ただの諜報員モブ 作:クモリ・C・ドンテン
申し訳ないです……。
「随分と、物憂げな顔をしているね」
──その声が聞こえた瞬間、私は反射的に"ユリカ"の仮面を深くかぶり直した。
「おや、またいつもの君に戻ってしまった」
「ごきげんよう、セイア様。お会いするのはこれで2度目ですね」
「最後に会ったのは2か月前だったかな。ここに座っても?」
「どうぞ」
セイアはテーブルを挟んで向かいの席に腰を下ろした。
彼女はガーデンを見渡して景色を楽しんでいる。その間に私は、皆の知る"ユリカ"を脳内に再設定して自分の体に落とし込んでいく。とはいえ、相手はサンクトゥス分派のセイアであり、対して私はフィリウス分派の"ユリカ"だ。そのまま演じるのではいけない。先日の制裁案の可決により両分派の関係は急速に冷え込んでいる。ならば、私の態度もそれに合わせてアレンジすべきだ。
この無意識に近い偽装の行程は、ここ最近ずっと感じていた精神的苦痛を全く伴わなかった。
『なぜだろう』という素朴な疑問は、脳内の論理回路によって『相手がナギサではないから』という単純明快な答えに導かれた。
その瞬間、私は自分の考えが心底恐ろしくなって即座に思考をシャットアウトした。
彼女への愛がこんなに苦痛に満ちたものだなんて思いたくなかった。
「先日の決定は非常に残念だった」
セイアは小さく呟いた。
先日の決定というのは、間違いなくティーパーティーが制裁案を可決したことを指している。
つまりセイアは、彼女個人の意志と分派全体の合意が一致していないと言っている。
「そうですね。まさか、サンクトゥスが賛成に回るとは思いませんでした」
「政治とは船のようなものだ。ゲヘナでは船長一人が行先を決定する権利を有するが、トリニティでは個々の船員それぞれが平等に決定権を持つ。私は彼らの心に潜む恐怖を正確に読み解くことができなかった。政治家として最も初歩的なミスを犯したということだ」
「そして、貴方は敗けた」
私の言葉に、セイアは瞼を閉じて沈黙した。
これで彼女の──少なくとも
彼女はつまり、こう言っているのだ。
『私はナギサの敵ではない。君の敵でもない。私は対話主義の信徒だ』
セイアは瞼を開き、夕空のような色の瞳で私を見つめてきた。
「恐怖は人の目を曇らせるが、そうして達観していたつもりの私も、知らない間に目を曇らせていたのかもしれない」
「サンクトゥスでは強硬論が蔓延しているのですか」
「いや、今のサンクトゥスで一番力を持っているのは対話主義だ。しかし、君にも分かるだろう。我々は決して一枚岩にはなれない」
「一枚岩ですか」
私の問いかけに、セイアは肯定も否定もせず、ただ噴水の水面を眺めていた。
水面に映る夕空が、波紋に合わせて静かに揺らいでいる。
──消えることを決めた私にとって、トリニティの内紛など最早対岸の火事でしかない。
それでも、私の脳はセイアの言葉を受けて勝手に動き始めていた。この身体に染み付いた諜報員としての本能が、目の前の情報を分析し、分類し、結論を導き出そうと疼いている。
これはもう、そういう病気なのだ。
「理解に苦しみます」
「何がだい?」
「貴方がたサンクトゥスの本質は調停と均衡のはず。それがなぜ、パテルのような対外強硬派の挑発行為に同調したのですか。いくら分派内で意見が割れているとはいえ、これではサンクトゥスの理念そのものが根底から覆ってしまう」
探りを入れるために敢えて攻撃的な姿勢を選んだ。しかしセイアは動じなかった。彼女は噴水から私へと視線を戻したが、その表情には一片の動揺も見られない。まるで私の言葉が、初めから彼女の想定通りであったかのように。
「そうだね。外から見れば、我々の行動は支離滅裂な裏切りに映るだろう。ナギサもきっと、そう感じているはずだ」
セイアは続けた。
「だが、君なら分かるはずだ。ミレニアムが中立を宣言すれば、パワーバランスは我々に不利な方向へ傾く。このままでは、トリニティは外交的にも軍事的にもただ劣勢に追い込まれていくだけだ。対話のテーブルさえ用意できずに、一方的に要求を呑まされる未来しか見えない」
セイアは、まるでチェスの盤面を解説するように淡々と語る。
