ただの諜報員モブ   作:クモリ・C・ドンテン

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生長

 最初から夢だと分かっていた。

 世界から音が消え失せていたからだ。そして色彩も。

 

 目に映るすべてが濃淡の異なる灰色だけで構成された虚ろな街並み。

 私はその空虚な世界の真ん中に立っていた。

 

 見覚えのある光景だった。

 石造りの建物、手入れの行き届いた街路樹、清潔に保たれた石畳の道。いつかの日曜日、礼拝を終えたナギサと共に歩いたトリニティ中心部の街並みだ。

 

 私は、まるで何かに導かれるように記憶の中の道順を辿って歩き始めた。

 自分の足音さえ響かない静寂の中を、ただひたすらに。

 

 やがて、視線の先に目的の場所が現れた。

 クリーム色の壁と深い青色の窓枠が印象的な小さなカフェ。『エンジェル・ブルー』。

 窓から店内の様子を窺うと、あの時と同じ、窓際の二人用テーブルに二人の少女が向かい合って座っていた。

 

 一人はナギサだ。

 彼女は穏やかな表情でカップに口をつけている。

 

 そして、もう一人は──黒い髪の少女だった。

 角はない。その横顔に見覚えはないはずなのに、なぜか私の心は激しく波立った。

 

 私は、まるで何かにとり憑かれたように店のドアへ手を伸ばした。ドアを押し開けるようにして店内へ足を踏み入れる。その瞬間、黒髪の少女がこちらを向いた。

 ──そこにいたのは、紛れもない「私自身(ユリカ)」の姿だった。

 

 店内の二人は、私の存在に気づく様子はない。夢の中の「(ユリカ)」は、ナギサと親しげに言葉を交わして楽しそうに笑っている。その様子は、どこからどう見ても仲睦まじい友人そのものだった。あの日の、重苦しい沈黙と気まずい空気など微塵も感じられない。

 

 やがて「(ユリカ)」がふっと一人で微笑んだ。

 その光景は、私に雷に打たれたような衝撃を与えた。

 

 私が、あんな顔をしていたなんて。

 あんな風に、何のてらいもなく、ただ幸せそうに笑うことができたなんて。

 信じられなかった。しかし、胸の奥底で、何かがすとんと腑に落ちる感覚もあった。

 

 そうか、私は。

 今となっては、それも納得がいく。

 

 私はナギサを愛している。

 あれは、私の魂が偽りなく望んでいた光景なのだ。

 

 夢の中の二人が席を立ち、店を出て行こうとする。

 私も後を追わなければ。

 出口へと向かい、ドアノブに手を掛けようとした、その瞬間。

 

 ──ざわり、と全身の肌が粟立った。

 伸ばしたはずの私の右手が、何の抵抗もなく木製のドアノブをすり抜けた。

 

 動揺で一瞬動きを止めた身体がそのまま前のめりになり、ドアへと突っ込む。衝撃に備えて身を固めたが、予想された痛みは訪れなかった。私の身体はドアを、壁を、まるで幽霊のように通り抜け、そのまま店の外に投げ出された。

 

 何が起きている……理解が追いつかない。

 呆然と立ち尽くす私の足元で、今度は石畳の地面が急速にその実体を失い始めた。

 灰色の大地が水面のように揺らぎ、やがて透き通って消えていく。身体を支えていたものがなくなり、私は虚空へと落下した。いや、落下というよりも、ただ空間にぷかぷかと浮かんでいるような感覚だった。

 

 目の前には、楽しげに歩いていくナギサと「(ユリカ)」の後ろ姿が見える。

 

 待って、行かないで!

 私は必死に手を伸ばし、ナギサの肩に触れようとした。しかし、先ほどと同じように私の手は彼女の身体を虚しく通り抜けるだけだった。もう一度、今度は夢の中の「(ユリカ)」に。それも、やはり同じ結果だった。

 

 もう、触ることも許されないのか。

 

 重力が完全に消え失せ、上下の感覚も曖昧になっていく。

 街並みは遠ざかり、ただ灰色と黒が混じり合う虚無の空間だけが広がっていく。私は、永遠に届かない二人への想いを抱えたまま、ただ一人、その無限の空虚の中を漂い続けた。

 

***

 

