ただの諜報員モブ   作:クモリ・C・ドンテン

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 過去編お疲れさまでした。
 ここから視点が主人公(ユリカ)に戻ります。


萌芽

 私は荘厳な大聖堂を後ろの方から見つめていた。

 高く聳える石柱が天井へと伸び、色とりどりのステンドグラスが午後の陽光を受けて、神聖な光を堂内に注いでいる。

 

 祭壇の前に、白い制服を着た少女の後姿が見えた。純白の衣服は一点の汚れもなく、まるで光そのものを纺いだかのように輝いている。結われた髪は絹糸のような艶を放ち、その一房一房が神聖な光に包まれていた。彼女の佇まいには、この世のものとは思えぬ気高さがあった。

 その姿は祈りを捧げる聖女のように清らかで、周囲の空気すらも浄化しているかのようだった。

 

 間違いない、ナギサだ。

 彼女の存在だけが、この無音の世界にあって唯一の救いのように思えた。彼女の隣には、もう一つの小さな影があった。角が生えた、薄汚れた身なりの少女の後姿。二人は静かに祭壇に向かって立っている。

 

 私はナギサに声を掛けようと唇を動かした。

 喉を震わせ、舌を動かし、確かに言葉を紡いでいるはずなのに──何も聞こえてこない。

 再び試みる。今度は大声で叫ぼうとした。しかし空気は微動だにせず、振動すら生まれない。三度、四度と繰り返しても、やはり音は生まれなかった。手を叩こうとしても、足を踏み鳴らそうとしても、すべてが虚しく宙に舞うだけだった。

 

 この世界は音を拒絶している。

 いや、音という概念そのものが、この神聖な空間からは完全に排除されている。

 

 絶対的な静寂が支配する世界──それは死の静けさよりもなお深く、重く、私の存在そのものを呑み込もうとしていた。

 

 私は急いでナギサの元へと駆け寄った。足音も響かない静寂の中を必死に走り抜ける。

 手を伸ばし、彼女の肩に触れようとした、その瞬間──

 

 私は目を覚ました。

 

***

 

 フィリウス分派本部二階の第三会議室の座席に、二十名の生徒が着席していた。

 うち二名が私とナギサ、他は全員が上級生であり、本来ならば私たちの席は別の先輩たちが座るはずだった。そうならなかったのは、単純に私とナギサの能力が先輩たちよりも秀でていたことと、彼女たちが()()強硬論者であったことに起因する。

 

 現在のフィリウスでは、大きく分けて二つの論調が形成されつつある。

 

 ひとつはナギサを筆頭とする対話主義で、これはその名の通り、一切の武力行使を行わずに目下の危機を切り抜けようという派閥である。各自治区との連携によりゲヘナを経済的に孤立させ、生産能力そのものを削いで対話の席に着かせようということだ。

 しかし、そうした対話主義者の中には、経済制裁そのものがゲヘナを刺激し、ひいては反トリニティ感情を煽ることになるのではないかと危惧する慎重派も存在する。ナギサはこれに該当する。

 

 そしてもうひとつが対抗主義だ。

 ゲヘナに続いてトリニティも軍拡を行うことで、そもそも戦争を行うメリットをなくさせるというのが基本理念となっている。これまでのトリニティ-ゲヘナ情勢が軍事力の均衡により成り立っていたので、この主張は確かな説得力と共に自治区内で急速に支持を集めている。

 

 強硬論は、その対抗主義をよりエスカレートさせたものだ。

 発端はパテル分派が行った第一回雷帝対策会議である。この時点で既に、ゲヘナの軍事力がトリニティを大きく上回る前に、周辺自治区と同盟を組んで先制攻撃を行うべきだという主張が為されていた。当然会議では却下されたが、最終的には武力衝突をも厭わないという姿勢は、パテルの基本理念として採用された。

 

 現状、フィリウスは如何なる状況においても強硬論の主張は認めていない。

 彼女たちにとって戦争とは最も唾棄すべき悍ましい行為で、必ず避けなければならない最悪のシナリオである。

 会議から追い出された先輩たちは、そのタブーに素手で触れてしまったのだ。

 

「非常に良くない事態になりつつあります」

 