「サンクトゥス内の多数派──かつて私と同じく純粋な対話を信じていた者たちでさえ、その結論に至った。彼らがパテルの案に賛同したのは、決してゲヘナとの戦争を望んだからではない。むしろ逆だ。一時的に緊張を高め、軍備増強への大義名分を得る。そして、ゲヘナと再び軍事的に均衡した上で改めて対話の席を設ける。彼らにとって今回の制裁はそのための苦渋の決断であり、対話を実現するための
なるほど、と私は内心で頷いた。
理念は対話主義。しかし、その実現のためのアプローチは対抗主義そのもの。実にトリニティらしい屈折した論理だ。
とはいえ──これはナギサも指摘した通りだが、彼らが切ったカードはあまりにも強力すぎる。
石油の供給を断つということは、現代社会において相手の喉元にナイフを突き立てるに等しい行為だ。軍需産業どころか経済、インフラ、市民生活の全てが麻痺する。
それは交渉カードなどという生易しいものではなく、事実上の最後通牒であり、全面戦争の引き金となりかねない最も危険な一手だ。
サンクトゥスの対話主義者たちが幾ら恐怖に駆られたからといって、そんな破滅的な賭けを『力関係を均衡させるための一手段』として、そう易々と受け入れるだろうか。
矛盾している。
彼らの目的が『対等な対話』であるならば、この手段はあまりにも過激すぎる。大量破壊兵器をちらつかせながら「軍縮交渉をしましょう」と言っているようなものだ。そこには、目的と手段の間に致命的な乖離が存在する。
この矛盾を解消できる説明は一つしかない。
「その制裁は、本当に効果があるとお考えですか」
「……ほう?」
セイアの瞳に、初めて興味の色が浮かんだ。
私は昔、彼女のような瞳を見たことがあった。トリニティが主催するチェス大会で、前回大会の優勝者と準優勝者の対局があった。息を呑む展開の連続で目が離せなかった彼らの対局は、前回大会の優勝者が犯した致命的な過ちによって勝敗が決した。
その時の対局者の目と同じだ。
驚きでもなく、狼狽でもない。
遂に待ち望んでいた一手が指されたことへの、静かで、激しく燃え盛る満足感。
「君は、この制裁が効果を発揮しないと言いたいのかい?」
──私を誘導している。つまり、この方向性は正しい。
ということは、セイアは、そして彼女が代弁するサンクトゥス内の『対話主義を掲げる対抗主義者』たちは、この"石油を含む戦略物資の輸出禁止措置"がゲヘナに対して致命打とならないことを最初から織り込み済みで賛成票を投じたのだ。
だが、なぜ?
ゲヘナにとって石油の供給停止が致命傷にならない理由とは何だ?
ゲヘナ自治区に大規模な油田は存在しない。それはキヴォトスにおける共通認識のはずだ。ならば、外部からの供給ルートがあるということになる。
どこから?
ミレニアムは中立を宣言し、他の主要自治区もトリニティ主導の包囲網に参加している。
そんな抜け道はどこにも──。
──その瞬間、私の思考回路に激しいスパークが散った。
脳裏に真っ白な銀世界が広がる。どこまでも続く雪原、凍てついた針葉樹の森。その地平線の向こうで、猛吹雪に抗うようにはためく赤い旗。
「レッドウィンター連邦学園」
潤沢な天然資源を保有し、特に石油に関してはキヴォトス内でも随一の産出量を誇る学園。そして、ゲヘナとは歴史的にも思想的にも近しい関係にある。トリニティ陣営が供給を止めたところで、ゲヘナはキヴォトス最大のガソリンスタンドからいくらでも調達できるのだ。
トリニティが主導する経済制裁など、レッドウィンターがその気になれば殆ど意味をなさない。
茶番だ。サンクトゥスの理念も、フィリウスの理想も、パテルの怒号も、全てが巨大な虚構の上で踊る滑稽な道化芝居に過ぎない。この制裁措置は、ゲヘナの雷帝が描くであろう巨大な戦略図の前では、盤面に置かれた意味のない石ころ一つに等しい。
「君と話していると、時が経つのをつい忘れてしまう」
セイアは、心底楽しそうな雰囲気で呟いた。彼女は微笑んでいた。あのチェスの対局で、勝利を確信した挑戦者が見せたのと同じ笑み。
「君は、私が用意した僅かなヒントだけでこの茶番劇の裏にある構造を見抜いてしまった。その上でサンクトゥスがなぜこの愚かな芝居に乗ったのか、その真意まで探ろうというのかい?」
