ただの諜報員モブ 作:クモリ・C・ドンテン
後編は現在、誤字脱字のチェック中です。
余程のことがない限り翌日中には後編を投稿します。
あと、本小説は短編として投稿していましたが、一般的な短編小説の文字数が4,000字~20,000字程度ということを鑑みて『短編』から『連載』に切り替えます。プロットに大規模な変更があったとか、そういうのではないです。
8年前の夏の午後。
私は当時7歳で、侍女に付き添われてお気に入りの本屋へと向かっていた。車の窓から外を眺めていると、トリニティの美しい街並みが流れるように過ぎていく。石造りの建物、手入れの行き届いた街路樹、清潔に保たれた石畳の道。私にとって、それは当たり前の光景だった。
お気に入りの本屋というのは、中心部から外れたトリニティとゲヘナの境界近くにある。
当時の私はトリニティの外に強い興味があって、別の自治区で作られた作品なら何でも楽しめた。その本屋ではトリニティ文学の取り扱いは最小限にし、他自治区の文学を多数販売するという経営方針で、当時の私にとっては夢のおもちゃ箱のような存在だったのだ。
家の者はトリニティ内にもっと目を向けて欲しいと思っていただろうけど、興味の方向性はオペラ、音楽、小説、詩、絵画──そういった芸術方面に限られていたので、彼らも特段強く出ることが出来ないようだった。
私がゲヘナの境界近くまで足を運べたのは、そうした妥協が背景にあった。
その日は、丁度前日に買い溜めしていた本を全て読み終えてしまったために、本来なら翌週に向かう筈だった予定を一週間前倒しにして従者に車を走らせたのだ。
私が
その少女は建物の影に身を寄せるように立っていた。
彼女は私と同じくらいの年齢に見えた。白いブラウスは薄汚れ、黒いスカートの裾はほつれている。しかし、最も印象的だったのは、彼女の側頭部から生えた二対の角だ。それは、彼女がゲヘナの住人であるという紛れもない証拠だった。
私は無意識に窓に手を当てた。
なぜか、その少女から目を離すことができなかった。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
侍女が私の様子に気づいて声をかけてきた。
「あの子は……」
私が指差すと、侍女は僅かに眉を顰めた。
「……ゲヘナの人間ですね。恐らく、何かの用事でこちらに来ているのでしょう。お嬢様が気になさることはありません」
信号が青に変わり、車が再び動き出す。
私は窓に顔を寄せて、みるみるうちに遠ざかっていく少女を視界に収め続けた。彼女の姿はあっという間に豆粒くらいの大きさになり、次第に窓に付いた汚れと見分けが付かなくなった。それでも私は窓の外をじっと見つめ続けた。罅割れた路面から綺麗に舗装された道路へ、コンクリートによる乱雑な補修痕や落書きが散見されていた街並みから汚れ一つないクリーム色の街並みへ移り変わっても、私の視界には少女の残像が明瞭に映し出されていた。
家に着いて、夕食を食べて、入浴して、ベッドに入った後も彼女の姿が頭から離れなかった。
まるで世界から置き去りにされたような、孤独そうな佇まい。
私はあんな人を、初めて見た。
***
それから数日が経った頃、私は再び本屋へ向かった。新しく入荷した詩集を取り寄せてもらっていたからだ。しかし、その日の目的は本だけではなかった。あの少女のことが頭から離れず、もう一度彼女に会えるかもしれないという淡い期待を抱いていたのだ。
本屋からの帰り道、私は窓に顔を押し付けるようにして外を見つめた。同じ場所を通りかかった時──私の心臓は大きく跳ね上がった。彼女がいる! 前と同じように、建物の影に身を寄せるようにして立っている。
「止めてください!」
私は思わず声を上げた。
侍女は驚いた様子で振り返った。
「お嬢様?」
「あの子に、お菓子を渡したいのです」
侍女の表情が一瞬で曇る。