 会議を取り仕切る議長が、感情の読めない暗い瞳で重々しく呟いた。

 しかし、それに対する周囲の反応はまちまちだった。議長から視線を逸らさず睨み続ける生徒もいれば、手元の資料に視線を落として黙読する生徒もいる。これらに共通するのは、議長の発言が彼女たちに何ら動揺を与えていないという点だ。

 この場にいる二十名は、議長から発せられる次の言葉を既に確信していたのだろう。

 

「ミレニアムは中立を宣言するつもりです」

 

 ──これは、ミレニアムに潜伏しているTIDエージェントによって齎された情報である。

 現在のミレニアムは、ゲヘナへの迎合を目指す派閥と、トリニティとの関係を維持する派閥の二つに大分できる。これらの勢力は拮抗しており、未だに統一見解を確立できずにいた。

 

 ゲヘナによる越境貨物の制限は未だに続いており、現状彼らは他自治区から送られてくる僅かな資源と、予め備蓄してあった資源を使わざるを得ない状況に追い込まれている。当然、これらはミレニアムの財政状況に深刻な打撃を与えているため、彼らは速やかに安定した調達ルートを確保しなければならない。

 

 とはいえ、彼らが安直にゲヘナ陣営への迎合を選択する可能性は極めて低かった。

 冷静に考えてみれば分かることだが、今のゲヘナに科学の殿堂とも言えるミレニアムの主導権を渡してしまえば、純粋な科学が恐ろしい殺人技術に転用されるのは目に見えているからだ。

 

 迎合という意見は一見合理的でありながら、その眼前には研究倫理という高い壁が聳え立っている。もしセミナーが迎合を選択をすれば、彼らの真意がどうであれ、『科学のための科学』という思想を暗に肯定することになる。これは、ミレニアム・サイエンス・スクールの校則第一条に記された有名な言葉『人のための科学』の全面否定に等しい。

 

 つまり、迎合派の意見は確固たる正当性が存在しないハリボテに過ぎないのだ。

 よって、彼らはゲヘナへの迎合ではなく、トリニティとの関係維持か、あるいは中立を宣言する可能性が高いと思われていた。

 

「既に共有されている情報ですが、念のため説明します。TIDの報告によると、エージェントは二日前にセミナー役員の通信の傍受(SIGINT)に成功し、議事録の一部を取得しました。重要な点は三つ」

 

 議長が資料を一枚めくった。

 それに続いて、周囲の生徒たちも一斉にページをめくる。

 

「ひとつ、ミレニアムはゲヘナに迎合するつもりはない。ふたつ、トリニティと協力するつもりもない。みっつ、彼らは戦後世界でキヴォトスの覇権を握ろうとしている可能性が高い」

 

 最後の言葉に「裏切りだ」と誰かが呟いた。

 

 疲労で重くなった頭を必死に働かせ、議長の言葉と手元の資料が示す意味を咀嚼しようと試みる。ミレニアムの中立宣言、そして戦後世界の覇権掌握という野心。それはトリニティにとって最悪に近いシナリオの一つだ。

 ゲヘナの軍事的脅威に加え、これまで友好関係にあったはずのミレニアムが第三勢力として独自の道を歩み始める。これは事実上の四面楚歌だ。トリニティは包囲され、孤立し、選択肢を一つずつ奪われていく……。

 

「……」

 

 ……少しだけ、眠気が強くなってきた。

 

 議長は淡々と説明を続けている。ミレニアム内部の権力構造、セミナーと各部活動の力関係、そしてTIDが予測する今後の行動パターン──どれも重要な情報だ。しかし、その一つ一つが脳を通過するたびに、まるで粘度の高い液体の中を泳ぐように速度を失っていく。単語は意味を保ったまま、しかし文章としての繋がりが希薄になっていく。

 

 私はぎゅっと目を閉じ、再び開いた。

 目の前の資料に印刷された文字の列が、一瞬だけ二重に見えた。

 

 疲れている。

 ナギサの告白を聞いてから、まともに眠れた夜はない。目を閉じれば、あの公園での彼女の横顔が浮かび、耳を澄ませば、聞いたこともないはずのエリという少女の悲鳴が木霊する。そして夢の中では、恐ろしい光景が私を安息から叩き起こす。

 