 瞼を開ければ、見慣れた自室の天井が窓からの微光にぼんやりと浮かび上がっていた。

 

 心臓が嫌な音を立てて脈打ち、シーツは冷たい汗でじっとりと湿っていた。荒い呼吸を繰り返しながらゆっくりと身を起こす。

 時計の短針は午前三時を指している。眠りについてから、まだ二時間と経っていない。

 

 先日の慰め会──あのお茶会の帰り道、私はほとんど無意識に薬局へと立ち寄った。処方箋なしで購入できる中では最も強力な睡眠導入剤。薬剤師の形式的な注意書きなど、もはや気にも留めなかった。

 ただ、この思考を、この痛みを、この罪悪感を一時でも停止させてくれる何かが欲しかった。

 

 その夜初めて服用した白い錠剤は、確かに私を眠りの淵へと誘ってくれた。意識がゆっくりと溶けていく感覚は、久しく忘れていた安らぎそのものだった。しかし、その安寧は長くは続かない。決まって夜半過ぎ、心臓を鷲掴みにされるような衝撃と共に悪夢が私を叩き起こすのだ。

 そして、悪夢の残滓に震える手で再び薬瓶へと手を伸ばす。錠剤を喉の奥へと流し込み、再び意識が途切れるのを待つ。そしてまた数時間後には新たな悪夢に叩き起こされる。

 その繰り返しだった。

 

 心療内科の受診も考えなくはなかった。

 しかし、その思考はすぐに別の不安によって打ち消される。

 

 私が精神的な治療を受けていることが情報部に露見したら?

 任務遂行能力に疑義ありと判断され、私はトリニティから強制的に引き離されるだろう。

 そしたら、私はもう二度とナギサに会えなくなる。

 

 それだけは絶対に嫌だ。

 この身がどうなろうと、彼女の側にいられなくなることだけは耐えられない。

 

 だから私は、この破滅的なサイクルを甘んじて受け入れた。

 むしろ、そこには倒錯した快感さえあった。許容量を超えた薬物がじわじわと身体を蝕んでいく感覚。眠りと覚醒の狭間で理性が少しずつ削られていく実感。こうした行為が、私の犯した罪に対する(ささ)やかな贖罪のように思えてならなかった。

 

 そんな日々が続いた、ある日の午後。

 ナギサが、フィリウスの先輩との会合があると言って駅前のレストランへ向かう準備をしていた。私はいつものように彼女のスケジュールを確認し、反射的に口を開いた。

 

「私もお供します。護衛も兼ねて、入口の席で待機を」

 

 彼女の隣にいること。

 それが「今の私(ユリカ)」の存在理由そのものだったから。

 しかし、ナギサは首を横に振った。

 

「いえ、結構です。貴方は……」

 

 ナギサは静かにそう答えた。

 しかし、彼女はそれ以上言葉を続けず、一度視線を伏せて何かを躊躇うように唇を僅かに動かした。その数秒間の沈黙が、私のささくれ立った神経を微かに逆撫でする。

 何かを言い淀んでいる。何を言われるのだろう。私の失態を、無能を詰られるのだろうか。

 

 彼女がそんなことをする人間でないのは分かっている。

 でも、頭の中に浮上した空想のナギサは、あらん限りの罵詈雑言を私にぶつけていた。

 

『裏切者』

『中途半端』

『悪魔』

『寄生虫』

『偽善者』

 

 思考の中で、幻影のナギサが私を糾弾する。

 現実のナギサはただ黙って、何かを言い淀んでいるだけだというのに。

 

 その数秒間の沈黙が永遠のように感じられた。部屋の空気が密度を増し、私の肺を内側から圧迫する。彼女が次に発する言葉が、私に下される最後の審判なのだという予感がした。

 

 もう終わりだ。

 私の欺瞞も、このみすぼらしい友情ごっこも、全てがここで終わってしまう──。

 

「……休んでください」

 

 ──絞り出すような声だった。

 彼女は俯いていた顔をゆっくり上げ、その琥珀色の瞳で真っ直ぐに私を見つめた。

 その眼差しには、私が恐れていたような軽蔑や怒りの色は一切なかった。

 

 ナギサは私の方へ静かに一歩近づいた。

 そして、私の震える右手を彼女自身の両手でそっと包み込んだ。

 

