ただの諜報員モブ   作:クモリ・C・ドンテン

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創世

 セイアが去った後のガーデンは、まるで舞台から役者が去った後のようにがらんとしていた。夕闇が急速に深まり、先ほどまで黄金色に輝いていた噴水の水面も、今やインクを溶かしたように黒く澱んでいる。

 

 寮への帰路は、思考の泥濘の中を歩む苦行にも似ていた。

 一歩踏み出すごとに、セイアが残していった言葉が足首に絡みつき、私を沼の奥深くへと引きずり込もうとする。

 

『君の自己犠牲は結局のところ、君自身が罪悪感から逃れるための、最も利己的な選択なのではないかな』

 

 残された者の痛み。

 愛する者を一方的に喪うという暴力。

 

 その言葉が、私の頭蓋の内側で呪いのように反響する。

 エリを喪った時のナギサの痛みを私は誰よりも知っているはずだった。彼女の魂に刻まれた癒えることのない傷痕を私はこの目で見て、この耳で聞き、その重さを理解したはずだった。それなのに、私は同じ暴力を今度は自分の手で彼女に加えようとしていた。

 

 『消える』と心に決めたはずなのに、セイアの言葉がその決心に傷をつけてしまったようだ。

 その罅の隙間から、誤魔化しようのない疑問が鎌首をもたげて私を見つめる。

 

 ──ならば、どうすればいい。

 

 私の存在そのものがナギサを苦しめる重荷であるという事実は変わらない。

 だが、私が消えることもまた、彼女に耐え難い苦痛を与えるという。

 

 留まるも地獄、去るも地獄。

 あらゆる選択肢がナギサを傷つけるという結論にしか至らない、出口のない論理の迷宮。

 

 愛している──だからこそ離れなければならない。

 愛している──だからこそ離れてはならない。

 二つの絶対的真理が私の精神を両側から引き延ばし、ぐちゃぐちゃに引きちぎろうとしている。

 

 私は諜報員失格だ。冷静さを失い、感情に溺れ、挙句の果てには敵であるはずの人間に心の隙を的確に突かれ、無様に狼狽している。

 そして、友人としても失格だ。愛する人の心を救うどころか、自分の身勝手な感傷でさらに深い苦しみを与えようとしている。

 

 私は一体、何なのだ。

 ゲヘナの刃でもなければ、ナギサの影でもない。

 ただの中途半端で、無価値で、有害なだけの存在──。

 

「ユリカさんっ!」

 

 背後から聞こえた切羽詰まった声に、私はゆっくりと振り返った。

 息を切らしながらこちらへ駆けてくるのは、フィリウス分派に所属する同級生だった。確か、別の議員の秘書業務を担当している生徒だったか。彼女の髪は乱れ、その表情は恐怖と混乱で引き攣っていた。

 

「どうしたのですか、そんなに慌てて」

 

 私の問いかけに答える余裕もないのか、彼女は私の腕に強くしがみついた。

 小刻みに震えるその指先から、状況が逼迫していることが痛いほどに伝わってくる。

 何が起きている──。

 

「ナギサ様は! 桐藤ナギサ様は、今日、どこかに出かけていらっしゃいませんでしたか!?」

 

 彼女の剣幕に押されながらも、私の頭は機械的にその問いに対する情報を検索する。今日の午後、ナギサは私に「休んでください」と言い残して部屋を出て行った。その時の彼女のスケジュールは確か……。

 

「駅前のレストランで先輩と会うと仰っていました。それが、何か……?」

 

 私の説明を聞いた瞬間、彼女の顔が真っ青に染まる。

 

「ああ、やっぱり……聞き間違えじゃなかったんだ……」

 

 しがみつく力が弱まり、その瞳から急速に光が失われていく。

 こんな様子の彼女は初めて見た。本当に何が──。

 

「10分ほど前に、そのレストランで大規模な爆発が起きたと連絡が」

「……は?」

 

 ──待て。

 こいつは……何を言っている?

 10分前? 爆発? レストラン?

