道場に足を踏み入れた瞬間に広がっていた光景は、もはや鍛錬と呼ぶにはあまりに一方的な蹂躙であった。
「ふっ!!」
「はあッ!!」
「ぐはっ!?」
「いッ!?」
板張りの床を擦るけたたましい足音と怒号にも似た隊士達の荒い気合、そして無様に膝をつき、打たれたところを押さえつけている者達の声がいくつも響く。
三人の隊士が互いに死角を補い合うようにして木刀を構え、中央に立つ小柄な少年へと同時に間合いを詰めていた。刃が空を裂く風切り音、踏み込みによって道場の床板が激しく軋む重たい衝撃音。連携を意識したその狭く細かい攻撃は、常人の隊士であれば防御の体勢すら整えられずに押し潰されるだけの圧力を秘めている。
しかし、その激しい太刀筋の只中にあっても、時透無一郎の肉体は微動だにしていないかのように見えた。
「·······」
踏み込まれた足の筋肉が僅かに緊張した瞬間、少年の身体が霧散するように掻き消える。
激突音すら上がらない。
左から袈裟懸けに振り下ろされた木刀の太刀筋を無一郎は首を指一本分傾けただけの動きで滑らかに躱し、流れるような歩法でその隊士の懐深くへと滑り込んでいた。手首を小さく返して放たれた木刀の柄頭が隊士の鳩尾へ無駄のない軌道でめり込む。
「がはっ!?」
くぐもった呻きを上げて一人目が床へ沈むのと、残る二人が背後から木刀を交錯させる動作は完全に同時であった。だが、振り抜かれた二本の木刀が捉えたのは、少年の纏う隊服の裾が残した淡い風の残滓に過ぎなかった。
身体の向きを変えたという気配すら感じさせず、無一郎はすでに二人の隊士の背後、死角の影の中へと立ち位置を移動させていたのだ。
急激な加速と減速、そして初動の気配を完璧に殺した変幻自在の身のこなし。
振り向こうとした隊士の膝裏へ正確無比な角度で木刀が叩き込まれ、関節の自由を奪われて崩れ落ちたもう一人の隊士の喉元へ、音もなくその切っ先がピタリと突きつけられる。
「はい·······死んだ」
瞬きの数回にも満たない、ほんの数呼吸の出来事。
三人の隊士は一人として反撃の形を取ることすら許されずに板張りの床の上で額を擦りつけ、荒い息を吐きながら力なく転がっていた。
「·······時透君、すごい·······!!」
その圧倒的な神技を間近で目の当たりにした炭治郎は、丸い瞳を限界まで見開いたまま掠れた感嘆の声を零していた。
刀鍛冶の里で共に上弦の鬼と刃を交え、その凄まじい才能を肌身で感じていたはずであった。
昔の人が残した絡繰相手に表情も崩さず、自分でもかなり苦戦したのに彼は全く苦しそうにせず、ただ感情を無にして向かっていくあの光景を見た時から無一郎の天賦の才は本物だと気付いていた。
しかし記憶を取り戻し、柱として再び立ち上がったこの少年の剣技はあの死闘よりもさらに純度を増し、恐ろしいほどの完成度へと到達している。
常人であれば何年も血の滲むような鍛錬を重ねてようやく辿り着く剣の境地を、僅か一四歳の少年が軽々と踏み越えているという事実に炭治郎は息を呑むことしかできなかった。
「··············」
だが、その横に並び立つリンクの眼差しは炭治郎が抱いた純粋な驚愕とはまったく別の場所へと向けられていた。
久しぶりに目にする柱の少年、時透無一郎という剣士の姿。
里での死線を共に潜り抜け、そして前の会議以来の再会でありながら、リンクの胸の内には旧友と巡り合えたことへの安堵や喜びといった温かな感情は立ち上ってこなかった。
蒼い瞳が捉えていたのは、床に打ち倒された者達を冷淡に見下ろす少年の顔、その皮膚の薄い質感や隙間風に揺れる長い髪の奥にあるものだった。
僅か二ヶ月で刀を握って柱まで上り詰めたという、天賦の才。
筋骨隆々とした猛者のような体格を持たず、風が吹けば折れてしまいそうな華奢な体でありながら、その内側には信じ難いほど濃密な気の巡りと研ぎ澄まされた刃物のような静寂が満ち満ちている。
その異質さ、剣を振るうために生まれてきたとしか思えない歪なまでの完成度。
だがリンクの感覚を強く引き絞ったのは、その才の鋭さそのものではなかった。
無力化された隊士の喉元に木刀を突きつけながら一切の感情を交えずに冷涼な言葉を落とす、その無一郎の眼差し。霧のように透き通っていながら周囲のあらゆる景色を映し出さず、ただどこか途方もなく遠い虚空を見据えているかのような、あの独特の目の光。
いや───違う。
(······この気配、どこかで············?)
