ただの諜報員モブ 作:クモリ・C・ドンテン
私は森の中にポツンとひとり佇んでいた。
相変わらずこの世界に音は存在しない。喉を震わせても、足を踏み鳴らしても、すべてが虚無に吸い込まれる。これは夢だとすぐに確信した。現実では決してありえない絶対的な静寂が何よりの証拠だった。
頭上の空は厚い雲に覆われ、不気味な灰色の天蓋となって私を見下ろしている。空気は湿気を含んでねっとりと肌にまとわりつき、湿った土の匂いが鼻をつく。
もう少しで雨が降るだろう。
茂みをかき分けながら歩を進めた。枝葉が頬を撫でていくが、やはり何の音も立てない。暫く歩いていると、突然視界が開けた。目の前に現れたのは息を呑むほど美しい花畑だった。色とりどりの百合の花が辺り一面に咲き乱れている。
純白の花弁、淡いピンク、鮮やかな黄色、深紅の情熱的な色合い。
それぞれが、それぞれの声で生命の讃美歌を無言で奏でているように見えた。
そして花畑の中心には、やはりあの二人の姿があった。
ナギサと、角の生えた少女。
今度は正面から見ることができた。
ナギサの美しい顔立ちがはっきりと見える。澄んだ瞳、端正な鼻筋、薄紅色の唇──すべてが完璧な調和を保っている。しかし隣の少女は異様だった。少女の顔は──まるでクレヨンでぐちゃぐちゃに塗り潰されたように、絶えず蠢く色彩の渦に覆われていた。赤と青と黄色が混濁し、緑と紫が溶け合い、その混沌とした色の奔流が彼女の相貌を隠し続けている。
その奇怪な光景を見つめていた時、頬に冷たい何かが触れた。
とうとう雨が降り出したのだろうか。
確かめるために右手を持ち上げ、手のひらを空に向けて掲げる。
──その瞬間、戦慄が走った。
雨粒に触れた部分から、まるで絵の具が水で洗い流されるように色彩がするすると消えていくのが見えたのだ。最初は指先の薄紅色が灰色に変わり、それは病気のように手のひら全体へと広がった。色という概念そのものが雨によって洗い流されている。
慌てて視線を上げると、百合畑にも同じ現象が起きていた。
雨粒に打たれた花びらから色が剥がれ落ち、鮮やかだった赤い百合は血の気を失った死人の唇のように白くなっていく。黄色い百合は病んだ骨のような不健康な白へと変貌し、紫の百合は腐敗する肉のように灰色に朽ちていった。
色彩の死は伝染病のように広がっていく。花から茎へ、茎から葉へ、そして大地へと。生命力に満ちていた緑は病的な灰色へと変わり、豊かだった土の茶色は灰白色に変質していく。空の雲すらも、その陰鬱な灰色すら失い、ただの虚無の色へと堕ちていった。
そしてついに、ナギサたちにも色彩の死が襲いかかった。
ナギサの白い制服は、まるで漂白剤に浸されたように不自然な白へと変わり、彼女の血色の良い肌は蝋人形のような生気のない白へと変貌していく。少女の顔を覆っていた色彩の渦も灰色の靄となって溶けていく。しかし、その下に現れるはずの素顔は見ることができなかった。
世界から色という概念が完全に消失したとき、私は目を覚ました。
***
覚醒は唐突な落下にも似ていた。
意識が虚無の底から現実の肉体へと叩きつけられる。夢の残滓が思考にまとわりつき、モノクロームの世界の映像が瞼の裏で明滅していた。そして、それと入れ替わるように現実の痛みが頭蓋の内側で産声を上げた。
こめかみの奥、脳の芯とでも言うべき一点から鈍い痛みが脈動を始める。
最初は小さな波紋だったが、それは瞬く間に広がり、頭全体を締め付ける万力のような圧迫感へと変わっていった。私は呻き声を漏らしながら額を手で押さえた。まるで誰かが私の頭蓋骨の内側に熱した鉄の輪を嵌め込み、それをじわじわと収縮させているかのようだ。
私はゆっくりと身を起こし、ベッドサイドに置いたグラスの水を一気に呷った。
冷たい液体が喉を滑り落ちていくが、頭の中で燃え盛る痛みには何の影響も与えない。洗面台の鏡に映る自分の顔は青白く、目の下には隈が深く刻まれている。
これではナギサに心配をかけてしまう。
私は冷水で顔を洗い、無理やり意識を覚醒させようと試みた。
常備している頭痛薬を規定量の倍、水で流し込む。