 重いマホガニーのテーブルが、この部屋の空気をさらに澱ませているように感じた。

 空調の低い唸りが耳の奥で反響し、思考の邪魔をする。私は必死に議長の言葉に意識を集中させようと試みた。

 

 諜報員として、この情報はゲヘナに持ち帰らなければならない。

 ミレニアムの動向一つで今後のキヴォトスの勢力図は劇的に変化する。

 雷帝の描く戦略にも、大きな影響を与えるだろう。

 

 ……雷帝。万魔殿。私の、本来いるべき場所。

 

 その言葉を頭の中で反芻した瞬間、胃の底が冷たくなるような感覚に襲われた。

 本来いるべき場所、という感覚がひどく希薄になっている。目の前の資料に並ぶ「地政学的リスク」「勢力均衡の再定義」「サプライチェーンの脆弱性」といった無機質な文字列が、意味を理解しようとすればするほど、その形を崩してただのインクの染みに変わっていく。

 

 駄目だ、集中できない。脳が情報の処理を拒絶している。

 きっと疲労だけのせいではない。

 何かが、私の中で壊れ始めている。

 

「次に、パテルが提出した『ゲヘナ及び関連自治区に対する石油制裁案』。これについてのコンセンサスを取ります」

 

 私は無意識に、隣に座るナギサの横顔を盗み見た。

 彼女は背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を見据えている。その琥珀色の瞳は、議長の言葉の一言一句を聞き漏らすまいと真剣な光を宿していた。固く結ばれた唇からは、この難局に立ち向かうという強い意志が感じられる。

 

「賛成すべきだろう。少しでも生産能力を削がなければ、我々の未来は暗い」

「しかし、石油は直接的すぎます。この法案は実質的な宣戦布告ではありませんか?」

「この法案は、ゲヘナという脅威に対する諸自治区の連携を明らかにするものでもある。賛成した学園は味方、反対した学園は敵。彼らは立場を明確にしなければならない」

「私の質問に答えてください」

「ミレニアムは間違いなく戦争が起きると予期している。我々も最悪を想定して──」

「この法案は実質的な宣戦布告だと思いますか? 答えてください!」

 

 ナギサは、高圧的な物言いの先輩に対しても、怯まず果敢に食って掛かる。

 

 彼女は揺らいでいない。

 ミレニアムの裏切りも、迫りくるゲヘナの脅威も、その全てを受け止めた上で、なお自分の信じる道を進もうとしている。

 

「2年前にミレニアムの学術誌『エコノミー』に掲載された論文では、彼らは親ゲヘナとの取引だけで自治区内の経済の80%を維持できると指摘されていたわ。その正当性は、他でもない安保委員会によって証明された。つまり、我々には石油しかないのよ」

「正確には、石油を含む戦略物資だ」

「それは制裁の危険性を否定する論拠にはなりません。私たちが真に避けなければならないのはゲヘナの増長ではなく、戦争です。先ほど貴方は、この法案が各学園の立場を明確にすると仰いましたが、正にその通りです。そして、その二分化の先にあるのはキヴォトス全土を巻き込む大戦争に他なりません! 目先の利益に捉われず、もっと長期的な視野で見てください」

 

 その姿は、あまりにも気高く、そして痛々しいほどに孤高だった。

 私は知っている。知ってしまった。彼女のその強さが、どれほどの悲しみと、どれほどの覚悟の上に成り立っているのかを。八年前のあの夏の日から、彼女はずっと一人で戦い続けてきたのだ。自分の内なる恐怖と、世界の理不尽さと。

 

 エリ、という名前が脳裏を過る。

 そのたびに、心臓を氷の指で掴まれるような痛みが走った。ナギサが語ってくれた、あの名もなき少女。本を愛し、静かに生きていただけの少女。彼女の存在そのものが、この世界から暴力によって抹消されようとした。その事実が、重く私の全身にのしかかる。

 

 私は一体、何をしている?

 この人の隣で、頷き、資料に目を通し、友人の仮面を被りながら、私は彼女に何をしている?

