ただの諜報員モブ 作:クモリ・C・ドンテン
本当にごめんなさい……。
教育係との対決から一夜明けた朝、私の内には今まで感じたことのない静寂が訪れていた。
それは空虚ではなく、むしろ何かが完璧に満たされたがゆえの静寂だった。長い間閉ざされていた扉が開かれ、新しい空気が流れ込んできたような感覚。鏡に映る自分の顔には、以前とは異なる何かが宿っているような気がした。
朝食の席で、侍女の視線が私の変化を探るように動いているのを感じた。
「お嬢様、今日はお出かけの予定がおありでしょうか?」
侍女の問いかけに、私は穏やかに答えた。
「はい。エリに会いに行きます」
彼女の顔に緊張が走ったが、私はその反応を当然のこととして受け止めた。昨日の出来事は既に家の者たちに伝わっているだろう。ゆえに、隠匿の必要性はもはや感じなかった。
電車のシートに身を委ねながら、窓の外を流れる景色を眺める。同じ風景であるはずなのに、世界は以前とは全く違った様子を見せていた。色彩の深度、輪郭の鮮明さ、そして何より存在そのものの重みが変化している。私は今、新しい眼で現実を見つめていた。
境界近くの駅に降り立つと、空気の質が微妙に変化していることに気づいた。何かが蠢いている。目に見えない緊張が、街の隅々まで浸透している。
建物の影になった路地を歩いていると、私は見知らぬ人に声をかけられた。
「ちょっと、お嬢さん」
振り返った私の前に立っていたのは、高校生ほどの年齢の女性だった。制服を身にまとっているが、その瞳に宿るものを見た瞬間、私の内で警鐘が鳴った。それは濁った水のような瞳だった。長い間光を見ることのなかった洞窟の底に溜まる水のような、生命力を失った眼差し。
「この辺りで角付きのガキを見なかったか? 小汚い身なりで、本なんか持ち歩いてる変な奴さ」
彼女の言葉は軽薄な調子で発せられていたが、その底に潜む何かは隠しようがなかった。
私は直感的に、彼女には本当のことを教えてはいけないと理解した。
「知りません」
嘘を吐くことに一切の躊躇はなかった。
「そうか」
女性は関心を失ったように呟き、去っていった。
それとは逆方向に、私は足早にエリのもとへ向かった。心臓の鼓動が加速し、歩調も自然と早まる。彼女の身に何かが迫っているという予感が、私をエリの元へ駆り立てていた。
いつもの場所でエリは本に向かっていた。
いつも通りの静謐な光景に接して私は安堵の息を漏らした。しかし同時に、胸の奥底で何か生温いものが蠢いているのも感じていた。私たちを照らす太陽も、風に揺られる木の葉の音も、道行く人々も、電車に乗っている時とは違い、今の私には全てが邪悪な欺瞞を働いているように見える。
「エリ!」
私の呼びかけに、彼女は顔を上げた。
その表情には今までと変わらぬ穏やかさがあったが、瞳の奥に微かな翳りが宿っているのを私は見逃さなかった。
「今日は早いんだね」
「エリ、先ほど奇妙な人に話しかけられました。あなたのことを探している者がいるようです」
エリの表情が僅かに変化した。
しかし、それは私の告げ口に動揺したというわけではなさそうだった。まるでそれが予定調和だと言わんばかりに泰然としていて、そこに恐怖や怯えといった感情を見出すことはできない。
「そう。遂にこの時が来たんだね」
彼女は本を閉じ、膝の上に置いた。
「この町は気に入っていたのに、残念」
「エリ、まさか……」
「この町を去らなければいけない」
彼女の言葉が、残酷に私の胸を貫いた。永遠の別れという言葉が脳裏に浮かぶ。私たちの関係はこの短い期間で終焉を迎えるのだろうか。私にとってエリは替えの効かない無二の友人であると同時に、私に殻の存在を気付かせてくれた導き手であり、つい昨日私の中に芽生えた小さな芽を共有する運命共同体でもある。
そんな彼女との別れは、私にとって神の死を意味し、ひとつの世界の終末をも意味した。
しかし、エリは微笑んだ。
「でも、二度と会えなくなるわけじゃない」
彼女は北の方角を指差した。
「ここからずっと北に行った所に港町がある。海が見えて、風が心地良くて、本を読むのに適した静かな場所がたくさんある」
「ここから北って……ゲヘナじゃないですか。エリがこの町を選んだのは、ゲヘナよりもずっと安全だったからでしょう? その港町は、本当にここよりもずっと安全なのですか?」
「少なくとも、今はね」
「でも……」