気休めにしかならないことは分かっていたが、何もしないよりはマシだった。薬が効き始めるまでの間、私は今日の予定を頭の中で反芻した。
いつも通りの分刻みのスケジュール。
私の身体がどうであろうと世界は止まってはくれない。
諜報員に、体調不良を理由にした休暇は存在しない。
着替えを済ませ表情を整える。親しみやすく、しかし隙を見せない微笑み。完璧な仮面を被ったつもりでも、鏡の中の私はどこか強張って見えた。こめかみの血管が、皮膚の下でミミズのように蠢いているのを感じる。
──朝の図書館は頭痛を悪化させるための拷問器具で満ちていた。
書架に並ぶ本の背表紙、その夥しい数の活字が無数の針となって私の眼球を突き刺す。ページをめくる微かな音、誰かが咳払いをする音、遠くで椅子を引く音──普段なら気にも留めないそれらの生活音が頭蓋骨の内側で増幅され、不協和音となって鳴り響く。
私は地政学の専門書を開きながら必死にその内容を追った。
だが、文字の列は意味のある文章として認識される前に、黒い虫の行列となって視界を這い回る。薬は全く効いていなかった。痛みは波のように寄せては返し、そのたびに意識が白く明滅する。私は奥歯を強く噛みしめ、呻き声が漏れそうになるのを必死に堪えた。
授業が始まっても地獄は続いた。
スピーカーから聞こえてくる機械音声はくぐもって聞こえ、その内容を理解するのは困難を極めた。休み時間、私は笑顔を貼り付けて、クラスメイトたちに最近のゲヘナ情勢についてどう思うかとさりげなく意識調査を行った。彼女たちの無邪気な会話、屈託のない笑い声が、まるで遠い異国の言葉のように聞こえる。頭の中では、痛みが赤い警光灯のように明滅を繰り返していた。
昼休みは、ナギサとフィリウスの先輩たちを交えた小会議が開かれた。議題はミレニアムの動向に関する追加情報と、それに対する見解のすり合わせだ。
私は必死に意識を集中させようとしたが、先輩たちの議論は意味のある言葉として脳に届く前に、ただの不快な音の羅列となって霧散した。
その後の昼食では、とうとう堪えきれないほどの吐き気が込み上げてきた。
食堂のむっとするような熱気と、様々な料理が混じり合った匂いが胃を逆撫でする。目の前に置かれたサンドイッチを、まるで砂か何かのように感じながら私はゆっくりと咀嚼した。一口飲み込むたびに食道から胃にかけて痙攣が走る。
「……ユリカさん、本当に大丈夫ですか? やはり顔色が」
隣に座るナギサが心配そうに私の顔を覗き込んだ。先日のガーデンでの一件以来、彼女の態度はどこか遠慮がちで、その気遣いが私の罪悪感をさらに深く抉る。
「大丈夫です。少し、寝不足なだけですから」
私は作り笑いを浮かべて答えた。
その笑顔がどれほど引き攣っていたか、自分ではもう分からなかった。
午後の散歩を兼ねた情報収集は、もはや苦行だった。
一歩足を踏み出すごとに地面からの振動が脊椎を伝って脳を揺さぶり火花を散らす。太陽の光が容赦なく目に突き刺さり、視界が白く焼き切れる。
──私は無意識に、腰のホルスターに収められた拳銃のグリップに指を這わせた。
もし、弾倉に込められた銃弾が、何もかもを貫く致死の銃弾であったなら。
いっそ、これを抜いて。冷たい銃口をこめかみに押し当てて引き金を引けば、この耐え難い痛みから解放されるのではないか。脳漿と共に、この苦しみも全てぶちまけてしまえば少しは楽になれるのではないか。
決して死にたいわけではない。
ただ、痛みから解放されるための手段が"死"という副次的な結果を齎してしまうだけで。
おかしいのは理解している。でも、私の脳内では『痛みからの解放』と『結果として付随する死』のリスク評価を無意識に開始していた。この激しい苦痛を前にしては、それがどんなに壊れていても、極めて現実的で説得力のある手段のように思えた。
そんな朦朧とした意識の中で、私は今日の午後の予定を思い出していた。
ナギサと、そして彼女の無二の親友である聖園ミカを交えたお茶会。
数日前にミカから直接連絡があったのだ。
『ナギちゃんからユリカちゃんの話はいっぱい聞いてるんだ! いっつも断られちゃうけど、今度こそ絶対に来てね! 約束だよ!』──彼女の天真爛漫な人柄が滲み出るようなメッセージ。断ることもできたが、私は了承の返事を送っていた。
