ただの諜報員モブ 作:クモリ・C・ドンテン
礼拝が終わると、私たちは穏やかな午後の日差しの中へと歩き出した。
トリニティ中心部の街並みは古典的で美しく、中世の古都を思わせる佇まいをしている。石造りの建物が立ち並び、その間を縫うように石畳の道が続いている。街角には小さな教会や礼拝堂も点在しており、トリニティの性格を色濃く表している。
歩いていると、道の両側に配置されたカフェやレストランから美味しそうな香りが漂ってきた。休日ということもあって、多くの店が賑わいを見せていた。街行く人々の表情も穏やかで、平和な日常の風景が広がっている。しかし、そんな中でも新聞スタンドに並ぶ見出しや、時折聞こえてくる会話の端々からは現在の情勢への不安が垣間見えた。
「あそこのカフェはいかがでしょうか?」
ナギサが指差した先には『エンジェル・ブルー』という看板を掲げた小さなカフェがあった。クリーム色の壁と深い青色の窓枠が印象的で、入口には色とりどりの花が植えられた可愛らしいプランターが置かれている。ガラス窓の向こうには、居心地の良さそうな店内の様子が見えた。
「素敵なお店ですね。ぜひそちらに──」
──その時、私の肩にいきなり強い衝撃が走った。
急な出来事に警戒心を一気に引き上げ、ナギサを隠すように体を寄せて周囲を見渡す。一人の少女が足早にその場から歩き去っていくのが見えた。恐らく彼女とぶつかったのだろう。相手は謝罪もせずに立ち去ったが、私は安堵の息を漏らした。何事もなくて良かった。
「申し訳ありません、人とぶつかってバランスを崩してしまいました」
ナギサから身を離して謝罪をするも、彼女は眉を顰めて私の背後を睨みつけていた。
「……失礼な方ですね」
「まあまあ、何ともありませんでしたから」
「貴方が構わないなら、私がとやかく言う事でもないのでしょうが……」
「はは……」
少しだけ不満そうに言い淀むナギサを尻目にカフェの扉を開ける。
案内された席は窓際の二人用テーブルで、外の街並みを眺めながら食事を楽しめる絶好の場所だった。午後の柔らかな日差しがレースのカーテン越しに差し込み、テーブルの上に陰影を作り出している。
「メニューはこちらになります」
ウェイトレスがメニューを手渡してくれた。
手書き風のフォントで作られたメニュー表は温かみがあり、カフェの雰囲気によく合っている。
ケーキの種類も豊富で、どれも美味しそうだった。
「私はストロベリーショートケーキにしようと思います」
ナギサがメニューを見ながら呟いた。
一時的に急降下した機嫌は、すぐに持ち直せたようだ。
「それに紅茶を。アールグレイはあるでしょうか?」
「はい、ございます。かしこまりました」
ウェイトレスが答えると、今度は私の方に向き直った。
「私はチーズケーキと、コーヒーをお願いします」
注文を済ませると、私たちは他愛もない会話を始めた。
最近読んだ本のこと、授業での出来事、共通の知人の近況など。ナギサは普段よりもリラックスしており、時折クスクスと小さく笑いながら楽しそうに話している。
暫くして、注文したケーキと飲み物が運ばれてきた。
ストロベリーショートケーキは見た目も美しく、ふわふわのスポンジの上に新鮮な苺が飾られている。私のチーズケーキも濃厚な香りが食欲をそそる上質なもので、一口食べただけでその味わい深さが分かった。
「おいしい」
ナギサが幸せそうにケーキを口に運んだ。その表情はあどけなく、普段とは全く違った一面を見せていた。こういう時の彼女は、年相応の少女そのものだ。
しばらくして、私たちの間に自然な沈黙が訪れた。
それは気まずい沈黙ではなく、むしろ心地よい静寂だった。
お互いに相手の存在を意識しながらも、無理に会話を続ける必要を感じない、そんな空気感。
ナギサは窓の外を眺めながら、ゆっくりと紅茶を飲んでいた。午後の光が彼女の横顔を柔らかく照らし出し、まるで絵画のような美しい情景を作り出している。私も同様に、この穏やかな時間を味わっていた。
その時、私たちの近くのテーブルから少女たちの会話が聞こえてきた。
最初は何気なく聞き流していたが、その内容に気づいて私は耳を澄ませた。
「本当に素晴らしいお話でしたわね、今朝の礼拝」
声の感じから、恐らく同い年くらいだろう。
