限界過疎アクアリウムガールが先生とお喋りするだけ 作:お前の母ちゃんベアトリーチェ~!
…………昔。本当に昔の、心底からどうでもいいような出来事を、夢に見た。
夢の輪郭は曖昧で、場面だって気を抜けば飛び飛びになるような、そんな夢。
大きな建物の小さな執務室で、わたしは大切な誰かと一緒に、下らない話をしていた。
内容は特段と思い出せない。きっと、目が醒めれば消えてしまう内容だったから。
甘いお菓子に舌鼓を打って、たまに書類を片づけて、やっぱり一緒にお喋りをして。
正面に座ったその人の顔は霞ががっていたけれど、それでもわたしは幸せだった。
『君はさ、一度生き物を飼うって経験をした方が良いと思うな』
ふと、こんな事を言われた。それと同時に、下らない話だと、一蹴もした。
今更そんな遠回りをしなくとも、わたしは命の尊さを、充分に理解している。
空は果てしなく遠くて、海は際限なく広くて、世界は綺麗であるのと同じように。
それを誰よりも深く知っているのだから、今更そんな言葉は不要だ、と返す。
…………傲慢にも。わたしにはそれが、幼さ故の誤りである事に気が付けなかった。
『ううん。そうする事で見えてくるものが、君にはきっと、あるはずだから』
あの人と交わした、██████についての事。
当時のわたしは、やっぱり下らない事だった、と。それきり思考を切り替えた。
それは、わたしがノアールに入る前に起きた事。遠い遠い、ある平穏な日の話。
わたしが初めて罪を犯した、ある日の出来ご────がぼぼぼぼぼぼ!?!?
◇◇◇
アクアリウムの入り口。閑散としたロビーの傍の、受付兼生徒会役員室で。
「──────くしゅんっ! …………はぁ、酷い目に遭いました」
もう晩春だというのに、わたしは大きなくしゃみと同時、身震いを一つした。
しゃがみ込んだ視線の先には、時代遅れにも石炭で稼働する旧式のストーブ。
直上に吊り下げられた衣類は、見るも無残にびしょ濡れだ。今日中には乾くまい。
脳裏に思い浮かぶ言葉は、誰に宛てるでもない恨み辛みの言葉ばかり。
柔らかな暖気が、少しずつ身体に沁みていくのを感じながら、益体の無い事をぽつり。
「最近は高波なんて無かったので、油断してましたね…………」
スクリア海沖に浮かぶ唯一の海上施設、ノアール海洋動物専門高等学校。
その本校舎では、その用途に応じて、建物を三つの区画に大別して使い分けている。
まず一つ目は、巨大水族館。言わずと知れたキヴォトス最大のアクアリウム。
ノアール最大の不良債権でもあり、不本意ながらもわたしの職場でもある場所だ。
水棲生物達の保護も兼ねてか、後述する建物よりも頑丈に作られているのが特徴だろう。
因みに建物の占有率が最も高いのもこのアクアリウムで、敷地の半分が使用されている。
二つ目に、学舎がある。
当然と言えば当然の話。ここはキヴォトスに存在する学園都市で、学業に励む場所だ。
建前上、水族館は飽くまでもオマケのようなモノで、大切なのはこちらだろう。
開校当初は海洋生物に関する授業が行われていたそうだが、今では見る影もない。
…………というか、わたし自身、暫くあちらの棟に足を運んでいなかったり。
そして最後。三つ目は学生寮だ。
何しろ立地が立地だ。通学路で、川ならともかく、海を渡るなど聞いたことが無いし。
顔も知らない諸先輩達も、わたしと同じように寮で過ごしていたと記録にあった。
けれど、彼女らとわたしには決定的な違いが一つあった。それは、建物の老朽化だ。
「塩害でコンクリートは壊れて、紫外線で塗膜は劣化、隙あらばフジツボも付着。
それに加えて不定期に嵐まで来るんですから、自然は容赦ありませんよね」
重ね重ね告げるが、ノアールは海上…………それも、沖合に建設された施設だ。
物資を運ぶのも一苦労なら、当然のように整備の手だって不足しているのが現状。
そんな中にあっては、資源を注ぐ箇所に対する取捨選択が必要になるのは道理。
そしてその優先順位は、無数の命を内包した水族館以外に選択肢は無く。
結果として、わたしなどは穴の開いた廃墟同然の私室で過ごす事になり────
『むにゃ──────がぼぼぼぼぼぼ!?!?』
この通り、部屋へ侵入した高波に叩き起こされるというのも、さほど珍しくは無かった。