「それに、私はこんなものも受け取っている」
エリはポケットから皺くちゃの封筒を取り出した。
差出人の欄には『ふくろうの家』と印字され、その隣には、枝にとまった梟が首をくるりと回してこちらを向いているマークが描かれていた。それが意味することを私は直観的に悟り、途端に激しい無力感に襲われた。
「私の新しい家だよ」
「……どうやって?」
「不服なの?」
「違います!」
私は咄嗟に否定した。
そうでもしなければ、私が私でなくなるような気がした。
「ナギサには言ってなかったけど、実は私、詩を書くのが趣味なんだ。これまでに何篇も書いてて、そのうちの幾つかはコンテストにも応募した。その時の詩を孤児院の院長が読んでくれて、甚く気に入ってくれたらしい。それで、彼女はコンテストの運営を通じて私の存在を知り、遠路はるばる私の元まで足を運び、是非とも『ふくろうの家』に来て欲しいと言ってくれた。ここでの放浪生活はそれなりに気に入ってたけど、私も人間だから安定した衣食住への憧れが完全にない訳じゃない。それで私は院長の提案を受けたんだよ」
エリは、まるで事前に原稿を用意していたかのように滔々と語った。
私は言葉を失い、その説明をただ受け入れることしかできなかった。
彼女の新しい生活への扉が開かれたことは、確かに喜ばしいことだ。
しかし、それが齎す別れへの痛みは、どうしても拭い去ることができない。
私はその醜い感情を必死に押し殺そうとした。
エリの幸福を素直に喜べない自分への嫌悪感が、私の心をさらに重くしていく。
「それは……良かったです」
私の声は自分でも分かるほどに震えていた。
どれほど取り繕おうとしても、動揺を完全に隠すことはできない。
「そんな顔をしないで」
エリは私の目を覗き込んで、優しく微笑んだ。
「私たちの関係は物理的な距離で変わるものじゃない。確かに、気軽に会うことはできなくなる。でも、私たちが共有したもの、私たちの間に生まれたもの──それは永続する」
彼女は手に持っていた本のページを開いた。
「愛というのは面白いものでね。普通の物質とは正反対の性質を持っている」
「正反対、ですか?」
「物質は分割すれば減る。でも、愛は分かち合えば増える」
エリは詩集の一節を指差した。
「ナギサが私に愛を与えてくれた時、私の中に愛が生まれた。そして私がその愛をナギサに返した時、ナギサの中の愛も増えた。つまり、愛は循環するたびに増幅する」
「でも、エリがいなくなったら……」
「私がいなくなっても、ナギサの中の愛は残る。そして、ナギサがその愛を他の誰かに分け与えた時──その人の中にも愛が芽生える。その愛は私から始まった愛でもあるし、ナギサから始まった愛でもある」
エリは空を見上げた。
「こうして愛は世界中に広がっていく。目に見えない糸で全てを繋ぎながら」
「……私たちも、その糸で繋がっていると?」
「そう。距離なんて関係ない。私たちは既に一つの織物の一部になっている。想像してみて……」
──私は、エリの語る織物を心に描いた。
それは一色に収まることのない布だった。光を孕んだ糸と、翳を帯びた糸とが幾重にも交差し、ひとつとして同じ模様は生まれない。しかも織物は閉じられた輪郭を持たず、触れ合うたびにほどけ、結び直され、絶えず拡がり続けている。
秩序を思わせる規則正しさと混沌を思わせる奔放さが、ひとつの呼吸の中に共存している。
もしかすると、愛はこの世界で最も美しく、最もカオスなものなのかもしれない。
私はふと、そう思った。
「ナギサが将来、他の人々と出会う時──その人がトリニティの人でも、ゲヘナの人でも、あるいは全く違う場所の人でも──その出会いの中に私たちの友情の影響が現れる。私たちの関係は形を変えながら、ずっと続いていく」
エリは私の手を取った。
「だから、これは別れじゃない。新しい始まり」
***
私たちは小さなお別れ会を開くことにした。
明後日の昼、いつもの場所で、いつもの時間を過ごそう──そう約束を交わした。
そして約束の日がやって来た。
私は朝から胸の高鳴りを抑えることができずにいた。エリへのささやかなプレゼントも用意した。大切にしていた詩集の中から、私の魂を最も深く動かした作品を選んで包装紙で包んだ。
約束の時間よりも少し早く待ち合わせ場所に着いた。
いつものようにエリが現れるのを待っていたが、正午になっても彼女の姿はなかった。