「ええ、特にあのシスターがおっしゃった『真の強さ』についてのお話は、まさに今の私たちに必要な考え方だと思いました」
もう一人の少女が同意した。
「そうですね。力に頼らず、対話で問題を解決していく。それこそが本当の勇気だと思います」
私は内心で苦笑いを浮かべた。
シスターの説教の効果は、予想以上に広範囲に及んでいるようだ。
「最近は物騒な話ばかりですから、今朝のような希望に満ちたお話を聞けて心が軽くなりました」
一人目の少女が続けた。
「私たちも、もっと相手の立場を理解しようと努めるべきですわね。きっと向こうにも向こうなりの事情があるのでしょうし」
「そうですわ。愛と理解があれば、きっと平和的な解決方法が見つかるはずです」
そんな彼女たちの会話を聞いていると、ナギサがそっと私の方を向いた。
その表情には微かに喜色が滲んでいる。まるで自分の信念が多くの人に共有されていることを確認できて安心したかのような表情だ。彼女は小さく微笑んだ。
──その瞬間、私の胸の奥で何かが蠢いた。
それは先日から抱えていた違和感が、より大きく、より鮮明になる感覚だった。
なぜナギサは、これほどまでに対話による平和的解決に固執するのだろうか。
私は改めてナギサの顔を見つめた。
彼女の洞察力が劣っているわけではないことは、これまでの付き合いで十分に確認している。むしろ、現状分析については非常に的確な判断を下すことが多い。それなのに、なぜ解決策については常に『対話』に行き着いてしまうのか。
──これは絶好の機会だ。
私はそう判断した。
私は一貫してナギサの姿勢に対して批判的なスタンスを取り続けてきた。その流れの中で、この疑問を率直に打ち明けるのは不自然ではない。むしろ、友人として心配しているという体裁を取ることで、より深く彼女の内面を探ることができるかもしれない。
「ナギサ様」
私は慎重に口を開いた。
「先ほどの方々のお話を聞いて、改めて思ったことがあるのですが」
ナギサは関心を示すように首を傾げた。
「何でしょうか?」
「ナギサ様は常々、対話による平和的解決の重要性を説いていらっしゃいますね」
私は言葉を選びながら続けた。
「それについて私なりに色々と考えてみたのですが、一つ疑問に思うことがあるのです」
ナギサの表情に、僅かな緊張が走った。
しかし、それは私への警戒というよりも、真剣な議論への期待のようなものに見えた。
「どのような疑問でしょうか」
「対話が重要なのは確かですが、そのためにはまず相手を対話の席に着かせる必要があるのではないでしょうか」
私は慎重に自分の疑問を言語化していった。
「経済的な対抗措置を取って、相手にも対話の必要性を認識してもらうとか。あるいは防御的な準備を進めて、武力行使のリスクを高めることで平和的解決への動機を作り出すとか。そうした手段を併用することで、より効果的な環境を整えることができるのではないでしょうか」
私の質問に対して、ナギサは暫く沈黙した。
彼女は窓の外を見つめながら、何かを深く考え込んでいるようだった。その間、カフェの穏やかな雰囲気とは対照的に、私たちのテーブルだけが重い沈黙に包まれた。
隣のテーブルからは、依然として礼拝の感想を語る声が聞こえてくる。しかし、その声も今の私たちには遠く感じられた。私は静かに彼女の答えを待った。この沈黙の時間も情報収集の一部だ。彼女の思考過程を観察し、その価値観や判断基準を理解する。
やがて、ナギサはゆっくりと私の方に顔を向けた。
──少しだけ、憂いを感じさせるような複雑な表情で。
「本当は、今日は完全にオフの日にしようかと思っていたのですが……」
「……申し訳ありません」
「いえ、貴方のせいではありませんよ。思えば、私の信念について貴方と話し合ったのは中学二年生の頃です。それが最初で最後の機会でした。それも、お互いの方向性をすり合わせるためだけに行った、
確かに、ナギサは最初、純粋に政界を生き抜くための
しかし、当時の彼女は信念を共有することは考えても、その根本をも打ち明ける気にはなれなかったらしい。
理由は聞いていない。
知る必要はないと考えていたから。
その時は、まだ心を開いていないのだろう、だから無理に聞いても無駄だと適当に考えていた。
でも、今は違う。
この扉は開く。
「聞かせていただけませんか。ナギサ様が、なぜ対話に拘るようになったか。いったいどれほど強固な基盤が、貴方の強靭な信念を支えているのか」