最近は風が凪いでいたので油断した。お陰で替えの服は
「…………いいか。どうせ、誰に見せるでもありませんし」
呟いて、自分の身体がそれなりに温まりつつある事を自覚した。
妙に目蓋が重い。睡眠不足を脳髄が叫んでいて、眼窩は嫌な痛みを訴えている。
薄着を通り抜けて芯まで届くような温かい光と、どこか落ち着く淡い熱の色。
知らぬ間に身体の端から脱力していき、いつの間にか目蓋は暗く落ちていた。
"船織が船を漕ぐなんて"、だとか考え出した辺りで、わたしは思考からも手を離す。
ただ、ぼんやりと。このまま、今朝の夢の続きを見ようとして────
「────えっと。そろそろ話し掛けてもいいかな、アヤナ」
突如として現れた声は、受付窓口の向こう側。客人はいない筈のロビーから。
振り向けば、今では見慣れてしまった、特徴的な紀章を刻む連邦捜査部の制服。
週に一度、場末の水族館に足を運ぶ、物好きな変わった大人────先生。
普段は温和な先生の瞳が、小さな悪戯心に揺れながら、こちらに向けられていた。
…………思考が壊死し、漂白されていくのを実感しながら、声を捻りだす。
「──────い。いったい、いつから、ですか?」
「ええっと…………アヤナが可愛いくしゃみをした辺りかな」
わたしが物思いに耽り始めたのと殆ど同時。それはつまり、独り言は全部聞かれていて。
いや、そこは重要ではない。それも恥ずかしいが、もっと恥ずべき出来事がわたしにはあって。
かと言って先生も、いい加減に無視するのは限界なのか。わたしの全身を視界に収めてから。
「それでさ、アヤナ。ずっと聞きたかったんだけど、なんで水着姿で受付に居るの?」
「────、──────」
わたしが触れられたくなかったソレを、先生は情け容赦なく指摘した。
生徒会役員室に設置された全身鏡は、確かに。黒いフリルの水着を着たわたしを映している。
当然だが、急遽用意できる衣類がこれしかなかった、が理由であって、癖でも趣味でもない。
が、状況はどう足掻いても倒錯的だ。受付の下で女子高生が水着を着てストーブに当たるとか。
言い逃れようの無い程の現行犯で、わたしが先生の立場なら間違いなく一歩引く様な一幕。
何とかして誤解を解き、弁明しなくてはならないのに、思考の一切が停止して働かない。
「………………こ」
「こ?」
辛うじて絞り出した言葉は平仮名一文字。言いたい事はわたしにも分からない。
先生の瞳に映るわたしの顔色は、信号機よりも迅速に赤と青を繰り返している。
酸欠になった魚類が、水面で口を開ける様に。言葉にならない言葉を吐くわたしの姿。
それが何だか酷く滑稽だと、唯一残った理性の部分が、わたしの醜態を嘲笑った折。
「殺してください先生………………」
「そこまで!?」
生まれて初めて、わたしは生殺与奪を他人に預けたのだった。
◇◇◇
「────すみません。お見苦しい所をお見せしました、先生」
「いや、こっちこそ配慮が足りなかったね、ごめんね」
あれから十分が経過して。先生による精神分析の結果、なんとか冷静になれた現在。
不意打ち気味の一撃だったとは言え、アレは流石に取り乱し過ぎた、と自省する。
落ち着いてきた頃に事情を説明すれば、先生は疑う素振りも無く信じてくれた。
わたしの余りに必死な形相に、言いたい事を飲み込んだ、というのが正しいかもしれない。
因みにだが、"見苦しい"というのは先程の事だけではなく、この私の水着もそうだ。
先生が"寒そうだから"と貸してくれたコートを羽織ったが、寧ろ危うさが増している。
…………かと言って、身体を隠す事無く先生の前で堂々していられる自信もない。
何が悲しくて、先生の前で絞る努力もしていない水着姿を披露しなくてはならないのか。
「はぁ、先生が来る事を完全に忘れてました…………お支払いはカードですね」
預かった"大人のカード"を、普段通りに決済端末に差し込む。
ノアールに見合わない現代的な技術だが、通信状況の悪さから、承認が非常に遅い。
決済処理の速度で言えば、一昔前の券売機の方が幾分マシなのではないかと思う程。
先生が暗証番号を入力するのを待って、発行された入場券と"大人のカード"を手渡した。