彼女は窓の外に視線をやって少女を確認すると、深刻な表情を浮かべた。
「お嬢様、それは……」
「お願いします。ほんの少しだけ」
私の必死な懇願に、侍女は困ったような表情を浮かべた。
しかし、最終的に彼女は小さく溜息を吐いて頷いた。
「分かりました。ですが、絶対に車から降りてはいけません。窓から渡すだけですよ」
車が停車すると、私は急いで窓を開けた。少女は私たちの車に気づいて、警戒するように身を縮めた。私は朝食で食べきれずに持参していた小さなクッキーの袋を手に取った。
「これ、もしよろしければ」
私は手を伸ばして、彼女にクッキーを差し出した。少女は最初、戸惑ったような表情を浮かべていたが、やがて恐る恐る近づいてきた。やった! しかし、その高揚は長くは続かなかった。
次第に私の胸中を支配していったのは、自身の善意を受け入れてくれたことに対する喜びではなく──
トリニティでは、子供を躾ける際に『早く寝ないと悪魔に攫われるよ』とか『お肉ばかり食べてたら、夜な夜なグルメな悪魔がやってきてお前をシチューの具材にするぞ』とか、"悪魔"という言葉が平然と使われている。そして、絵本や絵画に出てくる悪魔の特徴は、たいていゲヘナの方が持つ角や尻尾などに酷似していた。
そもそも悪魔というのは元々ゲヘナの方たちを指し示す言葉であり、それが次第に宗教的な意味合いを帯びるようになった、という説がある。私はこれが濃厚だと思っている。現に、トリニティが古くから持つゲヘナへの偏見、憎悪は未だに根強く残っているのだから。
躾けに"悪魔"という言葉を使う大人たちが、実際には宗教上の"悪魔"ではなく
そして、その時の私は、少し前に教育係から告げられた脅し文句を唐突に思い出していた。
曰く──『悪いことをしたらすぐに謝りなさい。でないと、夜に悪魔がやって来てお嬢様の腕に噛み付き、暗闇に引きずり込み、自分たちの仲間にしてしまう』と。
そこで私はようやく、侍女が表情を硬くしている訳を子供ながらに悟った。
──私は自ら恐ろしい悪魔を呼び寄せてしまったのだ!
それに気付いた途端、まるで地面にぽっかり空いた井戸に呑み込まれるような恐怖に襲われた。
太陽がポカポカと照らす草原の真ん中で、草むらに姿を隠してひっそりと存在している。注意深く歩いていれば大丈夫かもしれないが、遊ぶのに夢中になって走り回っている子供は易々と引きずり込まれてしまう。
私は、その
私は咄嗟に手を伸ばし叫んだ。誰でもいいから、私を引き上げて。しかし、その懇願は届かない。やがて私は底に張った水面を突き破り、今度は水底に向かって沈み始める。呼吸が出来なければ助けを呼ぶこともできない。藁にも縋る思いで手足をばたつかせても、体は沈み続けるばかり。それでも必死に抗い続け、
それは、小さな手だった。
「ありがとう」
ゲヘナの少女は袋を受け取った後、私の手に柔く触れて軽く頭を下げた。
まるで鈴が鳴ったような、静かで、清涼で、何より美しい声をしていた。
その瞬間──私を縛り付ける一切の苦痛が露と消えて、私の周りに再び暖かな光が満ちた。
しかし、それは今まで私が享受していた、優しく包み込んでくれる羽毛のような光ではない。
今の私を照らしているのは、同じように暖かさを与えてくれるものの、それと同時に少しずつ肌をジリジリと焼いていく暴力的な光だった。
この微妙な変化を、当時の私は取り返しの付かない罪を犯したせいだと認識していた。
今思うと、全くそんなことはない。今日のことはちょっとした気の迷い、あるいは極めて現実的な夢での出来事とでもしておけば、それで無害な光の下へ帰ることが出来た。しかし、例え当時の私がそれを理解していたとしても、"実際の私"と全く同じ選択をしたと思う。私を殻の中に引き戻すには、その光はあまりに暖かすぎたのだ。
その日を境に、私は本屋に通うたびに彼女を探すようになった。
