに忙しい中でこんなに温かいものを用意してくれるなんて········本当にありがたいです!!」

 

「うん。俺達のためにこんなにも美味しいものを作ってくれて、感謝してもしきれないな」

 

 

もぐもぐと咀嚼しながら、炭治郎の顔に柔らかな笑みがこぼれる。

 

隣で異国の青年が驚異的な速度で作ってくれた飯を消していく様を眺めながら、炭治郎の心の中には美味への感動と共に、ずっと頭の片隅に引っかかっていた重大な疑問が静かに浮かび上がってきていた。

 

 

「················それでリンクさん、今度こそ訊いてもいいですか?」

 

「? 何?」

 

 

これまで貫き通してきた静寂を破るように、炭治郎がリンクへと視線を向けた。

 

冬の木枯らしが二人の間を静かに吹き抜け、枯れ葉が擦れ合う微小な乾いた音だけが鼓膜を打つ。リンクは最後の一口であった握り飯を喉の奥へと滑らかに流し込むと、包みを丁寧に畳み、静かな眼差しを少年の顔へと向けた。

 

悪気のない、だが胸の奥底で燻り続けていた重大な問いが投げかけられようとしている気配を、鋭敏な感覚で先回りして捉えている。

 

 

「あの、リンクさんが長い間行方不明になっていた時のことなんですけど·········一体何があったんですか?」

 

「!!」

 

 

以前から気にはなっていた事であった。

 

しかし兄弟子の柱稽古参加への説得、それが終わった途端にリンクは鎹鴉に連れていかれ、そして合流したとしても宇髄の元での厳しい稽古によって、落ち着いてその空白の時間を訊ねる機会が得られずにいたのだ。

 

 

「あの時、柱稽古が始まるのとほぼ同時期にリンクさんが行方不明になって·········禰豆子もとても心配してましたよ。いつも屋敷内を彷徨いて『りんく、どこ』って、ずっと寂しそうにして探し回っていました。禰豆子だけでなく、俺も心配してたんです。一体何があったんだろうって」

 

「········そっか」

 

 

炭治郎の口からあの少女の名前が出てきて、リンクは思わず自分の膝へと目を落とす。

 

 

「一緒に療養していた玄弥は貴方が逃げ出したんではないかとか言ってましたけど、俺はそんなはずないって思っていました。貴方は禰豆子を匿ってくれていた。鬼であると知りながらもずっと禰豆子と一緒にいてくれていた。だから信じていました、貴方は逃げたわけではないと」

 

「················」

 

「だからどうか、教えてくれませんか? あの時、なんでいなくなっていたのかを」

 

 

リンクはそのことを聞いて一瞬心が苦しくなった。

 

あの時リンクは、彼女に何も告げないままいなくなってしまった。急な任務というのもあり、そしてやることは単純な調査だけであったので、すぐに戻れると思っていたから手紙も何も残さなかった。屋敷の主人である胡蝶しのぶには伝えていたものの、任務に向かったことしか彼女は伝えてなかったらしい。

 

刀鍛冶の一件が終わり、炭治郎はしばらく療養して、その間に彼が向かった任務を最後に連絡が途絶えた。

 

この流れを聞くと、逃げ出したのではないかと疑われても仕方がない。

 

鬼殺隊に入ったとはいえ、本当ならば彼は無関係だ。鬼の問題を片付けるのはこの国に住む日本人、しかし彼は異人だ。どこの国の者かは炭治郎もよく分かっていないが、少なくともリンクは鬼を討伐する義理はない。

 

だが、リンクはそれでも鬼殺隊として力を貸すことを誓い、そして残ってくれたのだ。

 

だからこそ、目の前にいる少年は最後まで信じるという意志を捨てなかった。

 

玄弥の憶測を真正面から否定し、リンクが不在の間も禰豆子を守り、信じ抜いてくれていたという事実。

 

それをリンクは視線を膝の上の手元から、ゆっくりと遠くの冬枯れの木立へと移した。

 

そして。

 

 

「それを話す前に、まずはご飯を全部食べてからにしないか? 話してもいいけど、食事の時にするものでもないし」

 

「え? あ、はい!!」

 

 

と、まずは食事を優先だ。

 

食事の最中に楽しい会話をするのは許されるが、これから語るのはおよそ食卓の彩りには相応しくない、人の死にまつわる凄惨な記憶だ。

 

