限界過疎アクアリウムガールが先生とお喋りするだけ 作:お前の母ちゃんベアトリーチェ~!
──────キヴォトスと呼ばれる、学園都市がある。
自治区を有する幾千の学園と、それらを統括する連邦生徒会からなる箱舟。
蒼のよく似合う小世界。あらゆる生徒達が織り成していく、青春物語の舞台。
勉学と、部活動と、おしゃべりと。誰かが描いた、少女たちの為の淡い楽園。
鳴り止むことの無い悲喜交々は、花の咲くような闘争を伴って。
スイーツを巡るささやかな争いから、政治的な対立を理由とした戦争まで。
親愛に満ちた弾丸が絶えない学園都市。キヴォトスでは、今日もどこかで事件が起きている。
…………尤も。そんなモノは、わたしなんかには関係の無い話で。
「ん──────んぅ、ぅ…………」
不意に目蓋を刺した陽光。定刻を告げる古びたチャイムに、わたしの意識は浮上した。
ぼんやりと輪郭を取り戻していく視界、僅か二色で構成された、淡い世界。
冴え冴えとして止まない青空と、宙まで届きそうな程に高い入道雲。遠い遠い、白い恒星。
みゃー、なんて。ウミネコの声が、わたしの耳を突き刺した辺りで、
「…………あれ。わたし、寝て…………?」
寝惚け眼を擦り、軋む上体を持ち上げて周囲を見渡してみる。
直射日光に焼かれたそこは、コンクリートで造られた、廃墟同然の建物だった。
頭上の青天井は言うに及ばず、外壁も所々が崩れ、内部の鉄筋が露出している。
床材にも例外は無く、目下、数メートル先の大穴からは、階下の様子が見て取れる。
…………場合によっては拉致を疑う状況だが、生憎とわたしには見慣れた光景そのもの。
遠くに構える水平線。異物の無いまっさらな視界と、潮風の匂い。
眠りが足りないと訴える、重たいままの目蓋。欠伸を一つすれば、淡い風が肌を攫う。
さざ波の音に攫われそうな世界の隅で、ラジオの声が鼓膜を叩いた。
『キヴォトスの皆さん、こんにちは! クロノス報道部、午後のニュースのお時間ですよ!』
埃まみれの倉庫で見つけた、五世代ほど前に技術を遡る、ラジオカセットレコーダー。
三周回っても時代遅れのフォルム。野暮ったい棒状アンテナが拾う、雑音を伴った声。
…………思い出した。これを使いたいが為に、態々屋上にまで出向いたのだった。
風穴の開いた校舎とは言えど、屋内では電波強度が心許なく。故にここまでやって来て。
わたしの身体を包んだ冷気と暖気に、まんまと意識を攫われた、という事か。
「…………あれ。間抜け過ぎじゃないですかね、わたし…………」
────よし、忘れよう。失態など忘れるに限る、と。即座に意識をラジオに傾ける。
放送されているのは、クロノス報道部主導のニュース番組。
報道の自由が服を着て走るような言動を、微かな笑みと共にぼんやりと眺める。
聞こえてくるのは、他愛の無い事。流行りの銃ブランドとか、映えるスイーツ店だとか。
何気ない、外界の一幕の話。…………その中で、異質と言えば異質の、ある特集があった。
『カイザーPMC、砂漠開発から撤退か。"S.C.H.A.L.E"の関与も────!?』
連邦捜査部"S.C.H.A.L.E"。今からおよそ一月ほど前に発足された、超法規的機関の名称だ。
扱い上は連邦生徒会の下部組織でありながら、事実上はそれ以上の権限を持つ部活動。
猫探しに始まり、学園間で発生した紛争の調停に至るまでを請け負う中立組織。
D.U.外郭に本拠を有する、独立連邦捜査部────或いは、ある個人を刺す名称でもある。
キヴォトスから失踪したとされる、連邦生徒会長が招いた担当顧問。"外"からの"大人"。
「………………先生」
脳内を満たす雑念は、大したことの無いもの。
感傷にも似た思い。けれどそれは、次の瞬間に、為すべき現実で塗り潰されていた。