少し遅れているのかもしれない。
私は自分にそう言い聞かせて、さらに待ち続けた。
一時、二時と時間が過ぎていく。しかし、エリは現れない。私は周囲を見渡し、彼女が別の場所で待っているのではないかと探したが、やはり発見できなかった。
胸の奥で不安が膨張し始めた。
何かが起こったのではないか。あの濁った瞳の女性がエリに何らかの害を加えたのではないか。
様々な想像が脳裏を駆け巡り、私の心を蝕んでいった。
太陽が西に傾き始める。
空は徐々にオレンジ色に染まり、境界近くの廃墟に長い影を落としている。それでもエリは姿を現さなかった。私は石の上に腰を下ろし、膝を抱えて待ち続けた。
既に町を出発してしまったのかもしれない。
予定より早い旅立ちとなり、私に告げる余裕がなかったのかもしれない。しかし、それは彼女らしくない。エリは約束を重んじる人間だ。必ず何らかの連絡を寄越すはずだ──こんな風に、自分のために生み出した様々な希望が、他でもない自分の手によって解体されていく。
空がさらに暗さを増した頃、背後から声がした。
「お嬢様」
振り返ると、侍女がそこに立っていた。
彼女の表情は陰鬱で、まるで先日玄関で私を待っていた時のようだった。
「どうしてここが……」
私は疑問を口にしかけたが──侍女の顔を見て言葉を飲み込んだ。
彼女の瞳が、あまりにも暗澹として淀んでいたから。
その深い闇を前に、私は何も言えなくなった。
「お帰りになりましょう」
私は無言でついて行った。
車に乗り込む際、私は最後に振り返ってエリを探した。しかし、薄暗くなった境界地帯に彼女の姿はなく、ただ冷たい風が廃墟の隙間を吹き抜けていくだけだった。
車が川沿いの道を通る頃、空は完全に暗くなっていた。
街灯の光が水面に揺らめき、川の流れる音が窓越しに聞こえてくる。私は何も考えまいと努めたが、心の奥ではエリのことを絶えず案じていた。
──その時、私の視界に異様な光景が飛び込んできた。
川辺で何かが燃えている。それはドラム缶で、その中では炎が煌々と燃え上がっていた。
そして、その周りに数人の人影が見える。彼らは何かを騒ぎながら、炎を囲んで奇怪な動きをしていた。
炎の光に照らされた一つの顔が、私の記憶に引っかかった。
先日私に話しかけてきた、あの濁った瞳の女性だった。彼女は他の者たちと共に、まるで何かを祝祭するような表情で炎を見つめている。
彼女たちは何を燃やしているのだろう? その炎は単なる暖を取るための火ではなく、まるで邪悪な儀式の一部のように見えた。私の脳裏に、地上を燃やし尽くす業火の光景が浮かんだ。彼女たちの笑い声が、悪魔の嘲笑のように響いて聞こえる。
火の粉が舞い上がり、それが星のように散らばっていく。
しかし、その美しさの裏に潜む何かが私の魂を震撼させた。きっと、彼らが燃やしているのは単なる木片や紙くずではない。もっと重要な、もっと神聖な何かだ。
車は静かにその場を通り過ぎたが、私の脳裏にはその炎の残像が焼き付いて離れなかった。
***
数日間、私の心は深い霧に包まれていた。エリの不在は単なる物理的な空虚を意味するのではなく、私の世界そのものが根底から揺らぐような体験だった。彼女との約束が果たされなかったあの日から、時間は奇妙な質感を帯びるようになった。一分一秒が粘土のように重く、しかし同時に砂のように私の指の隙間から滑り落ちていく。私は彼女の消失に対する合理的な説明を求めて思考を巡らせていたが、心の奥底では既に最悪の事態を予感していた。
その予感は、悪夢のような形で現実となった。
四日目の午後、私は再び本屋へ向かうことにした。
何らかのメッセージが残されているかもしれないという、儚い希望に縋りたかったのだ。侍女は私の提案に複雑な表情を浮かべたが、最終的には私の意志を尊重してくれた。彼女もまた、私の心の動揺を察していたのかもしれない。
車窓から見る景色は、以前と変わらず平穏な佇まいを保っていた。石造りの建物、手入れの行き届いた街路樹、清潔に保たれた石畳の道。しかし、その美しさは今の私には空虚な装飾のように感じられた。まるで舞台の書き割りのような、実体を欠いた虚構の風景。私の心が求めていたのは、この整然とした秩序の向こう側にある、もっと生々しい現実だった。