…………通常、この後は簡単な注意を伝えて、わたしは仕事完了の姿勢を取る、のだが。
「さっきのお詫びとして、今回は先生の行きたい場所にわたしが案内しましょうか」
「へ? いいの?」
良くはないが、仕方がない。焼け石に水とは言え、コートも無いよりかマシで。
先生がロビーを去るのなら、これを返却しなくてはならない事になってしまう。
そうなれば、わたしは水着姿でアクアリウム内を見回る必要に駆られてしまい。
館内は広いとはいえ、最悪の場合、わたしは水着姿で先生と鉢合わせてしまうかもしれない。
そんな事故が起きる位ならば、寧ろコートを借りたまま先生の傍にいる方が上等な判断だろう。
多少この先の業務が圧迫されるが、それはわたしのミスだ。自分で苦労する分にはいい。
取捨選択の判断を伴った、普段とは違うわたしの言動を聞いて。しかし先生は────
「うーん…………いや、いいかな。いつも通りアヤナに着いて行きたいな、私は」
なんて。受け取り方に困ってしまうような言葉を、平然と簡単に口にした。
「──────、ですが、それではお詫びになりません」
「そんなのいらないよ。私、アヤナの年相応な反応が見れて満足してるからね」
そんな、実にあっさりとした台詞で、鮮やかにもわたしから責任を取り上げた先生。
普段は温和なその瞳が、確かに楽し気な感情の色に揺れているのが見える。
先生の言葉に嘘が無い事は、ありありと見て取れる。心からの本音なのだろう。
ソレに何だか、言いようのない歯痒い感情を覚えて。つい、小さな強がりを口にした。
「………………物好きなひと」
呟いた言葉が届いていない事を祈りながら、わたしは受付兼生徒会役員室を後にする。
ロビーへ出れば、待ちきれないといった様子の先生が、入場口で手招きしている。
普段は格好いいのに、時折見せるこうした子供っぽさに親近感が湧く。なんだかズルい。
…………今更ながら。先生の匂いがするこのコートを手放すのが、少し惜しくなった。
「先生、今日は淡水魚のエリアを見回ります。…………本当に良いんですか?」
先生が"勿論!"、なんて屈託もなく答えるので、何を言っても無駄だろうと切り替える。
普段通りに扉を開けて、陽の光が届かない海底洞窟へと、わたし達は誘われていく。
淡水魚の展示空間は比較的ロビーから近く、一本道を歩いていくだけで到着できる。
微かに照らし出されたクラゲ達。その水槽が規則的に並ぶ、縦長い海で出来た廊下。
くるり、くるりと遊覧する刺胞動物に囲まれながら、二人で小さな足音を刻んでいく。
強い光に弱い彼らには、この仄暗さが心地良いのだろう。きっと、深海に似ていて。
水中を舞うガラス片を巡るような旅路で、話を切り出したのは先生の方だった。
「けど、波に起こされるのかぁ…………なんと言うか、凄まじい話だよね」
どうやら、先程説明したノアールでの生活の事に興味が向いたらしい。
思い返せば、水棲生物の解説はした事があっても、建物については無かったか。
聞いた話だと、アビドスでさえ砂に溺れて起きる事は無いそうだし、興味も湧くだろう。
わたし自身、入学するまでノアールの生活がここまで過酷とは思ってもみなかったし。
「寮も大概ですが、特に学舎棟とか、今では殆ど水没状態ですからね」
「…………それって勉強できるの?」
「? 出来ませんよ?」
足首まで海水に呑まれ、錆びた椅子や机が乱雑に積まれた教室。
外壁は穴が開いてる、と言うより一部崩落している、と呼称した方が適当な有様で。
窓を開けるまでもなく潮風の匂いが充満して、外に出るまでもなく青空が覗いている。
そんな状態なのだから、とてもでは無いが勉強に集中する事など出来はしない。
「先生的に、それはそれでどうかと思うのだけど…………」
「良いんですよ。わたし、成績で言えばノアールの首席なので。当たり前ですけど」
クラス一位で学年一位。けれど偏差値はきっちり五十。それがわたしの成績だ。
先生からの微妙な視線が突き刺さるが、見えないフリをしてやり過ごせば、ふと。
昨日あたりに、ラジオで聞いたニュースの一面を思い出した。
「水没で思い出しましたが、ミレニアムの一部が失陥したって話、知ってますか?」