私が訊ねると、ナギサはカップを手に取って紅茶を一口飲んだ。
丁度それで飲み切ったらしい。彼女が頼んだショートケーキも、私のチーズケーキも、ずっと前に食べ終えてしまった。
ナギサの視線が私のコーヒーに移る。
私は直観的に──半分ほど残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
それを見たナギサは口元を手で隠して、クスクスと笑った。
「ふふっ。貴方には何でもお見通しなんですね」
「……そんなに難しい内容なのですか?」
「ええ、ここで話すのは些か
ナギサが立ち上がると同時に私も席を立つ。
バッグから財布を取り出そうとする私に、ナギサはそっと右手を出した。
「私が払いますよ」
「いえ、このくらいなら私でも……」
「いつも私に尽くしてくれている貴方への、ささやかなお礼です」
「しかし……」
「……」
「……」
「…………私は引きませんからね」
そうして、暫く睨み合いが続いた。
最終的に私の方が折れて、溜息を吐いて軽く両手を上げると、ナギサは満足そうに笑みを浮かべて領収書を手にレジへ向かった。
私はその背中を見届けてから、テーブルの端に置かれたメニュー表に視線を向けた。
中身が気になったのではない。ただ、どこに視線を向けて良いかが分からなかっただけだ。
別に張り合う必要はなかった。
支払いを押し付けるならまだしも、どちらが引き受けるかで睨み合うなんて馬鹿らしい。
それに、私のトリニティの口座には情報部から外部の奨学金機構を通して毎月それなりの額が振り込まれている。だから別に、経済的に困っているというわけでもない。
つまり、誰が支払ってもよかった。
今のはただの、くだらない善意の押し付け合いだ。
任務に一切関係がないどころか、何の意味もない無駄なやりとり。
そういう会話を平然と行えるのが、多分──
「お待たせしました。それでは……あら」
「……? どうかされましたか」
「いえ……ただ、何か良いことでもあったのかなと」
ナギサは珍しい物を見るような目で言った。
彼女は何を言ってるんだ……?
ナプキンで口元を拭ってみても、何も付いていない。
……本当にどういうことだ?
「よく分かりませんが」
「ああ、いえ。気になさらないでください。大したことではありませんので」
「……気になります」
「少し外を歩きましょうか」
私たちは店の外に出た。
「ナギサ様」
「はい?」
「非常に気になります」
「ん……外は日差しが暖かくて心地いいですね」
ナギサはいきなり人の流れに逆らって歩き始めた。
私も慌てて付いて行く。
「ナギサ様」
「はい、私はここにいますよ」
「教えて下さらないのですか?」
「ええ、絶対に教えません」
その時、ナギサは初めて私の方を振り返った。
まるで、心底愉快でたまらないといった表情をしている。
何が何やら全く意味が分からず困惑する私を他所に、ナギサは「あっ」と呟いて笑みを深めた。
「今度は何ですか」
「……気になりますか?」
「ええ、とても」
ここまで来るとヤケクソだ。
私の返答に、ナギサは暫く沈黙した。
「……やっぱり教えませんっ」
「……なんだか、今日のナギサ様は少し変です」
「そうでしょうか?」
「自覚がないのですか?」
「生憎と」
私は内心で溜息を吐いた。
本当にどうしたんだろう? 今日のナギサは明らかにおかしい。
久しぶりに気を抜くことが出来て、テンションがおかしくなっているのだろうか。
それとも、礼拝でのシスターの言葉がそんなに嬉しかったのか。
「でも、貴方が仰るのなら、今日の私は確かに変なのかもしれません」
「……少し自己管理が疎かになっているかと」
「それを気付かせるのも貴方の仕事でしょうに」
「自分で気付いて管理するから、自己管理と言うのです」
「それが存外に難しいのです」
ナギサはそう言って、私から視線を外して前に向き直った。
そして、続けた。
「そもそも、人はそうした変化を──」
***
──きっと、自覚できないようになっているのだ。
いま、私がやっと変なことを言っていたのに気付いたように、彼女も私が指摘しなければ自分の変化を自覚できない。
あの時──私がレジから帰って来たときに浮かべていた
それ自体は何でもない光景だ。