境界地帯に近づくにつれ、空気の質が微妙に変化していくのを感じた。それは以前から存在していた変化だったが、今日はその境界線がより鮮明に感じられた。まるで二つの異なる世界の接点に立っているかのような感覚。片方は完璧に管理された秩序の世界、もう片方は混沌と生命力に満ちた未知の領域。そして、その狭間で私は何かを失ったのだ。
エリがいつも立っていた場所が視界に入った時、私の心臓は激しい動悸を打ち始めた。しかし、そこに彼女の姿はない。代わりに、一人の老人が膝をついてその場に佇んでいた。彼の前には白い花が供えられ、小さな蝋燭が静かに燃えている。その光景を目にした瞬間、私の全身を稲妻のような戦慄が駆け抜けた。
「止めてください!」
私は思わず声を上げ、侍女を驚かせた。しかし、もはや彼女の制止など聞いている余裕はない。私は車から飛び出し、老人のもとへ走った。心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動している。足がもつれそうになりながらも、私は必死にその場所へ向かった。
老人は私の接近に気づき、悲しみに満ちた眼差しでこちらを見上げた。
私は息を切らしながら彼の前に立ち、震え声で問いかけた。
「あの、ここで……エリという女の子を知りませんか?」
老人の表情がさらに暗くなった。彼は手にしていた白い百合をそっと地面に置き、立ち上がった。その動作は非常にゆっくりとしており、まるで巨大な重荷を背負っているかのようだった。
「お嬢さん……あの子をご存知でしたか」
彼の言葉が過去形であることに、私は激しく動揺した。
「エリを知っているのですね? 彼女はどこに?」
老人は深い溜息を吐き、私を見つめた。
「数日前の、夕方のことでした」
彼はゆっくりと語り始めた。
「私は日課の散歩をしていて、この辺りを通りかかったのです。そうしたら、向こうの路地から騒がしい声が聞こえてきました。最初は若者たちの戯れかと思ったのですが、声の調子がどうも尋常ではない」
老人は路地の奥を指差した。そこは薄暗い影に覆われ、今この瞬間も何か邪悪なものが潜んでいるような気配を漂わせていた。
「近づいてみると……」
老人の声が震え始めた。
「高校生くらいの集団が、一人の女の子を囲んでいました。角のある子でした。恐らく、お嬢さんがおっしゃるエリちゃんでしょう」
私の全身から血の気が引いていく。
頭がくらくらとし、足元が覚束なくなる。
「彼らはその子を……罵倒し、石を投げつけ、蹴り飛ばしていました。あの子は必死に逃げようとしていましたが、一人が彼女を地面に抑えつけて……。私は止めに入ろうとしましたが、数が多く、私のような老人では……」
老人は自分の無力さを嘆くように首を振った。
「それで、急いで近所の住人に助けを求めました。幸い、ちょうどその時、ゲヘナ側の境界付近を巡回していた風紀委員会の方々がいらっしゃったので、すぐに駆けつけてもらったのです」
私の心の中で、あの夜に見た炎の光景が蘇った。ドラム缶の周りで狂喜する人影、濁った瞳で笑う女性の顔。あれは祝祭ではなく、破壊の儀式だったのだ。エリという存在そのものを消し去ろうとする、悪意に満ちた行為。
「風紀委員の方々が到着した時、暴行を働いていた連中は蜘蛛の子を散らすように逃げて行きました。しかし、エリちゃんは……」
老人の声がさらに小さくなった。
「ひどく痛めつけられていました。意識もなく、全身に傷を負って。風紀委員の方々は急いで彼女をゲヘナの方に運ばれました。その後の消息は……誰にも分かりません」
私は膝から崩れ落ちそうになった。エリの静謐な微笑み、鈴のような美しい声、本について語る時の輝く瞳──それらすべてが、トリニティの人間の憎悪によって踏みにじられたという現実が私の魂を切り裂いた。エリは肉体的に傷つけられただけでなく、魂を冒涜されたのだ。
「なぜ……なぜそんなことを」
私の声は嗚咽と共に漏れた。
「彼女は誰も傷つけてない。ただ本を愛し、静かに生きていただけなのに」
「……」
「私は……私は……エリを、守れなかった……」
自己嫌悪の念が津波のように私を飲み込んだ。
あの時、教育係との対決で私は己を奮い立たせて立ち向かった。しかし、それは安全な場所での、言葉による戦いに過ぎなかった。真に危険が迫った時、私はエリのそばにいなかった。彼女が最も私を必要としていた時、私は何もできなかった。
「お嬢さん、ご自分を責めてはいけません」
