ただの諜報員モブ 作:クモリ・C・ドンテン
翌日の朝、私は普段より三十分早く起床した。
洗面台の鏡に映る自分の顔を見つめながら、先日の決意を反芻する。私はゲヘナの諜報員だ。それ以外の何者でもない。ナギサとの友情など、任務遂行のための道具に過ぎない。
鏡の中の私は完全にトリニティの生徒そのものだった。この姿こそが私の正体を隠す最も完璧な偽装であり、同時に私という存在そのものを規定する檻でもある。
私は表情を整えた。
微笑みすぎず、しかし親しみやすさを失わない程度の柔らかい表情。これまでの経験で培った、最も効果的な"信頼できる人間の顔"だ。
朝食を済ませた後、私は図書館へ向かった。開館前の静寂に包まれた廊下を歩きながら、今日一日の予定を頭の中で整理する。午前中は通常の授業、昼休みはナギサとの情報交換、午後はナギサが会議へ出席している合間に学園内での情報収集。そして夜は報告書の作成。
図書館の扉の前で立ち止まり、時計を確認する。開館まであと十五分。
私はベンチに腰を下ろし、先日受け取った指令の内容を頭の中で再度検証した。
トリニティの政策決定プロセスに影響を与える。具体的には、ゲヘナとの緊張関係を高める方向へナギサを誘導することが求められている。つまり、彼女の平和主義的な信念を改変させ、少なくとも最悪に備えることを認めさせるのだ。先日もそれとなく誘導はしたが、あまり効果は見られなかった。もう少し踏み込む必要があるかもしれない。
「おはようございます。今日は一番乗りですね」
図書委員の一人が鍵束を手に近づいていた。私は軽く会釈し、開館を待った。
図書館内部に入ると、私はいつもの定位置──政治学関連の書棚に最も近い閲覧席──へ向かった。ここからなら分派活動に関する資料を自然に閲覧できるし、何より他の生徒たちの会話を聞き取りやすい。情報収集において立地は極めて重要だ。
私は政治思想史の専門書を開きながら周囲の動向に注意を払った。朝の図書館は比較的静かだが、それでも各分派に属する生徒たちがちらほらと姿を現し始める。彼女たちの表情、持参している資料、座る場所──全てが情報の断片となり得る。
八時半頃、パテル分派の熱心な支援者と噂される上級生が軍事戦略に関する書籍を数冊抱えて入ってきた。彼女は普段は文学作品ばかり読んでいる人物だ。この変化は、パテル内部の論調に影響を与えている可能性が高い。
私は手帳に簡潔にメモを取った──『P系統、軍事関連資料への関心増大』。
九時になると、授業のために図書館を後にした。
本日最初の講義は現代社会。教室に入ると、既にナギサが最前列の席に座っていた。彼女は私に気づくと軽く微笑みかけてくる。私も同様に笑みを返したが、その笑顔の下で先日の決意を改めて確認した。
私はただの諜報員。
それ以外にない。
授業終了後、私たちは連れ立って次の教室へ向かった。
「先ほどの講義、興味深い内容でしたね」
ナギサが歩きながら話しかけてきた。
「特にゲヘナの組織変革についての分析は、私たちが直面している課題を考える上で重要な示唆を含んでいたと思います」
「確かにそうですね」
私は同意した。
「雷帝の望みが分かりさえすれば、いくらか手段も思い浮かぶのですが……」
「……そうですね」
ナギサの呟きに私は微笑んだ。
まだ芽は出ないか。
もっと、もっと水をやらねば。
***
『ゲヘナ学園、ハイランダーの越境を厳しく制限』
『越境貨物停止、ミレニアムがゲヘナを強く非難』
『重要物資の供給網寸断、製造業に深刻な影』
『輸送コストの急騰、生活への影響は?』
長らく沈黙していた先輩がバサリ、と音を立てて新聞を閉じた。