「……ええ。貴方がたは制裁が無意味だと知りながら賛成票を投じた。その目的はただ一つ。フィリウスを出し抜き、パテルを懐柔し、トリニティ内での主導権を握るため。そうでしょう?」
セイアは楽しげに喉を鳴らした。
「半分正解、といったところかな。確かに、フィリウスの理想主義はもはやこの難局を乗り切るための舵としては機能しない。ナギサの掲げる純粋な理想は美しいが、羊と狼の対話は
「その現実的な手というのが、この見え透いた挑発行為ですか」
「ああ。この制裁はゲヘナには効かない。だが、トリニティ内部には絶大な効果を発揮する」
セイアは指を一本立てた。
「まず、無力なフィリウスに代わりパテルとサンクトゥスが主導権を握ったという事実を内外に知らしめることができる。次に、この制裁をもってしてもゲヘナが痛痒を感じないという事実が明るみになれば、トリニティは『我々の手は尽きた。残るは武力による対抗のみ』という次なる段階への大義名分を得る。我々は戦争をしたいわけではない。だが、戦争も辞さないという断固たる姿勢を示すことで初めて、相手はこちらを対等な交渉相手として認識する」
──そこまで聞いて、私はかつての自分の行動を思い出していた。
中等部二年の秋。対立候補のスキャンダル。レッドウィンターとの秘密裏の技術提携。
あの時、私はナギサの手柄とするために政敵のスキャンダルを暴いた。トリニティとレッドウィンターが繋がる可能性の芽を徹底的に摘み取った。
だが、目的はそれだけではなかった。
将来起きるかもしれない有事において、ゲヘナが孤立するのを防ぐためでもあったのだ。
その為に私は、トリニティが取りうる外交カードを一枚、また一枚と焼き払ってきた。
その結果が、今、この茶番劇を生み出している。
私がナギサのために行った過去の工作が巡り巡って現在のナギサの理想を打ち砕き、トリニティを窮地へと追いやっているのだ。なんという因果だろう。この巨大な因果の螺旋で、私とナギサは互いに手を取り、神の奏でるオルガンに合わせてワルツを踊っている。破滅へと向かう終わりのないワルツを。
「……随分と静かになったね。私の論理に、何か欠陥でも見つかったのかな」
セイアの声が私の内省を断ち切った。
そうだ。まだ終わっていない。
痛みも、絶望も、ナギサへの愛も、今は思考の奥底に沈めておけ。
目の前の
「これは推測になりますが」
私は顔を上げ、目を細めた。
「貴方がたの論理は一つの大前提に基づいています。それは『雷帝を対話の席に着かせる』という目的です。しかし、そもそもその前提が間違っているとしたら?」
「……続けてくれ」
「トリニティは雷帝が何を求めているのかを全く理解できていない。フィリウスは対話で解決できると信じ、パテルは武力で屈服させられると信じている。そして貴方がたサンクトゥスは、その中間で軍事バランスによる交渉を目指している。ですが、そのどれもが的外れだとしたら? 雷帝の真の目的が、対話でもなければトリニティの征服でもない、全く別の次元にあるとしたら?」
風が止んだ。ガーデンの空気が張り詰める。
セイアの表情から、ついに笑みが消えた。
「
セイアは答えない。
しかし、その沈黙こそが何よりも雄弁に私を肯定している。
「対話の席に着かせるという希望的観測を捨て、貴方は次の段階に進んだ。雷帝の真意を探り、その目的を正確に把握し、それに対する最適な
そもそも、誰一人雷帝の真意を解明できていない時点で異常なのだ。
今のゲヘナは裸の特異点のようなもので、今まで当たり前と思われていた外交手段が全く通用しないどころか、それ自体が雷帝を目的達成に近付けてしまうこともあり得る。
そんな気持ち悪い状況をセイアが放置するとは思えない。
均衡状態を作り上げたうえで対話が成立するならそれでいい。しかし、彼女はそれで満足するような人間ではない。必ず次善の策、あるいは別の切り札を用意したがるだろう。私の知る百合園セイアとはそういう人物だ。全てにおいて抜かりがない。
全てを言い終えた時、私の頭は灼熱を帯びていた。
こんなに頭を使ったのはいつぶりだろう?