─────ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ。
短い音の連続を吐き出す腕時計は、受付に
………………噂をすれば、と言うべきか。どうやらわたしは、寝坊助が過ぎたらしい。
溌剌な声を発するラジオをそのままに。眠気を散らすよう、頭を振って立ち上がる。
浅い伸びをしながら踵を返せば、滞っていた血流が、全身へと巡っていく感触がした。
凝り固まった関節を軽くほぐした所で、階段へと繋がるドアノブへと手を掛ける。
「それじゃあ、仕事に戻るとしましょうか!」
惰性の報告が、虚空に響いて消え失せる。返す言葉も期待せず、扉を閉めた。
◇◇◇
──────"ノアール海洋動物高等専門学校"。それが、わたしの通う学校の名前だった。
このキヴォトスにあっても世にも珍しい、大規模施設に伴って建設されたこの場所。
学校運営と経済活動を紐づけることによる相互扶助を目的とし、水族館と一体化した学園機構。
当時としては画期的な試みであり、敷地面積の大きさからも、入学希望者は多く居たと聞く。
そう、"いた"。けれど今現在、ノアールの在籍人数は僅か一名のみ。…………当然の帰結だ。
だってそもそも、設計から破綻している────学校を、人里離れた海の沖に建てる、とか。
スクリア海沖を覗く、唯一の海上施設。それが、ノアール海洋動物高等専門学校の正体。
…………全く以て正気じゃない。水族館は海の近くに作るのが相場だが、限度がある。
沿岸部どころか、陸を遠く離れた海上に水族館など作って、一体どうしようというのだ。
来場には船が必須。しかもその距離は、近隣の港から一時間以上掛かるという始末。
海の生き物が見たいなら、近海でダイビングでもした方が余程手っ取り早い。
それに。学園の位置が位置なら、自治区だってそう。
見渡す限りの水平線を有する場所、等と言えば聞こえはいいが、言ってしまえばただの海だ。
経済行為はおろか、住民すらも望むべくは無く。事実上、自治区は学園の敷地にのみ絞られる。
…………斜陽の学園。緩やかに沈んでいく船という言葉こそ、この場所には似つかわしい。
在校生が一人でも存在する事さえ、奇跡に等しい現状。
まして客人など、こんな辺鄙な場所に寄り付く事は無い────筈、なのだが。
「貴方も飽きない人ですね…………余程の物好きさんですか、さては」
陽の差し込まない空。然程手入れのされていない、無機質な天井。
神経質そうに明滅する蛍光灯に浮かび上がった空間は、見慣れ切った六畳間。
埃を被った未開封の段ボールの山、乱雑に棚へ押し込められた統一感の無いファイルの数々。
無駄に重ねられた書類の束が、床と机を占領している、ここは生徒会役員室兼受付事務室だ。
廃れきった、施設における"顔"の部分。碌に機能を果たしたことの無い窓口は、しかし。
「んー、どうだろうね。だけど私は、ここを良い所だと思うよ?」
白色のコートに身を包んだ大人によって、その機能を取り戻していた。
首に掛けた顧問証明が告げる、特徴的なエンブレムと、独立連邦捜査部の文字。
神秘の発露であるヘイローを持たない、キヴォトスの外からやって来た大人。
不可思議に溢れた世界へと招かれた、不可解な存在────シャーレの"先生"。
一夜にして、キヴォトス勢力図の特異点にまで成り上がった人。それが、目の前の大人の正体。
言ってしまえばこの世界の中心人物で、こんな場末の水族館に居て良い人では無いのだが。
「それを物好きって言うんですよ、先生…………はい、支払いはカードですね」
一体ここの何を気に入ったのか。先生はそれなりの頻度で、ここに通っていた。
正直、ただ水族館が好きというだけなのなら、こんな場所に来る理由は無いのだ。
何しろ絶海の孤島。外界の誰も彼もから忘れ去られた、廃園手前の小世界。