後ろから覗き込んでいた私たちは、それぞれ難しい顔をしながら各々の席に戻った。
「厳しい局面だ」
先輩は重々しく呟いた。食堂の喧騒の中で、我々フィリウスの生徒たちが囲うテーブル周辺だけが異様な静寂に包まれている。他の生徒たちも同様の新聞記事を読んでいるのだろう。キヴォトス全体に暗雲が立ち込めているのが分かる。
「これは明らかに雷帝による計画的な行動だ。軍事行動の前段階と見るべきだろう」
先輩の分析に私は内心で同意しつつ、表向きは困惑した表情を浮かべた。
「どうしてハイランダーが最初の標的になったのでしょうか?」
「……いえ、標的はハイランダーではないでしょう」
無知を装った私の質問に、別の先輩が答えてくれた。
その通り。今回ゲヘナが狙ったのはミレニアムだ。
ハイランダーを実質的な機能停止に追い込んだのは、その足掛かりに過ぎない。
「では……いったい何を?」
「ミレニアムです。雷帝政権が樹立して以降、ティーパーティーとセミナーの間で何度か会談が行われました。雷帝は、ミレニアムが私たちの側に付くことを嫌ったのではないでしょうか」
「でも、それが今回の件と何の関係が?」
私は質問を投げかけながら、ちらりとナギサを横目で見た。
彼女は深刻そうな表情をして会話に聞き入っている。
「
先輩の言葉に、テーブルを囲む一同の空気が更に重くなった。
希少金属──それは現代文明の血液にして心臓だ。スマホにも、パソコンにも、車にも、テレビにも宿り、無数の電子を走らせる。ひとたび絶たれれば、社会は瞬く間に沈黙する。
そしてミレニアムでは、その依存度が特に際立っている。
「ミレニアムの高い技術力は、希少金属の供給があってこそだ」
別の先輩が補足した。
「実際の採掘を行っているのはゲヘナに隣接する内陸自治区だが、輸送拠点はゲヘナに集約されているため、供給の流れは完全に制御されている」
「ハイランダーの越境を停止させたということは、ミレニアムは必然的に新しい供給ルートを確保しなければならない」
「つまり……」
私は表情を硬くして不安そうにしながら促した。
「そこで、ゲヘナが代替ルートを提示するということですね」
ナギサが初めて口を開いた。
「ああ。ミレニアムをトリニティから引き離し、自らの勢力圏に組み込む算段だろう」
「実に狡猾だ。武力を使わずとも、経済的手段で我々の同盟関係を切り崩そうとしている」
「何か対策はあるのでしょうか?」
私は心配そうに尋ねた。
「我々が代替輸送手段を提供することも可能でしょうが……」
先輩は首を振った。
「距離は倍、コストは三倍。しかも途中には親ゲヘナ派の学園があり、自由に使わせてもらえるかも怪しい。そこで妨害を受けてしまえば全てが水の泡です」
テーブルを囲む全員の表情が硬くなる。
単純に資源を運ぶことさえ、経済的にも外交的にも容易ではない。
囲い込みなど、夢のまた夢だ。
「それに」
ナギサが付け加えた。
「仮に我々が代替手段を提供したところで、根本的な解決にはならないでしょう。雷帝は別の方法でミレニアムに圧力をかけてくる。経済的な依存関係を武器にする限り、我々は常に後手に回ることになります」
私は内心で感嘆した。ナギサの洞察力は優秀だ。彼女は表面的な現象ではなく、その背後にある構造的な問題を見抜いている。
「では……どうすれば良いのでしょう?」
「直接対話しかありません」
それでも、ナギサの答えは相変わらずだ。
彼女の洞察力は先ほどの通り劣っているわけではないし、むしろ鋭く研ぎ澄まされている。なのに、どうしてここまで対話に固執するのだろう?
