ただの諜報員モブ 作:クモリ・C・ドンテン
プロローグ
私には無二の友人がいる。
その名を桐藤ナギサと言う。
私たちが出会ったのは中等部に入学したての頃で、当時から彼女はトリニティでも群を抜いた聡明な人物として色々な所で名前を見聞きする程の有名人だった。トリニティにおいて
つまり、各所で名前が掲載されるという事は、それだけ彼女の元には人が集まっているということであり、それは同時に多くの人が殺到するほど安定した舟であることをも意味している。
高等部では自治区の行政を司るティーパーティーへの参加が解禁される事情もあり、中等部はその準備期間に相当する。
この準備期間を疎かにせず、各分派が開催しているシンポジウムや政策発表会に参加したり、定期的に先輩と茶をしばいて関係構築に務めた者が、ようやく政務に携わることが許される。そのうえで"聡明な人物"が分派の首長に選ばれ、代表者としてティーパーティーに君臨するのである。
私には特に後ろ盾もなく、人を動かせるだけの財力もない。
政界進出に成功するための大切な要素が幾つも抜け落ちている。
そんな私に出来ることと言えば、コバンザメのように有力者の足元にへばり付いておこぼれを貰う乞食のような振舞いだけだった。
ナギサとの出会いというのは、つまり、荒波に耐え得る舟だと判断した私が、彼女を宿主として選んだことが切っ掛けになる。
当時のナギサを取り巻く環境というのは、他でもない私のような寄生虫が屯し、出来るだけ彼女に近い位置にある椅子を虎視眈々と狙っていたものだから、私の行いが卑劣だとか罵られることはなかった。それどころか、一握りの人間しか成功を収められない政治の世界においては、むしろ普通の事として受け入れられていた。
私も、その寄生虫の一匹として彼女に媚びた。
趣味を合わせて、見たこともなければ使ったこともないような調理器具を購入してお菓子作りに励んだり、詩や小説といった文学に親しみ、芸術を学んだ。
周りからすれば、私の姿はあまりに必死で嘲笑を買っただろう。
それでもナギサは私を一人の人間として扱ってくれて、ひと月すれば個人的に私を遊びに誘ってくれるようにもなった。
つまり、少なくとも"友人として扱うに足る人間"として見られるようになったのだ。
当然、ここで満足してはいけない。
公私混同甚だしい、いい加減な性格をした人間ならいざ知らず、厳格なナギサに関しては公務と私事を徹底的に切り離すだろう。
勿論例外はあるかもしれないが、それでも最近友人になった程度の私に機密情報を漏らしたり、政治的な優遇を施すような無責任な人間ではないのは確かだ。
だからこそ、真に寄生虫として羽化を迎えたいのであれば、己が政治的に有能であり、尚且つ代えの効かない存在であることを示すほかない。
そこで私は情報の収集で己の優位性を示すことにした。
私には独自のルートがある。
それはトリニティ内に蜘蛛の巣のように張り巡らされた情報網ではなく、彼女たちの手の届かない
それは、トリニティと敵対関係にあるゲヘナ学園の情報機関──風紀委員会情報部。
自由過ぎて常に連帯感がない、自治区というか万魔殿が主権を言い張っているだけの無主地、なぜ未だに学園が組織として機能しているのか分からない──などと散々な言われようをしつつも全て事実であるため何一つ言い返せないゲヘナであるが、風紀委員会情報部は、その上澄みの上澄みを更に蒸留してカルキを加え、殺菌・消毒したエリートが集う場所である。
なぜそんな場所に伝手があるのか?