彼女はいつも同じ場所にいるわけではなかったが、境界近辺のどこかで見つけることができた。
私は少しずつ、彼女との距離を縮めていった。
最初はお菓子を渡すだけだったが、やがて短い会話を交わすようになった。
彼女はエリと名乗った。
トリニティの境界近くにいるのは、こちらの方が安全で落ち着けるからだという。
「あ、ナギサ。また来てくれたんだ」
「ごきげんよう。今日はマカロンです」
次第に私は、本屋に行くために車の送迎を頼むのを辞めて、電車を乗り継いで一人でエリに会いに行くという大冒険をするようになった。もちろん家の者に発覚すれば大目玉を喰らうこと間違いなしだ。当時の私でもそれは理解していたので、侍女には"友人の家に行く"と伝えてから家を出て行くようにしていた。
最初は彼らを欺いている感覚に酷い孤独感に苛まれたが、そうした寒気は、電車が鳴らす規則的なメトロノームの音に合わせて私の傍を行ったり来たりして、目的地に着く頃にはいつの間にか消えてしまうようになった。何度も繰り返すうちに、侍女を騙すたび心が芯から冷えるようなこともなくなって、代わりにエリとの楽しい会話を夢想することが多くなっていった。
というのも、私とエリは頗る話が合った。
人は見かけによらないとはよく言ったもので、エリはゴミ捨て場や不法投棄物を漁って日銭を稼いでは、その半分以上を本の購入に充てる生粋の読書家だったのだ。彼女はトリニティ文学を特に好んでいるようだった。私が自室の本棚から持って来た本をプレゼントすると、エリは目を輝かせて何度も感謝を述べた。
その姿を前にして、本ばかりにお金をかけてはいけないとは口が裂けても言えなかった。
彼女にとって本は光であり、食事と同等か、それ以上の価値を持つものなのだ。それを奪うことは決して許されない。
経済的な支援をするにしても、まず家の者に話を通す必要がある。
しかし、それは私とエリの密会──即ち彼らに対する裏切りを自ら告白することに等しい。
騙すことに慣れはしても、バレることに対する恐怖はそのまま心の中に残り続けていた。
だから、私は自分が出来る精いっぱいの支援として、彼女と会うたびにお菓子と本を渡すことにしたのだった。
それからの1ヶ月、私とエリの関係は緩やかに深まっていった。
最初は表面的な本の話題から始まり、次第により深い話題へと踏み込んでいくようになった。
ある日の午後、私たちは公園で本を読んでいた。エリは私が贈った詩集のページをめくりながら、時折美しい一節を口ずさんだ。その声は相変わらず鈴のように澄んでいて、詩の言葉に命を吹き込んでいるようだった。
しかし、その日の私の心には一つの疑問が重くのしかかっていた。
それは、私たちの友情が抱えている根本的な矛盾についてだった。
「どうしてトリニティとゲヘナは仲良くなれないのでしょう?」
その日は珍しく雲一つない青空が広がり、境界線付近の廃墟の隙間から差し込む陽光が、エリの角を美しい金色に輝かせていた。彼女は私が差し出した詩集のページを丁寧にめくりながら、しばらく考え込むような表情を浮かべた。
「ナギサは、鏡を見たことはある?」
突然の問いかけに、私は戸惑った。
「もちろんです。毎日見ています」
「じゃあ、鏡に映っているのは何?」
「私の顔です」
エリは悲し気に微笑んだ。
「違う。鏡に映っているのはただの光。ナギサで反射した光が鏡でもう一度反射して、貴方の目に戻ってきてるの」
私は何とか意味の理解に努めたが、理解に至るより先にエリが口を開いた。
「お互いがお互いを見ていないからだと思う」
「でも、トリニティの人たちはゲヘナの人たちを見たうえで嫌悪感を抱いているのでしょう?」
「違うよ」
エリは静かに首を振った。
「トリニティの人が私たちを睨む時、その人は私たちという実体じゃなくて、その上に張り付けられたイメージを睨んでいる。そして、そのイメージは睨んでいる人自身によって形作られている。これは私たちの間だけじゃなく、世界中で起きている普遍的な現象」