いや、まだゲヘナが明確な意思表示をしていない以上迂闊な行動が厳禁なのは分かるが、それにしてもナギサの主張には少し違和感を感じる。
「雷帝と直接会談を行い、その真意を確認する。それが重要です」
テーブルを囲む先輩たちの表情が一様に暗くなる。
──そのうち数人が、ナギサに一瞬だけ冷たい視線を向けたのを見逃さなかった。
「しかし、ナギサ」
一人の先輩が慎重に口を開いた。
「相手は話し合いに応じる気があるのか? これまでの行動を見る限り、雷帝は一方的に圧力をかけているだけだろう」
「だからこそ、です」
ナギサは譲らなかった。
「相手の真意が分からない以上、推測だけで対策を立てても意味がありません。まず相手が何を求めているのかを知る必要があります」
「それはそうだが、しかし……」
「まあまあ。その辺りの情報については
「そうですね。雷帝がどのレベルまで意思を共有しているかが問題ですが……」
Trinity Intelligence Directorate──トリニティ情報統括局。
当然、彼らも私のような諜報員をゲヘナへ大量に送りこんでいるはずだ。
しかし、現在のゲヘナは強力な報道規制を敷いており、特にジャーナリストの取材活動は厳格に管理しているため、現場の諜報員はかなりの苦戦を強いられているだろう。諜報活動における土台となるOSINT*1が機能しないとなれば、ターゲットの選定や方向性の決定も途端に難しくなる。
諜報活動において用いられる情報源の8割はオープンソースなのだ。
そんな状況下で
それに、恐らく雷帝は最初から対話など求めていないのだ。
仮に外交の席に着いたとしても結果は変わらないだろう。
ナギサの語る平和的解決など、望むべくもない。
昼食が終わり、私たちは各々午後の活動へと散らばった。
ナギサは先輩たちと一緒にフィリウスの会議へ向かい、私は表向きは自習のために図書館へ戻った。もちろん、情報収集が目的である。
図書館の政治学書架周辺で、私は偶然を装って複数の生徒と会話を交わした。パテル分派の中堅メンバーは、明らかに軍事的対応を支持する論調に変化していた。元より対外強硬論が強いパテルなので、当然と言えば当然だが。ゲヘナが何らかの
私はトイレの個室で簡潔にメモを取った──『P系統、軍事的対応への支持増加』。
午後三時頃、私は図書館を後にして学園内の散策に向かった。各分派の活動拠点周辺を自然に通過し、その様子を観察する。特に重要なのは、人の出入りの頻度と持参している資料の種類だ。
パテル分派の本部付近を通りかかった際、興味深い光景を目にした。
通常であれば文学系の部活動を行っている建物から、軍事関連の専門用語が聞こえてきたのだ。私は近くのベンチに腰を下ろし、読書のふりをしながら会話の内容に耳を澄ませた。どうやら、無防備にも窓を開け放って会話を行っているらしい。
「──防衛線の構築が急務です。特にゲヘナとの境界付近は」
「しかし、あからさまな対応は他学園への刺激になりかねません」
「刺激も何も、向こうが既に仕掛けてきているではありませんか」
この会話は重要だ。パテルは軍事的対応を支持しているだけでなく、具体的な行動計画を検討している段階にある。私は手帳に追加のメモを取った──『P系統、境界防衛論活発化』。
その後、私はサンクトゥス分派の本部周辺も巡回した。こちらは比較的静かだったが、それでも通常より多くの人の出入りがあった。とはいえ、パテルが断固とした対応を叫んでいるのに対し、サンクトゥスは雷帝以降も特にこれといった動きがない。内部情報も全くと言っていいほど掴めておらず、いっそ不気味に感じるほどの沈黙を保っている。
水面下で何かを練っているのか、それとも、そもそも対応する必要性を感じていないのか?
一度定期連絡で情報部に確認を取るべきかもしれない──『S系統、未だ動きなし』。
夕方になると、私は夕食のために食堂へ向かった。
その途中で、私は偶然ナギサに出会った。誰かと話しているようだが、私からだと背中しか見えないため正体が特定できない。金色の長い髪と、頭上から伸びた一対の耳が特徴的だ。
ゆっくり2人の元へ近づいていくと、私に気付いたナギサが小さく手を振った。それに釣られて、彼女と話していた生徒も私の方をちらりと振り返る。
──その見覚えのありすぎる顔に、思わず足が止まりそうになった。
百合園セイア。
サンクトゥス分派所属、高等部一年生、頭がキレる、油断大敵。
なぜ彼女がここに? ナギサと何を話していた? サンクトゥスは何を狙っている?