美味いものを美味いと感じられるうちに、胃袋に収めておいた方がいい。

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

食事を終えた二人の間にはなおも沈黙が続いていた。

 

どのような経緯でリンクが消息を絶ち、その間一体何をしていたのか、炭治郎はその事実を誰の口からも聞かされていなかった。それを本人の口から聞こうとしたらリンクは顔を俯かせてしまい、場の空気を悪くしてしまった。そのことに申し訳なさを感じつつも、炭治郎はどうしても真実を確かめたかった。

 

自分の妹を救ってくれた人が逃げ出したのではないかという、そんな噂を確実に否定したかったからだ。

 

そして。

 

炭治郎の真摯な問いかけを耳にしながらも、リンクは特に表情を変えることなく。

 

ただ前を見据え、静かに口を開いた。

 

 

「とある隊士と一緒に········一つの村を調査していたんだ」

 

「とある隊士と、ですか?」

 

「うん。鬼の出没が減少したとはいえ消えた訳ではないからってことで、その時その村の見回りに行く予定だった隊士の二人で向かったんだ。村に住んでいる人々が一夜にして消えてしまったから、その原因を調べてほしいというのが任務の内容だった」

 

 

当時の記憶。

 

それはあまりにも簡単で、鬼との遭遇率も下がっている今ならばなんの問題もなく帰ってこられるような任務だった。

 

リンクは膝の上に置いた両手を動かすこともなく、当時の冷え切った空気の記憶を手繰り寄せるように言葉を紡ぎ出した。

 

 

「村に着いた時はまだ何の異変も起きていなかった。けれど········調査を始めてしばらく経つと、そこで異形の化物と遭遇した。俺は危険だと判断して、一緒についてきていたその隊士に先に安全な場所へ隠れるように指示を出した」

 

「········その人の安全を第一に考えたんですね」

 

 

肯定するようにリンクが小さく頷き、炭治郎はじっと彼の顔を見つめる。

 

誰かを守るために自ら前に出る、それは炭治郎が想像するリンクそのものであった。

 

自分を囮にするその行動はあまり褒められたことではないが、リンクならばそうすると謎の納得感があったため、つい理解してしまっていた。

 

しかし。

 

その後に語られたもの、それは炭治郎が想像していたよりも遥か上を行くものであった。

 

リンクは一度深く息をすると、

 

 

「でも彼は運が悪すぎた。危険を感じたのか隠れるのをやめて、違う場所まで逃げようとしたその先で········“あいつ”と鉢合わせてしまったんだ」

 

「“あいつ”········?」

 

 

怪訝そうに首を傾げた炭治郎に、リンクは前方の虚空を見据えたまま、感情の起伏を綺麗に削ぎ落とした声でその名を口にする。

 

 

「そう───“上弦の壱”に」

 

「················え」

 

 

炭治郎の喉から掠れたような小さな声が零れ落ちた。

 

風の音が消え、冬枯れの木立が軋む微かな摩擦すらも唐突に遠退いていくような感覚。

 

炭治郎の瞳が限界まで見開かれ、激しく揺れる視線は目の前で淡々と事実を口にしたリンクの表情に釘付けとなっていた。

 

 

“上弦の壱”

 

 

その四文字に宿る凶悪さは、これまで炭治郎が潜り抜けてきた死線を遥かに超える規模のものだった。

 

遊郭で死闘を繰り広げた上弦の陸、堕姫と妓夫太郎。

 

そして何体にも分裂して執拗に命を刈り取ろうとした上弦の肆、半天狗。

 

柱ですら命を削らねば届かず、常人であれば影を踏まれただけで精神を折られるような怪物達。

 

そのさらに上、頂点を意味する数字の『壱』を刻まれた存在。

 

何百年の間、鬼殺隊の最高位たる柱を何人も葬り去り、鬼の始祖である鬼舞辻無惨の隣に立ち続けてきた最強の怪物。

 

その存在がリンクの口から出てきた途端、炭治郎の背を氷の刃で撫で上げられたかのような寒気が一気に駆け抜ける。

 

冬の冷え切った風に煽られながら、その額からはじっとりと油のような汗が滲み出していた。

 

 

「じょ、上弦の·······壱ッ!? そ、そんな!? どうしてそんなところに·······ッ!!???」

 

「分からない·······けどあっちも予想外みたいな顔をしていたから、おそらく偶然だと思う」

 

 