 エリとの友情によって生まれたナギサの神聖な信念を、私はゲヘナの利益のために利用し、捻じ曲げようとしている。エリを奪った理不尽な暴力と、私の行っている欺瞞の間に、どれほどの違いがあるというのだろう。

 

 思考がそこに行き着いた瞬間、息が詰まった。

 会議室の空気が急に薄くなったように感じ、私は必死に呼吸を整えようとした。議長の声が、遠いどこかから聞こえる音のように響く。周囲の生徒たちの表情も、まるで水中にいるかのように歪んで見えた。

 

「……」

 

 私はそっと目を閉じ、会議の喧騒から意識を切り離した。

 ただ、隣にいるナギサの存在だけを感じる。彼女の呼吸、彼女の体温、彼女が放つ静かな緊張感。それだけが、この崩壊しかけた世界にあって、私が信じることのできる唯一の現実だ。

 

 どうか、この時間が永遠に続けばいい。

 

 そうすれば、私は決断を下さなくても済む。

 彼女を裏切るという、取り返しのつかない罪を犯さなくても済む。

 しかし、時間は無情にも流れ続け、会議はただ淡々と進んでいった。

 

「──開票した結果、反対12票、賛成8票でした。フィリウスとしてはパテルの法案に反対するということで首長にお伝えします。以上で会議を終了します」

 

 ──やがて、時計の針が定刻を指し示すと共に議長が閉会を宣言した。

 張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、会議室の空気は僅かに弛緩する。生徒たちは安堵の息を漏らしながらも、重い議題の余韻を引きずったまま静かに席を立ち始めた。

 私にとって、それは猶予の終わりを告げる鐘のようにも聞こえた。

 

「行きましょうか」

 

 隣からナギサの落ち着いた声がした。彼女は既に立ち上がり私を見下ろしていた。その表情には疲労の色こそあれど、芯の通った光は失われていない。私はゆっくりと頷き、重い体を椅子から引き剥がした。

 

 廊下に出ると、扉が外界の光を遮断していた会議室とは違い、西日の差し込む窓が並んでいた。

 埃が光の筋となって踊る様を眺めながら私たちは無言で歩を進める。他の生徒たちの話し声が遠ざかっていく。誰も、今の私たちに声を掛けてこなかった。あるいは、声を掛けられないほどの雰囲気を私たちが纏っていたのかもしれない。

 

「少し歩きませんか。頭を冷やすのに丁度良いでしょう」

 

 ナギサはそう言って、中庭へと続くガラス扉の方へ歩き出した。

 彼女の提案を断る理由も気力も、今の私にはなかった。

 

 ガーデンは息を呑むほどに美しい。

 幾何学的に整えられた生垣、季節の花々が咲き誇る花壇、そして中央には清らかな水を湛えた噴水が静かな音を立てている。会議室の淀んだ空気とは違い、澄み切った空気が肺を満たしていく。

 

 私たちは噴水の周りに敷かれた石畳の小道をゆっくり歩いた。

 ナギサは時折、薔薇の花に顔を近づけてその香りを確かめたり、空を仰いで鳥の姿を目で追ったりしていた。その一つ一つの仕草は穏やかで、先ほどまでトリニティの未来を左右する会議に臨んでいた人物とは思えないほど自然体だった。

 

 一方の私は、ただ彼女の半歩後ろをついて歩くだけだった。

 思考は依然として泥濘の中を彷徨い、明確な形を結ばない。ただ、ナギサの存在だけが、この現実における唯一の座標だった。彼女の歩くリズム、風に揺れる髪、白い制服が夕陽に染まる様。それらを目に焼き付けることで、私はかろうじて自己の輪郭を保っていた。

 

「……ユリカさん」

 

 不意に、ナギサが立ち止まって振り返った。

 彼女の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私の顔を捉える。

 その視線には、探るような鋭さが混じっていた。

 

「顔色が優れませんね。会議で随分と気を使われたのでしょう」

「……ええ、少し」

 

 私は曖昧に頷いた。

 疲労は事実だ。しかし、それは原因ではなく結果に過ぎない。ナギサの純粋な気遣いが、鋭い刃となって私の胸を抉る。この優しさを受ける資格なんて、私にはないのだから。

 

「大丈夫です。少し休めば、すぐに」

「本当に?」

 

 彼女は私の言葉を遮った。

 その声には、疑念の色がはっきりと滲んでいる。

 

「先ほどから貴方はどこか上の空です。私の声も、届いていない瞬間が何度かありました」

 

