限界過疎アクアリウムガールが先生とお喋りするだけ   作:お前の母ちゃんベアトリーチェ~!

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限界過疎アクアリウムガールとクジラの話

 ──────昏い、雨が降っていた。

 

 まだ日の高い時間帯の筈なのに、空は溜息に似た灰色で、世界は夜のように藍い。

 鉄筋が剥き出しになったコンクリートへ、大海そのものが注がれるような豪雨が走る。

 曇天の景色を遮るよう。わたしの頭上には、潔癖なほど白い、張り詰められた生地が一つ。

 いつか、手慰みに改造した愛銃の姿。傘の機能を持つようになった仕込み銃は、しかし。

 折れてしまう事こそ無かったが、この豪雨からわたしを護るには、役不足だったらしい。

 横殴りの雨、傍で跳ねる水滴。わたしの身体は十秒と経たずに塩辛い雨粒に濡れていた。

 

「…………久しぶりですね、こんな大雨は」

 

 一般的に言って、海上の雨は陸上に比べ勢いが弱い。大抵は霧雨か小雨で終わる。

 原因は様々、陸地に比べ海水の比熱が低いとか、雨粒の落下途中での蒸発量が少ないとか。

 その辺りの性質上、室内に居ればまず気が付かないし、長時間浴びなければ風邪も引かない。

 …………が、極めて稀に発生する局所的積乱雲は例外だ。これらは海上でも強い降雨を生む。

 夏も近づいて来た現在、わたしは突発的な豪雨を視野に入れておくべきだったのだが。

 

「…………はは。完全に油断してましたね、わたし」

 

 遠くに見える、強風で荒立った高波。わたしの足元には、大雨に没した旧式ラジオ。

 いつぞやにお昼寝した時、一々屋内に持ち帰るのも面倒だ、と置いて行ったのが仇になった。

 随分長い間雨に打たれていたのだろう、喘鳴の様に吐き出されるのは、ノイズで出来た声。

 僅かながらに好奇心が湧いて。慣れた手つきで、周波数を合わせる為につまみを回した。

 

『先生の意識が戻らなくなってから、百日が経過した本日、病院から緊急発表があり────』

 

 あの日。わたしが"また明日"と手を振った日の翌日、()()()()()爆発事故が発生した。

 ()()()()先生がシャーレに居る時間帯に、()()先生のいる階でのみ起きた、大規模な爆発。

 その時、()()()()奇跡を起こす聖櫃は起動されておらず、()()()()()()当番も出払っていた。

 後に病院に運び込まれた先生だが、初動救助が遅れたせいもあってか、回復は難航。

 ラジオでは(ぼか)されていたが、情報通りなら、その姿は正視に耐えるモノではなかった筈だ。

 

『医療関係者は先生の回復は見込めないと判断────蘇生は不可能と────』

『これ以上の延命治療は無意味であると────本日より──日以内に全ての生命維────』

 

 そして、学園の垣根を越えた特殊医療本部の英知ですら、最後の最後には匙を投げた。

 だが、彼女達の努力は本物だった。あらゆる手を尽くし先生を救う方法を模索し、挫折した。

 祈りも、言葉も意味をなさず。神秘も、奇跡も、崇高も、何一つとして成果を生まなかった。

 出来る事を全てやった上での絶望。或いはそれこそ、諦めもつくというモノかもしれないが。

 

 しかし。それを悼む間もなく、終焉がやって来た。全ての悲嘆を、恐怖で飲み込む地獄だった。

 

『GSCより緊急異常災害警報が発────彩が学園都市に接──反転──各学園機構は避──』

『連邦特務防衛機構より、警戒規定コード:S-8128が発令──現在本部との連絡は取れず──』

『新たに十七学園が消失────万人の死傷者──連邦生徒会は行政機能を完全停止し──』

 

 前触れはなく。ある砂漠で唐突に発生した"ソレ"は、瞬く間にキヴォトスを破滅に追いやった。

 発生から警報が発令されるまでの僅か二時間で、この学園都市の生命の内、五分の一が喪失。

 次ぐ二十四時間の間に終末迎撃戦線が構築され、崩壊。連邦生徒会は己が意義と力を失った。

 これを受け、全学園が利害を超越し抑止に当たるも、三大学園の失陥という敗北を以って決着。

 …………この時点で、各学園による局地的な反抗以外に出来る事は無くなっていたが、さらに。

 

『────にて遺物の王女の起動──聖域の顕現────神秘法則の歪曲が観測され──』

『世界の存続は不可──旧連邦──最終協定に基づき、プロトコル・秘密金庫の実行────』

『各学園機構の誘導に従い、決して────ぁ。うそ、やだ────痛い。痛い。痛い。痛』

 