やがてセイアは深い溜息と共に音の鳴らない拍手をした。
「……素晴らしい。ユリカ、君は本当に素晴らしい」
──この時、セイアと初めて会ってから約2か月。
彼女は初めて私の名前を呼んだ。
「君の言う通りだ。ナギサの理想は美しい。だが、嵐に向かって祈りを捧げても船は沈むだけだ。我々は嵐そのものの正体を知り、その進路を予測し、備えなければならない。ナギサは嵐を鎮めようとする聖女だが、私たちが今必要としているのは、嵐を乗りこなす冷徹な航海士なのだよ。彼女はもはや、私たちの味方ではあっても、この船の舵取りを任せられる船長ではない」
敵ではない。だが、味方でもない。
セイアはナギサを、守るべきだが無力な、気高い偶像として切り捨てたのだ。
しかし、セイアは「勘違いしないでくれ」と間髪入れずに続けた。
「ナギサの理想は間違っていない。むしろ、この世で最も尊く、最も清いものであると言える」
「全くその通りです」
「時代だよ。時代が……」
セイアは言葉を切り、深い溜息と共に夕暮れの空を見上げた。
茜色と藍色が混じり合う空は、まるでトリニティとゲヘナの境界線のように曖昧で美しい。
彼女の言う『時代』という言葉が、私の中でぐるぐると渦巻く。それは抗いがたい巨大な潮流であり、個人の意志や理想など容易く飲み込んでしまう奔流だ。ナギサの清らかな祈りも、エリの静かな哲学も、そして私のナギサに対する愛と罪も、その巨大な流れの前では木の葉のように無力なのかもしれない。
時代がナギサの理想を必要としなくなった。
セイアはそう言っているのだ。それでも、彼女はナギサへの敬意を欠かさなかった。
ナギサは守るべき聖女であり、トリニティの精神的支柱。しかし、荒れ狂う嵐の海で船を導く航海士ではない。
セイアは、その役目を自らが担うと決めたのだ。ナギサを神輿として担ぎ上げ、その裏で舵取りを行う。それはある意味、ナギサの理想を守るための最も残酷で、そして最も効果的な方法なのかもしれなかった。
「仰りたいことは分かります」
私は答えた。
「ですが、私の見解は違います。時代がナギサ様を必要としなくなったのではなく、貴方がたが彼女の理想に付き合うだけの度量を失った。それだけのことでしょう」
「手厳しいね。だが、その通りかもしれない」
セイアはあっさりと受け入れた。
彼女は再び私に向き直り、その深い瞳で私の内奥を探るように見つめてきた。
「だが、君は違う。君はナギサとは異なる種類の強さを持っている。彼女が光なら、君は影だ。彼女が祈りなら、君は刃だ。君は理想に溺れることなく、現実の泥濘の中で冷静に物事を分析し、最も効果的な一手を打つことができる。その能力は今のトリニティにとって、そして私にとって何よりも必要なものだ」
その言葉は、もはや賛辞として被るべき最低限の欺瞞すらも取り払われていた。それは品定めであり、勧誘であり、そして私という駒を彼女の盤面に置こうとする明確な意志表示。
「協力をしろと、そう仰りたいのですか」
「話が早くて助かるよ。私と共に嵐の正体を探ってほしい。君の情報収集能力と分析能力があれば、雷帝の真の目的……我々がまだ見えていない戦略の最終局面にたどり着けるかもしれない」
「……」
──ああ、やはり。
彼女は私の本質を見抜いている。あるいは、私の背後にあるゲヘナの影を嗅ぎつけているのかもしれない。その上で敢えて私に協力を持ちかける。敵の刃を自らの目的のために利用しようというのか。なんと大胆で、傲慢な考えだろう。
しかし、その提案は今の私にとっては何の意味も持たなかった。
私の思考回路はセイアの言葉をただの情報として処理するだけで、心は微動だにしなかった。
私の目的は、もはやトリニティの未来にもゲヘナの戦略にもない。
私の全ては、たった一つの結論へと収斂されている。
「お断りします」
故に、私は即答した。
セイアは僅かに眉を上げたが、それ以上の驚きは見せなかった。
「理由を聞いてもいいかな」