 言葉の意味は分かる。だが、頭の中で文章として成立させることが出来ない。

 

「3名は軽傷で済みました。爆弾の位置から離れていたそうなので……」

 

 頭が痛い。

 頭が割れるように痛い。

 それ以上喋るな。口を閉じろ。私の視界に入るな。

 

「ですが……」

 

 やめろ!

 やめろ!!

 やめろ!!!

 

「ナギサ様を含む他の2名は、お体に重傷を負い、未だに目覚められていないと……」

 

***

 

 思考が停止した。

 世界から音が消え、色彩が失われ、世界の実体が損なわれる。

 

 ナギサが、重傷。

 未だに、目覚めていない。

 

 その言葉が意味するものを、私の脳は理解することを拒絶した。しかし、体は勝手に動いていた。凍りついた思考とは裏腹に私は踵を返し、来た道を猛然と駆け戻っていた。もはや腕にしがみつく同級生の存在など意識の外だった。彼女の制止するような声が遠くで聞こえた気もするが、そんなものは最早どうでもいい。

 足は自然と、学園の地下駐車場へと向かっていた。

 

 薄暗いコンクリートの空間に、一台だけ場違いなほどの気品を放つセダンが停められている。

 滑らかな曲線を描く漆黒のボディに、照明の鈍い光が反射していた。ナギサが中学生の頃に桐藤家から贈られた、昨今の環境保護の風潮に真っ向から歯向かうV型12気筒エンジン搭載の怪物。

 桐藤家は()()()()()()()でちゃっかりしているのだ。

 

 エンジンスタートのボタンを押すと、静寂を破って猛獣の咆哮のようなエンジン音が地下駐車場に響き渡った。私の思考回路にこびりついていた泥濘は、その振動によって振り落とされたかのように消え去り、代わりに氷のように冷たい何かが頭を満たしていく。

 セイアを前にして、咄嗟に"ユリカ"の仮面を被った時と同じ感覚だ。

 

 アクセルを踏み込むと、怪物は短いスキール音を立てて暗闇から飛び出した。

 どこか遠くへ出かけるときは、基本的に私がこの車の運転を担っていた。だから、この獣の気性はとことん知り尽くしていたし、この美しい都市の血管という血管、その毛細血管の末端に至るまでも熟知していた。最短ルート、混雑を避ける裏道、信号の周期、そして正義実現委員会が好んで速度違反の待ち伏せを行う狙撃地点。

 そのすべてが、頭の中の地図に寸分の狂いもなくマッピングされている。

 

 法定速度など知ったことか。

 私は──クラッチ、ギア操作──アクセルを床いっぱいに踏み込んだ。

 エンジンが咆哮を上げ、車体は射られた矢のように加速する。

 

 ──ハンドルを握ったばかりの頃は、この途方もないパワーと、指先一つで数千万の価値が消し飛ぶという事実に怯えていた。そんな私を、ナギサは隣で微笑みながら見てくれていた。

 

『大丈夫ですよ。ユリカさんならすぐに乗りこなせるようになります』

『卒業したら、この子は貴方に差し上げます。私はもう少し静かな車が欲しいので……』

『前の車、青信号なのになかなか動きませんね……──クラクション! 長押ししすぎです!』

『い、いま絶対オービス光りましたよね!? ……撮られてない? 何を根拠に!?』

『非常に申し上げにくいのですが……ユリカさんは運転はお控えになった方が……』

 

 不思議なことだ。

 思考は停止したはずなのに、その奥底では別の何かが明晰に機能していた。恐怖も、罪悪感も、セイアが突きつけた論理の迷宮も、今は全てが遠い。ただ一つの目的──ナギサの元へたどり着くという絶対的な命令だけが私を駆動させている。

 

 その冷たい思考の隙間から、まるで泉のように様々な思い出が湧き上がってきた。

 どれもが些細で、他愛なくて、しかし鮮烈な色彩を伴っている。初めて二人で出かけたカフェのケーキの甘さ。図書館の片隅で互いの肩を寄せ合って一冊の本を読んだ時の、彼女の髪の匂い。会議の合間にこっそり見せてくれた、ノラ猫の寝顔の写真。政治的な緊張も、分派間の対立も存在しない、ただ穏やかで暖かさに満ちた時間。それらの記憶が走馬灯のように駆け巡り、その一つ一つがガラスの破片となって、麻痺していたはずの心を静かに切り刻んでいく。