私は困惑した。
エリの言葉は理路整然としているように聞こえるのに、その意味を完全に理解することができない。彼女の話はあまりにも深く、当時の私には難しすぎる概念だったのだ。
「よく分からないです……」
エリは微笑んだ。
「つまり、トリニティの人がゲヘナを憎む時、その人は己の内に存在する
「こころの中……」
その言葉を聞いた時──私の胸の奥で、何かが騒めいた。
それは理解の兆しだった。エリの手が私を井戸の底から救い出してくれた時のように、彼女の言葉は、私が今まで感じていた漠然とした違和感に形を与えてくれた。
私がエリに初めて会ったとき感じた恐怖は、エリ自身から発せられたものではなかった。
それは、私の中にあった"悪魔"というイメージが作り出した幻影だったのだ。私はあのとき、エリを通して私の内面に存在する"悪魔"を恐怖していたのだ。
実際のエリは、本を愛し、静かで美しい声を持つ、私よりもずっと賢い少女だった。
いったい彼女のどこが恐ろしいと言うのだろう?
それからしばらく沈黙が続いた。エリの言葉は私の胸の奥で反響し続け、まるで投げ込まれた石が湖面に波紋描くように、次々と新しい理解を呼び起こしていった。私は自分の中にある偏見と恐怖の根源を見つめ直し、それらがいかに虚構であったかを悟り始めていた。
夕暮れが近づき、境界線付近の廃墟に長い影が落ち始めた頃、私は一つの疑問を口にした。
「でも、エリ。私たちがこうして話していても、トリニティとゲヘナの関係は何も変わりません」
風が頬を撫でていく。廃墟の隙間から差し込む光は、時間の経過と共に角度を変え、エリの表情に微妙な陰影を作り出していた。
「それに……」
私は言いかけて、躊躇した。しかし、エリは静かに続きを待っている。彼女の眼差しには、私がどのような言葉を発しても受け入れてくれるという、深い包容力があった。
「神様は、きっと存在するのです。でなければ、この美しい世界に説明がつきません。でも、神様がいらっしゃるなら、どうしてトリニティとゲヘナは争い続けなければならないのでしょう?」
私の言葉は、ある種の必死さを帯びていた。
私の中で新たに芽生えた理解と疑問は、神の見守る暖かな世界に小さな罅割れを生んだ。
神の存在を否定されることは、私にとって世界の根幹が崩壊することを意味していたのだ。
エリは長い間黙っていた。彼女は手に持っていた詩集を閉じ、表紙を指先で撫でるようになぞった。その仕草は、まるで本の中に眠っている言葉たちを慰めているかのように見えた。
「ナギサ……」
やがて、エリは口を開いた。
「貴方は神様が存在すると信じている。そして、トリニティとゲヘナが仲良くなって欲しいと心から願っている」
「はい」
「でも、その願いは叶えられていない」
エリが放った言葉は──静かだが、確実に私の心臓を貫いた。
「つまり、貴方の視点から見れば
「そんな!」
私は思わず声を上げた。
「もう何百年も、トリニティとゲヘナは憎み合っている。ナギサが生まれる前から、ナギサのお母さんが生まれる前から、ナギサのおばあちゃんが生まれる前からも」
私は返す言葉が見つからなかった。確かに、両自治区の対立は長い歴史を持っている。それは私が生まれる遥か昔から続いている。
「ナギサから見れば神は沈黙している。貴方の願いに応えない神は、貴方にとって不在でしょ?」
「でも……でも、それは違います!」
私は必死に反論しようとした。
「神様はきっと、私には理解できない深いお考えがあって……」
「そうかもしれない」
エリは私の言葉を遮ることなく、優しく頷いた。
「でも、それなら、ナギサにとってその神はいないも同然でしょ?」
「では、では……」
私はかろうじて声を絞り出した。
「神様はどこにいらっしゃるのですか?」
私の声は震えていた。