特筆するまでもない、人が自然に浮かべる普通の表情。
それでも、私は彼女の淡い笑顔に釘付けになった。
あの堅物が、ひとりで笑顔を浮かべている、と。
──彼女は優秀だ。
人間関係の嗅覚に優れた彼女は、誰と誰が糸で結ばれていて、誰を動かせば連鎖的に彼らも動くかという考え方を中等部の頃には既に実践可能なレベルに磨き上げていた。
『あの方を堕とせば対立候補も一人失速します』と言う彼女に、私がふんぞり返って『では、スキャンダルの一つでも掴んできてください』と言えば、一週間後には獲物を私に差し出してきた。
実際、それは彼女の言う通り効果を発揮した。
その時に、私は彼女の有用性を確信した。
──彼女は仕事人間だ。
私の秘書として情報収集や会議のセッティングなどを行ってくれる彼女が見せる表情は、いつも計算されたものばかりだ。
同じ世界に生きている私にはよく分かる。
先輩と話をしている時に浮かべる微笑みと、私が彼女を褒めた時に浮かべる笑顔、美味しい物を食べた時にふっと零す笑みも、全てが同じ──何か目的を持った笑顔なのだ。
表情を管理し、声色を調整し、言葉を選び、タイミングを見計らう。
彼女はプライベートにもこの面倒な作業を組み込んでいるように見えた。
つまり、彼女の一挙手一投足、一言一言全てに何らかの意味があると、そう思えたのだ。
でも、さっき見た笑顔は違う。
俯きがちにどこかを見つめていた彼女の視線は当然私に向いていなかったし、私が会計を終えて近寄っていることにも気付いていなかったと思う。
それなのに、彼女は微笑んでいた。
誰かに見せるわけでもなければ、何の目的もない無意味な表情。
今まで堅物を貫いていた彼女が見せた、唯一の素顔。
まさに青天の霹靂だった。
堅物で真面目で、いつも何かを考え込んでいる彼女が、ほんの一瞬でも肩の力を抜いて微笑んでくれたことが。
それが私への気遣いでもなければ、誰かに見せるためのポーズでもない、純粋に彼女自身の感情から生まれた表情だったことが。
それが……私は嬉しかった。
私は、もっと彼女の素顔が見たい。
トリニティの生徒でも、フィリウスの議員でも、ましてや私の秘書でもない、純粋な素顔を。
だから、あの時の笑顔は私だけの秘密だ。
彼女に知らせれば、きっとすぐに仮面を被り直してしまうだろうから。
「あそこのベンチで少し休憩しませんか」
──黙って歩いていた
街中にぽつんと佇む小さな公園。
そこには古い木でできたベンチがあり、噴水が静かに水を噴き上げている。
周りには色とりどりの花が植えられていて、蜂たちが忙しく花から花へと移っている。
ここなら人通りも少なく、落ち着いて話ができるだろう。
「ええ、そうしましょう」
彼女は頷き、私たちは並んでベンチに腰を下ろした。
噴水の音が心地よく、鳥たちのさえずりも聞こえてくる。
都市の喧騒から離れた、静かで平和な場所だった。
隣を見ると、ユリカさんの瞳がじっと私のことを見つめている。
──そんなに気になるのか。
そう思うと、無意識に頬が緩んでしまう。
「そんな、大それた話ではないのです」
膝の上で手を重ねて、そっと空を見上げる。
「セイアさんや先輩方は私の信念を高く評価してくださいましたが、その根底にあるのは極めて個人的な理由です。思い出、と言い換えることもできましょうか」
空には、小ぶりの雲がふんわりと浮かんでいる。
私は瞼を閉じた。そうすると、記憶の中の情景が少しずつ蘇ってくる。
黒いアスファルト、コンクリートの壁、落書きだらけの建物、青い空、白い雲。
車のエンジン音、クーラーのにおい、芳香剤の香り、シートの柔らかい感触。
思い出が細部まで再現されていく。
「10年ほど前のことです」
瞼の裏で、私は小さな桐藤ナギサに戻っていた。
停車した車のなかから、窓の外の景色を楽しんでいる。
その景色のなかに、私はひとりの少女を見つけた。
白いブラウスに黒いスカートを着用した、どこにでもいるような平凡な見た目の少女。
それでも、ひと際私の目を引いたのは──彼女の側頭部から生えた、
「その日、私は初めて異郷の方と出会いました」
私は彼女のことを決して忘れない。
いや、忘れてはならないのだ。
私が未熟であるばかりに、救うことが出来なかった彼女を──。
次回から二話だけ過去編に飛びます。
さっさと終わらせるので許してください!