リンクは視線を揺らすことなく、遠くを見つめたまま淡々と言葉を紡ぐ。

 

その声には誇張も恐怖もなく、ただ無機質な事実だけが整然と並べられていた。

 

 

「ただ、俺が駆けつけた時にはもう手遅れでさ··············一緒にいたその隊士はすでに地面に倒れ伏していた」

 

「手遅れって·······ッ!! まさか、もう殺されていたんですか·······!?」

 

「いや、死んではいなかった」

 

 

リンクは静かに首を横に振った。

 

その淡い金髪が、吹き抜ける木枯らしに僅かに揺れる。

 

 

「どうやったのかは見てないから知らないけど·······あいつの血が、その隊士へと流し込まれていた。人を辞めさせるための鬼の血がね。上弦の壱は俺が姿を現したのを見ると、まるでこっちの力を確かめるかのようにじっと見つめて·······それで、襲いかかってきたんだ」

 

 

その言葉。

 

それを聞いた瞬間、山林の静けさはさらに張り詰めたものへと変わっていく。

 

炭治郎の胸の内で、鼓動が早鐘のように激しく鳴り響いていた。耳の奥で自らの血流が激しく暴れる音を聞きながら、少年は喉の渇きを潤すことすらできずに息を呑む。

 

上弦の壱という規格外そのものが襲いかかってくるという事態。炭治郎自身、上弦の陸や肆との死闘において、彼らが放つ異様な威圧感をその鼻で味わってきた。

 

鬼の目に見えぬ重圧、空間そのものが腐っていくような悍ましい感覚。

 

だが、その頂点に君臨する鬼が放つ威圧感は、それらとは全く異なる次元にいるはずであった。

 

少年の硬直を余所に、リンクは膝の上に置いていた掌をゆっくりと引き、当時の光景を思い起こすように淡々と言葉を紡いでいく。

 

 

「抜刀の動作すらほとんど捉えられなかったよ。構えを取ったと思った次の瞬間には俺の立っていた足元から頭上に至るまで、無数の三日月のような細かな刃が空間を埋め尽くしていた。あいつが刀を一振り振るうだけで、空間そのものが細切れに引き裂かれていくような感覚だった」

 

 

木枯らしが吹き抜け、枯れ葉が擦れ合う音が静寂を裂く。

 

 

「呼吸も技も、これまでに見てきた奴とはまるで次元が違っていたよ。異形でありながら、あいつは『剣士』としての技術をどこまでも磨き上げていた。最初の初撃を見ただけで死を覚悟したよ」

 

「·······ッ!!」

 

 

炭治郎の額から冷たい汗がまた一筋、顎へと伝い落ちる。

 

刀鍛冶の里において、あの上弦の伍や竜を相手に一歩も退かずに渡り合い、驚異的な身体能力で打ち倒してみせたリンク。

 

その彼が敵を前にしてほとんど攻撃できなかったという事実。

 

相手の規格外さが、少年の想像を遥かに超えて迫ってくる。

 

 

「あいつの刀から放たれる攻撃はただの斬撃じゃないんだ。振るわれた刃の軌道から小さな三日月の刃が不規則に飛び散って地面ごと削り取ってくる。その攻撃を避けたとしても、あいつ自身の切り替えの素早さが尋常じゃない。集中が途切れたら最後、待っているのは死。受け流すことすら難しくて、ただ紙一重で身を引くのが精一杯だった。少しでも判断を誤れば、首が飛んでいたのは俺の方だ」

 

 

リンクは静かに自身の右手を握り締め、当時の感触を確かめるように指先を動かした。

 

 

「でも本当に厄介だったのはそこじゃなかった。あいつと刃を交えながら、俺は地面に倒れていた“彼”のことも守らないといけなかった。一か八か攻撃に出て隙を見つけ、“彼”を抱え上げて撤退する計画を立てていた·······けど、それが甘かったみたいだ」

 

 

リンクの瞳が暗くなる。

 

あの時の判断、彼にとってはそれが一番の策だと思っていた。上弦の壱相手に素直に立ち向かっても勝てるとは思えなかった。だから撤退のことだけを考え、そして隙ができたら即座に逃げようとしていた。

 

なのに。

 

 

「俺はなんとか攻撃を潜り抜け、上弦の壱の頸に一撃を与えた。斬り落とすことはできなかったけど、それでも一撃与えられたことで酷く動揺しているようだった·······その直後だったよ」