エリはしばらく黙考した後、詩集を膝の上に置き、ゆっくりと語り始めた。
「ナギサは種を見たことがある?」
突然の問いに私は戸惑ったが、何とか頷いた。
「種には木が宿っている。でも、種だけでは木にはならない。土と水と陽光が必要で、そして──何よりも時が必要」
エリは空を見上げた。
「神もまた、そういうものかもしれない。あらかじめ存在しているのではなく、条件が整った時に初めて芽吹くもの」
「条件?」
「ナギサは今、何を実現している?」
私はしばらく考えた。
「それは……エリとお話をしています」
「そして、ナギサが願っていることは?」
「トリニティとゲヘナが仲良くなることです」
エリは微笑んだ。
「なら、ナギサの願いは、少なくとも私たちの間では叶えられている。それを実現したのは天空で地上を見守っている神? それとも……」
彼女は私の胸に手を当てた。
その手は羽のように軽く、まるで蝶が花びらに止まるかのような繊細さだった。
「ここに宿る何かが、その願いを形にした。では、その何かとは?」
私は答えを探したが、エリが先に口を開いた。
「私たちが最初に出会った時、ナギサは私に手を伸ばした。その瞬間──言うなれば、新しい世界の最初の鼓動が始まった」
エリは手を離した。
「愛とは呼吸のようなもの。吸って、吐いて、また吸う。ナギサが私に優しさを与える時、私がナギサに感謝を返す時、その循環の中で何かが育っている」
私は息を呑んだ。
「でも、それが神様だと、どうして分かるのですか?」
「名前は後から付いてくるもの。大切なのは、その力が現実に働いているということ」
私の頬を、何かが一筋伝った。
「昔の人が神様と呼んだもの。それは恐らく、人と人との間に生まれる……言葉にするのが難しい何か。孤独を癒し、分裂を繋ぎ、絶望を希望に変える力」
私はエリの言葉の奥深さに圧倒されながらも、その美しさに魅了されていた。
「ナギサの中にある神様は、毎日少しずつ成長している。私たちが会話を重ねるたびに、お互いを理解するたびに。それは天空から突然降りてくるのではなく、私たちの関係性そのものの中から緩やかに発現する」
エリは私を見つめた。
顔の半分を覆い隠す前髪の奥で、彼女の深い青色の瞳が煌めいた。
「そして、その神様は既に答えを示している。境界など、愛の前では幻影に過ぎないのだと」
***
その日の私はいつもより心が軽やかだった。
エリとの対話を通じて、私の中で何かが変わり始めていることを感じていたからだ。神について、愛について、そして私たち自身について──彼女の言葉は私の内面に新しい世界を開いてくれた。まるで長い間閉じられていた扉が、静かに開かれたかのような感覚だった。
それはどこか恐ろしく、しかしながら解放的でもあった。
玄関で私を迎える侍女の表情が、いつもの穏やかなものとは違っていることに私は即座に気づいた。眉間に深い皺を刻み、唇は固く結ばれている。
その瞬間、私の中で何かが凍りついた。
まるで急激に氷の世界に放り込まれたかのように血の気が引いていく。私は自分の足が震えているのを感じながら、必死にそれを隠そうと努めた。
それでも、私の心は既に最悪の事態を予想し始めていた。
「お嬢様」
侍女の一段低い声が、私の予感を現実のものとした。
「教育係がお呼びです。すぐにお部屋へ」
──内臓を捻じられるような感覚が私を襲った。
教育係──それを聞いただけで、私の中に巨大な影が立ち上がる。彼は私にとって、抗うことのできない絶対的な存在だった。幼い頃から彼の前で私は常に萎縮し、彼の眼差しの下では息をするのさえ困難になった。彼の声は天の裁きのように響き、彼の言葉は石版に刻まれた戒律のように不動のものだった。
思い当たる節は一つしかない。エリとの友情が発覚したのだ。私の心の中で、彼の姿がさらに巨大になっていく。私はまるで巨人の足元で震える蟻のような存在に思えた。もはや逃げ道はない。彼の裁きを受けるしかないのだ。