既視感。
頭の中に冷たい小石を投げ込まれたかのような奇妙な引っかかりが、波紋のように広がっていく。
───“誰か”に似ている。
顔の輪郭や骨格といった、目に見える肉体の特徴ではない。気配、世界を捉える視線の深度、そして全身の筋肉が一切の予備動作を交えずに空間と溶け合う、あの独特の静けさ。
遠い昔の記憶ではない。
ごく最近、この地に降り立ってから感じたはずの“誰か”の佇まいと酷似していた。
───誰だっただろうか。
無一郎は無一郎、それは間違いない。
なのに彼を見ていると、“誰か”を思い出そうとして変な気分になる。
目の前の少年を見続けていると、その背後に“誰か”の影が浮かび上がる。だがとても朧げで姿がはっきりしない。思考の糸を手繰り寄せるようにリンクが僅かに眉間に皺を寄せ腕を組み、思案深げに首を傾げる。
「? リンクさん? どうしたんですか?」
そんなリンクの隣から少年の気遣わしげな問いかけが飛んできた。
床に倒れる隊士達を凝視するでもなく、かといって無一郎の神技に感嘆の声を漏らすでもなく、ただ呆然とした様子で立ち尽くしていたリンクの横顔に炭治郎が違和感を覚えて覗き込んできたのだ。
「もしかして、どこか体調でも悪いんですか?」
「え······? あぁ、いや。なんでもないよ」
虚空を彷徨っていた意識が急激に現実へと引き戻されたリンクは小さく瞬きをしたものの、すぐさま切り替えるように首を振って炭治郎に応える。
するとそこで、
「チョット!! 何見テンノヨ!? コノ余所者ガ!!」
「「!?」」
頭上近く、庭にある木から道場の方へとせり出した梢の辺りから、空気を無遠慮に切り裂くような甲高い鳴き声が唐突に響き渡った。
「あ、時透君の鎹鴉」
「ハッ!! 何ヨアンタ!! 生キテタノ!? テッキリ鬼ニ喰ワレテ死ンジャッテルカト思ッタワ!!」
「······相変わらず口が悪い」
「アァ!? 何ヨ!? 文句アルノ!?」
頭を苛立たせるような傲慢で鋭い調子。
炭治郎とリンクが同時に視線を跳ね上げた先、細い枝先にとまっていたのは、長く美しく整えられた睫毛を誇らしげに震わせる一羽の鎹鴉であった。
見下ろすような角度から炭治郎の姿を捉え、羽をバサバサと誇張するように羽ばたかせながら容赦のない悪態をまくし立てている。
炭治郎を存分に見下ろして毒づき終えたその鴉───“銀子”は黒い翼を大きく広げて梢を蹴ると、そのまま滑空するようにリンクの頭上へと迫ってきた。
バサリと風を切る羽音を立てて舞い降りた先は、リンクの右肩の上。
鋭い爪で服の布地をしっかりと掴み取ると、銀子は器用に首を曲げ、自慢の硬い嘴先でリンクの耳元や側頭部をツンツンと小気味よく突き始めた。
「マ、アンタニハ一応感謝シテヤッテモイイケドネ!! アノ子ヲ変ナ竜カラ救ッテクレタカラ。デモ!! 一度共闘シタクライデ良イ気二ナンナイデヨネ!!」
「ちょ!? リンクさんに失礼だろう!?」
「アノ子ハアンタト違ッテ特別ナンダカラ!! 勘違イシナイデヨネ!! フン!!」
「············」
至近距離から鼓膜を直接揺さぶる、金切り声のような甲高い鳴き声。
その毒舌がリンクにまでぶつけられて炭治郎はすぐ注意してくれたが、当の本人は耳のすぐ真横で絶叫されたことで顔を僅かに顰めながら、痛むというよりは純粋に音の大きさに圧倒されたように首を傾げた。
至近距離すぎて耳の中で音が割れ、まともに言葉として聞き取れなかったのだ。
リンクはつい素直な感想を、小声でぽつりと漏らした。
「············チョット声大きすぎて何言ってるかわからなかった」
「ハッ!?」
耳を疑うような反応を返された銀子は整った長い睫毛を逆立て、嘴を大きく開けて硬直した。