 ──驚くほどに温かかった。

 まるで、凍てついた冬の日に差し込む陽光のような、穏やかで優しい温もり。その熱が、私の冷え切った皮膚を通して血流に乗り、心臓へゆっくりと流れ込んでくる。頭の中で鳴り響いていた罵詈雑言が、その温もりを前に潮が引くようにすうっと消えていった。

 

「お願いです、ユリカさん。今日は休んでください」

 

 命令でも懇願でもない、純粋なお願い。

 

「貴方の顔色が優れないのは、もう何日も前から気づいていました。目の下の隈も日に日に深くなっています。化粧で隠しているつもりでしょうが、私には分かります」

 

 ナギサが私の目を覗き込むように見つめてくる。

 

「……眠れないのでしょう?」

 

 ──ああ、知っていたのか。

 私の完璧だったはずの仮面は、とうに剥がれ落ちていた。私が必死に取り繕っていた平穏は、彼女の前では砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。私が彼女を観察していたように、彼女もまた、ずっと私のことを見てくれていたのだ。

 その理解は──安堵ではなく、新たな絶望となって私を襲った。

 

「……申し訳、ありません。自己管理が至らず……」

 

 謝罪の言葉を口にしながらも、私は自分が何に対して謝っているのか分からなかった。

 任務を疎かにしたことか。体調を崩したことか。それとも、彼女にこんな顔をさせている、この状況そのものに対してか。何も分からない。

 

「謝らないでください」

 

 私の手を包むナギサの力が僅かに強まる。

 

「貴方はいつも私のために尽くし過ぎるのです。私がどれほど貴方に助けられ、支えられてきたか……。ですから、今度は私が貴方を支える番です。ただ、貴方に安らげる時間を過ごしてほしい。それだけなのです」

 

 ──違う。違うんだ、ナギサ。

 私は貴方を支えてなどいない。私は貴方を利用し、欺き、貴方の最も神聖な信念さえも任務の道具にしようとした、ただの裏切者だ。

 

 ナギサの優しさが私の心を千々に引き裂いていく。彼女の気遣いの一つ一つが、私の罪の重さを容赦なく突きつけてくる。私が犯した最も許されざる罪。それは、任務を遂行できなかったことでも、彼女を裏切ったことでもない。

 

 この、どこまでも気高い魂を持つ少女に心配をかけてしまったことだ。

 私の弱さが、私の醜さが、彼女の心に憂いという影を落としてしまったことだ。

 

 「(ユリカ)」がナギサの重荷になってしまったのだ!

 

 ──視界が急速に滲み、熱い何かが込み上げてくる。

 私は慌てて顔を伏せ、ナギサから表情を隠した。

 この姿だけは絶対に見られてはならない。

 

「……分かりました。お言葉に、甘えさせていただきます」

 

 ナギサは小さく頷いて私の手を離すと、出口へと向かった。

 去り際に彼女は一度だけ振り返り、痛ましげな表情で私を見つめた。

 

「ゆっくりお休みください」

 

 そう言い残して彼女は出て行った。

 一人残された部屋で、私はその場に崩れ落ちるように膝をついた。ナギサに包まれた右の手のひらには、まだ彼女の温もりが微かに残っている。私はその手を胸に強く押し当て、声にならない嗚咽を漏らした。

 

 温かい。

 あまりにも温かすぎる。

 

 この温もりは、私のような人間が触れていいものではなかった。

 

***

 

 私は、自分がいつ、どのようにこの場所へ辿り着いたかを正確に思い出せなかった。

 ナギサが去った後も暫くは部屋の床に蹲っていたはずだ。彼女の温もりが残る右手を胸に押し当て、ただ静かに、内側から崩れていく自分を感じていた。思考は停止し、感情は麻痺し、時間の感覚さえも曖昧になっていた。

 

 気づけば、私はガーデンにいた。

 中央の噴水を囲むように配置された白いガーデンチェアの一つに深く腰掛けている。数日前にナギサと歩いたあの場所だ。私の嘘が、彼女の優しさが、私たちの間に見えない壁を築いてしまった場所。無意識のうちに、私はこの罪の現場へと回帰したらしかった。

 

 本来であれば、こうして生まれた空白の時間は諜報員にとって黄金にも等しい価値を持つ。収集した断片的な情報を整理し、分析し、新たな標的や潜入経路を模索する。あるいは、次の指令に備えて心身を休ませる。