教育係の部屋に向かう廊下を歩いている最中、私の足は鉛のように重くなっていた。
一歩進むごとに、私の中で彼の存在がより圧倒的になっていく。彼は私の運命を握る神のような存在であり、私はその掌の上で翻弄される哀れな被造物に過ぎない。そんな絶望的な思いが、私の胸を締め付けた。
部屋の扉の前で、私は深く息を吸った。
しかし、それでも震えは止まらない。
扉の向こうに待つ彼の姿を想像するだけで、私の勇気は完全に萎えてしまった。
教育係の部屋は、いつも重苦しい空気に包まれていた。
高い天井、暗褐色の書架、そしてその隙間から漏れる僅かな光。まるで法廷のような厳粛さが私を押し潰そうとする。彼はいつものように机の向こうに座り、手を組んで私を見据えていた。その視線の前で、私は自分がどれほど小さく、どれほど無力な存在かを痛感した。彼は山のように不動であり、私は風に吹かれる木の葉のように頼りない。
「お座りください、お嬢様」
彼の丁寧な声が、却って私の恐怖を増幅させた。丁寧さの仮面の下に隠された威圧が、私の魂を蛇のように締め付ける。私は指示された椅子に腰を下ろしながら、自分の手が震えているのを必死に隠そうとした。彼の前では私は常に罪人であり、彼は私の罪を暴く審判者だった。
「この数週間、お嬢様には大変興味深い新しい習慣がおありのようですね」
彼の穏やかな口調が、私の魂を凍らせた。
この穏やかさこそが最も恐ろしい。夜の闇のように私を包囲し、逃げ道を塞いでいく。
心の中で影がさらに巨大化し、私を完全に覆い尽くそうとしていた。
「新しい習慣、ですか?」
私の声は誤魔化しようがない程に震えていた。
自分の情けなさに絶望しながらも、彼の圧倒的な存在感の前ではそれを抑えることができない。
「ええ。……異文化交流とでも申しましょうか」
彼の口元に浮かんだ薄い笑みが、私には悪魔の嘲笑のように見えた。彼は私の秘密を全て知っているのだ。私の心の奥底まで見透かし、私の弱さを完全に把握している。私は彼の前では裸同然の存在であり、隠すものなど何もない。
「お嬢様は最近、随分と社交的になられた。特に、
その言葉が、私の最後の逃げ道を塞いだ。
私は完全に追い詰められた獲物となった。
「私は……」
「お嬢様」
私の弱々しい抗弁を、彼は容赦なく遮った。
「嘘をおつきになる必要はございません。事実関係は既に確認済みです。問題は、その事実をどのように評価するかということです」
彼は立ち上がり、書架の前まで歩いた。
彼の一挙手一投足が、私の心に重く圧し掛かってくる。
「お嬢様は教養のある方ですから、トリニティとゲヘナの歴史については十分ご存知のはずです」
教育係は一冊の本を手に取り、ページをめくり始めた。その本でさえ、私には巨大な石碑のように見えた。歴史という名の巨大な重石が、私を押し潰そうとしている。
「この歴史的背景を踏まえて、お嬢様の最近の行動をどのように解釈すべきでしょうか? 無邪気な好奇心? それとも、より深刻な問題の兆候?」
彼の言葉が、私の心に深く突き刺さる。
私の大切な友情を"問題の兆候"と呼ばれることへの怒りが芽生えかけたが、しかし彼の圧倒的な存在感の前では、その怒りも瞬時に萎縮してしまう。私は彼の前では常に間違った存在であり、彼は常に正しい存在である。そんな絶対的な構図が、私の心を支配していた。
「私はただ……」
「ただ、何でございましょうか?」
彼は振り返り、私を見つめた。
「
──その瞬間。
彼がエリとの交流を"愚かな行為"と断じたその刹那、私の中で何かが激しく爆発した。
それは、萌芽の瞬間だった。
土から顔を出した小さな芽が光り輝き、私に覆い被さる闇を払った。
私はその唯一の光を頼りに、自分の内面を見つめた──この圧倒的な恐怖と絶望感。彼を巨大な存在として崇め奉り、自分を矮小な存在として貶める感情。これらは一体何なのだろう?