規模だけ見ればそれなりでも、設備は最新鋭とはいかず、アクセスだって非常に悪い。
そんな場所に足繁く通う、なんて。これを物好きだと言わずして、なんと言うのだ。
…………いや、べつに。来るのが嬉しくないというワケでは、ないのだけど。
「さ、入り口はあちらですよ、先生。暗いので、足元には気を付けてくださいね」
わたしが指を差したのは、陽光を湛えるロビーとは対照的な、仄暗い廊下。
意図的に光の絶たれた空間。文明によって整備された、仮想の海底へと至る道。
望まれたように、時間感覚を溶かす小宇宙への扉を開ける。本来、わたしの役割はここまでだ。
当然の話。来客を出迎えるべきは、縦長の海を泳ぐ海洋生物達であり。決してわたしではない。
…………その筈、なのだが。どうしてか先生は、受付から一歩も動こうとしなかった。
「………………はいはい、分かりましたから。今そちらに行きますよ」
呆れたような声──真実呆れたが──を上げながら、軋む椅子から立ち上がる。
我ながら慣れた手つき。近くにあった鍵束の内の一つを腕に掛け、鉄製の扉を跨ぐ。
ガラス張りの天井。淡い西日が注がれる、いっそ寂しくなる程広々とした空間。
ある物と言えば、古びて尚稼働を続ける自販機と、擦り切れた革製のソファ達。
老いたモノばかりの場所──────その中心で。真っ白なコートだけが、活きていた。
「いやぁ。ごめんね、私のワガママに付き合わせて」
「本当ですよ。わたし、飼育係であって
その辺分かってます? と目で問い掛けるが、イマイチ意味を感じない。
変わり映えのしないわたしの生活に起きた、つい先日からの些細な変化。
週に一度。ここに訪れた先生に、水族館を案内するのが、わたしの役割になっていた。
まったくもって、傍迷惑な話だと思う。実際問題、わたしだってそれ程ヒマでもないのだ。
たとえ唯一に等しい客人であったとしても、ソレを特別扱い出来るだけの余裕などない。
ゲストの要望に応えて、どこそこまで着いて行き、海洋動物の解説をする、なんて不可能だ。
…………出来る事と言えば、見回りついでに、
「先生、今日は熱帯魚のコーナーを見回ります。他に見たいものがあれば、そちらへどうぞ」
「ううん、私はそこが良いな。連れて行ってくれるかい?」
「──────そうですか。…………なら、仕方ありませんね?」
踵を返して、エントランスを後にする。
…………背を向けたわたしの表情は、きっと先生には分からない。
本当、変われるモノなら誰か変わってほしい所だが、生憎とノアールの生徒はわたしだけ。
役得だとか、全然思ってないが。これは、そう、仕方なく、先生の相手をしているだけなのだ。
妙に持ち上がる口角を制御すれば、ロビーとは打って変わっての世界が、わたし達を迎えた。
──────多分。神様から見える世界は、こんな具合なのだろう。
照らし出される、無数の世界。足元さえ覚束ないような、仄暗い旅路を辿る。
僅か四センチの断絶。映るのは、青空よりも深い色で構成された、小さな箱庭。
幽かな命が躍る、背の高い水槽。二つの影が、幾多の海を歩いていく。足音だけが響く退屈。
目的地へと至る為の、僅かな空白。こういった時は、決まって他愛もない雑談に興じるのだ。
「…………ところで先生、アビドス砂漠に出向いたらしいですね」
先に切り出したのはわたしの方。投げかけた疑問は、先刻聞いたラジオの内容について。
報道によれば、カイザーPMCの事業に対し、シャーレが介入した、と言う触れ込みだったが。
冷静に考えてみればおかしな話だ。たかが一企業を相手に、独立連邦捜査部が動く、なんて。
何か事情があったのだろうか、と。隣を歩く先生の顔を盗み見る。
「うん。アビドス高校、って知ってるかな? あの子達から救援依頼が届いてね」
「………………あぁ、なるほど。彼女達でしたか」
