ただの諜報員モブ 作:クモリ・C・ドンテン
日曜日の朝、私は約束の時刻よりも十五分早く大聖堂の前に到着した。
大聖堂は学園の中央部に位置する、トリニティを象徴する建造物だ。白い石材で築かれた荘厳な外観は、見る者に自然と敬虔な気持ちを抱かせる。尖塔が朝の青空に向かって伸びる様は、まるで天への祈りを具現化したかのようだ。
私は正面階段の脇に設置されたベンチに腰を下ろし、ナギサを待った。今日は彼女と街へ出かける予定だったが、その前に礼拝に参加しようということになったのだ。彼女の提案だった。
「おはようございます」
振り返ると、ナギサが穏やかな微笑みを浮かべて近づいてきた。日曜日ということもあって普段の制服ではなく、白いブラウスに紺色のスカートという私服姿だった。シンプルながらも品のある装いで、彼女の持つ上品な雰囲気を一層際立たせている。
「おはようございます、ナギサ様」
私も立ち上がって挨拶を返した。私自身も今日は制服ではなく私服を着ている。
諜報活動において服装は重要だ。場面に応じて適切な印象を与える装いを選ぶことで、相手からの信頼を得やすくなる。
今日の場合は、敬虔で真面目な生徒という印象を与えることが望ましい。
「時間はまだ大丈夫でしょうか?」
「ええ、まだ十分余裕があります」
実際、礼拝開始まではあと二十分ほどある。
大聖堂の中に入ると既に多くの生徒たちが着席しており、静かに祈りを捧げている者、讃美歌集を読んでいる者、ただ黙想に耽っている者と様々だ。
私たちは中ほどの席に並んで座った。
木製の長椅子は使い込まれて艶のある飴色になっており、座ると僅かに軋む音がした。正面の祭壇は荘厳で、ステンドグラスから差し込む色とりどりの光が神々しい雰囲気を醸し出している。
私は敬虔な信者らしく手を組んで祈りのポーズを取った。
しかし、その最中にも周囲の観察を怠らない。
パテル分派の支持者と目される生徒たちは、普段通り規則正しく整列して座っていた。彼女たちの表情には特に変わった様子は見られない。むしろ、いつもより穏やかな印象すら受ける。宗教的な場では政治的対立も一時的に棚上げされるということだろうか。
一方、サンクトゥス分派の生徒たちは──と探してみたが、意外にも彼女たちの姿はほとんど見当たらなかった。セイアの姿も見えない。何か特別な都合があってこの時間には参加できないのか、それとも別の理由があるのか。この点については後で調べてみる必要がある。
「それでは、皆様」
祭壇の前に立ったシスターの声が、静寂に包まれた聖堂内に響いた。
濃い紫色の瞳が、優し気に会衆たちを見渡す。
彼女は一年生らしく、まだ幼さの残る顔立ちをしていた。
黒いヴェールからこぼれたグレーの長髪が、彼女の若々しい印象を際立たせている。しかし、そのまっすぐに伸びた背筋と堂々とした立ち姿からは、新人とは思えない威厳が感じられた。
「本日もお集まりいただき、ありがとうございます」
彼女の声は美しく、よく通る。
聖堂の隅々まで明瞭に届く、訓練された話し方だ。
「今日は、希望について皆様と共に考えてみたいと思います」
シスターは一呼吸置いてから続けた。
「私たちの住むこの世界は、時として理解し難い出来事に満ちています。争いがあり、誤解があり、憎悪があり、そして時には絶望すら感じることがあるでしょう」
──彼女の言葉は、現在の情勢を明確に指しているわけではない。
しかし、聞く者それぞれが自分なりの文脈で理解できるような巧妙な表現だ。トリニティの生徒たちなら、当然最近の情勢について思いを馳せることだろう。
「けれども、私たちは希望を失ってはなりません」
シスターの声に、僅かな力がこもった。
「なぜなら、希望こそが私たちを人間らしくする力そのものだからです。希望があるからこそ、私たちは困難に立ち向かうことができる。希望があるからこそ、私たちは他者を理解しようと努めることができる」
私はちらりとナギサの横顔を見た。
彼女は深く頷きながら、シスターの言葉に聞き入っている。
「聖書にはこのような言葉があります。『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない』」
第一コリント書からの引用だ。
シスターはその有名な一節を、一語一語を大切にするように丁寧に朗読した。