『トリニティの人が私たちを睨む時、その人は私たちという実体じゃなくて、その上に張り付けられたイメージを睨んでいる。そして、そのイメージは睨んでいる人自身によって形作られている』
エリの言葉が蘇る。
そうだ。私が彼を巨大な存在として恐れているのは、私自身が心の中で彼をそのような存在として作り上げているからではないか。彼を絶対的な審判者として崇拝し、自分を罪深い存在として貶めているのは、私自身の心の働きではないか。
私は深く息を吸い、自分の内面を冷静に観察した。
確かに、彼は教育者としての権威を持っている。しかし、それは私が恐怖している巨人のような存在とは違う。彼もまた一人の人間に過ぎないのだ。私が心の中で作り上げた"絶対的な権威"という幻影こそが、私を苦しめていたのだ。
その理解と共に、私の心の中の巨大な影が急速に縮小していく。
それと共に恐怖が薄らぎ、代わりに激しい怒りが芽生えてきた。
「愚かではありません!」
私は立ち上がり、彼と真正面から向き合った。もはや彼は巨大な山ではない。私と同じように血の通った一人の人間だ。そして、私には自分の信念を守る権利がある!
「エリは私の友人です! 彼女は優しくて、賢くて、本を愛する、私と何ら変わらない普通の人です。彼女の何がいけないと言うのですか!」
教育係の眉が僅かに上がった。私のこのような反応は予想していなかったようだ。それもそうだろう。これまでの私は、彼の前では常に縮こまっていたのだから。しかし、今の私は違う。私は自分が作り上げた幻影を自ら暴き、一人の人間と向き合っている。
「お嬢様は、
「偏見です!」
私は毅然と言い返した。
もはや震えも萎縮もない。
私は自分の信念に基づいて、堂々と反論できる。
「あなたはエリに会ったことがありますか? エリと話したことがありますか? ないでしょう? 正確に理解できていないのは私ではなく、あなたの方ではありませんか!」
私は彼の表情を冷静に観察した。彼もまた、先入観と偏見に囚われた一人の人間に過ぎない。完璧でも絶対的でもない、欠点を持った普通の人間だ。
そう理解すると、今度は、私の心は徐々に平静を取り戻していった。
「お嬢様」
彼の声に初めて震えが混じったのを私は冷静に受け止めた。彼は苛立っている。
感情的になっているということは、私の言葉がきちんと届いているということだ。
「個人的な感情と現実は別物です。一個人の印象がどれほど好ましいものであったとしても、それが全体の構造を変えることはありません」
「その構造とやらは、永遠に変わってはいけないものなのですか?」
私は一歩前に出た。
恐怖ではなく、確信を持って。
「神様は、きっと平和を望んでいらっしゃるはずです。トリニティとゲヘナが仲良くなることを」
彼の冷笑も、もはや私を萎縮させることはできない。
「神がお望みになることと、現実に可能なことは別でございます。お嬢様のお考えは美しいものですが、現実はより複雑で、より厳しいものです」
「それは、あなたが諦めているからです」
私の言葉が、部屋の暗闇を切り裂いたように感じた。
「あなたは最初から不可能だと決めつけて、努力することを放棄しています。でも、私は確かに証明しました。トリニティの人間とゲヘナの人間が仲良くなることは可能だということを」
「……」
──その時、彼の表情が変わった。