「私の目的は、貴方とは全く別のところにありますので」
「ナギサのためかい?」
「……」
──その名を口にされた瞬間、私の思考に、今度は激しい苦痛を伴う灼熱の痛みが走った。
私は奥歯を噛みしめ、表情が崩れるのを必死に堪えた。
「私はもう、トリニティの内紛にも、ゲヘナとの対立にも興味はありません。私が望むのはただ一つ。全てを終わらせることだけです」
「終わらせる?」
「ええ。全てを」
「……自らを犠牲にして?」
「はい」
「なるほど。君は君なりに彼女を愛する方法を見つけ出したというわけだ。自らを犠牲に彼女の憂いを取り除く。素晴らしい。実に悲劇的で、美しい自己満足だね」
セイアの言葉は、私の決意を的確に、そして容赦なく言い当てた。
だが、その言葉に私の心は揺らがなかった。そうだ、これは自己満足だ。だが、今の私にできる唯一の誠実な行いでもある。私の存在が彼女の心を曇らせる重荷である以上、その重荷を取り除いてやる以上に誠実なことがあるだろうか。
「しかしだ。その行いは本当にナギサのためになるのかな」
彼女の声はガーデンの澄んだ空気に溶け込むように穏やかだったが、その意味する所は鋭利な刃物のように私の思考の隙間へと差し込まれた。
「君がいなくなればナギサは悲しむだろう。深く傷つき、自分を責めるかもしれない。君が消えることで彼女の憂いが晴れるというのは、君の希望的観測に過ぎないのではないかな。君は彼女に新たな、そして永遠に癒えることのない傷を与えるだけかもしれない」
「……」
「君は、残された者の痛みを考えたことがあるのかい? 愛する者を一方的に喪うということが、どれほどの暴力を伴うか。君の自己犠牲は結局のところ、君自身が罪悪感から逃れるための最も利己的な選択なのではないかな」
セイアの言葉の一つ一つが、凪いでいたはずの心に小さな波紋を広げていく。
彼女の言う通りかもしれない。私の決断はナギサを救うどころか、彼女をより深い絶望の淵へと突き落とすだけなのかもしれない。
エリを喪った時の彼女の痛みを、私は誰よりも知っているはずなのに。
思考が再び泥濘にはまり込もうとする。しかし、私はそれを無理やり断ち切った。
もう迷ってはならない。一度下した決断を他人の言葉で揺らがせてはならない。
そうでなければ、私はまた答えのない迷宮を永遠に彷徨うことになる。
「それでも、私がここに居続けるよりは遥かに良い」
私は呟いた。
「私の存在が彼女を蝕む毒である以上、その毒を自ら取り除くしかない。残された痛みは時が癒してくれる。しかし、私が傍に居続ける限り彼女の苦しみは永遠に続く」
そうだ。そうでなければならない。
そうでなければ、私のこの決意は、私の愛は、あまりにも無価値で、滑稽すぎるではないか。
彼女はゆっくりと立ち上がり、テーブルに両手をついて身を乗り出した。逃げ場のない至近距離で彼女の瞳が私を射抜いた。
「もう一度言うよ、ユリカ。私に協力してくれ」
「お断りします」
「君の強い想いを、ナギサ個人を救うという目的のためだけではなく、このトリニティという船を救うために使ってほしい。君のその刃は、個人の感傷に溺れるにはあまりにも鋭すぎる」
「私の愛は、貴方の政治の道具ではありません」
私が了承するわけがない。
セイアが言葉を重ねるたびに、その思いは強くなっていく。
彼女は、私の最も神聖な感情を自らの野望のための燃料にしようとしている。その冒涜的な提案に、麻痺していたはずの感情が微かな怒りの熱を帯びた。
「しかし、その道具でしか斬れないものがあるとしたら? その道具でしか守れないものがあるとしたら君はどうする?」
セイアはゆっくりと身体を起こし、私から距離を取った。
夕日が彼女の輪郭を黄金色に縁取り、まるで後光が差しているかのように見える。
「私は行くよ。隣の席は空けておく。嵐の正体を探るための航海士の席をね」
「貴方の隣は永遠に空席です」
「いいや」
彼女は私の否定を一笑に付した。
「君は必ず来る」