 

 街灯の光がオレンジ色の残像となって後方へ飛び去っていく。

 私はただ無心にハンドルを切り、運転を続けた。

 

***

 

 病院のロータリーに滑り込み、急ブレーキで車を停める。

 ドアを蹴りつけるように開けると、タイヤの焦げ付く匂いと、アスファルトに刻まれた真新しい黒い筋が目に付いた。

 

「お待ちしておりました」

 

 玄関の自動ドアの前に一人の生徒が静かに佇んでいた。

 独特な意匠の施された制服に救護騎士団の紋章が刺繍されている。腰まで伸びた蒼い髪が夜の照明を受けて静かな光沢を放っていた。彼女はこちらの存在に気づくと、僅かに姿勢を正した。その凛とした佇まいからは、一年生とは思えぬほどの落ち着きが感じられる。

 

 連絡員として待機していた蒼森ミネ。

 彼女の情報は、こちらへ向かう道中で既に先輩から確認を取っている。

 私は彼女の前に無言で立った。

 

「蒼森ミネと申します。救護騎士団所属、一年生です。連絡を受け──」

「病室へ」

 

 自己紹介も、儀礼的な挨拶も今は必要ない。

 私が短く告げると、しかし彼女は無礼な物言いに気を害した様子も見せず、ただ静かに頷いた。

 

「こちらへ」

 

 彼女は踵を返し、自動ドアの向こうへと歩き出す。

 その後ろを追いながら私は再び口を開いた。

 歩きながらでいい。一秒でも早く情報を。

 

「容態は」

「全身に複数の骨折と打撲。内臓にも損傷が見られます。あとは右腕から右胸にかけて火傷を」

「傷跡も完璧に治せるのか」

「ご安心ください。ここにはキヴォトス最高峰の医者が揃っています」

「可能かどうかを知りたい」

「可能です。しかし、断定はできません」

「命に別状はないと聞いているが」

「容態は安定しています。まだ意識は戻っておりませんが」

「いつ戻る? 予測でいい」

「申し訳ありませんが、私も詳細を把握しているわけではありませんので」

 

 私とミネは、そうした質問と回答を繰り返しながら病院の廊下を進み続けた。

 消毒液の匂いが満ちる静寂の中、私たちの足音だけが規則正しく響く。エレベータに乗り込み、目的の階のボタンが押される。

 上昇していく箱の中で、私はずっと気になっていたことを切り出した。

 

「我々の体は頑丈だ。手榴弾程度ならかすり傷で済む者が大半で、中には戦車砲の直撃を喰らって平気な人間もいる。それが常識のはずだ」

「その通りです」

 

 ミネは短く答えた。

 

「ですが、ナギサ様が負われた傷は常識から逸脱しています。単独の爆弾でこれほどの重傷を負わせられる兵器は、少なくともトリニティのデータベースには存在しません」

 

 やはりか。

 私の思考は悲しみよりも先に、事件の異質さへと向かった。

 

「どのような技術、あるいは兵器を以てすればここまでの破壊が可能になる? 爆薬の種類は? 起爆方式は? 指向性の対物爆薬でも使ったのか。あるいは、炸薬に特殊な金属片でも混ぜて破片効果を最大化したのか。何か心当たりは?」

「私はあくまで救護員です。兵器の専門家ではありませんので、申し訳ありませんが、使用された技術の特定は不可能です」

「……すまない」

「焦るお気持ちは理解できます」

 

 エレベータが目的階に辿り着いた。

 扉が開き、私たちは特別病棟の廊下へと足を踏み入れた。

 

 思考の霧が少しずつ晴れていく。

 悲しみと罪悪感で満たされていた心に、別の感情が芽生え始めていた。

 それは氷のように冷たく、大地の血潮のように煮え滾り、刃物のように鋭い。

 

 病室のドアの前で私たちは立ち止まった。ミネがドアノブに手を掛けようとしたのを、私は無言で制した。数秒間、私はドアに刻まれた『桐藤ナギサ様』というプレートをただ見つめていた。この薄い一枚の板の向こうに彼女がいる。私の嘘が、私の弱さが、守れなかった大切な人が。