正直、諜報員としての立場で言えば、このお茶会に参加するメリットは限りなくゼロに近い。
ナギサとミカ。あの二人が揃った場で、政務に関するような機密情報が語られることはまずない。フィリウス分派に所属するナギサとパテル分派に所属するミカ。立場こそ違えど、二人の友情は本物だ。彼女たちの時間は他愛ないお喋りと、甘いお菓子と、互いへの軽口で満たされている。実際にナギサがそう言っていたのだから間違いない。
パテルの内部調査を兼ねて、などというのは、自分自身に対する甘い言い訳に過ぎない。
では、なぜ参加を了承したのか。
理由は一つしかない。
先日のガーデンでの一幕からナギサとの間にできてしまった見えない壁。
私の嘘に気づきながらも、優しさゆえにそれ以上踏み込まず、諦めたように微笑んだ彼女の顔が脳裏に焼き付いて離れない。
このお茶会は、そのギクシャクした関係を少しでも修復するための唯一の機会かもしれなかった。彼女の親友であるミカがいる前ならば、私も、そしてナギサも、もう少し自然に振る舞えるかもしれない。あの日の出来事を他愛ない時間の中に溶かしてしまうことができるかもしれない。
そう、これは任務ではない。完全に、私の個人的な、そして身勝手な願望だった。
だからこそ行かなければならない。この頭痛が、まるで頭蓋骨の内側からヤスリで削られるような激痛に変わろうとも。吐き気が込み上げて、立っていることさえ困難になろうとも。
私はふらつく足取りで約束の場所であるカフェへと向かった。一歩、また一歩と進むたびに脳内で警鐘が鳴り響く。行くな、休めと。しかし、私の足は止まらなかった。
私たちの関係を元に戻さなければいけない。
***
約束のカフェは、トリニティ旧市街の片隅に佇む隠れ家のような店だった。
磨き上げられた木製の扉を開けると、カラン、と軽やかなベルの音が鳴り響く。その音さえも、今の私には頭蓋の内側で歪に反響する不協和音に聞こえた。店内に漂う焙煎された珈琲豆の香ばしい匂いと、焼き菓子の甘い香りが混じり合い、私は強い吐き気を催した。
店の奥、ステンドグラスから柔らかな光が差し込むテーブルに二人の姿はあった。
「あ、ユリカちゃん! こっちこっち!」
桃色の髪を揺らし、聖園ミカが満面の笑みで大きく手を振った。その屈託のない明るさは、この淀んだ世界にあってあまりにも眩しく、私は無意識に目を細めた。彼女の隣ではナギサが静かにカップに口をつけ、私に気づくと小さく会釈を返した。その表情は穏やかだったが、数日前のガーデンで見せた憂いの色が、まだその瞳の奥底に薄く残っているように見えた。
私が席に着くと、ミカは身を乗り出すようにしてメニューを広げた。
「ここのロールケーキ、すっごく美味しいんだよ! ナギちゃんはもうモンブランを頼んでるけど、ユリカちゃんはどうする?」
「……では、私もロールケーキを。それと、紅茶をお願いします」
「はーい!」
ミカは元気よくウェイトレスを呼んで注文を済ませた。その間、私とナギサの間に気まずい沈黙が流れる。何かを話さなければならない。この関係を修復するためにここに来たのだから。しかし、頭の中では痛みが荒れ狂い、適切な言葉を見つけ出すことができなかった。
「ユリカちゃん最近忙しいの? ナギちゃんから、いつも頑張ってくれてるって聞いてるよ」
「いえ、普段通りですよ。ミカ様こそパテルでの活動でお忙しいのでは?」
「んー、まあまあかな! でも、ナギちゃんとこうやってお茶する時間がいちばん大事!」
ミカはそう言ってナギサの肩を軽く叩いた。ナギサは困ったように微笑み、「ミカさん、はしたないですよ」と小さく窘める。その光景こそ普段通りの彼女たちのやり取りなのだろう。しかし、今の私には、まるで厚いガラスを隔てて遠い世界の出来事を見ているかのようだった。
やがて注文の品が運ばれ、私たちは他愛もない会話を続けた。
ミカが一方的に話し、私とナギサが相槌を打つという構図で。ミカは最近あった面白い出来事や、パテルの同級生の話を弾むような声で語った。私は頭痛と戦いながら必死に笑顔を貼り付け、時折気の利いた返事をしようと試みたが、その言葉が適切だったかどうかを判断する余裕すらなかった。