「この愛の教えは、決して絵空事ではありません。私たちが日々実践すべき、具体的な生き方の指針なのです」
シスターは祭壇の前で数歩動き、会衆の様々な方向を見回した。
その動作は自然で優雅であり、場慣れしているように見える。
「忍耐強くあるということは、相手の変化を信じて待つということです。情け深くあるということは、相手の痛みを自分のものとして感じるということです。ねたまず、高ぶらず、誇らないということは、自分と異なる立場の人々をも尊重するということです」
彼女の解釈に私は内心で唸った。宗教的な教えを、現実的な人間関係の指針として再構成している。特に『愛は忍耐強く』を『相手の変化を信じて待つ』と解釈したのは妙だ。明らかに現在の政治的対立への懸念が根本にある。しかし、そうとは断定できない程度にぼかしている。
「私たちは時として、自分とは異なる考えを持つ人々を敵視してしまうことがあります」
シスターの声に、僅かな悲しみが混じった。
「しかし、それは真の強さではありません。真の強さとは、違いを認めながらも、その相手に手を差し伸べることができる心の広さなのです」
──すごい。
私は、彼女の話術に素直に感嘆した。
この新人シスターは、政治的に敏感な内容を宗教的な文脈で巧妙に包み込んでいる。直接的に特定の立場を支持するような発言は一切していないが、その意図は明白だ。平和的解決を支持し、対話を重視する立場への共感を呼び起こそうとしている。
そして、その効果は如実に現れていた。会衆の表情を見る限り、多くの生徒たちがシスターの言葉に深く感動している。特にフィリウスに属する生徒たちは、まるで自分たちの信念が宗教的に正当化されたかのような満足感を示していた。
任務に反するため歓迎できない事象ではあるが、それにしても彼女の手腕は実に見事だ。
「平和への道のりは決して平坦ではありません」
シスターは続けた。
「それは険しく、困難に満ちた道です。しかし、だからこそ私たちはその道を歩まねばならないのです。簡単な道、短絡的な解決策に逃げることは誰にでもできます。しかし、本当に価値のあるものを築くためには、時間と忍耐と、そして何よりも愛が必要なのです」
私は周囲をもう一度見回した。
数人の生徒たちの表情が、先ほどよりもやや硬くなっているのが見て取れた。彼女たちにとって、このシスターの説教は暗黙の批判として受け取られているのだろう。軍事的対応を支持する立場からすれば、このような平和主義的な主張は現実逃避に映るはずだ。
しかし、シスターは怯むことなく話を続けた。
「私たちは時として、力による解決に頼りたくなることがあります。それは人間として自然な感情です。しかし、力は一時的な沈黙を齎すことはできても、真の解決を齎すことはできません」
これは、そんな彼女たちへの静かな抗議だ。
──同時に、宗教的な権威を背景にした強力な批判でもある。
「真の解決とは、全ての人が納得し、全ての人が尊重される状態を作り出すことです。そのためには対話が不可欠です。相手の言葉に耳を傾け、相手の立場を理解しようと努める姿勢が必要です」
ナギサは深く頷いている。
……彼女にとって、このシスターの言葉は天啓のように聞こえているに違いない。
セイアからの励ましに続いて、今度は宗教的権威からの支持を得たのだから。
「私たちは、愛と平和の使者として召されています」
シスターは両手を胸の前で組み、深く息を吸った。
「それは決して楽な道ではありません。時には理解されず、時には批判され、時には孤立することもあるでしょう。しかし、それでも私たちは歩み続けなければなりません。なぜなら、それが私たちに与えられた使命だからです」
私は改めてこのシスターの正体について考えを巡らせた。一年生とはいえ、これだけ堂々とした説教ができるということは相当な訓練を積んでいるはずだ。もしかすると、宗教的な家庭の出身で、幼い頃から教会での奉仕に慣れ親しんでいるのかもしれない。
あるいは、これ自体が何らかの工作の一環である可能性も否定できない。
フィリウス、もしくはその支持者たちが宗教的権威を利用してハト派の立場を強化しようとしている可能性だ。
とはいえ、シスターフッドは政治の世界とは縁を切っている。彼女たちの徹底ぶりはいっそ感心する程で、如何なる要求であろうと、特定の分派を優遇するような措置を取らないという強い安心感があるのも事実だ。