──なぜ、会議後のナギサが
「こんばんは、ナギサ様、セイア様」
「ああ、こんばんは。君のことはナギサから聞いているよ。何でも優秀な情報官だとか」
「滅相もございません。TIDのエージェントに比べれば足元にさえ届かない凡愚でございます」
「おや。謙虚なのはいいことだが、過ぎた謙遜は却って傲慢に聞こえるものだよ」
「ご忠告痛み入ります」
うわ、やりづらい……。
噂には聞いていたが、まさかここまで相性が悪いとは。会話をするごとに自分の意図しない形で情報を抜き取られているような心地がする。あまり絡みたくない相手だ。
セイアは軽やかに微笑むと、ナギサの方へ向き直った。
「ナギサ、今日は有意義な話をありがとう。また近いうちに話そう」
「はい。私も楽しい時間を過ごせました」
セイアは優雅に一礼すると、私に対しても軽く会釈を返した。
「君とも、いずれ機会があればゆっくり話をしてみたいものだ。ナギサが信頼する人物なら、きっと興味深い見識を持っているのだろう」
その言葉には社交辞令以上の何かが含まれているように感じられた。まるで私という存在を品定めしているような、探るような響きが。
しかし、それ以上詮索する間もなく、セイアは金色の髪を靡かせながらその場を後にした。
私とナギサの二人きりになると、廊下に漂っていた緊張感が嘘のように消え去った。
ナギサは先ほどまでの晴れやかな表情をそのまま保ち、私を見つめている。
「セイア様と何をお話しされていたのですか?」
私は自然な関心を装って尋ねた。サンクトゥス分派の動向は現在最も把握しにくい要素の一つであり、セイアのような内部の人間の発言から何かしらの手がかりを得たかった。
「ああ、それが」
ナギサは目を輝かせながら答えた。
「セイアさんから、私の信念について称賛のお言葉をいただいたのです」
……は?
どういうことだ?
私の頭に疑問符が幾つも浮かび上がる。
セイアがナギサの信念を称賛した?
なぜ? どういう脈絡で? 意味が分からない。
「それに」
ナギサは嬉しそうに続けた。
「パテルが軍事偏重主義に傾きつつある現在、私のような政治家こそが必要なのだと仰ってくださいました。武力に頼らない真の強さを持った指導者が、今のトリニティには不可欠だと」
──私の脳裏でけたたましくサイレンが鳴り響いた。
セイアの真意が見えない。サンクトゥスは一体何を画策している?
「それは……光栄なお言葉ですね」
私は微笑みを浮かべて喜びを示し──同時に思考のギアを3速から5速に上げた。
どういった可能性が存在するだろうか?
まず最初に浮かんだのは、サンクトゥスがトリニティの軍事的対応を妨害するつもりなのではないか、という推測だ。ゲヘナの脅威に対して適切な対策を講じることを阻止し、結果的にゲヘナ有利の状況を作り出そうとしているのかもしれない。
しかし、この推測には幾つかの問題点がある。
もしサンクトゥスがゲヘナに有利な環境を作り出すつもりなら、最も効率的なのはフィリウスと結託してパテルを封じ込めることだろう。フィリウスは本来穏健派であり、ナギサのような政治家を多く抱えている。そこに働きかければ、パテルを数の力で押し切ることも可能なはずだ。
ところが、サンクトゥスはそのような動きを全く見せていない。むしろ、雷帝政権樹立以降も不気味なまでの沈黙を保っている。よって、単純にゲヘナを利するための工作だとは考えにくい。
次に考えられるのは、これがセイア個人の策略である可能性だ。
サンクトゥス全体の方針ではなくセイア一人の判断で動いているとすれば、その行動原理も変わってくる。しかし、これもやはり不自然だ。セイアほどの政治的嗅覚を持つ人物が分派の方針に反して独断で動くとは考えにくい。あまりにもリスキーすぎる。
では、サンクトゥスは政治的中立を保とうとしている、という可能性はどうだろうか。
この仮説は一見合理的に思える。トリニティとゲヘナの対立が激化する中で、パテルの存在感は日に日に増大している。ここでナギサを支えることでフィリウスの穏健路線を守り、トリニティ全体のバランスを保とうとしているのかもしれない。
しかし、この推測もまた新たな疑問を生み出した。政治的中立を保つつもりなら、なぜわざわざセイアが直接ナギサ個人に接触したのか。個人で動くよりも分派全体で動いた方が、その影響範囲も効果も大きいのに。つまり、この仮説でもやはりサンクトゥスの沈黙を十分に説明できない。
私は他の可能性についても考えを巡らせた。
もしかすると、サンクトゥスは全く別次元の戦略を展開しているのかもしれない。トリニティとゲヘナの対立を利用して、自派の影響力を拡大しようとしている可能性だ。両者が消耗し合う間に、第三の勢力として台頭する機会を狙っているのかもしれない。つまりこの場合は、ナギサを生贄とするためにセイアが接触してきたということになる。
あるいは、サンクトゥスは既に独自の情報源を持ち、我々の知らない重要な事実を把握しているのかもしれない。雷帝の真の意図や、ゲヘナ内部の権力構造について何か決定的な情報を得ており、それに基づいて最適な戦略を策定中なのかもしれな──
「どうかされましたか?」
──ナギサの声で、私は思考の海から現実に引き戻された。
いけない。あまりに集中し過ぎた。
「……いえ、セイア様のお言葉を聞いて、少し考え込んでしまっただけです。ところで……」
私は話題を変えた。
「午後の会議はいかがでしたか? パテルの動向について、何か新しい情報はありましたか?」
私がこの質問を投げかけると、途端にナギサの表情が僅かに曇った。
「残念ながら、状況は悪化の一途を辿っているようです。パテルは軍事的対応を強く主張しており、フィリウス内部でもその論調に同調する声が増えています」
「そうですか……」
私は少しだけ眉間に力を入れて、心配そうな表情を作った。
ハイランダー及びミレニアムに対する制裁が引き金となって、学園内の強硬論者と、それに追随する形で急進派が勢いを増しているのだ。流れは私に味方している。
しかし、セイアの言葉のせいでナギサが幾らか持ち直したのも事実だ。こうなると、もはやナギサを堕とすのではなく、ナギサを切り捨てて数の暴力で攻める方が効率的なのだろうか?