──その時だった。
店内に置かれた大型モニターが、静かなクラシック音楽から臨時ニュースへと切り替わった。
『──速報です。本日午後、ティーパーティーはゲヘナ学園及びその関連自治区に対する、石油を含む戦略物資輸出の全面禁止措置案を可決しました』
店の空気が一瞬で凍りついた。
ミカがフォークを握ったまま硬直する。
彼女の隣で、ナギサが息を呑む気配がした。
『この措置は、ゲヘナ学園の昨今の軍備増強と周辺自治区への圧力を「キヴォトス全体の平和と安定に対する看過できない脅威」とみなし、トリニティが主導する形で複数の自治区により実施されるものです。ゲヘナ陣営の軍需産業及び経済活動への深刻な打撃は必至と見られます』
ミカの陽気な笑顔が、まるで仮面のように顔に張り付いていた。
彼女は気まずそうに視線を彷徨わせ、ちらりとナギサの顔を盗み見た。
ナギサは、ただ静かに目を閉じていた。
表情に大きな変化はない。しかし、その僅かな動きの中に万感の思いが凝縮されているのが見て取れた。彼女の肩がほんの僅かにミリ単位で沈む。それは、自らの声が、信念が、理想が、巨大な潮流の前に掻き消された瞬間の、静かで、しかし決定的な敗北の姿。
ナギサの声は届かなかったのだ。
その光景を目の当たりにしながら、私の頭は灼熱の痛みの中で勝手に動き始めていた。
思考の歯車が、錆を撒き散らしながら強制的に回る。
この案を提出したのは対外強硬派のパテルだ。そして、それが安全保障委員会を通過して最終的にティーパーティーで可決された。ティーパーティーの代表は、フィリウス、パテル、サンクトゥスの三分派の首長。
可決されたということは、少なくとも二票の賛成、あるいは一票の賛成と二票の棄権があったことを意味する。
フィリウスはもちろん反対した。
それは先日の会議が示す通りだ。
ならば、投票結果は賛成二、反対一。
パテルは法案の提出者なのだから当然賛成。
つまり──サンクトゥスもまた賛成票を投じた。
……サンクトゥスが、賛成した?
脳裏に百合園セイアの顔が浮かんだ。
武力に頼らない真の強さを持った指導者が今のトリニティには不可欠だ──そう言ってナギサを激励した彼女。その言葉と、サンクトゥスが下した今回の決断は全く噛み合わない。
セイア個人の思想とサンクトゥス分派全体の意思決定が乖離している?
あるいは、セイアのあの言葉そのものがナギサを油断させるための欺瞞だったのか?
どちらにせよ、サンクトゥスの動きは不気味なほどに不可解だ。深い疑念が、頭痛とは別の種類の冷たい痛みとなって私の思考を蝕んでいく。
モニターの中ではアナウンサーが淡々と情報を読み上げていた。しかし、その内容はもう私の耳には入ってこない。頭の内側で、思考と痛みが激しい嵐のようにぶつかり合っていた。
「……あ、あのさ!」
重苦しい沈黙を破ったのはミカだった。
彼女はわざとらしく明るい声で、目の前のケーキを指差した。
「このクリームすっごく美味しいね! なんだか、ふわふわしてて雲みたい! ナギちゃんのモンブランも一口くれない?」
そのあまりに唐突で、必死さが透けて見える話題転換。
気まずそうに視線を泳がせ、無理に笑顔を作ろうとする彼女の姿。
──その瞬間、私は、全てを理解してしまった。
ああ、そうか。
そういうことだったのか。
今日、このお茶会が開かれたのは偶然ではない。
ミカは、今日の会議でこの案が可決されることを事前に知っていたのだ。
そして彼女は、親友が敗北して傷つく瞬間、傍にいようと思ったのだ。
これは、関係修復のための友人同士の集まりなどではなかった。
ナギサの惨めな敗北を慰めるための、哀れみに満ちたお茶会。
そして私は、そんな事情も知らずに、自分の個人的な感傷と身勝手な願望を叶えるためだけに、この場にのこのことやって来た道化に過ぎなかった。
頭の痛みが、すっと遠のいていくような感覚がした。
痛みが消えたのではない。
それを遥かに凌駕するほどの冷たい絶望が、私の意識の全てを塗り潰してしまったのだ。