答えは単純にして明快だ。
私がゲヘナ学園から送られた諜報員だからである。
初めてナギサに独自の情報を提供したのは中等部二年の秋のことだった。
当時トリニティ高等部では、次期首長選挙を巡って各分派の水面下での駆け引きが激化していた時期であり、ナギサもまた、懇意にしている先輩たちが所属している分派のキーパーソンとして連日のように会合に出席していた。
私は情報部からの定期報告書を通じて、対立する候補者が秘密裏にレッドウィンターとの技術提携を模索していることを知った。この情報は、トリニティの純血主義的な理念に照らせば大スキャンダルになり得るものだった。
しかし、ここで急いではならない。
あまりに重要すぎる情報を突然持参すれば、その出所について疑念を持たれかねない。
そこで私は段階的なアプローチを採用した。まずは些細な情報から始めるのだ。
どの人物が裏で特定の分派と繋がりを持っているか、どの上級生がどの分派の隠れ支持者なのか。そうした政治的関係性に関する情報を、さも偶然耳にしたかのように彼女に伝えた。
そして、その情報の正確さが証明されるたびにナギサの私に対する信頼は積み重なっていった。
「貴方は随分と情報通なのですね」
ある日の放課後、図書館の片隅でナギサがそう呟いた。対立候補のスキャンダルを伝えた後のことだった。彼女の表情には驚嘆と、そして僅かな困惑が混じっていた。私個人の提供する情報があまりにも正確で、時に彼女が持つ情報網よりも先んじていることがあったからだろう。
「人の話を聞くのが得意なんですよ」
私はそう答えながら──胸の奥に冷たい塊が沈んでいくのを感じていた。
嘘をつくたびに、その塊は重くなっていく。
しかし、私には選択肢がなかった。
任務を遂行するためには彼女の信頼を得る必要があった。
そして、その信頼を得るためには、私は彼女にとって価値のある存在でなければならなかった。
情報提供を続けるうちに、私たちの関係性は徐々に変化していった。
当初は純粋に政治的な利益を目的とした関係だったものが、次第に親密さを帯びるようになったのだ。ナギサは私を信頼できる相談相手として扱うようになり、時には政治的判断で迷った際に私の意見を求めることもあった。
そんな彼女の態度を見るたびに、私の内部では二つの感情が激しくせめぎ合った。
一つは任務の成功に対する満足感であり、もう一つは彼女を欺いていることに対する罪悪感だった。私は彼女を利用しているのだ。善意を踏みにじり、信頼を裏切りながら、それでもなお彼女の傍らに座り続けている。
お前はいったい何者か。
鏡に対して、そう自問しない日はない。
中等部に入学したての頃は易々と答えられていた問いの解法が、ナギサとの関係が深まるにつれて深い霧の中に姿を隠し、遂には答えまで辿り着けずに五里霧中になってしまった。
高等部に進学し、ナギサがフィリウス分派の一員として正式に政治の舞台に立つようになると私の価値はさらに高まった。私は彼女の情報収集担当として機能し、時に彼女の政治的判断に影響を与える助言者としても活動した。
私の提供する情報は常に正確で、しかも他では入手困難なものばかりだった。
それは、ゲヘナの情報網がいかに優秀かということの証明でもあった。
そんな中で、私たちの友情は更に深まっていった。
政治的な関係を超えて、私たちは互いの私的な悩みを相談し合い、時には何の政治的意図もない純粋な遊びの時間を共有するようになった。ナギサは私にとって任務の対象であると同時に、真の友人でもあった。その二重性こそが、私を最も苦しめるのだが──。
そして、高等部の生活にも慣れてきた頃、ゲヘナから一つの指令がやってきた。
ナギサを通じてトリニティの政策決定プロセスに影響を与えよ。
これは、今までにない踏み込んだ命令だった。
複数の地点を経由して送付された指令書には、いつもの風紀委員会の印はなく、万魔殿の紋章が押されている。
万魔殿議長"雷帝"からの、勅令だった。
***
雷帝と名乗る人物が万魔殿の議長に就任してから、キヴォトス全体の情勢は劇的に変化していた。その変化は、まるで長年燻り続けていた火種に油を注いだかのように急激で、破壊的だった。
雷帝は就任と同時に「ゲヘナの偉大なる復興」を掲げ、軍需産業の促進に着手した。