「あれ、もしかして皆と知り合いだったりするの?」
「まさか。わたしが一方的に知ってるだけです、会った事もありませんよ」
──────アビドス高等学校。かつてキヴォトスで栄華を誇った、夢の跡。
幾千の自治区を抱えるこの学園都市において、最大勢力と目された砂漠の学園。
潤沢な資金と兵装。なにより"在籍人数"を学園機構に取り込んだ在り方は、強靭そのもの。
当時のゲヘナ/トリニティでさえ畏怖と羨望の眼差しを向けた、繁栄と栄華の極み。
曰く、黄金の時代。全盛のアビドスは、それ程までに凄まじい存在だったと聞く。
…………けれど。敵う者無しと叫ばれた牙城は、あまりにあっさりと崩された。
ある時期より発生した、超自然災害とも形容すべき砂嵐があった。
学区一つを纏めて呑み込んだ災厄。砂に押し流された街並みは、凄惨なモノだったと言う。
或いは一度きり、当時のアビドスであれば、学区の復興も叶ったかもしれないが。
砂嵐は何度もアビドスへと訪れ、あろうことか、年々その規模を増していった。
…………災害復興のために注がれる資金が、いつの間にか借金へと変わり。
所有する自治区の、実に半分が砂で飲み込まれた時。アビドス高校は死んだのだ。
「──────そっか。アビドスの状況と、君の環境。とても似ているんだね」
人気の途絶えた、誰に知られることも無い秘匿の孤島。滅びゆく場所。
砂に埋もれた自治区を擁する学園と、無人の海底を自治区と定めた学園。
復興の為に多くの借金を抱えたアビドスと、稼働するだけで赤字を生むノアール。
設計/成り立ちこそ異なるが、辿る末路というのなら、この二つは似たようなもので。
即ち、"廃校"。学園都市において、己の意義を見出せなかった学校に贈られる、烙印の名前。
「飽くまでも一方的な共感ですよ。向こうは、ノアールなんて聞いた事も無いでしょうから」
わたしが彼女たちの存在を知ることが出来たのは、元は強大な学園だった部分が大きい。
これが逆の立場になれば、認知する事すら困難になるのは目に見えている。
仮に認識できたとして、ノアールに関する資料など、片手の指ほども残っていまい。
…………いや、
「それで、先生。あちらではどんな事をしたんですか?」
「どんな事、かぁ。色々あったから、一口には説明できないけど…………」
先生の口から聞かされたのは、どこか愉快な青春物語だった。
アビドスからの要請で、ヘルメット団に襲撃された彼女らを助けた事。
対策委員会の皆でラーメンを食べた事、便利屋を名乗るゲヘナ生と知り合った事。
ブラックマーケットで銀行強盗をした事、カイザーグループによる悪事の証拠を掴んだ事。
ゲヘナ風紀委員会が、大隊規模で侵攻した事、
────最終的に、周囲からの力を借りて、囚われた彼女を救出することが出来た事。
「………………と。まぁ、掻い摘んで話せば、こんな所かな?」
「ふーん…………そうだったんですねー…………へぇー…………ふーん」
かつん、かつん、かつん。先生の三歩前を行くように、靴音を鳴らす。
気が付けば、わたしの返事はどこか気の無いモノに変わっていた。
先生の話を聞く限り、今回の騒動はそれなり以上の綱渡りで解決した事が伺える。
或いは、一つでも選択を間違えていれば、取り返しのつかない結末に辿り着いたかもしれない。
それでも、先生の言葉に深刻さが見え無いのは、この出来事が"楽しかった"からなのだろう。
「………………………………」
「? どうかした?」
いや、別に。自分と似た境遇の子たちと先生と楽しく過ごそうが、わたしには関係ないですし。
嫉妬とか、羨望とか。そういった醜い感情は、わたしの中には微塵も存在しませんし。
「あぁ、そうそう。ホシノと言えばね、あの子も水族館が好きでさ。
また今度、予定が合えばこの水族館の事を紹介しようと思ってて────」