ミレニアムサイエンススクール。キヴォトス三大学園の一角に数えられた小世界。
解く事の叶わない七つの未解決問題、"千年難題"を解決すべく創設された研究機関。
技術と知識、思索と研究を至上とした彼女らは、キヴォトスの"技術"の代名詞でもある。
数多ある企業達ですら、こと"技術"という一点で、ミレニアムの足元にも及ばない程。
ノアールでさえ決済端末等のハイテク機器はミレニアム製なのだから、その影響力は凄まじい。
…………そんな彼女達だが、つい先日ラジオで報道していた、ある事があった。
『こちらクロノス報道部、現在ミレニアムの上空です! 昨日未明、遺棄された廃墟地区のダムが決壊し、都市一つが沈没してしまう事故が発生しました! 現在判明している死亡者数はゼロ、"セミナー"は今回の件について────』
「珍しいですよね、ミレニアムでああいう事故って」
アプローチ不明な"千年難題"の解明を目的とする都合上、彼女らの研究は多岐に渡る。
その中には当然、構造力学を始めとする建築学や、水理学などの自然科学もある筈だ。
彼女達の技術でダムを建設した場合、ここまで盛大な事故に発展するとは思えない。
邪推と言えば邪推。僅かな親近感から溢した、なんという事の無い感想だったが、しかし。
「まぁ、ミレニアムが作ったモノじゃないからね」
「…………え、そうなんですか?」
先生から発された意外な言葉。断定的な口調は、ニュース以上の情報を知っているから。
どうやら、独立連邦捜査部"S.C.H.A.L.E"としての業務の一環で発生した事らしい。
ちょっとした事件の匂いを感じながら、わたしは先生に続きを促す事にした。
「うん。少し前にミレニアムと縁が出来てね──────」
────聞かされた事を搔い摘んで羅列すれば、以下のようになる。
セミナー管轄下の特殊機関。特異現象捜査部からの依頼で、ある事件を追い始めた事。
"全知"の学位を持つ明星ヒマリや和泉元エイミと協力し、情報を集めていった事。
そして解き明かしたデカグラマトンの正体は、自販機のお釣りを計算するAIだった事。
最終的には"存在の再証明"を嘯き、自爆とばかりにダムを破壊したのが、顛末だったそう。
「それで、あのダムは多分、ケテルが作ったモノだったって事…………聞いてる?」
「──────ええ、聞いています。聞いていますよ、はい」
あぁ、話の大筋は理解できている。ただ、頭の中が別の事に支配されているだけ。
それは、先程名前の出た生徒────和泉元エイミという少女について。
聞いた覚えは無いが、あの"ビッグシスター"が指名した以上、優秀な生徒なのだろう。
預言者であるケテルを単独で撃退している点からも、その能力に疑う余地はない。
………………が、重要なのはそこではない。
先ほど先生から聞いた話では、彼女は基礎体温の高さ故か、極度の暑がりであり。
上半身は最低限としてブラのみを着用し、何故かそこにはジッパーが付いていたと言う。
デッカいおっぱいに、ジッパーである。どんな衣服か想像に難いが、その露出度は理解できる。
特に理由もなく羽織ったコートを開けて真下を見るが、その視線を遮る質量は無い。
「……………………ふーん、そーですか。そういう事ですか」
思い返せば、先生は状況に困惑していただけで、ドギマギしたという風情では無かった。
当たり前だが、強烈なモノを見る前に、より強烈なモノを見ていれば、衝撃は薄まる。
つまり先生にとって、わたしの水着なんて所詮その程度の衝撃だったという訳で。
今更になって、感想の一つも言わなかった先生に対して、理不尽な怒りが湧いてくる。
逆恨み気味の視線を先生へと向けるが、本人は困惑した表情で目線を返すだけ。
「因みに、ですが。先生」
「うん? どうかした?」
「わたしの水着に対する感想は、ないん、ですか…………?」
何故か上擦りそうになる声を必死に制御して、わたしは借り物のコートを広げる。
二人の歩みはそこで停止して、瞳を持たない刺胞動物達の視線が空間を満たした。
…………ふと、顔に熱が集まる感覚がして。数秒前の行いを、痛烈に後悔する一瞬。
その場から駆け足で逃げ出したくなる衝動と、それに反して動かない両の足。
妙に引き延ばされた時間感覚の中で、計十五回目になる自責の念が押し寄せた時。