 

 ゆっくりと息を吸い、私は自らの手でドアを開けた。

 

 病室の中は、心電図モニタが発する無機質な電子音と、消毒液の匂いで満たされていた。

 そして、その中央に置かれたベッドにナギサは横たわっていた。

 

 白いシーツに包まれた彼女の身体には痛々しい包帯が巻かれ、その顔は普段の血色を失い、陶器のように青白い。規則的な電子音だけが、彼女の生命がまだこの場所にあることを示していた。

 

 私は、まるで縫い付けられたようにその場に立ち尽くした。

 

『君は、残された者の痛みを考えたことがあるのかい?』

 

 ああ、これか。

 これが、残された者の痛みか。

 

 愛する者が理不尽な暴力によって奪われ、その生死さえも自分の手の届かない場所に委ねられてしまうという、この無力感。魂が内側から少しずつ削り取られていくような、この鈍い痛み。

 

 私はゆっくりとベッドの傍らへ歩み寄り、パイプ椅子に腰を下ろした。

 そしてナギサの右手を、点滴の管を避けるように両手で包み込んだ。

 

 ──冷たい。

 私が最後に触れた時の、あの陽光のような温もりはどこにもない。

 

 その冷たさが──私の心の中で凍りついていた何かを、ついに打ち砕いた。

 

 自己犠牲。贖罪。消えること。

 なんという甘ったれた、クソ自己満足な感傷だったことか!

 

 私が消えたところで、この暴力が終わるわけではない。

 私が消えたところで、ナギサが安全になる保証などどこにもない。

 私がやろうとしていたことは逃避だ。現実と向き合うことから、ナギサを守るという責任から、ただ逃げ出すための最も卑劣で利己的な選択。

 

 すべて彼女の言う通りだった。

 私は間違えていた。間違え続けている。

 最初からずっと間違っていたのだ。

 

 中等部の頃にナギサに声を掛けたのが間違いだった。

 あの時に他の人を選んでいれば、ナギサはこんな目に合わずに済んだ。

 私はただの諜報員でいられた。

 

 ……いや、そもそも諜報員になったこと自体が間違いだった。

 私のような軟弱で、人としての情を捨てきれないような人間がなっていい職業ではない。

 私はもっと非情で、賢くて、意志が強くて、人として持ち合わせるべき倫理や道徳を"ルール"ではなく"道具"に貶められる、人でなしでなくてはならなかった。

 

『君は自分の姉妹を仕事のために売春宿へ売り飛ばせるか』

 

 ──いつの日か、情報部の先輩にそう訊ねられたことがある。

 当時の私は『はい』と即答した。困惑も動揺も感じなかったと思う。

 なぜなら、それは1+1=2と答えるような至極単純な問いに過ぎなかったから。

 そして先輩は、私がその質問に3と答えることを明らかに求めていた。あるいは、ただ後輩を揶揄うつもりで訊いただけかもしれない。先輩は『そうか』と呟いてそれきりだったから、真相は分からないが。どちらにせよ、その質問は当時の私にとって本当に無意味だったのだ。

 

「……」

 

 しかし……ああ、どうしてそんな記憶を今になって思い出したんだ。

 無意識の内に手に力を込めてしまう。それに気付いて咄嗟に力を緩める。

 

 私は他でもないナギサを売り飛ばしたのだ。

 初めて彼女に声を掛けた時、私は先輩の質問を克明に覚えていた。それどころか、彼女と対話しながらリアルタイムで思い返してすらいたじゃないか。そのうえ、当時の状況に合わせて質問の文言を適当に入れ替えたりして──。

 

『君は桐藤ナギサを売春宿へ売り飛ばせるか』

 

 ……私はそのとき、どんな気分でナギサと言葉を交わしていたのだろう?