感謝と牽制を込めた渾身の演説を、耳元で響いた雑音同然に片付けられた屈辱。
次の瞬間、鴉の丸い瞳が怒りで吊り上がった。
「失礼シチャウワネ!! 何ヨコノ外人ガ!! コノ変ナ耳ハ御飾リナノカシラァッ!?」
「イデデデデデデデデデデデデデデデッッッ!!!??」
「あ!? おいコラ!! やめるんだ!!」
バサバサと翼を乱暴に暴れさせながら銀子は首を伸ばして、リンクの右にある長い耳をその嘴で力任せに挟み込んだ。
不意打ちで耳を噛まれたリンクの口から情けない悲鳴が飛び出る。
上弦の鬼の強襲すら紙一重で躱してきた勇者の身のこなしも、味方の鎹鴉による至近距離の理不尽な嘴攻撃には為す術がなかった。
リンクは両手をばたつかせながら、耳にぶら下がるようにして肉を引っ張る黒い鳥をどうにか引き剥がそうとその場で右往左往する羽目になっていた。炭治郎もなんとか引き剥がそうとするも銀子は絶対に離さないという感じで、彼に足を引っ張られるとそれに連動してリンクの長い耳がビヨーンとさらに伸びる。
「何してるの?」
と、道場の奥から投げかけられたその抑揚のない問いかけは、破茶滅茶な空気を一瞬で止めさせた。
稽古の最中であったというのに入り口の引き戸の辺りがあまりに騒がしく、少し苛立ちを宿して歩み寄ってきたのであろう足取り。床板を軋ませる微かな摩擦音すら立てず、音もなく間合いを詰めてきた時透無一郎がだぶついた隊服の長い袖を幽霊のように垂らしながら、不思議そうに首を傾げてこちらの様子を見つめていた。
先程まで板の間の上で一般隊士達を冷たく見下ろし、容赦のない木刀の連打で床へ叩き伏せていたあの冷酷な佇まいとはまるで異なり、その瞳には一切の敵意も険しさも浮かんでいない。
「あ!! 時透君!!」
炭治郎が顔をパッと明るく輝かせ、嬉しさと安堵の混ざり合った声を上げた。
すると少年の姿とその聞き覚えのある声を真っ向から捉えた瞬間、無一郎の表情が晴天の陽光を浴びて霧が晴れるかのように劇的な変化を遂げた。
「炭治郎!! 久しぶり!! 待ってたよ!!」
あの頃と全然違う表情。
刀鍛冶の里で最初に出会った時の、他者への関心を切り捨て、ただ空の雲を眺めるように淡々と人を突き放していたあの冷淡さはどこを探しても見当たらない。
花が咲き誇るかのように口元を緩め、年相応の少年らしい無邪気さと屈託のなさを全面に押し出したその笑顔はあまりに柔らかく、温かい光に満ち溢れていた。
炭治郎という少年の来訪を心の底から待ち望んでいたのだと全身で表現するように、無一郎は軽やかな足取りで駆け寄ってくる。
一方で。
その横では依然として凄まじい攻防が繰り広げられていた。
「イ、イタタタ·······ッ!!」
リンクは全身の力を振り絞り、自らの尖った右耳に執拗に食らい付いていた嘴を両手で力任せに掴み取ると、引き千切れそうになる激痛に顔を歪めながらようやくその暴虐な黒い鳥を耳たぶから引き剥がすことに成功した。
両の手のひらの中に無理やり閉じ込められた銀子は羽を激しく逆立て、自慢の長い睫毛を怒りで震わせながら足の爪を立てて暴れ回っている。
「放シナサイヨ!! コノ無礼者ガ!! 何ノ権限デ気安ク触ッテンノヨ!? 私ニ触レテイイノハアノ子ダケヨ!! 放シテッテ言ッテンノヨ!! 放セェェェエエエエエエエッッッ!!!!!!」
至近距離で響く耳障りな金切り声を完全に意識の外へと追いやりながらリンクは痛む耳の付け根を手首で押さえ、両手の中で暴動を起こす鴉を掴んだ姿勢のまま目の前まで近付いてきた無一郎の姿に呆然として言葉を失っていた。
(あれ? この子、こんな顔するっけ·······?)