 

 

リンクはその時気付いていなかったのだ。

 

自分の考えの甘さに。

 

一度言葉を切ると、リンクは己の愚かさを噛み締めるように空を見つめる。

 

 

「背後から··············俺(・)の(・)死(・)角(・)か(・)ら(・)、日(・)輪(・)刀(・)を(・)深(・)々(・)と(・)突(・)き(・)刺(・)し(・)て(・)き(・)た(・)ん(・)だ(・)。そ(・)の(・)隊(・)士(・)が(・)、鬼(・)と(・)化(・)し(・)た(・)瞬(・)間(・)に(・)ね(・)」

 

「!?」

 

 

炭治郎の息が完全に止まった。

 

救おうと背中を向け、守るべき仲間として意識を割いていた対象。

 

その無防備な死角から、一切の躊躇もなく突き立てられた刃。

 

人体の要である腰を貫通する一撃がどれほどの損壊を齎らすか、剣士にとってそれがどれほど絶望的な状態であるか、炭治郎には痛いほどに理解できた。

 

そして。

 

鬼と化したその隊士。

 

炭治郎にとってそれは、決して他人事として聞き流せるような話ではなかった。

 

目の前が真っ暗になるような感覚と共に、脳裏へ強烈に焼き付いて離れないあの『雪の日の記憶』が、酷く冷たい血の匂いを伴って一気に蘇る。

 

家族を惨殺され、ただ一人だけ息がまだあった妹を背負って山を駆け下りたあの日。自らの腕の中で体温を失いかけ、異形の牙を生やして襲いかかってきた禰豆子の姿。

 

鬼になるということ。

 

それは昨日まで笑い合っていた人間が、ある日突然抗う術もなく理性を奪われ、肉親や仲間の命すら見境なく食い破ろうとする飢餓の塊へと堕ちるということだ。

 

禰豆子は奇跡的に人を喰らわずに自我を繋ぎ止めてくれた。師である鱗滝や兄弟子の義勇の支え、そして何より禰豆子自身の強い意志があったからこそ、今こうして人として共に歩むことができている。

 

だが、全ての人間がそうなれるわけではない。

 

珠世という鬼も言っていた、禰豆子は極めて稀で特殊な状態であると。二年間眠っていたというのも、おそらくは体が変化しているからだと。

 

通常ではあり得ないことが禰豆子の身に起きていて、それで自我を保てていたというわけだ。

 

しかし、理不尽に鬼の始祖の血を流し込まれ、自らの意志など微塵も介さずに異形へと変えられてしまったその隊士。

 

意識の奥で泣き叫びながらも、身体は狂気へと駆り立てられていたであろうその隊士の無念。

 

そして何より、救おうと手を差し伸べた相手から、信じて背中を向けたはずの味方から刃を突き立てられたという、リンクの言葉にすらできない苦痛と絶望。

 

その二重の悲劇の重みが、鋭利な切っ先となって炭治郎の胸を激しく貫いていた。

 

 

「そ、そんな·······そんなことが·········ッ!!」

 

 

炭治郎の唇が小刻みに震え、膝の上で握り締めた拳からギリッと骨の軋む音が漏れ出る。

 

指の全関節から軋む音を鳴らすほどに強く握り込まれた手のひらには、滲み出た冷や汗がじっとりと張り付いていた。

 

もし自分がその場にいたなら、果たして正気でいられただろうか。救おうとしていた仲間が鬼となり、こちらに刃を突き立ててくるという生き地獄のような現実に、一体どうやって立ち向かえというのか。

 

裏切られ、そして鬼へと寝返った時の光景は普通の精神力じゃ絶対に耐えられない。

 

 

「その人は·······その隊士の人はどうなったんですか!? リンクさんは腰を刺されたその状態で·······一体どうやってッ!?」

 

 

腰を刺された深傷。

 

命すら貫かれかねない致命的な傷を負い、目の前には動揺から立ち直りつつある上弦の壱、そして背後には鬼と化して刃を握るかつての味方。

 

前も後ろも完全に絶望で塞がれたその極限の状況から、リンクがどのようにしてその命を繋ぎ止めたのか。

 

炭治郎は息を詰まらせ、痛ましいまでの真剣さをその大きな瞳に宿しながら、リンクの次の言葉を待った。

 