 覚えていない。思い出せない。分からない。思い出したくない。分かりたくない。

 でも、思考は勝手に動く。数々の思い出が積み重なって出来た地層を乱暴に掘り返していく。うず高く積み上げられた巨大な欺瞞を暴いていく。

 

 ──そうだ、思い出した。

 あの日の私は完璧だった。

 

 トリニティの複雑な政治力学、各分派の力関係、そして桐藤ナギサという少女が持つ潜在的な価値。それら全てを冷静に分析し、最も効率的に任務を遂行するための最適なターゲットとして彼女を選び出した。そこに個人的な感情が入り込む隙間は一ミクロンも存在しなかった。

 

 彼女の聡明さを称賛する言葉も、彼女の趣味に合わせるための努力も全ては計算の上に成り立っていた。彼女が好む詩集を読み漁り、彼女が愛する音楽を聴き、彼女が口にする紅茶の銘柄を覚えた。その一つ一つがターゲットの懐に入り込むための布石であり投資だった。

 彼女が私に向ける信頼も、任務が順調に進んでいることを示す指標に過ぎなかった。

 

 なぜなら、当時の私にとって桐藤ナギサは人間ではなかったからだ。

 彼女は()()()()()という記号であり、任務を構成する一つの要素であり、ゲヘナのために利用すべき最も価値ある()()だった。道具に対して、どうして罪悪感を抱く必要があるだろう。金槌で釘を打つ時に釘の痛みを想像する者などいない。私はただ、与えられた道具を与えられた目的に向かって効率的に使用していたに過ぎない。

 

 私は何の躊躇も、何の動揺も感じていなかった。

 

 それが答えだ。私が今こうして苦しんでいるのは、道具であるはずの彼女をいつからか人間として、そして唯一無二の存在として愛してしまったからだ。この苦しみは私のシステムに後から生じた致命的なバグであり、エラーなのだ。

 

 ──最初の時点では私は完璧に正しかった。

 冷徹で、非情で、任務に忠実な、理想的な諜報員。

 

 ──私は完璧ではなくなった。

 愛を覚え、しかし郷里への思いを捨てきれず、だらだらと関係性を維持するだけの愚かな人間。

 

 ──私は消えた。

 諜報員としての自分を否定し、ナギサの友人としての自分も否定した何者でもない存在。

 

 ──そして、私はここにいる。

 

 ナギサの手に額を寄せた。

 冷たい。でも、最初に触れた時よりは幾分か温かかった。

 私がずっと握っていたから熱が移ったのだろう。

 

 いま、私の熱がナギサの肌を通して血を温め、その温もりは血によって心臓へ運ばれ、やがて体全体に伝播していく。私の体温が彼女を満たしていく。

 

 私は何者でもないが、彼女を温めることは出来る。

 その気付きは幾分か私の心を落ち着けた。

 

***

 

 私は真っ暗な空間にいた。

 いや、()()という表現すら正確ではない。

 なぜなら、ここには()()という概念が存在しないからだ。

 

 音がない。それは前の夢と同じだ。

 しかし今回は音がないだけではない。

 光もなかった。どこまでも深い暗闇。目を開けているのか閉じているのかすらわからない。

 そもそも、自分に目があるのかどうかすら確信が持てない。

 

 時間の経過は?

 私は考えた。

 

 しかし、何も変化しない。変化がなければ時間の流れを測る基準がない。心臓の鼓動を感じようとしたが、それもなかった。呼吸の感覚もない。時を刻む何かがここには一切存在しなかった。時間とは変化の産物であり、変化なき場所に時間は存在し得ない。ここでは、過去も未来も現在も全てが等価に無意味だった。

 

 ならば空間はどうだろう?

 私は手を伸ばそうとした。

 しかし、手が動いたという感覚がない。

 

 いや、そもそも手があるという感覚すらなかった。上下も左右も前後もない。

 距離という概念が成立しない場所で、どうして空間が存在すると言えるだろうか。空間とは物体の配置によって定義されるものだ。しかしここには何もない。座標軸を描くことすらできない虚空に、空間という幾何学は適用不可能だった。

 

 身体はどうだろうか。

 私は自分の存在を確認しようとした。

 しかし触覚がない。痛覚もない。温度も感じない。重力も存在しない。

 

 浮いているのか沈んでいるのか、それとも静止しているのか。いや、動いているという概念すら成立しない。基準点がなければ運動も静止も区別がつかないのだから。私には身体があるのだろうか。それとも私は意識だけの存在なのか。いや、意識でさえないかもしれない。なぜなら、意識とは外界との相互作用によって初めて認識できるものだから。