記憶の中にある時透無一郎という少年は、他者のことなど一切配慮せず、合理性だけで言葉を切り捨てる刃物のような人間であった。
そしてつい数瞬前、道場の中央で他の隊士達へ向けていた態度もまた、それとほとんど同じ辛辣さだったはずだ。
木刀の切っ先を喉元へ突きつけ、息も絶え絶えになっている隊士達に対して『こんなのもできないなんて、すぐに鬼に喰われちゃうよ』と容赦なく言い放ち、キツく当たっていたあの姿。
それが炭治郎という一人の少年を視界に収めた途端、これほどまでに丸く優しげな顔つきへと変貌を遂げて迎え入れるなど誰が想像できただろうか。
まるで別人のように柔らかい表情を浮かべる柱の姿を前にリンクは耳の痛みを半分忘れ、ただただ目を丸くして立ち尽くすしかなかった。
「イイ加減ニ放シナサイヨ!!」
直後、怒気を含んだ金切り声が響いたかと思うと、僅かに力が緩んだリンクの両手から辛うじて逃れた銀子が隙を突いて頭上へと飛び上がった。
黒い翼を荒々しく羽ばたかせ、空中で身を翻すその仕草には、侮辱された自尊心を晴らそうとする執念に満ちている。
そして。
「ハアッ!!」
長い睫毛を逆立て、復讐の炎を宿した瞳で狙いを定めた先は、呆然と佇むリンクの頭頂部であった。
二つ目の稽古は、リンクの絶叫にて始まる。
□■□■□■
「ごめんね、僕の鴉が迷惑かけて」
「リンクさん、大丈夫ですか?」
「·······うん、何とか」
まだ鈍い痛みが引かない頭頂部を掌でそっと押さえながら、リンクは息を吐き出した。
金髪の毛先は無残にも逆立ち、右の耳たぶにはくっきりと赤い嘴の跡が刻まれている。災難という言葉ですら生温い歓迎であったが、前を歩く無一郎の申し訳なさそうな顔を見れば、これ以上不満を口にする気にもなれなかった。
道場での激しい打ち込みは一旦の区切りを迎え、稽古場全体に短い休息の刻が与えられていた。
三人は母屋を抜け、敷地の奥にひっそりと佇む離れの小屋へと向かって歩みを進めている。冬の寒気が屋敷全体を包み、隊士達の火照った肌をひやりと撫でていく。
その静寂を破っていたのは、庭の井戸端から響いてくる金切り声であった。
「水ハ大切ニ使イナサイヨ!? アンタラノ為ノ水ジャナイッテコト分カッテンノ!? バシャバシャ零スンジャナイワヨ!! コノ図体バッカリデ使エナイ下ッ端ドモガ!!」
「···········うるさいなホント」
「どっか行けよ······鬱陶しい」
「ハァ!? 今言ッタノ誰!? 前ニ出テキナサイヨッ!!」
井戸の釣瓶桶を軋ませながら、厳しい稽古で噴き出した汗を冷たい水で洗い流していた一般隊士達。
その頭上、井戸の屋根組みの上から銀子が長い睫毛を吊り上げて猛然と毒舌を浴びせかけていた。隊士達は柄杓や濡らした布を握ったまま肩を竦め、鬼の牙よりも鋭い舌鋒に苛立っていた。
その理不尽な怒号の中、音もなく舞い降りていたのが炭治郎の鎹鴉であった。
黒い翼を器用に畳み、落ち着きを灯した目でギャアギャア喚く銀子を見つめると、感情の篭らない平坦な声で短く言い放った。
「オマエウルサイ」
「ハァアッ!?」
その一言が放たれた瞬間、銀子の首が信じ難い角度に曲がる。
傲慢な自尊心を真っ向から叩き折られた鴉は全身の羽毛を逆立て、井戸の屋根を踏み鳴らしながら憤怒の形相で嘴を突き出した。
「誰ニ向カッテ口利イテンノカ分カッテンノ!? 柱ノ鎹鴉ニ対シテソンナ無礼ナ態度ハ隊律違反ヨ!! コノ薄汚レタ駄鴉ガァッ!!」
「ウルサイ、ウルサイ、頭ガ悪クナル」
火に油を注がれた銀子の絶叫が、晴れ渡った屋敷の空を激しく震わせていく。
隊士達が顔を見合わせ『面倒なことになる前に戻ろ』と、その場から身を引く様子を遠目に眺めながら、炭治郎は苦笑いを浮かべるしかなかった。
背後で繰り広げられる鴉同士の醜い争いの喧騒を背に受けながら、三人は庭を横切り、敷地の奥へと足を運んだ。
手入れの行き届いた母屋の造りとは異なり、その離れの小屋は杉板で囲われ、ひっそりとした佇まいを見せている。
先頭を歩いていた無一郎が、板張りの小さな戸の前で足を止めた。
少年は背筋を僅かに正すと、右手を上げて閉ざされた引き戸を小気味よく叩いた。