 

 しかし、そんな気は勿論起きなかった。

 報告書も、分析も、ゲヘナも、雷帝も、もはや全てがどうでもよかった。

 私の思考を占拠しているのは、たった一つの問いのみ。

 

 ナギサのために、今の私に一体何ができるのか。

 

 私は彼女にとっての重荷になってしまった。

 私の存在そのものが彼女の心を曇らせ、憂いの影を落としている。あの気高い魂を持つ少女を、これ以上私の醜さで汚してはならない。ならば、私にできることは一つしかない。

 

 ナギサの前から消える。

 それこそが私にできる唯一の、実のある贖罪であり、最も誠実な愛情表現になる。

 

 だが、どうやって?

 諜報員としての立場を暴露し、全てを打ち明ける?

 論外だ。ナギサの信念の根源がゲヘナの少女エリにあること、そして私がそのゲヘナから送り込まれた諜報員であるという事実は、彼女の世界そのものを根底から破壊してしまうだろう。それは救いではなく、最悪な加害に他ならない。

 

 では、自ら死を迎えるのはどうだろう。

 ナギサから切り離される苦しみを味わう必要がない、という点では抗いがたい魅力がある。

 しかし、それもまた論外だ。

 

 私がそれを選択すれば、ナギサの経歴に拭い去ることのできない傷が残る。

 自殺した秘書が仕えていた政治家──そんな悍ましい称号を彼女に与えるわけにはいかない。

 世間の同情や憶測が、彼女の気高い魂を無遠慮に傷つける光景が目に浮かぶ。

 それだけは絶対に避けなければならない。

 

 思考の袋小路に迷い込み、私は静かに目を閉じた。

 風が頬を撫で、ナギサの温もりが残っていたはずの右手はすっかり冷え切っていた。

 

 ──この問いには、恐らく二通りの答えがある。

 

 ひとつは、不慮の事故による死。

 誰にも予測できない、誰の責任でもない、ただ運が悪かったとしか言いようのない形でこの世を去る。そうすれば、ナギサは私が諜報員であったことも知らずに済む。

 彼女は悲しむだろう。深く傷つくかもしれない。しかし、その悲しみは時間と共に癒え、やがて私は『悲劇的な最期を遂げた友人』として彼女の中で清算されていくだろう。彼女はユリカという名の悪魔から、その呪縛から完全に解放されるのだ。

 

 もうひとつは、何の音沙汰もなく突然失踪することだ。

 まるで最初から存在しなかったかのように、全ての痕跡を消し去って姿を眩ませる。

 置き手紙も最後の言葉も残さずに。ナギサは困惑し、私を探すかもしれない。裏切られたと感じるかもしれない。しかし、死という決定的な事実を突きつけられるよりは、まだ救いがあるのではないか。時が経てば私の存在は彼女の中で風化し、やがて遠い過去の出来事になる。

 

 どちらの道を選んだとしても、そこには地獄のような苦しみが伴うだろう。

 ナギサから離れる。彼女の側にいられなくなる。

 

 だが、その苦渋の決断は最早避けられないように思えた。

 それが、私が彼女にできる唯一の贖罪なのだと。

 

 私が消えることで彼女の憂いは晴れる。

 私が消えることで彼女は本来の輝きを取り戻す。

 

 それでいい。

 それが正しい。

 

 その結論にたどり着いた瞬間、不思議と心は凪いでいた。

 荒れ狂っていた思考の嵐が止み、静かな平穏が私の心を支配していた。

 私はゆっくりと顔を上げ、色褪せた空をぼんやりと見上げた。

 

「随分と、物憂げな顔をしているね」

 

 ──澄み切った声が私の思考の澱を静かにかき乱した。その声には聞き覚えがあった。私がゆっくりと視線を向けると、噴水の向こう側、午後の陽光を背にして一人の少女が立っていた。

 

 太陽の光を受けて輝く金色の長い髪。

 白い制服に身を包んだ、優雅で隙のない立ち姿。

 そして、全てを見透かすような深い叡智を宿した瞳。

 

 百合園セイア。

 彼女がそこにいた。




 ストックが切れました。
 長期休暇もそろそろ終わるので、更新頻度が落ちそうです。
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