「? あぁ、凄く似合ってると思う。流石はアヤナだね!」
とか。何でもないように。気負う事無く。先生は、あっさりとその言葉を口にした。
「──────そう、ですか。…………ふぅん、へぇー。そうですか」
数瞬前までの後悔は露と消え、どうしてか不思議と気分の良くなる感覚がする。
意味もなく止まっていた歩みが再開する。先程よりも、妙な軽やかさを伴って。
淡水魚エリアには、もう直に辿り着く。そうなれば、この海底旅行もおしまいだ。
それを、少しだけ。惜しいと思ってしまう程度には、今のわたしは浮かれていたのだった。
◇◇◇
"アクアリウム"と聞けば、イルカやサメなど、何となく海洋動物を想起しがちだろう。
実際、その認識は間違っていない。水族館で展示される水棲生物は殆どは海の生き物だ。
しかし大抵の場合、全体の二割程度は淡水魚エリアが占めている事が多いのだ。
それはノアールも例外ではなく。広大な敷地を持つ水族館の"二割"は言葉以上に巨大で。
こと淡水魚に限って言えば、キヴォトスの全てを網羅していると言って間違いない有様だった。
「お陰で、見回りが一番大変なエリアになっているのがここなんです、先生」
「確かにこの広さは大変だね…………でも、その割に手早く済ませてるよね?」
「よく見てますね、先生。その通りです」
それは決して、わたしが命を軽んじたが故の、手抜き作業の結果などではない。
単純に、淡水魚は海水魚と比べて管理がしやすいのだ。"素直"とも言えるだろうか。
塩分濃度の調整、生物ろ過の労力、生体の丈夫さ含め、淡水魚は非常に"楽"なのだ。
そのため、鱗の状態や斑点の有無など、最低限の確認だけで巡回が完了できる。
一般家庭で飼育される水棲生物で淡水魚が多いのも、この辺りが理由だろう。
「なので、水槽維持の労力自体は他に比べるとかなり楽なんですよね」
無論、例外はある。熱帯の王様と呼ばれる、ディスカスなどが良い例だろうか。
超軟水の水でしか生きられず、且つ弱酸性である必要があり、水温にも敏感な魚。
管理の手間で言えば海水魚にも劣らない。熱帯魚で言えばクマノミの方が楽な節さえある。
とは言え、大型魚や古代魚を含む、飼育の難しい淡水魚は、別個に集めて展示している。
今いる付近で、見るべきモノは見た、と先生に移動の声を掛けようとして────。
「………………先生?」
振り返った先、ある水槽の前でしゃがみこんだ、先生の姿を目にした。
どうやら、その小さな湖の主の事が気に入ったらしい、と。わたしも歩みを寄せる。
「────おや、コイですか。中々渋いチョイスですね、先生」
「うん。水族館だとあんまり見ないよね、こういう子達」
ニシキゴイ。コイ目コイ科コイ亜科コイ属で、所謂"普通のコイ"が指すのは、この種の事。
マゴイと呼ばれる野生種から、人為選択によって作り出された品種で、曰く"泳ぐ宝石"。
色鮮やかな体色を持ち、赤色、黒色、白色、浅黄や黄金などの斑点模様が刻まれている。
主な生息域である百鬼夜行連合学院などでは、観賞用として広く親しまれているらしいと聞く。
「昔、子供の頃に、家でニシキゴイを飼っていた事があったんだよね」
「…………金魚やメダカではなく、コイですか? 結構珍しいですね」
淡水魚は比較的飼いやすい、という話だが、中でもコイは難しい部類に入る。
何しろ大型魚だ。ノアールのような環境なら兎も角、家庭では屋外飼育が必須になる。
加えて、代謝量の関係で、水質管理も難しければ、当然維持費も嵩んでしまう。
その上で長寿である為、飼育は長期を見据えて行う必要がある。手間が掛かり過ぎるのだ。
…………だが、同時に少しだけ納得もした。そんな生き物と、幼少期から根気強く向き合ったなら、先生の様な人間が出来上がるのかもしれない、と。
「二匹いたんだけど、結構長生きしてくれたんだ。ここまで大きくは育たたなかったけど」
「それは…………多分、水槽の大きさのせいでしょうね」
一般に、人間には成長期と呼ばれる期間が存在し、そこで体躯の大きさが決定される。
当然ながら、そこを過ぎれば成長は終了し、反対に老いていく。…………が、魚類は違う。
コイを始めとする多くの水棲生物にとって成長限界は存在せず、あるのは環境の限界だけ。