だが彼は当時の記憶については曖昧で、刺された後のことはほとんど意識が朦朧としていた。鬼を滅するために作られた日輪刀の刃が身を貫いたその瞬間からリンクの意識は失いかけており、急所を抉られ、内側から血が噴き出す衝撃は思考の余地すら残さず全身の感覚を冷たく麻痺させていった。

 

眼前にいる上弦の壱の姿も背後で狂気に染まる元仲間の気配も、まるで深い海の底へと沈むように遠退き、ただ自分の命が消えていく感覚だけが残されていた。

 

リンクは微かに頭を横に振り、静かに重い口を開いた。

 

 

「あまり覚えてないんだ··············刺された瞬間から何が起きたのか分からなかったよ。ただ、焼けた鉄を押し込まれたような熱さと、自分の血が地面に落ちていく音だけが聞こえてた」

 

 

血溜まりの中に倒れ込み、そのまま深い闇へと意識を手放した。

 

あの場で息絶えていても何らおかしくはなく、普通であれば鬼の刃にかかって命を落としていたはずの状況。

しかし。

 

 

「それで次に目を覚ました時········俺は狭霧山っていうところにいたんだ」

 

「え········!? さ、狭霧山って·······ッ!?」

 

 

思いもよらぬ地名が青年の口から告げられた瞬間、炭治郎は驚愕のあまり素っ頓狂な声を上げた。

 

二年もの間、自分と禰豆子が育手である鱗滝左近次の元で過ごし、そして血の滲むような鍛錬を重ねて鬼殺隊士としての第一歩を踏み出した、あの霧が濃い思い出の山。

 

上弦の壱と遭遇したはずの遠く離れた村から、なぜ突如として狭霧山へと行ったのか。

 

あまりの唐突さに炭治郎の目はさらに大きく見開かれる。

 

 

「誰が運んでくれたのか、どうやってあそこまで辿り着いたのかも最初は見当がつかなかった。けど誰かが助けてくれた、それは確かだと思う。それで目を開けた時にはあの小屋の布団の上に寝かされていて、鱗滝っていう人が俺を手当てをしてくれていたんだ」

 

 

誰が運んでくれたのかは本当に知らなかった。

 

鱗滝ですら知らないと言っていて、だがあそこで出会った“二人”と、その後現水柱である冨岡義勇の元へと向かう途中で会ったあの“骸骨の剣士”によって大体見当はつく。

 

とはいえ、それを語ってもこの少年が信じてくれるとは思えない。

 

死んだ人間が自分を助けてくれたなんて、第三者が聞いても荒唐無稽な戯言として一蹴されるのが落ちだ。

 

狭霧山で出会ったあの二人。

 

そして、急に夢の中で剣技を授けてくれた、あの骸骨の剣士。

 

この世にはもう存在していないであろう者達が深手を負って意識を手放した自分を運び、あの鱗滝のいる小屋へと送り届けてくれた。そんなことを軽々しく口にすることは、静かに見守ってくれた彼らの想いを踏み躙ることにもなりかねない。

 

リンクは胸の内にその事実をそっと留め、静かに言葉を継いだ。

 

 

「腰の傷は深かったけれど、鱗滝さんが手当てを続けてくれたおかげでなんとか命を繋ぎ止めることができた。動けるようになるまであの山で寝たきりの日々を過ごしていたよ。それが、俺が姿を消していた理由だ」

 

「鱗滝さんが·······」

 

 

炭治郎は胸元に手を当て、深く息を吐き出した。

 

失踪の真相を知った安堵と育手への感謝が脳裏に過ぎる。

 

天狗の面をつけた老剣士。

 

口数は少なく、鍛錬においては情け容赦のない師であったが、その心の底には常に弟子達への愛情を秘めていた。深手を負って運ばれてきたリンクを前にどれほど心を砕き、どれだけ夜を徹して介抱を続けてくれていたのか。

 

いずれにしても、だ。

 

 

「そうだったんですね·······リンクさんが無事で、本当によかったです··············!!」

 

 

炭治郎の目に、温かい涙が滲む。

 

もし手当てが間に合わず命を落としていたら、もし誰も見つけることなく村の土に埋もれてしまっていたら。

 

そう考えただけで胸を締め付けられるような痛みを覚える。

 

心配をかけてしまったのだ、そこに真実を語ってさらに不安にさせた。

 