コン、コン、コン、と。
等間隔に刻まれた三度の打音。
誰かに己の来訪を告げるための、定まった合図。
炭治郎とリンクが顔を見合わせ、中の様子を窺おうと耳を澄ませたのも束の間、無一郎は中からの返答を待つ素振りすら見せなかった。
少年の細い指先がそのまま迷いなく引き戸の縁へと掛けられる。
「入るよ」
どこまでも平坦で、しかし親しみの混ざった声を投げかけながら無一郎は引き戸を横へと滑らかに開け放った。
冬の冷えた風が室内の温まった空気を揺らし、開け放たれた間口の先、薄暗い部屋の奥へと少年は二人を促すように振り返った。
「どうぞ、入って」
促されるまま炭治郎とリンクはその敷居を跨ぎ、小屋の内部へと足を踏み入れた。
そこにいたのは、
「これはこれは、時透殿」
聞いたことがある声。
中にいた誰かが小屋の戸が開いたのに気付き振り返ると、その顔には見慣れた滑稽な表情の面が張り付いていた。
左右対称に歪んだ目元と、前へと突き出されたひょっとこの口。
刀鍛冶の里の者が皆一様に身につけている、素顔を隠すための伝統の面。硬い石の床の上に正座し、手元に広げた道具箱を整えていたその若い男は、背筋を伸ばして丁寧に頭を下げた。
その独特の面を捉えた瞬間、炭治郎は瞳を見開いて思わず声を上げていた。
「鉄穴森さん!?」
刀鍛冶の里で共に上弦の鬼と対峙し、命懸けで無一郎に刀を届け、そして伊之助の刀も打ってくれた腕利きの刀鍛冶───“鉄穴森鋼蔵”の姿がそこにあった。
「おお!! 炭治郎君ではないですか!! 随分と回復されたようですね!! 良かったです!!」
「はい!! ありがとうございます!!」
面の下から漏れ出たのは、以前と変わらぬ温厚で礼儀正しい声色であった。
炭治郎の姿に気付くと、鉄穴森は安堵したように両手を膝の上で叩き、嬉しそうに立ち上がって身を乗り出してきた。
「おや、貴方もこちらにいらしてたんですね!!」
「!!」
鉄穴森は炭治郎の隣にいるリンクも見つけると、その整った顔をよく見ようと近付いてくる。
「いやぁ、貴方もどうやら元気になられたみたいですね!! 無事で何よりです!!」
「うん、ありがとう。そっちも元気なようで良かった」
「はい!! お陰様でこの通り!! まあ元々怪我は軽い方でしたしね。ところで、貴方のお話は鋼鐵塚さんから先に聞いていましたよ。貴方あの人の刀を硝子のように透き通らせたみたいですね」
「あぁ············うん」
鉄穴森とリンクの関わりはそこまでない、だがリンクの持ち前の対話術によって親しい感じで話し合っている。
すると鉄穴森は、同じ刀鍛冶の里の人間である鋼鐵塚からリンクのことを詳しく聞いていたらしく、その滑稽なひょっとこの面を微かに揺らしながら思い出したように話し出す。
リンクとしても、鋼鐵塚のその後の様子が知りたかった。悪気はなくても、せっかく作ってもらったものを期待通りにできなくて失望させてしまい、そして理不尽にキレられた。
刀鍛冶の里が壊滅寸前まで追い込まれ、そしてその後の復旧作業の中で交わされたのであろう同胞達のやり取り。里の職人達の中でも群を抜いて偏屈で、刀のこととなれば我を忘れて暴走するあの鋼鐵塚蛍が、里へ戻った後に一体どれほどの怒りを宿して周囲に語り散らかしていたのか。
その異様な光景が目に浮かぶような熱っぽさを帯びながら、鉄穴森は声を一段と弾ませて言葉を紡ぎ出した。
「鋼鐵塚さん、炭治郎君に刀を届けに行く時『あいつにも俺の刀を渡せば刃が赫くなるはずだ』ってずっと言っていましてね。それなのに貴方が握った途端に刀身が半透明になり、まるで蒼い硝子細工のように透き通ってしまったとお聞きしました」
「はは··············」
面の下から漏れる興奮混じりの早口にリンクはどう反応して良いのか分からず、困惑の色を滲ませて視線を彷徨わせた。
刀を打った鋼鐵塚本人が誰よりも納得のいかない様子で頭を抱え、拳を振り回しながら憤慨していたあの凄まじい光景が脳裏を過ぎる。
下手に肯定すれば職人としての誇りを逆撫でしそうであり、かといって否定できるような事実でもない。