 私は言葉に詰まった。彼女の観察眼は、やはりごまかせない。私は無意識に視線を逸らし、夕暮れの空へと逃げ場を求めた。茜色と藍色が混じり合う空は、まるで私の心の中のように、安らぎと不安が同居していた。

 

 やがて、ナギサの小さな溜息が聞こえた。

 私が恐る恐る彼女に視線を戻すと、ナギサは静かに瞼を閉じていた。長い睫毛が顔に影を落とし、その表情には深い憂いが浮かんでいる。

 彼女はゆっくりと目を開け、その潤んだ瞳で再び私を見つめた。

 

「……私が、先日の話をしたからではありませんか?」

 

 ──その問いは、私の魂を根底から揺さぶるほどの重みを持っていた。

 心臓が氷水に浸されたように冷たくなり、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。

 脳裏を、瞬時にいくつもの恐怖が駆け巡った。

 

 ──彼女を傷つけてしまう!

 

 私のせいで、彼女が自分の過去を語ったことを後悔してしまったら?

 あの神聖な告白を、私が汚してしまうことになったら?

 

 ──彼女を失望させてしまう!

 

 私の動揺が、彼女の信頼を裏切ることに繋がってしまったら?

 私が彼女の痛みを本当の意味で理解できていない、薄っぺらな人間だと思われてしまったら?

 

「違います!」

 

 声は、思考よりも先に口から飛び出していた。ほとんど悲鳴に近い、切羽詰まった否定。私は自分の声が震えていることに気づき、慌てて唇を固く結んだ。

 

「……違うのです。ナギサ様のお話は、私にとって、とても……大切なものでした。貴方のことをもっと深く知ることができて……嬉しかったのです」

 

 嘘ではない。だが、全くの真実でもない。私は必死に言葉を紡ぎ、自分の動揺を糊塗しようとした。諜報員として培ってきたはずのポーカーフェイスが、いとも容易く崩れ去っていく。

 

「ただ……今日の会議の内容が、あまりにも衝撃的で。ミレニアムの動向、そしてトリニティが置かれた状況を考えると、どうしても……心が重くなってしまうのです。貴方が背負われているものの大きさを改めて感じて、私に何ができるのかと……」

 

 それは、諜報員としての冷静な分析と、友人としての体裁を取り繕うための嘘が混じり合った醜いキメラのような言葉だった。私はナギサの目を真っ直ぐに見ることができず、彼女の肩越しに夕闇に沈み始めたガーデンの風景を眺めていた。

 

 ナギサは何も言わなかった。

 ただ静かに私の言葉を聞いていた。風が私たちの間を通り過ぎ、薔薇の甘い香りを運んでくる。噴水の水音が、この重苦しい沈黙の中でやけに大きく響いた。

 

 やがて彼女は私の手から視線を外し、憂いを帯びたままの表情で、そっと微笑んだ。

 

「……そう、ですか。それなら、良いのです」

 

 その声には、諦めにも似た響きが混じっていた。

 

 ──彼女は私の嘘に気づいている。

 

 そして、それを追及しないことを選んだのだ。

 私を気遣う優しさから。

 

「貴方が私のことを心配してくださっているのは、よく分かります。いつも、感謝しています」

 

 ナギサはそう言うと、私に背を向けて再び小道を歩き始めた。その背中は、先ほどまでよりも少しだけ小さく、そして寂しげに見えた。

 

 私はその場に立ち尽くしたまま、彼女の後ろ姿を見送ることしかできなかった。

 彼女の信頼を、今、この瞬間、私は裏切ったのだ。優しさという名の刃で、彼女との間に見えない壁を築いてしまったのだ。

 新たな罪が、鉛のように私の心に沈み込んでいく。

 

「……」

 

 ……そういえば。

 ふと、数日前にナギサと会いたいと言っていた生徒がいたのを思い出した。

 約束の日はとうに過ぎていて、断りの連絡を入れるのすら忘れていた。

 

 でも、どうでもいい。

 どうせ断るつもりだったのだし、彼女もその可能性は理解していただろう。

 

 どうでもいい。

 そんな問題は、今の状況に比べれば塵芥に等しい。

 

 本当に、どうでもいい。

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