「──────いやです、ダメです、出禁です」
「えっ、ちょっ、即答…………えっと、会えば気が合うかもしれないよ?」
「合うかもしれませんが仲良くできません。その人連れてきちゃダメです。やー!です」
「中山きん〇くん…………?」
響き渡る硬質な音は、少しだけ足早に。血管を巡る不明な感情に、小さく精神が揺れる。
僅かに速くなる歩調。水槽の中の生き物が、呆れるような瞳でわたしを見ている。
拗ねた感情に任せ、視界をシャットアウト。抗議の視線は、もうこれ以上届かない。
この気持ちに自覚が無いと言えば噓になるが、それを認めるのは、少しだけ恥ずかしい。
空模様のような心に見ないフリをすれば、そこで時間切れ。アイスブレイクはこれにて閉幕。
「──────はい。着きましたよ、先生。ここが熱帯魚コーナーです」
わたし達の会話が終わりを告げるのと同時。旅路の目的である、仄暗い海へと辿り着いた。
◇◇◇
この学園都市では、学校の本館は自治区の中心に鎮座するモノ、という認識が一般である。
キヴォトスにおける本校舎。その役割は言ってしまえば、王城の類と変わらない。
即ち本校舎の規模が、学園が持つ自治区の規模を決める、と言っても過言ではないだろう。
事実。三大校に数えられる学園や、連邦生徒会の本校舎の規格は街一つ分にも等しく。
現在は砂漠に呑み込まれたと聞くアビドス高校本館も、相当の規模だったのだろう。
…………さて。その点で言って、この学園の設計は一体どんな想定をしていたのか。
このノアール海洋動物専門高等学校は、それなり以上の規模を誇る学園になっていた。
何しろ、キヴォトス随一の敷地面積を持つアクアリウムを併設したのが、この場所で。
通常の学校機能に加え、開校当初に増設された寮なども数えたならば、この通り。
街一つ分には及ばずとも、小規模な村なら呑み込めるほどの施設が出来上がっていた。
「まったく…………わたしにすれば、迷惑な話この上ないですね」
当然の話ではあるが。水族館を運営する以上、住まう生き物の管理が必要になる。
そして、生き物を管理する上では、健康状態の判別が必須要項であり、当然として。
毎度毎度、お世話の度に館内中を歩き回らせられる羽目になっているのが現状だった。
…………内部構造を熟知し、目的地までの最短距離が辿れるとしても、遠いモノは遠い。
"お世話"の前段階である"観察"にさえ、相応の労力を払う現状。ワンオペ業務は過酷だった。
「わたしの他にも生徒でも居れば、話も変わってくるんですけどね────」
無い物ねだりをしても仕方がない、と零れた愚痴を一蹴。硬い足音が再開する。
声すら溶けそうな暗い廊下と、対になるよう照らし出された淡い水槽。
人工的に創造された、小さな海。憂いの無い泳ぎは、隣接する別の海に気づいていない。
水温、照明、住民。それら全てが異なる、規格を同じとするだけの異世界が並ぶ通路。
──────窮屈を窮屈とすら感じられない、囚われだけが陳列されている。
「…………ん。みんな、体調は大丈夫そうですね」
体表に斑点を持ったり、鱗の逆立った個体は見当たらなかった。
異常行動を起こしている雰囲気も無く、前回確認した時から、個体数にも変わりはない。
この分であれば、管理方法を変更する必要は無いだろう、と。小さく安堵の息を吐く。
それは、わたしの仕事の第一段階が終了した合図。見るべきものは見た、という事。
普段ならこのまま、バックヤードでの餌やりに移行する所だが、今日は生憎とゲストが居る。
…………さて、どこに行ったかな、と見渡してみれば、視界の端に目的の人物はいた。
大きく複雑な、迷路にも似た内装。壁に埋め込まれた水槽が並ぶ内の、隅の隅。
数多の小世界が運営される中でも、一際小さな内海。つい先日まで埃を被っていた水槽。