リンクは曖昧な愛想笑いを浮かべたまま、喉元で言葉を詰まらせるしかなかった。
「貴方も日輪刀を打ってもらったんだ?」
すると、それまで炭治郎の前で静かに佇んでいた無一郎が、微かに小首を傾げて会話に割り込んできた。
彼の澄んだ瞳が、興味深そうにリンクの腰元へと据えられる。
炭治郎が使っている日輪刀とほぼ同じだが、鍔だけが彼専用に作られた形であった。
無一郎は顎に軽く曲げた人差し指を当て、自らの知識と記憶の糸を手繰り寄せるように言葉を継いだ。
「日輪刀は持ち主によって色が変わって、呼吸の適性も関係してるらしいけど·········貴方のは蒼い硝子細工になったってどういうこと?」
「あぁ·········えっと」
炭治郎の刀が黒へと染まり、無一郎自身の刃が白い霧を思わせる色へと変わったように、陽光を吸収した鋼の刃が特定の色彩を帯びること自体は鬼殺隊における道理として理解できる。
しかし、金属としての質感を保ったまま半透明になり、向こう側が透けて見える硝子細工の如き変貌を遂げるなどという現象は、剣士としての知識の枠組みを根底から逸脱していた。
少年の純粋な疑問の眼差しと、鉄穴森の面越しに伝わってくる熱烈な圧。
二方向から注がれる強い視線を受け止めきれず、リンクは観念したように小さく肩を竦めて深い息を吐き出した。言葉を重ねて説明しようとしたところで、この特異な現象を納得させられる道理など持ち合わせていない。
「·········見せた方が早いかな」
これ以上押し問答を続けるのも骨が折れると判断し、リンクは渋々といった手つきで腰のベルトに差していた黒塗りの鞘へと左手を添えた。
親指の腹で鍔を静かに押し上げると、微かな金属の擦れる音が静まり返った小屋の中に響く。
右手で柄を握り、滑らかな動作で刃を前方の空間へと引き抜いた。
鞘の口から姿を現したその刀身は、冬の薄暗い室内の光を浴びた瞬間、鉄の鈍い反射とはまるで異なる清らかな色彩を放った。
大空を湛えたかのような透明度を持ち、刀身の向こう側にある板壁の木目が僅かに歪んで透けて見えている。硬質な鋼の鋭利さを保ちながらも、まるで職人が心血を注いで削り出した蒼い硝子細工そのもののような神秘的な美しさを湛えた異形の刃。
その前代未聞の刀身が、静かにその全貌を現した。
「これは·········ッ!?」
「ほんとだ·········硝子みたい」
鉄穴森の悲鳴に近い感嘆と、初めて目にする無一郎の素直な呟きが重なる。
以前、蝶屋敷で日輪刀を届けてもらった時にこの変化を間近で見ていた炭治郎は横で当時の鋼鐵塚の荒れ狂いようを思い出しながら苦笑いを浮かべていたが、最も激しい衝撃を受けていたのは予想通り鉄穴森であった。
「おお·········おおお·········ッ!!」
ひょっとこの面越しにも分かるほど目を剥き、鉄穴森は吸い寄せられるように間合いを詰めてきた。
強張った両手を胸の前で震わせ、触れることすら恐れ多い神聖な器物を前にしたかのように、額を擦りつけんばかりの距離からその刀身を凝視する。薄暗い小屋の光を吸い込んで透き通る刃先は光を反射するのではなく、内側から淡い冷気を帯びて澄み渡っていた。
「これは確かに見たことがない·········一体どうしてこんなことに·········!!」
職人としての膨大な知識が、鉄穴森の頭の中で目紛しく回転する。
鋼に含まれる不純物の割合か、鍛錬の際の温度管理の妙か。
あるいは刀鍛冶の里に伝わる鉄の選定において、何百年に一度しか混ざり合わない未知の鉱石が紛れ込んでいたのか。はたまた使い手の体質や握力が鋼の組織そのものを変質させてしまったのか。
次々と浮かび上がる技術的な仮説を早口で呟きながら、鉄穴森は首を何度も横に振った。
「いや、そんな道理はあり得ない·········鋼が透明度を持つなどどれほど熱を加えて叩き上げようと物理の範疇を越えている。鋼鐵塚さんが頭を抱えて暴れ散らかした理由が今ようやく腑に落ちましたよ」
唸り声を上げて考え込む職人の横で無一郎は静かに視線を落とし、硝子の刃先をじっと見つめていた。
感情を交えぬ澄んだ瞳の奥で、剣士としての合理的な思考を巡らせている。