その少年の純粋な涙を前にして、リンクの胸の内には小さく疼くような痛みが走る。己の無謀さと油断が生んだ傷、そして今語るべきではなかったかもしれない真実が、心優しい少年の心をこれほどまでに揺らしてしまったことへの申し訳なさ。

 

リンクは静かに腰を浮かせると、膝の上に置いていた空になった包みを腰のポーチへと収めた。

 

立ち上がる動作に伴い、かつて深手を負わされた腰の辺りが僅かに突っ張る感覚を覚える。

 

だが。

 

狭霧山での鍛錬、そして呼吸術を身につけた今の肉体には、もはや歩みを鈍らせるほどの痛みは残されていなかった。

 

 

「心配をかけて悪かったね。でももう大丈夫。こうして動けるようになったし、稽古にも参加できるくらいには回復してる」

 

 

炭治郎の頭上へとそっと左手を伸ばし、その髪を軽く撫でる。

 

言葉で飾り立てるのではなく、ただ己が無事である事実をその掌の温もりを通して伝えるように。

 

 

「·······はい!!」

 

 

炭治郎は腕で乱暴に目元を拭い、鼻をすすりながら何度も力強く頷いた。

 

目の前にいる青年が人知れず死線を彷徨い、それでもなお立ち上がってここに在るという現実。

 

その驚異的な生命力への畏敬と、二度と失いたくないという強い感情が、炭治郎の胸に新たな炎を灯していく。

 

 

「俺も·······俺ももっと強くなります。無惨を倒して、みんなが傷つかなくていいように·······絶対に強くなります!!」

 

 

決意に満ちた叫びが周囲の空間を震わせ、張り詰めていた空気の澱みを一気に吹き飛ばした。

 

頭上で枝に止まっていた鎹鴉が、その熱に呼応するかのようにバサリと翼を広げ、濁りのない鳴き声を山林へと響かせる。

 

二人は残りの荷を整え、敷き詰められた枯れ葉を踏みしめながら、再び山道へと歩み出した。

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

「トウチャク!! トウチャク!!」

 

 

陽が沈む前。

 

二人は次の稽古場である屋敷の瓦屋根に止まった鴉の甲高い鳴き声に案内されるようにして、その門前へと辿り着いていた。人里から隔絶された場所に構えられたその屋敷は、手入れの行き届いた板塀に囲まれ、冬の冷たい静寂の中にひっそりと息を潜めている。

 

二人が並んで古びた木の門を潜ると、炭治郎は居住まいを正し、道場へ続く玄関の引き戸の前まで進み出た。

 

 

「ごめんくださーい!!」

 

 

礼儀正しく響き渡る炭治郎の声。

 

しかしその挨拶に対する返答の代わりに屋敷の奥から耳に入ってきたのは、乾いた激しい打ち込みの音であった。

 

バシィッ!! バシィンッ!! と。

 

木刀と木刀が激突し、一方的に相手を打ち据える連続の打撃音。

 

それに混ざる、押し殺したような苦悶の呻き。

 

 

「「???」」

 

 

炭治郎とリンクが顔を見合わせ、引き戸を静かに横へと引くと、隙間から流れ込んできたのは冬の冷気すら生温く感じられるほどに研ぎ澄まされた、異様な緊張感であった。

 

二人はその光景を目にした瞬間に揃って立ち尽くした。

 

目の前の光景、板張りの床の随所に、すでに息も絶え絶えとなった隊士達が何人も力なく倒れ伏している。

 

誰一人として自力で身を起こすことすら叶わず、額から滴る汗と苦痛に顔を歪め、ただ荒い呼吸を繰り返すばかり。

 

打撃を受け止めたであろう腕を抱えて小さく震える者、木刀を握り締めたまま虚ろな目を宙に漂わせる者。

 

まるで激しい戦闘の直後のような惨状が、屋敷の静寂の中に転がっていた。

 

そして、その打ち倒された者達の中心。

 

静まり返った道場の空気を一人で支配するように佇む少年の姿があった。

 

 

「君、本当ならもう三回は死んでるよ。こんなのもできないなんて、すぐに鬼に喰われちゃうよ」

 

 

記憶にある、どこまでも透き通った冷ややかな声。

 

腰元まで伸びた黒と青緑の長い髪を揺らし、華奢な身体に他の隊士とは違う隊服を纏った少年。

 

時透無一郎が、床にへたり込んだ一人の隊士の喉元へ、無駄のない動作で木刀の切っ先を突きつけていた。

 

 

 

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