展示されていたのは、種別もバラバラの、余り物を集めたような、五つ分の命。
水槽の僅か下、プラスチックで出来た看板の掲げる、彼らの名前は────
「ほほう、クマノミ。その子達が気に入りましたか、先生」
クマノミ。スズキ目スズメダイ科クマノミ属の海水魚に対する総称。
食性は雑食。成魚の段階で、全長七センチメートルから十センチメートルほど。
温暖な海に生息する熱帯魚であり、サンゴ礁を住処とする比較的小柄な魚類だ。
彼らが持つ鮮やかなオレンジの体色と、イソギンチャクとの共生関係はあまりに有名で。
映画の主役にも抜擢された姿は、最も一般的な熱帯魚と呼んで差支え無い魚だと思う。
…………尤も、この子達の場合は少しばかり"特殊"なのだが。
「気に入った、と言うより。この水槽だけ、他とは毛色が違うのが気になってね」
「む、流石に鋭いですね先生。…………その通り、この水槽は
先生もお気づきでしょうが、ここでの展示は原則、特定の分類法に沿って行われています」
通常、ノアールではリンネ式階層分類体系に基づき、"亜種"までを分類し展示する。
"亜種"とは大雑把に、"分類学上は同一種だが、地域によって姿を変えている者"の事だ。
例えば同じ鮭であっても、ゲヘナとレッドウィンターでは形態が異なる、と言った具合。
それぞれの習性や、適した植生も変化するため、ノアールでは別個水槽を用意している。
「要は、同じ種だからと言って纏めて管理するような手抜きはしない、って事です」
「うん。そうだね、それは分かった。だからこそ、私にはこの水槽が不思議なんだよね」
シャチを始めとする哺乳動物から、クラゲのような刺胞動物に至るまで、例外は無く。
アクアリウムを整然と並ぶ、同じ色をした命。唯一、目の前の水槽だけが逸脱していた。
…………同じクマノミ属の遊魚が五匹。だが、異なる体躯は、亜種ですらない事を告げていた。
異なる種が同じ海を共有する状況は、このアクアリウムではあまりに稀有で。
「住処のイソギンチャクも真っ白だし。どうしてこの子たちだけが集められたのかな?」
「わたしが決めた訳じゃありません。…………先日、近海で保護した時からこうだったので」
「保護────あぁ、そっか。水族館だもんね、そういうのもあるんだ」
一応、こと水族館において、海洋生物の保護活動は立派な業務として数えられている。
適切な管理ができる前提であれば、絶滅危惧種の保全/繁殖は積極的に行うべきだし。
或いは、人の手で傷つけられた水棲生物を救う事だって、水族館による社会福祉の一環だ。
…………尤も、前者はワンオペである以上は絶滅危惧種の最適な保護など望むべくもなく。
後者に関しても同上。ただでさえ費用も時間も限界気味なのに、これ以上は背負えない。
そもそもの話、今回の保全活動は
「それじゃあ、この子達、なにか病気だったりしたのかな?」
「いいえ。疾患と言うなら、彼女らではなく────先生、"白化現象"はご存じですか?」
「えーっと…………なんだっけ、サンゴ礁が白くなっちゃうヤツだっけ?」
「はい、その通りです。この場合、病気と言うべきはサンゴ礁の方だったんですよ」
一般的に、サンゴと言えばカラフルな色合いのものを想像するだろう。
だがそれはサンゴが持つ本来の色では無く、共生する
褐虫藻は…………端的に言えば、外付けの葉緑体みたいなモノ、だろうか。
サンゴによる住居提供と、褐虫藻による養分の創出による、普遍的な共生関係。
これらの関係が破綻した際に発生するのが、サンゴ礁の白化現象だ。
「一番の原因は…………そうですね、水温の上昇でしょうか」
小難しい説明は省くが、水温が上昇すると、サンゴは褐虫藻を排出してしまう。
その結果として現れるのが、石灰質の骨格…………つまり白化サンゴだ。