しかし、何にせよ、私がシスターの語りに一定の感銘を受けていることは否定できなかった。
彼女の語る平和への希求、対話への信念、そして人間の尊厳への敬意。
これらは純粋に美しい。
たとえこれが工作の産物だったとしても、語られている内容そのものの価値は変わらない。
問題は、このような理想が現実世界でどこまで通用するかという点にあるだけで。
「──最後に、皆様にお願いがあります」
シスターは説教の締めくくりに入った。
「どうか、希望を失わないでください。どんなに困難な状況であっても、どんなに先行きが見えなくても、希望だけは手放さないでください」
彼女の声は、聖堂全体に響き渡った。
「そして、可能な限り他者を理解しようと努めてください。自分とは異なる立場の人々の言葉に耳を傾け、その痛みや苦悩を感じ取ろうとしてください」
私はナギサの表情をもう一度確認した。彼女の瞳には、深い感動の色が浮かんでいた。まるで自分の魂が浄化されたかのような、清々しい表情だった。
「私たちは、一人一人が神の愛する子どもです」
シスターは最後の言葉を、一語一語を大切にするように語った。
「その事実を決して忘れず、お互いを大切にし、この世界により多くの愛と平和を齎すことができますように」
シスターは深く頭を下げた。
「共に祈りましょう」
会衆全体が立ち上がり、手を組んだ。私も他の生徒たちに倣って同じ姿勢を取った。
静寂が聖堂を支配した。ステンドグラスから差し込む光が人々の顔を照らし出している。
この瞬間だけは、ゲヘナとトリニティの対立も、分派間の争いも、全てが一時的にゼロへと引き戻されているかのように思えた。
「慈悲深き神よ、私たちにお与えくださった数々の恵みに深く感謝いたします。この困難な時代において、私たちが道を見失うことなく、常に愛と希望を持ち続けることができますよう、お導きください。そして、この世界に真の平和が実現しますよう、私たちもその一助となることができますよう、どうかお力をお貸しください。アーメン」
シスターの声に続いて、参列者全員が一斉に唱和した。
その声は大聖堂の天井に向かって響き上がり、やがて静寂の中に溶けていった。
***
礼拝が終わると、生徒たちは三々五々聖堂から出ていった。
私とナギサも立ち上がり、静かに外へ向かった。朝の清々しい空気が肌に心地よく、大聖堂の重厚な雰囲気から解放された安堵感が胸に広がった。
「素晴らしい説教でしたね」
ナギサが振り返って言った。
その表情には、先ほどの感動がまだ残っている。
「ええ、確かに」
私も素直にそう答えた。
内容自体は確かに心に響くものがあった。
しかし、あの説教が齎したであろうナギサの内面の変化は決して容認できるものではない。
最悪のケースは、彼女の信念が単なる政治理念から揺るがし難い信仰の域へと昇華した場合だ。
この場合は、今後、現実論でナギサを説得するのは至難の業となる。
つまり必然的に
「あの、少しお花摘みに……」
ナギサは顔を僅かに赤らめて言った。
礼拝中にはなかなか席を立てないから、こうなるのも仕方がない。
「分かりました。では、ここでお待ちしております」
「すみません、すぐに戻ります」
ナギサは小さく会釈すると、大聖堂の側面に回っていった。
私は正面階段の脇にあるベンチに再び腰を下ろした。日曜日の午前中、空は抜けるように青く、雲がゆっくりと流れている。学園内も平日とは違い、のんびりとした空気に包まれていた。遠くから聞こえる鳥のさえずりが、この穏やかな時間を演出している。
シスターの説教の内容を反芻しながら、私は軽く背伸びをした。宗教的な空間での長時間の着席は、思いのほか体に負担がかかる。特に、常に周囲への警戒を怠らずにいた分、精神的な疲労も蓄積していた。
今日は休日だし、少しくらい気を抜いてもいいだろう。そう思った瞬間、私の意識は僅かに弛緩した。陽だまりの暖かさが頬を撫で、心地よい眠気すら感じ始めていた。
「あの、失礼いたします」
突然の声に、私ははっと我に返った。
振り向くと、そこには見知らぬ生徒が立っていた。
年齢は私と同じくらいだろうか。やや小柄で、茶色の髪を肩の長さまで伸ばしている。制服ではなく私服を着ているが、その装いはシンプルで上品なものだった。表情は穏やかで、特に警戒すべき要素は見当たらない。