老人は静かに言った。
「この世界には、私たちの力ではどうにもならないことがあります。でも、それは私たちが無価値だということを意味するわけではありません」
老人は足元の百合を拾い上げ、私の手に渡した。
「エリちゃんがここにいた痕跡を、私たちは覚えています。彼女が存在していた証を、私たちは記憶の中に刻み込んでいます。それもまた、一種の愛なのです」
白い百合の花弁は、私の涙で濡れた。花の香りが鼻腔を満たし、それは儚くも美しい命の象徴のように感じられた。エリもまた、この花のように清純で、そして脆い存在だったのかもしれない。
私はその場に膝をつき、百合を地面にそっと置いた。心の中で、エリに向けて祈りを捧げる。彼女の傷が癒されること、彼女が安全な場所にいること、そして──いつの日か再び会えることを。
祈りの最中、私の内面で一つの理解が芽生えた。
エリが私に教えてくれた愛の循環。愛は分かち合えば増えるという考え。今、この瞬間、私がエリに向ける愛は決して無駄にはならない。それは見えない糸を通じて彼女のもとに届き、そして私自身を変容させ、やがて他の誰かに受け継がれていく。
エリとの別れは痛ましいものだった。しかし、私たちの関係そのものが終わったわけではない。彼女が私に与えてくれたもの──偏見を超えた理解、殻からの解放、愛の本質への洞察──それらは私の中で生き続け、成長し続ける。
自分の中に芽生えた小さな芽を育てていかなければならない。
そう思った。
***
「……これが、私の原点です」
私は深い溜息を吐いた。
長い回想から現実へと意識が戻っていく感覚は、まるで深い夢から覚める時のようだった。目の前には静寂に包まれた公園の景色が広がっている。午後の陽光が木々の梢を通して柔らかく地面に注がれ、風に揺れる葉音が穏やかな調べを奏でていた。ベンチに隣り合って座るユリカさんは、私の話に終始静かに耳を傾けてくれていた。
「その後は……どのようにお過ごしになったのですか」
ユリカさんの声は普段よりも柔らかく、慎重に言葉を選んでいるようだった。彼女なりに配慮してくれているのだろう。私はベンチの背もたれに体重を預け空を見上げた。雲がゆっくりと形を変えながら流れている。
「あの出来事の後、私は……エリの言葉の全てを理解したいという強い渇望に駆られました」
記憶の扉を再び開く。
今度は、あの痛ましい別れの後に続く歳月について。
「宗教学、哲学、心理学、社会学──エリの言葉に関するあらゆる分野の文献を読み漁りました。図書館に通い詰め、時には徹夜で文献と向き合うこともありました。彼女の言葉一つ一つ、彼女が示してくれた哲学、愛の循環、神の本質──それらすべてを自分のものにしなければならないという使命感に支配されていたのです」
あの頃の私を思い出すと今でも胸が締め付けられる。
自室に籠もって夜明けまで本を読み続ける日々。それは学問への情熱というよりも、むしろ失われたものを取り戻そうとする焦燥感に近かった。結局、知識の蓄積だけでは彼女の真意に触れることはできなかったが。
「それで、いつしか私は彼女との記憶を頼りにするようになったのです」
ユリカさんの表情に興味深そうな色が浮かんだ。
私は続けた。
「最初は正確に思い出そうと努力していました。彼女と過ごした時間、交わした言葉、その場の雰囲気──全てを完璧に再現しようと。しかし……やがて、奇妙なことが起こり始めたのです」
ユリカさんの眉が僅かに上がった。
私は少し躊躇した後、胸の奥に秘めていた体験を語り始めた。
「記憶が……変化していくのを感じました」
「変化?」
「ええ。最初は忘却による歪みだと思い、ひどく動揺しました。エリとの大切な思い出が薄れていくことへの恐怖で、眠れない夜が続いたこともあります」
私は膝の上で手を組んだ。
「エリと過ごした場所や時間の辻褄が、どんどん合わなくなっていったのです。彼女との出会いは確かに境界地帯の廃墟近くでした。でも気がつくと……私の記憶の中で、エリは様々な場所に現れるようになっていました」
ユリカさんの眉間に皺が寄った。
彼女の反応も理解できる。当時の私も、今の彼女と同じことを考えていた。
妄想が制御できなくなっているのではないか、と。
「ある時は、荘厳な大聖堂の中で神について語り合っていました。石造りの柱に囲まれた聖域で、ステンドグラスから射し込む七色の光を浴びながら、エリは静かに神の本質について語るのです」