今まで見たことのない深い疲労と諦念が浮かんだのだ。そこに、私は彼の人間としての側面を垣間見た。彼もまた、かつては理想を抱いていた一人の人間だったのかもしれない。そして、どこかでその理想を諦めてしまったのだろう。
私の心に、彼への理解と共感が芽生えた。
しかし、同時に確固たる決意も生まれた。
私は彼と同じ道を歩むつもりはない。
「……お嬢様は若く、希望に満ちていらっしゃる。しかし、私はこの世界をお嬢様よりも長く、深く見てまいりました。理想と現実の間には時として埋めることのできない溝があるのです」
彼の言葉に、私は深い悲しみを禁じえなかった。
恐怖や絶望ではない。
一人の人間が理想を諦めてしまったことへの悲嘆だ。
「お嬢様のお気持ちは理解いたします。しかし、あの者との接触は今後一切禁止いたします。これは命令です」
「そんな権限が、あなたにあるのですか?」
「お嬢様の教育に関しては、ございます」
彼は机の上の書類を整理し始めた。
「お嬢様にはもっと大切な使命がおありです。個人的な感情に惑わされることなく、その使命を全うしていただきたいのです」
「個人的な感情? それなら、あなたのゲヘナに対する嫌悪も個人的な感情ではないのですか? あなたの感情は正しくて、私の感情は間違っていると、どうして断言できるのですか?」
彼の手が止まった。
彼は私を見上げ、その瞳に複雑な光を宿した。
「お嬢様の論理的思考は確かに向上しているようですね。いえ──」
彼は立ち上がり、窓辺へ歩いた。
「それだけではない。何か根本的な変化を遂げられたようだ」
「はい」
私は素直に答えた。
「私は自分の内面と向き合うことを学びました。そして理解したのです。真の敵は外にあるのではなく、私たちの内面にあるということを」
「……論理だけでは世界は動きません」
「それでも」
私は彼に向かって、確固たる意志を込めて言った。
「私は諦めません。エリとの友情は、私にとって最も大切な宝物の一つです。そして、それを通じて私は学んでいるのです。自分自身と、他者と、そして世界と、どのように向き合うべきかを」
長い沈黙が流れた。
彼は窓の外を見つめ続け、私は彼の背中を見つめ続けた。
やがて、彼は深い溜息を吐いた。
「お嬢様は、本当に成長なさった」
彼は疲労を隠さずに言った。
「私にもかつて、お嬢様のような時代がございました。理想に燃え、世界を変えることができると信じていた時代が。しかし──」
彼は振り返り、私を虚ろな目で見つめた。
「私は自分の内面の恐怖に負けました。お嬢様には、同じ道を歩んでほしくない」
「あなたもまだ、変わることができます」
私は食い気味に言った。
「内面の檻に気づくことができれば、それから出ることも可能です。私がそうであったように」
「お嬢様」
彼は手を上げて私の言葉を制した。
しかし、もはやその仕草に威厳は感じられなかった。
「この件については、これ以上議論いたしません。お嬢様がどのような選択をなさるかは、お嬢様ご自身がお決めになることです」
彼は部屋の出口に向かって歩き始めた。
「ただし、結果についてはご自身で責任をお取りいただくことになります。……それだけは、お忘れなきよう」
扉が閉まる音が響いた。
私は一人、薄暗い部屋に取り残された。
しかし、今度は身の竦むような冷たい孤独感はなかった。
心に灯った光が、私を温めてくれたからだ。