彼女自身が兵器開発の陣頭指揮を執り、有事の際の戦略立案にも直接関与するという前例のない体制を敷いた。これまでのゲヘナが標榜していた混沌と自由とは正反対の、統制された軍事国家へと変貌していった。
この動きに対してトリニティは即座に警戒態勢を敷いた。
正義の象徴たる白い学園と、混沌を体現する赤い学園。その対立構造が、従来の政治的駆け引きの域を超えて、真の軍事的緊張へと発展していたのである。
そして、この緊張状態はキヴォトス全体に波及していた。各学園は今後の情勢を見極めながら、それぞれの生存戦略を模索していた。トリニティに接近する学園もあれば、戦後を見据えてゲヘナの傘下に下る学園も現れ始めていた。
キヴォトス史上類を見ない混乱期の到来だった。
そんな中で私に届いた勅令は、これまでの単純な情報収集活動を遥かに超えた内容だった。トリニティの政策決定プロセスに直接影響を与えよ──それは、ナギサを通じて白い学園の舵取りを操作せよ、という意味に他ならない。
私は指令書を読み返しながら、手が微かに震えているのを感じていた。これまでの私の行為は、確かに裏切りではあったが、ナギサに直接的な害を与えるものではなかった。むしろ、私の提供する情報は彼女の政治的地位向上に寄与していた面すらある。
しかし、今回の指令は違う。
これは明確にナギサを、そしてトリニティを私の意のままに動かせという命令だ。
「どうしたのですか? 顔色が優れないようですが」
翌日の放課後、いつものように図書館で待ち合わせた際、ナギサが心配そうに私を見つめた。
彼女の澄んだ瞳からは、私を疑っているような気持ちは少しも感じられない。
私は親指と人差し指で蟀谷を押さえた。
「いえ、少し体調が……」
「それでしたら今日は早めに帰られた方が良いでしょう。無理は禁物です」
彼女の優しさが、かえって私の胸を締め付けた。
この優しさも、この信頼も、全て私の嘘の上に成り立っているのだ。
「ナギサ様」
私は思わず彼女の名前を呼んだ。
「はい?」
「最近の情勢について、どう思われますか? ゲヘナの動向についてです」
ナギサの表情が僅かに曇った。
「正直に申し上げますと……非常に憂慮すべき状況だと思っています」
彼女は図書館の奥まった席に私を導き、声を潜めて話し始めた。
「雷帝の軍事政策は、これまでのゲヘナとは全く異なる方向性です。彼女は明らかに武力による統一を目指している。そして、それに追随する学園が現れているということは……」
「キヴォトス全体が二分される可能性があるということですね」
「ええ。そして、もしそうなれば」
ナギサは一瞬言葉を詰まらせた。
「多くの方々が犠牲になるでしょう。それだけは、何としても避けなければなりません」
──私はこの時、改めてナギサという人物の本質を理解した。
彼女は権力を求める政治家ではない。真に人々の幸福を願う、理想家なのだ。
「ナギサ様は、どのような解決策をお考えですか?」
「外交的解決が最優先です。武力衝突は最後の手段でなければならない。そのためには、まず雷帝の真意を理解する必要があります」
──私の心臓が高鳴った。これこそが、私の得るべき情報だった。
トリニティがゲヘナに対してどのようなアプローチを取ろうとしているのか。
「具体的には?」
「実は、近日中にティーパーティーで重要な議案が審議される予定です。ゲヘナに対する我々の対応を決定する議案です」
ナギサは周囲を見回してから、さらに声を落とした。
「主に三つの選択肢があります。一つ目は即座に軍備増強を行い、武力による対抗路線を取ること。二つ目は他学園との連携を強化し、包囲網を形成すること。そして三つ目は……」
「……三つ目は?」
「直接対話による平和的解決です。私は三つ目を強く推していますが、フィリウス内からも甘い考えだと批判されています……」
確かに、何を仕出かすか分からない狂人が包丁で襲い掛かって来るかもしれないという時に、悠長に紅茶をキメながら対話の席を整えている余裕などない。現在の情勢では、今までの論理が通用しない特異な事態が起きているのだ。
終戦後から今までの長い間、なぜゲヘナ・トリニティ間で大規模な衝突が起きなかったか──それは両者のパワーバランスが拮抗していたからである。