「でも色が変わるってことは、多分呼吸の適性はあるんだよね。けどこれ何の呼吸なんだろ?」
小首を傾げた少年柱の素朴な疑問が、静かな室内に落ちた。
日輪刀は別名『色変わりの刀』と呼ばれ、適性のある基本の呼吸である水、炎、風、岩、雷のいずれかに応じて固有の色を帯び、そこから派生した独自の呼吸であっても何らかの系統に属する色合いを示すのが不変の法則であった。
だが。
青空の如き蒼さを湛えながら、硝子のように向こう側を透かして見せるこの刃。
既存のどの呼吸の系譜にも当てはまらないその特異な姿を前に、無一郎は不思議そうに指先で自らの顎を撫でていた。
「青いから水? でもだとしたら冨岡さんみたいになるだろうし·········」
「う〜む·········謎ですね」
と、真剣に悩んでいるところ悪いのだが、
「あの·········ところで、鉄穴森さんがどうしてここに?」
考えてもわからないことをいつまでも悩んでいては話が進まない。炭治郎は話の腰を折ってしまう申し訳なさを滲ませつつも、当初から抱いていた疑問を口にした。
人里離れた柱の屋敷、その奥まった小屋の中になぜ刀鍛冶である彼が控えているのか。
思いもよらぬ場所での再会に、炭治郎はずっと驚きを隠せない様子で室内を見回していた。
「あ、それなら僕がお誘いしたんだ」
顎に当てていた指先を離し、無一郎が平然と答えた。
すると彼は小屋の奥、冷え切った板壁の方へと静かに歩みを進めた。小屋の薄暗がりに目を凝らせば、その壁面には刀掛けが幾段にも渡って設えられており、手入れを終えたばかりの予備の刀が整然と並べられていた。
「戦いに向けていつも刀を最高の状態にしておきたくて、そう申し出たらお館様が僕の思うようにしたらいいと許してくれてね。鉄穴森さんは僕の刀の担当だし、それでここにいてもらってるんだ」
鬼との過酷な交戦によって破損した際、即座に代替を利かせるための備蓄。
刀鍛冶が滞在している理由そのものを物語る光景であった。
無一郎はその中から何ら迷う素振りも見せず、鍔すらない一本を手に取ると、流れるような動きで抜き放った。
鞘を部屋の脇へと預け、抜き身の柄を握ったまま炭治郎の元へと音もなく戻ってくる。
「炭治郎、これ持ってくれる?」
「え? あ、うん」
手渡された刀を受け取り、炭治郎は両の手のひらの中に伝わる重量を確かめるようにしてその刀身を見つめた。
使い手の手に馴染むように設計され、しっかりと研ぎ澄まされた刃。
なぜ唐突にこれを預けられたのか意図が呑み込めず、少年は怪訝そうに小首を傾げる。そんな炭治郎の困惑を余所に、無一郎は隊服の長い袖を揺らしながら淡々とした調子で指示を重ねた。
「少し下がって、刃をこっちに向けて」
「えっと、こう·······?」
言われるがままに炭治郎は二歩、三歩と後ずさり、小屋の出入り口前に足を落ち着けると刀身を天井へ向けて垂直に立てた。
刃の切っ先を天へ伸ばし、刃の向きを無一郎の方角へと正対させる。両手の指を柄に固く巻きつけ、僅かなブレも生じさせないよう構えを固めた。
その様子を見届けた無一郎の手元には、いつの間にか一つの赤い紙飛行機が収まっていた。
手入れの合間に折っていたものか、折り目の一つ一つに寸分の狂いもなく、角の尖りから翼の水平に至るまで、少年の研ぎ澄まされた集中力をそのまま紙の上に写し取ったかのような、あまりに端正な造形であった。
「そのまま動かないで」
波一つ立たない静謐な声が、小屋の澱んだ空気を撫でる。
無一郎は腕を大きく振りかぶることもなく、ただ指先で紙飛行機の尾部を軽く押し出すようにして、前方へとそっと放った。
紙の機体は、冬の張り詰めた大気の隙間を滑るようにして前進を始めた。
力任せに打ち出された弾道ではない。気流の乱れを一切起こさず、微かな羽音すら立てないまま、水面を滑る枯れ葉のような軌道を描いていく。
ゆっくりと、静かに。
炭治郎が構える刃、その空気を切り裂くために研がれた冷たい刃先へ向かって、赤い影が吸い込まれるように真っ直ぐ飛んでいった。
そして。
スッ───と。
紙が切れる音。それは耳を澄ませていなければ聞き逃してしまうほどに微小で、乾いた摩擦音すら伴わない静かな響きであった。