しかし──そうなると、必然的にナギサの地位は著しく低下する。
ナギサの政治生命が危ぶまれる。誰も彼女の言葉に耳を傾けなくなる。
私がナギサの下にいる理由もなくなる。
誰か別の有力者に、コバンザメのように張り付けばいいのだから。
それは……。
──いや、そうだ。ナギサの影響力が低下すれば、私の活動も難しくなる。
別の人に乗り換えたところで、今のようなポジションを得られる保証もない。
それは、よくない。
非常によくない。
「私と立場を同じくしていた方の中にも、対話による解決に疑問を持つ方が現れ始めています」
ナギサの声には落胆が滲んでいる。
そうだ、別に焦る必要はない。任務は着実に進んでいる。
ゲヘナに雷帝が存在する限り、いずれナギサは民意の荒波に屈する。
一人の狂人を百人で抑え込むのが民主主義なら、一人の賢人を百人の愚者が封じ込めるのも民主主義なのだから。
「でも……」
ナギサは深く息を吸って、僅かに微笑みを浮かべた。
「もう少し頑張ってみようと思います。私を信じて下さる方々はたくさんいらっしゃいますから」
「……」
「私を支持してくださっている方々、セイアさん、そして……貴方も」
「……」
「セイアさんは、政治家はしぶとく生きてこそだと仰いました。きっと、ここが私にとっての正念場なのでしょう。私は自分の信じる道を進み続けてみようと思います」
ナギサは私を見つめた。
彼女の琥珀色の瞳が、しっかりと私の姿をその中心に捉えた。
「それでも貴方は、私に付いてきてくださいますか?」
そう聞く彼女の目は、答えを急かすかのように私への視線を一瞬も逸らすことなく。
しかしその表情に、私の口から紡がれる言葉を恐れるような色はなく。
まるで、期待している答えがそのまま帰ってくることを確信しているような、そんな声色で。
──私は、雷帝の勅令が届いて以降ナギサの姿勢を批判し続けてきた。
理想だけではやっていけない、真にトリニティのことを考えろ、現実を見ろ、と。
それでもナギサは、私が付いてきてくれると本気で思っているのか。
……でも、この疑問は任務に関係ない。
どうあっても、私の答えは変わらないから。
「勿論です。例え茨の道であろうと、私はいつまでもナギサ様にお供いたします」
私の答えに、ナギサは笑みを深めて満足そうに頷いた。
今はこれでいい。
信念を折るという任務からは少し遠ざかったが、彼女にとっての人間関係で私の地位がキープされるなら、まだ挽回の機会はいくらでもある。想定外は想定内だ。トリニティに潜入してから今までやってきたように、臨機応変に対応すればいいだけ。
「それでは、そろそろ夕食にしませんか?」
「ええ、そうしましょう」
私たちは食堂へ向かって歩き始めた。
ナギサはセイアとの会話のおかげで明らかに気分が良さそうだった。
軽やかな足取りで歩いている彼女を見ていると──……。
……いや、何ともない。
大丈夫だ。まだ制御できる範囲にある。
任務に支障はない。