 

 ここには何もないのだ。

 物質も、エネルギーも、空間も、時間も。そして恐らくは私自身も。

 

 ここは虚無だ。真の虚無。太古の昔から哲学者たちが問い続けた()の正体。それは単に何かがない状態ではない。()()という状態さえも存在しない。存在の対義語ですらない。存在という概念が成立する以前の、あるいは成立し得ない領域。

 

 私は悟った。

 ここでは、私が「いる」ことも「いない」ことも、どちらも無意味なのだと。

 存在と非存在の区別すら消失した場所で、私という主体は意味を失っていた。

 

 そして私は目を覚ました。

 いや、目覚めたのだろうか。それとも私はまだあの虚無の中にいて、これもまた虚無が見せる幻影なのだろうか。つまり、夢の私が真であり、今の私が偽であり……。

 

 ……あれ? おかしい。

 ここには色も音も重力も、時間も空間も熱も存在する。そしてそれを感じるということは、私は外界から隔絶された個として存在する。

 

 でも、それって本当に信頼に値するものなのだろうか。

 

 私が今感じているこの現実の手触りは、虚無が生成した精巧な幻覚ではないのか。

 あの完全な無の中で意識だけが永遠に漂い続け、退屈を紛らわすために自ら夢を紡いでいるのではないか。私という存在そのものが、虚無の見る悪夢なのではないか。

 

 恐怖が込み上げてくる。

 

 私は本当に目覚めたのだろうか。それとも私は永遠に眠り続けているのか。

 いや、眠っているのは私なのか、それとも虚無なのか。

 私が虚無を夢見ているのか、虚無が私を夢見ているのか。

 どうやって区別を付ければいい? そもそも、これは区別を付けられる問題なのか?

 

 証明できない。何一つ証明できない。

 

 心臓が激しく脈打っている。

 いや、打っているような気がする。いや、「気がする」という感覚すら疑わしい。

 

 もう、何も分からない。

 

***

 

 その日から、ユリカの生活は白い病室を中心に回るようになった。

 フィリウスの重要な会議や、どうしても出席しなければならないごく僅かな授業には顔を出す。しかし、それ以外の時間は全てナギサの傍らで過ごした。朝一番に訪れ、面会時間が終わる最後の瞬間まで彼女を見守る。本を読むでもなく、報告書に目を通すでもなく、ただひたすらに白いシーツに包まれたナギサの姿を見つめ続ける。

 それがユリカの新たな日課となった。

 

 最初の数日、見舞いに訪れる生徒たちはユリカの様子を気遣い、心配の言葉をかけた。

 しかし、彼女の虚ろな瞳が自分たちを捉えることはなく、その声が彼女の耳に届いているのかさえ定かではないことに気が付くと、誰もが諦めたように口を閉ざし、ユリカを部屋の調度品の一部であるかのように扱うようになった。

 静かで、動かず、ただそこに在るだけのものとして。

 

 その静寂を破る唯一の例外が聖園ミカだった。

 彼女もまた一日も欠かすことなく病室を訪れた。しかし、他の生徒たちと違ってミカは決して黙らなかった。

 彼女はユリカの隣の椅子に座ると、まるでナギサに直接語りかけるように、一方的に、そして楽しげに言葉を紡ぎ続けるのだ。

 

「ねえねえ、ユリカちゃん。昨日クラスの子がね、すっごく面白いことしててさー。ナギちゃんも聞いたら絶対笑うと思うんだけど」

 

 ミカは、自身が体験した日常の断片を一つ一つ丁寧に拾い集めてはユリカの前に並べてみせた。

 他愛ない噂話、授業での失敗談、新しくできたケーキ屋の評判。ユリカはその一つ一つに静かに相槌を打ちながら、ミカが紡ぐ言葉の向こうに、ナギサが笑っている姿を思い浮かべた。

 