彼女と顔を合わせていた境界地帯には、小さな教会はあっても大聖堂と呼ばれるほど巨大な建築物は存在しない。つまり、これはあり得ない記憶だ。
「またある時は、こじんまりとしたレストランで夕食を共にしながら、愛の連続性について議論していました。ワインの香りが漂う中、テーブルを挟んで座る彼女が、愛とは循環するものだと説明してくれるのです」
ワインなんて一度も飲んだことはないし、エリとレストランに入ったことすらない。
これもあり得ない記憶だ。
「さらに……星々が輝く砂漠の真ん中で、お気に入りの詩集を互いに読み合った記憶もありました。夜風が私たちの髪を揺らし、エリの声が星々の光と共に宇宙に溶けていくような……」
──無論、こんな出来事は存在しない。
それでも、記憶の中でのエリの言葉はいつも明解で、彼女の姿形も当時のままはっきりと思い出すことができていた。変化するのは場所と時間とシチュエーションだけで、重要な部分──エリの言葉、思想、考え方──については不変だった。
「ナギサ様……それは」
「幻覚でしょうか?」
私は彼女の言葉を先取りした。
「最初はそう思いました。エリを失った衝撃で、私の心が現実逃避のための虚構を作り上げているのだと。でも」
私は手のひらを見つめた。
「次第に……エリは記憶の中で、私が用意した脚本から離れて自由に話すようになりました」
「脚本から……?」
ユリカさんの問いに、私は少し苦笑した。
「レストランで食事をした時──いつ、どこのレストランかは定かではありませんが──彼女は料理を辛辣に批判しました。『料理人は火炎放射器で肉を焼いたのか』『シェフの傲慢と慢心がそのまま皿の上に載っている』といった具合に」
その時のエリの表情まで鮮明に思い出すことができる。
少し眉をひそめて、でも決して感情的にならず、静かに自分の価値観を語る姿。
彼女がそんな厳しい評価を下したことなんて一度もなかったのに。
「また別の時には」
私は記憶を辿りながら続けた。
「彼女は歴史の授業ノートを開いて『自分なりの解釈がなければ歴史を学ぶ意味はない』と言い放ちました。教科書に書かれた事実を暗記するだけでは無意味なのだと」
その頃だろうか。私が、この怪現象の原因を突き止められたのは。
記憶でしかなかったエリは、いつの間にか私の内面で息づく永続的な存在になっていたのだ。彼女は私の思考の一部となり、私の判断に影響を与え、私の価値観を形成する重要な要素として機能するようになった。それが記憶の変容を巻き起こしていたのだ。
「その中でも……最も印象深かったのは、ある夢でのことです」
私の声は自然と小さくなった。その記憶はあまりにも個人的で、語るのに抵抗を感じたからだ。
しかし、ユリカさんに全てを打ち明けると決めた以上、隠すべきではない。
それに、彼女ならきっと全て受け止めてくれるだろうから。
「……夢の中で、私はベッドの上でエリと向き合っていました。私は当時抱えていた悩みや恐れを彼女に吐露しました。家の期待に応えなければならないというプレッシャー、エリを失った悲しみ、そして自分が何をすべきか分からないという迷い」
あの夢の中での感覚は今でも鮮明に覚えている。
エリの温かい手のひら、静かな呼吸、月光に照らされた横顔。
「エリは……何も言わずに私を優しく抱きしめてくれました。そして、こう語ったのです。『私たちの神が消えようとしている』と」
ユリカさんの表情が変わった。
彼女もまた、エリの語った神の概念について理解していたからだろう。
「そして彼女は、心の声に正直になるよう私を諭しました。『私を後追いするだけではいけない。君には君の道がある。私が君に与えたものを、君は別の形で世界に還元しなければならない』と」
あの言葉が、私の人生を決定的に変えた。エリとの思い出に縋りつくのではなく、彼女から学んだことを現実世界で実践する道を選ぶきっかけとなったのだ。
「その夢を境に、私は心の声に正直になることを決意しました。そして、ゲヘナとトリニティの友好を目指し、対話を重視する姿勢を身につけるようになったのです」
ゲヘナとトリニティの友好──これは単なる政治的な理想ではない。
それは愛の循環を現実世界で実現するための、具体的な第一歩だ。エリが教えてくれた『愛は分かち合えば増える』という原理を両自治区に適用すること。それが私の使命だと理解したのだ。