だが、栄養補給の殆どを褐虫藻に任せている関係上、白化サンゴは簡単に衰弱する。
短期的なものならともかく、白化状態が長期化すれば当然サンゴは死滅し。
生態系の“土台”であるサンゴ礁が消えれば、その場の生態系全てが崩壊してしまう。
「────わたしが見つけた時には、あそこはもう、そんな状態だったんですよ」
スクリア海沿岸。ボートによる近海調査の最中。比較的浅い海で、それを見た。
波間ですら隠せない、水平線まで真っ白に染まった、サンゴ礁の死骸。
…………端的に言って、状況は既に手の付けようがない有り様だった。
元々この付近は温暖な海洋だった。昨今の温暖化の煽りを受けやすかったのだ。
死んでしまったのか、どこかへ逃げ出したのか。生命の気配が絶えた、母なる海で。
「この子達だけが、滅びに瀕した海で、取り残されていたんです」
「──────そっか」
白化現象の波は、既に居住地すら呑み込んでいた。抗いようの無い緩やかな死。
だというのに。五匹揃って身を寄せ合って、屍にしがみつくように生きていた。
わたしはそれが見ていられなくなって、気が付けば、こんな場所へと攫っていた。
この子達が同じ水槽に入っている理由は単純。引き離してはいけないと、わたしがそう思ったからだ。
「常々思っていたけど、さ。君は、とても優しいんだよね」
「…………はは。冗談も休み休み言って貰えますか、先生」
本来、動物たちはわたしの手など借りなくとも、強かに生きていく強さがある。
だと言うのに、わたしはそれを阻害する檻を作って、生存を自分に依存させた。
そんな罪を犯した理由は、本当に下らない────わたし個人が抱いた、つまらない感傷。
彼女らの境遇に、衝動的に自分の境遇を重ねて、身勝手にも憐れんでしまった。
わたしはほんの一時の自己憐憫に任せて、傲慢にも彼女らを救ってしまったのだ。
それはきっと、許されてはいけない事の筈だ。だって、そうだろう。
身勝手にも未来永劫、わたしは彼女達から選択の機会を取り上げてしまったのだから。
彼女らはあの後逃げ出したかもしれないし、奇跡的に生き残ることが出来たかもしれない。
わたしが摘み取ったのはつまり、選択の果てにあった、そんな未来の可能性。
「──────わたしはきっと。あの場所で、死なせてあげるべきだったんですよ」
だから、わたしは。決して、先生の言うような優しい子などではないのだ。
だというのに、どうしてか。温かい掌が、優しい手つきでわたしの頭に乗せられて。
「………………ううん。やっぱり君は、優しい子だよ。君自身が、どう思おうとね」
淡く踊る彼女らを眺めながら、先生は、ただ。私の頭を撫で続けた。
◇◇◇
束の間の休息が終わり。業務の為、先生はシャーレが待つD.U.へ帰っていった。
隣からの気配が消えて暫く。頭上に残った熱も冷め、わたしもその場を後にする。
その場に取り残されたのは、緩やかに泳ぐ回遊魚のみ。淡い逢瀬は終わりを告げた。
思考は既に次の業務の内容に支配されて、この寂しさもじきに消えてしまうだろう。
──────流れ星が交差するような一瞬が、わたしと先生を繋ぐ唯一だった。
…………きっとそれは、この先になっても変わらない事だろう。
どうか妙な期待は抱かないよう、皆様方。山なし谷なしオチもなし。
小さな世界の空虚な主。船織アヤナは、何を変えることも出来はしません。
これは、透き通るような世界の隅で、滅びの未来を変えられない。無力で無意味な物語なのですから。
【ノアール海洋動物専門高等学校】
生徒会長:船織アヤナ
在籍人数:一人
立地:スクリア海沖
備考:アビドスに負けず劣らずの限界過疎高校。
自治区はあるが、当然ながら人間は水中に住めない。
なんなら水族館として稼働すればするほど赤字が嵩む。
連邦生徒会的には取り潰す価値すらもないという始末。