炭治郎が垂直に立てていた刀身の鋭利に研ぎ澄まされた刃先、そこへ一切の狂いなく吸い込まれた赤い紙飛行機は、速度を落とすことも風に煽られて軌道を乱すこともなく、ただ平然と切っ先を通り抜けた。
直後。
刃を通過した紙の機体は、まるで最初から二つ分かれていたかのように、中心から左右へと滑らかに二つに割れた。
一切の引っかかりも、紙片が千切れるような抵抗の気配すら存在しない。
左右に分かたれた赤い翼は、それぞれの浮力を保ったまま緩やかな軌道を描き、小屋の壁に当たって床の上へと音もなくひらりと舞い落ちていった。
「っ·······!!」
炭治郎は息を呑み、両手に構えていた刀をそのままに足元に落ちた二つの紙片を凝視した。
切断面は驚くほどに平滑で、顕微鏡で覗き込んだとしても毛羽立ちのような歪んだ箇所一つ見当たらないであろう完璧な直線を描いている。
自らが刀を振るったわけではない。
ただ直立させて固定していただけの刃に向かって、手元から放たれた紙飛行機が驚くほどの精度で中心を貫き、両断されて落ちたのだ。
「すっごいキレ·······!!」
「鉄穴森さんのおかげ、そしてお館様のおかげでもあるんだよ」
無一郎は足元に落ちた二つの赤い紙片からゆっくりと視線を上げ、入り口の隙間から差し込む淡い光へ目を細めた。
「いつでも戦いに臨めるように、僕のために最高の環境を整えてくれたんだ。自身のお体にこそ気を遣っていただきたいのに、いつも僕達の事を一番に気にかけてくださる。本当にありがたい事だよね」
そう語る少年の顔には、かつて刀鍛冶の里で出会った頃の無感情な冷涼さは微塵も残されていなかった。
誰かを突き放すような鋭利な気配は影を潜め、敬愛する主への深い敬意と恩義を宿した、どこまでも穏やかで透き通った温もりがその口元に滲み出ている。
記憶を取り戻し、人としての心を取り戻した無一郎のその柔らかな佇まいは、冬枯れの木立に差し込む木漏れ日よりも温かくその場を満たしていた。
「·······」
その表情を間近で見つめた炭治郎の胸に、熱い火が灯る。
自らの病状が進行している最中にあっても、剣士一人一人の行く末を案じ、万全の支援を惜しまない産屋敷耀哉の慈愛。
そしてその想いに報いようと、迷いなく己を研ぎ澄ます年下の柱のひたむきな覚悟。
それらを理解した炭治郎は手渡された刀の柄をきゅっと強く握り締め、力強く頷いた。
「うん·······お館様のためにも、俺達も全力で稽古に励まなきゃいけないね!!」
「僕の稽古は厳しいよ? 炭治郎でもついて来れるかな?」
悪戯っぽく唇の端を持ち上げた無一郎の問いかけ。
それは手加減を仄めかす甘さではなく、柱としての責務を果たすための真剣な挑発でもあった。
記憶を取り戻し、人としての温もりを宿したとはいえ、剣の前に立てば一切の妥協を許さない天才剣士。
自らの背負う重圧を微塵も厭わず、後進を叩き上げる覚悟を秘めたその瞳を、炭治郎は一切怯むことなく真っ向から見据え返した。
握り締めた柄から手のひらへ伝わる鋼の冷たさが、自らの血を一層熱く循環させていく。
「ついていくよ、絶対に!! ね!! リンクさん?」
「あぁ!! たとえ厳しくても、絶対に折れたりしない!!」
迷いのない少年の呼びかけに、リンクもまた力強く頷いた。
その目には、かつて幾多の試練を潜り抜けてきた勇者としての覚悟が宿っている。
目の前に立つ少年はかつて共に上弦の鬼と刃を交えた仲間であり、今は鬼殺隊を支える柱の一人。
相手にとって不足などあるはずもない。
厳しい鍛錬であろうと、この先に待ち構えている決戦に比べれば、越えられない壁など何一つないはずであった。
二人の気迫を受け止めた無一郎は満足そうに口元を緩めると、
「うん·······いい返事だね。それじゃあ、始めようか」
小屋の入り口を抜け、冬の冷たい空気が流れる外へと一歩を踏み出す。
夕焼けが迫る道場からは、短い休息を終えた隊士達の張り詰めた気配が微かに漂っていた。
時透無一郎による、第二の試練。
高速移動と容赦のない打ち込みが交錯する嵐のような稽古が始まる。