私は手のひらを見つめながら、しばらく沈黙を保った。
風が木々の間を渡り、葉擦れの音が公園の静寂を優しく彩っている。午後の陽光が次第に西に傾き、私たちの影が地面に長く伸びていた。ユリカさんは私の話に静かに耳を傾けてくれていたが、その表情には複雑な感情が交錯しているように見えた。
「実は……」
私は重い息を吐いて口を開いた。
「この話は……今まで誰にもしたことがありませんでした」
ユリカさんが振り返り、私の目を見つめる。その瞳には驚きの色が浮かんでいた。無理もない。これほど私の人生観に決定的な影響を与えた出来事を、これまで一度も語ったことがないというのは確かに不思議に思われるだろう。
「家の者は別として、ミカさんにさえ話していません。今日、貴方が初めてです」
なぜ今まで秘密にしてきたのか。
その理由を説明するのは簡単ではなかった。
それは複雑に絡み合った感情と、長年にわたって積み重ねられた配慮の結果だったからだ。
「最初の理由は……恐れでした」
私は苦笑いを浮かべながら続けた。
「トリニティの名家の娘が、境界地帯で一人のゲヘナの少女と友達になった。しかも、その友情が私の人生観を根底から変えてしまった。そんなことを周囲の人々に話せるでしょうか?」
当時の私は、重大な精神的ブレイクスルーを経験したとはいえ、まだ世間の目を気にしていた。
トリニティの価値観の中で育った人々にとって、ゲヘナの人間との個人的な友情は理解し難いものに映るかもしれない。エリとの友情は私にとって宝物のような体験だったが、それを理解してもらえるだろうかという不安があったのだ。
「エリを失った悲しみを他人に語ることの辛さもありました」
私は空を見上げた。
雲がさらに厚みを増し、午後の陽光を柔らかく遮っている。
「あの痛みは……あまりにも深いものでした。言葉で表現することができないほどに。それを他人に説明しようとすれば、その記憶が汚されてしまうような気がしたのです」
ユリカさんは静かに頷いた。彼女なりに私の心境を理解しようとしてくれているのだろう。その姿勢が、私にさらなる告白を促した。
「でも……時が経つにつれて、別の理由がより強くなっていきました」
私は彼女の方に体を向けた。
「それは……ユリカさん、貴方自身に関わることです」
ユリカさんの表情に緊張が走った。
彼女は何を言われるのか予想がつかないようだった。
「あなたは優秀で、聡明で、私にとってかけがえのない友人です。そして……私が心から信頼できる数少ない人の一人でもあります」
ユリカさんがそばにいてくれることで、私は多くの困難を乗り越えることができている。彼女の的確な助言、細やかな配慮、そして何より私を一人の人間として尊重してくれる姿勢──それらすべてが私にとって貴重な支えとなっている。
「でも……」
私は少し躊躇した。
これから語ることは、彼女を傷つけてしまうかもしれない。
しかし、今この瞬間こそ、全てを打ち明ける必要性を感じていた。
私は彼女の手を取った。
その手は微かに震えていた。
「私には確信が持てなかったのです。貴方が本当の意味でゲヘナの方々を理解してくださっているのか。もし私がエリとの友情について語ったとき、それを受け入れてくださるのか」
これが核心だった。私がこの話を秘密にしてきた最大の理由。エリとの出会いは私の人生において最も大切な体験の一つだった。それを否定されたり、軽視されたりすることは、私にとって耐え難い苦痛を齎す。
「私は……貴方を信頼しています。でも同時に、貴方を失うことを恐れていました」
声が震え始めた。
「もし、貴方に失望されてしまったら……もし、私の価値観を"理解できないもの"として貴方に切り捨てられてしまったら……」
ユリカさんは私の手を強く握り返した。
その温かさが、私の不安を少しだけ和らげてくれた。
「でも、なぜか今日は貴方に話したくなったのです。もう、隠しておくことができないほどに」
最初──喫茶店にいたときは、ただユリカさんへの不公平感に私が納得いかなかったからだ。
ユリカさんは、政治的なしがらみや個人的な感情に流されず、きちんと自分の信念に基づいて私と誠実に向き合ってくれている。
何者にも阿らず率直に意見してくれる……そういう信頼感が彼女にはある。
これが、この世界においてどれほど貴重な存在であるかは言うまでもない。