開戦した所で泥沼化は避けられず、そのまま共倒れか、人道的介入と銘打って他の学園から横槍を入れられて大戦争に発展しかねない。つまり、戦争をしても旨味が薄いのだ。とはいえこれまでの歴史をかなぐり捨てて明日から仲よくしよう、と言うわけにもいかない。
非常に大雑把だが、そう言った事情でトリニティとゲヘナの緊張状態は長年続いていた。
しかし、雷帝の軍備増強政策が、そのパワーバランスを覆そうとしている。
先の抑止論は、両者が拮抗しているという前提の元に成り立っていた。つまり、泥沼化する前に相手を壊滅させる程の能力がある場合は機能しない。そして現状、ゲヘナはその強硬路線を歩んでいるように見える。
それをナギサが見落としているはずがない。
それでも彼女は対話を重視し、あくまで平和的な解決を求め続けている。
……いや、誰も戦争など望んでいない。雷帝の心はいざ知らず、強硬派が集うパテルにも同じ考えの人は多くいるだろう。
それでも──今の絶好調なゲヘナを目の当たりにして、全く同じことを主張し続けられるか。
ここが、ナギサとその他を分ける分水嶺なのだろう。
「貴方はどう思われますか?」
思考が現実へと引き戻される。
突然の質問に、私は動揺した。
「私の意見など……」
「いえ、貴方の意見を聞かせてください。貴方は時として、私よりも冷静に情勢を分析されることがあります。だからこそ、貴方の見解を知りたいのです」
彼女の真摯な眼差しが私を見つめている。
彼女の琥珀色の瞳には、薄らと"私"の姿が映っているように見えた。
トリニティの白い制服とベレー帽を被った"私"が……。
「……雷帝の真意が読めない以上、対話での解決は困難を極めるでしょう。たかがゲヘナと侮ってはなりません。相手は武器を持った狂人です。万が一に備え、何らかの対抗措置は必要かと」
「それは理解しています。そのうえで、私は慎重に対話を行うべきだと──」
「ゲヘナ側は全く応じていないのでしょう?」
「……どこでそれを聞いたのですか?」
「推測です」
嘘だ。本当は雷帝からの指令書に手紙が同封されており、そこにはトリニティ政界への侵入を果たした私への賛辞と、今後起こり得る情勢変化についての予測、そしてそれに対するゲヘナ側の基本的なスタンスが詳細に書かれていた。現状、手紙の内容から逸脱するような動きはキヴォトス全域において見られない。
それはつまり、今のところ全てが雷帝の思うがままに事が進んでいることを意味している。
雷帝からすれば、わざわざトリニティが用意した対話の席に座って七面倒な腹の探り合いをする意味はないということだ。
「……話の通じない相手は、もはや人ではなく獣と見るべきでしょう」
──そして、手紙にはもうひとつ重要なことが書かれていた。
「襲い掛かって来た獣から身を守るために銃口を向けるのは、非難されるべきことでしょうか?」
それは、命令──ナギサを通じてトリニティの政策決定プロセスに影響を与えよ──を具体的に肉付けするための補足説明であり。
私の、トリニティ内での立場をより強固にするための攻略法でもある。
「ナギサ様。被害が出る前に対策を講じるのは、災害対策の基本であります」
「災害……」
「はい。トリニティの目と鼻の先で、今まさに嵐が誕生しようとしています。住民はトリニティの外へ避難させられますが、土地は残ります。建物も残ります。茶畑も残ります。我々が脈々と受け継いできた文化と伝統が嵐に蹂躙され、我々の精神にも等しい紅茶は砂塵の中に枯れ果てる……」
ナギサは黙って私の話を聞き入っている。
私は机の下で、掌に爪が食い込むまで拳を握った。
「──そんな未来が訪れるかもしれない。そうならないために備えを進めるのは、果たして人道に反する野蛮なことなのでしょうか?」
「……備えをするな、と言いたいわけではありません」
「ええ、理解しています。ナギサ様が理想と現実の狭間で苦しんでおられることも、重々承知しております。ですから……私はあくまで助言者の立場として、ナギサ様の意思決定の一助となることを願い、意見を申し上げます」
ゲヘナとトリニティの緊張を高めろ。
張り詰めた糸が起こす微かな振動は、やがてキヴォトス全体を覆い尽くし、来るXデーにおいてその衝撃を不足なく隅々まで届けてくれるだろう。
混沌と自由においてこそ、ゲヘナの威光は輝きを増す。
「──備えるべきです。特に、ゲヘナとの区界付近は徹底的に」
お前はいったい何者か?
私はただの諜報員だ。
それ以外にない。