 そんな奇妙で穏やかな日々が続いていた、ある日の午後。

 その日もミカはいつものように明るく振る舞い、学園での出来事を語り続けていた。ふと、会話が途切れた沈黙の間。ミカはベッドに横たわるナギサの顔を愛おしげに見つめると、その乱れた前髪を直してやろうと、そっと右手を伸ばした。

 

 その瞬間。

 ミカの手がナギサの額に触れる寸前──影が彼女の手首を掠めた。目にも留まらぬ速さで伸ばされたユリカの左手が、ミカの腕を強く掴んで制止していたのだ。

 

「……え? ユリカ、ちゃん……?」

 

 ミカが困惑の声を漏らす。

 掴まれた手首に走るあり得ないほどの力。しかしそれ以上に、彼女はユリカの顔を見て言葉を失った──ユリカもまた、自らの行動に戸惑っていたのだ。その瞳には、ミカと同じくらい深い当惑の色が浮かんでいる。

 なぜ自分がこんな行動を取ったのか、彼女は全く理解できなかった。

 

「……あの」

 

 ユリカはゆっくりと手を離し、視線を伏せた。

 ミカの手首には指の跡が赤く残っている。

 

「傷に、触れてしまうかもしれないと、思って」

 

 咄嗟にでっち上げた、あまりにも苦しい言い訳。

 ナギサの頭に目立った外傷はない。ミカもそれに気づかないはずはなかったが、彼女は何も言わず少し悲しげに微笑んだ。

 

「……そっか。ごめんね、ユリカちゃん。気づいてくれてありがとう」

 

 その後、二人の間に会話が戻ることはなかった。

 ミカは暫く黙ってナギサの寝顔を見つめたあと「また明日来るね」とだけ言い残して静かに病室を去っていった。

 一人残された病室で、ユリカは先ほどの自らの行動を静かに反芻する。

 

 なぜ、ミカの手を止めたのか。

 傷に触れるから? 違う。あの瞬間に内側で燃え上がった感情は、そんな理性的な配慮ではなかった。それはもっと原始的で、焼け付くように激しい衝動──。

 

 私は私を知らない。

 でも、貴方なら私を知ることができる。

 だから私は、貴方の全てを私の世界に閉じ込めたい。

 

 その理解に至った瞬間──ユリカの中で何かが決定的に変質した。

 諜報員としての自分、ナギサの友人としての自分、そのどちらも消え失せてしまった空虚な魂。

 その虚無を埋めるために、彼女の心は唯一残された座標軸であるナギサへと、恐ろしい精度で収斂し始めたのだ。

 

「……」

 

 ユリカは祭壇(ベッド)の傍らに膝をつくと、点滴の管が繋がれていない聖体(ナギサ)の左手に触れた。

 自らの指を一本、また一本と、冷たい指の間に深く、優しく絡ませていく。

 絡み合った手を、彼女は恭しく自らの額へと押し当てた。

 

 数秒間、そのまま動かない。

 

 やがて彼女はその手をゆっくりと下ろし、今度は自らの唇へと運んだ。

 ナギサの手の甲に、羽のように軽い口づけを落とす。

 

 最後にユリカは身を乗り出し、ナギサの額にかかる髪を、先ほどミカがそうしようとしたようにそっと指で払う。

 そして彼女は顔を寄せ、その白い額に再び口づけを捧げた。

 

 その唇がナギサの肌から離れるか離れないかの、その刹那。

 ユリカの口から吐息と共に言葉が漏れた。

 

 それは思考の産物ではなかった。祈りですらなかった。凍てついた湖の底から気泡が浮かび上がるように、彼女の魂の最も深い場所から言葉が生まれた。誰に教わるでもなく、どこかで読んだわけでもない、彼女自身の魂が紡ぎ出した最初の産声(ロゴス)

 

 貴方の呼吸に沈み、

 貴方の輪郭をなぞるとき、

 私の欠如は塗りつぶされ、

 私の魂はあなたの中で眠る。

 

 ユリカはゆっくりと立ち上がった。

 窓の外は夜の闇で満たされつつある。

 それを見つめる彼女の瞳には、かつてないほど強く、そして冷たい光が宿っていた。

 

 迷いは消えた。

 刃は研ぎ澄まされた。

 

 ユリカは自身の内なる虚無に、新たな世界を創造した。

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