そんな彼女に対して、私が頑なにトリニティとゲヘナの融和を推し進める本当の理由を隠しておくのは、裏切りに値するのではないか──そんな考えが頭を過ったのだ。
私は、どうあっても
セイアさんの賞賛がなくても、シスターからの密かな応援がなくても関係ない。理想から遠ざかっていく現実に自信が揺らぐことはあっても、諦めようという気にはならなかった。
それをユリカさんは知らない。
だって、教えるつもりは微塵もなかったのだ。
私の理想世界は、現実主義者であるユリカさんの信念とは相容れないことを知っていたから。私の根底を為す
それでも話すべきだと思ったのだ。
それが、今まで誠実に向き合ってくれたユリカさんに対する最大の敬意になると思った。
──でも、あの時。
ユリカさんの自然な素顔を見た時に、そうした暗い義務感は暖かい風に吹かれて飛んで行った。
公園までの道を歩いているうちに、いつの間にか"話さなければいけない"ではなく"話したい"に変化していた。
ああ、この人なら大丈夫だと。
全てを受け入れ、認めたうえで、それでも今まで通り私の傍にいてくれるのだと、そう思った。
「……ユリカさん」
──私は深呼吸をした。
心を落ち着け、感情の波を宥めていく。
ユリカさんは長い間沈黙を保っていた。彼女の表情には様々な感情が次々と浮かんでは消えていく。驚き、理解、そして何か
「ナギサ様……」
やがて、ユリカさんが口を開いた。その声は普段よりもずっと静かで、低くて、何か重要なことを告白しようとしている人の声に聞こえた。
しかし、彼女は一度口を開きかけて、また閉じてしまった。
「何かおっしゃりたいことがあるのですか?」
私の問いかけに、ユリカさんは苦しそうな表情を浮かべた。彼女の瞳の奥で、二つの相反する意志が戦っているのを感じる。一つは私に何かを告白したいという衝動、もう一つはそれを押し止めようとする理性の力。
同じ経験をした私には、その葛藤が手に取るように分かる。
「いえ……ただ、貴方のお話を伺って、多くのことを考えさせられました」
結局、彼女は当たり障りのない答えを選んだ。
「それで……エリさんのその後は、ご存知ないのですか?」
話題を変えることで、ユリカさんは自分の内面的な混乱から逃れようとしているようだった。私もまた、彼女のプライバシーを尊重して深く追求することは控えた。
「いえ。あれ以来、彼女の消息は全く分からないままです」
私は再び空を見上げた。あの日以来、何年もの月日が流れている。エリは今も生きているのだろうか。もし生きているなら、どこで何をしているのだろうか。私の想像は様々な可能性を描き出すが、確実なことは何一つ分からない。
「でも……私は信じています。彼女はどこかで元気に暮らしていると」
エリとの記憶が私の中で生き続けている限り、彼女もまたどこかで私たちの友情を覚えていてくれているはずだ。愛の循環は決して一方通行ではない。私が彼女を想う気持ちは、見えない糸を通じて彼女のもとに届いているに違いない。
「そして、いつの日か再び会えることも──」
そう言いかけて、ふと視線をユリカさんに戻すと、彼女は私の顔をじっと見つめていた。
「ナギサ様は……本当に素晴らしい方ですね」
ユリカさんの声は沈んでいた。
公園に一陣の冷たい風が吹いた。
「そんな……私は特別なことは何も」
「いえ、特別です」
彼女は強い調子で私の言葉を遮った。
「偏見や先入観に囚われることなく、一人の人間としてエリさんと向き合われた。そして、その体験を現在の理念に昇華させることができた。そんな人は滅多にいません」
ユリカさんは、口を少しだけ開いたまま数秒間沈黙した。
冷たい風が、私たちの間を静かに通り過ぎる。
「貴方のような方を」
彼女は何かを言いかけて──また、口を閉ざした。
それ以降、私たちは何も言わずに互いを見つめ合った。
私は彼女が何を言おうとしているのか推測しようとしたが、結局理解することはできなかった。
数分間そうしているうちに、私は、彼女の瞳の中に
どこかから鐘の音が聞こえてくる。
私は心の中で、そっと両手を重ねた。
どうか、私の意志がユリカさんに伝わりますように。
どうか、ユリカさんの内面で巻き起こっている変化が、光に溢れるものでありますように。
どうか、ユリカさんの心にも、私と同じように萌芽が起こりますように。