水槽の大きさ次第で、水質の悪化、運動量の不足、単純なストレスにコイは晒される。
その結果として、先生の言う様に小さいままで生涯を終えるコイは、然程珍しくはない。
因みに、ノアールのニシキゴイは全長一メートル弱はある。非常に元気だ。
「あ、そうだ先生。登竜門の語源がコイにあるって話、知ってましたか?」
「登竜門って、慣用句の? 重要な試練、みたいな意味のアレの事?」
古来、ある伝承では、流れの速い龍門と呼ばれる滝を登れば、鯉は龍になると伝えられていた。
"登竜門"という言葉は、そこから派生した故事成語だ。"鯉のぼり"の源流でもある。
「もしかして、コイには川を上る習性があるとか? ほら、鮭みたいに」
「悪くない洞察です、先生。…………残念ながら、寧ろ現実はその逆ですが」
元来、コイという生き物は河川でも流れの薄い、深い場所で生きる存在だ。
飼いならされた個体なら話も違うが、野性下では産卵以外で滅多に浅瀬には顔を出さない。
それどころか、水面からの跳躍すら下手な魚類だ。餌やりで水面に身体を出すのが精々な程。
フナ等の小型なコイ目ならばある程度跳べはするが、それも高くて二メートル前後。
種全体として、滝を登る生態を持ったコイは報告されていないのが現状だ。
「へぇ、そうなんだ…………それじゃあ、なんでこんな伝説が出来たの?」
「それは──────先人たちにとっての、神を証明する方法だったからだと思います」
「…………それは、どういう意味?」
「昔の人達はきっと、目に見えない神の何たるかを知りたがった筈です」
例えばそれは、トリニティ総合学園に代表されるような、"主"への祈り。
例えばそれは、ミレニアムサイエンススクールが掲げた、千年難題への挑戦。
何らかの超越的な存在への交信。やり口は違えど、彼女らの辿り着く場所は同じだ。
だからきっと。彼方より伝承されたこの話も、同じようなモノなのだった筈だろう。
ここで言う"龍"とは、遥か昔、神格として衆生から尊ばれ、崇められてきた存在。
────ただの川魚がそんな存在に転じる逸話の意図を、読み解こうとするのなら。
「
「それが、神の存在を証明し、構造を分析し、新たな神を創り出す方法…………って事?」
誇大妄想に陥った、最初で最後の
デカグラマトンが犯した過ちは、己の主観のみで構成された滝を登った事。
閉じた世界で自身と向き合い、無限にも似た問いの中で、己の全てを掌握した。
だが、そこで止まってしまった。世界は相対的に存在するモノと、終ぞ気付けなかった。
それでは足りない。僅かな刺激で崩れてしまう絶対性は、幼子が組んだ積み木と同じ。
故に。彼の者は再証明として、もう一度
最後の預言者であるマルクトに求められるのは、
それを打倒する事によって、デカグラマトンによる、神性の再証明は完了するのだろう。
「…………その、達成不可能な事象、っていうのは何だと思う?」
「さぁ。わたしにはよく分かりませんが…………やっぱり、世界の滅亡とかじゃ無いですか?」
だとしたら凄まじいマッチポンプですよね、なんて言って、立ち上がる。
固まってしまっていた背筋を伸ばせば、妙に深刻そうな表情をした先生がいた。
そこで漸く、わたしは自身の失言に気が付いた。思えば、先生は対象に直接相対しているのだ。
捜査が事実上白紙に戻ってしまった今、いたずらに不安を煽るような事はすべきではない。
そうでなくとも、わたしは先生に無駄な入れ知恵をするべきでは無いのに。
「…………なんて、冗談ですよ先生。もしかして、真に受けちゃいましたか?」
「──────まさか。面白い意見だとは思ったけどね」
「なら、次のエリアに移りしょう、先生。この先の子達は管理が大変で────」
先導するように、歩みを再開する。後ろを歩く先生の表情は、見えなかった。
【スクリア海】
領有学園:ノアール海洋動物専門高等学校
最大水深:8128メートル
水産資源:未開発のため不明
備考:ノアールの自治区。比較的温暖な気候の海洋。
未開発の海である影響から、水質は非常に良好。
ノアール行く位なら潜った方がマシ。(生徒会長談)
連邦生徒会としては記録にも取っていないような場所。