しかし、私は内心で警戒心を高めた。
諜報活動に従事している以上、見知らぬ人物からの接触には常に注意を払う必要がある。特に、ナギサの秘書という立場にいることも踏まえると、現在のような政治的に敏感な時期においては尚更警戒を強めなければならない。
「はい、何でしょうか?」
私は警戒心を抱きつつも、穏やかな表情で応えた。
「あなたは、ナギサ様の秘書の方ですよね」
彼女の問いに私は内心で僅かに身構えた。私とナギサの関係を知っている生徒がいることは不思議ではないが、こうして直接話しかけてくるとなると話は別だ。
「ええ、そうですが」
「私、実は中等部の頃からナギサ様を支持しておりまして」
彼女は軽く頭を下げた。
「彼女の政治に臨む姿勢や、平和への取り組みに深く感銘を受けています。もしよろしければ、この後少しお時間をいただいて、ナギサ様と直接お話しさせていただくことは可能でしょうか」
私は慎重に彼女の表情を観察した。声のトーンは丁寧で、表情にも特に怪しい部分は見られない。しかし、こうした唐突なアプローチには警戒せざるを得ない。
「申し訳ございませんが、この後は予定がございまして」
私は少し間を開けて断った。
「また機会を改めていただければと思います」
「そうですか」
彼女は僅かに残念そうな表情を見せたが、すぐに理解を示した。
「では、
……かなり、ぐいぐい来るな。
私は手帳を取り出して確認した。
「一度ナギサ様にお伺いしてから、お返事させていただきたく思います」
「もちろんです」
彼女は小さな紙片を取り出した。
「こちらに連絡先を書いてあります。ご都合がつくようでしたら、ぜひご連絡ください」
私はその紙片を受け取った。きちんとした字で名前と連絡先が書かれている。
「検討させていただきます」
「ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
彼女は再び頭を下げて、そのまま立ち去った。
私は彼女の後ろ姿を見送りながら、この唐突な接触について考えを巡らせた。
確かにナギサには多くの支持者がいる。彼女の理念に共感し、直接話を聞きたいと思う生徒がいても不思議ではない。しかし、現在はトリニティ内外で緊張が高まっている時期だ。直接対話を望むほどの熱心な支持者が、それを失念しているとは俄かに信じがたい。
そう考えると、こんな時期に無遠慮な接触を図って来た彼女の意図が一気に怪しくなってくる。
それに、情報部からも特に新たな指示は来ていない。
私はこれを、現状を維持せよという意味だと解釈している。
それも踏まえると、やはり安易に未知の人物との接触を許可するべきではない。
とはいえ、全ての接触を遮断してしまうのも現実的ではない。
政治活動にとって、支持者との交流は重要な要素だからだ。完全に孤立させてしまえば、それはそれで彼女の立場を弱めることになりかねない。
私は紙片をもう一度確認した。
どれだけ記憶を振り返ってみても、該当する名前を見つけられない。
つまり、本当に知らない人物なのだ。
平凡な名前だが、それがかえって怪しく思えなくもない。まずはこの人物について調べてみる必要があるだろう。正体を確認し、特に問題がないようであれば、ナギサに相談してみてもいいかもしれない。
ただし、今すぐナギサにこの件を報告する必要はないだろう。
彼女は今日の街での時間を楽しみにしているはずだし、余計な心配をかけることもない。調査の結果を見てから判断しても遅くはない。
「お待たせしました」
ナギサの声で、私は現実に引き戻された。
振り返ると、彼女が軽やかな足取りで近づいていた。
「いえいえ、私もゆっくりできました」
私は紙片をポケットにしまいながら立ち上がった。
「それでは、街へ参りましょうか」
「はい!」
ナギサの声には弾むような喜びが込められていた。
礼拝での感動も相まって、彼女の気分は最高潮に達しているようだ。
私たちは並んで学園の門へと向かった。
今日一日は政治的な緊張から離れて、普通の学生としての時間を過ごすことになるだろう。
しかし、私の心の片隅では、先ほどの女生徒の存在が小さな警戒信号を発し続けていた。
謎の凄腕シスターのせいで、諜報員ちゃんの任務の難易度が激化しました。
いったい誰住さんの仕業なんだ……。