 バキン、と。右脚を振り下ろす。発生した音は雨露に消えて、機械の生には終止符を打たれた。

 この暴挙は、何もわたしの感情が揺れ動いた結果から来るものではないと弁明しておこう。

 古い世代の機器。既に回路の所々が破綻していた。このラジオは最早、助からなかったのだ。

 加え、既にクロノスを始めとした全ての学園が消滅している以上、存在意義すらも怪しい。

 …………ならば、このまま緩やかに死ぬより、派手に散った方が慰めになると思っただけだ。

 

 そう。決して、わたしの無力を苛むだけのラジオが憎かったから、なんて理由ではない。

 

「………………きっと。もう、止まないんでしょうね、この雨は」

 

 無意味な感傷。独り言を呟いてから、左腕の腕時計を見やるが、それが鳴る事は無かった。

 意識を切り替える。記憶が確かならば、次の予定は確か、熱帯魚エリアの巡回だった筈だ。

 ────最早この場所に用はない、と。わたしは愛銃(かさ)を閉じて、屋内へと踵を返した。

 

 ◇◇◇

 

 ぴちゃん、ぴちゃん。雨露に濡れた身体を顧みる事なく、わたしは館内を歩いていく。

 

 照らし出される、無数の世界。きっと、神様から見える景色はこれに似ている。

 僅か四センチの断絶。映るのは、青空よりも深い色で構成された、小さな箱庭。

 塩水で満たされた、仄暗い海。考えてみれば、外も内も同じような有様だな、と嘲笑する。

 足跡の代わりに残される、這うような水滴の痕。責めるような小魚の瞳が向けられた。

 

「掃除が面倒なので、本当は良くありませんが…………まぁ、どうせ。先なんて無い事ですし」

 

 構いませんよね、と。わたしは振り返る事もせず、暗い回廊で、ただ先を急いだ。

 結局、"色彩"はキヴォトスを確かに知覚し、愚者により招き入れられる形で終焉を運んだ。

 ベアトリーチェの企み。高慢なる野心。色彩に触れ、自己を"崇高"へ引き上げさせる試み。

 画策された狂気の計画、それそのものは、ゲマトリアが打ち砕いたようだが、それだけ。

 

 結局。あの不可解な存在も、事が終わって見てみれば、期待外れも良い所だった。

 彼らが用意した対策。"聖徒の交わり"、"止め処無い奇談の図書館"、"聖十文字の預言者"。

 ソレらは死の神へ多少の抵抗を見せたものの、最期には曝露し、終焉の一端を担ったのだから。

 ゲマトリア自体も、顕現から二時間以内に壊滅。探求も、崇高も、恐怖の前に意義を失った。

 

「…………だからと言って、最後の悪足掻きに、名も無き神々の王女を起動させるとは」

 

 まったく巫山戯た真似をしてくれた、と舌打ちをしそうになる衝動を、理性で飲み込む。

 調月リオが終末に備え完成させた要塞都市"エリドゥ"を揺り籠とし、ソレは生まれ落ちた。

 毒を以て毒を制す、なんて言葉があるが、それにしたってこれは無いだろう。

 無名の司祭の遺産を以って、無名の司祭が与する色彩に抗おうなど、正気の沙汰ではない。

 

「一応、危険な存在同士の対消滅の可能性を狙った、と言考えれば筋は通りますが。

 …………あの連中の事です。敗北を悟って好き放題やってみた、という方がしっくり来ますね」

 

 "プロトコル/ATRAHASIS"を稼働させた王女と、死の神"アヌビス"として覚醒した少女。

 文字通りに世界を揺るがした両者の衝突は、誰に観測される事も無く決着した。

 何が起きたのか、それを知る者は全て死んでいる。残されたのは、壊れたヘイローの破片のみ。

 結果から紐解けることはたった一つ。キヴォトス全土の実に三割を消失/変質させた闘争の後、立っていたのは死の神の方だったという事だけ。

 

()()()三割程度で済んだのは、"ビッグシスター"が何らかの措置を取った結果でしょうか」

 

 もしもアレらが万全の状態で戦闘を開始すれば、結果がどうあれ、世界の方が保たない。

 一人で終末を予期し、備えていた彼女の事だ。恐らくは王女の方に小細工を弄したのだろう。

 …………尤も、その抵抗に意味があったかについては、首を捻らざるを得ないが。

 なにせその後、色彩にはアトラ・ハシ―スの箱舟と同様の、多次元解釈現象が観測された。

 過程こそ不明だが、恐らくは色彩へ概念的に吸収された、と見て間違いないだろう。

 

 その結果、連邦生徒会を主導とした終末迎撃戦線が構築されるも、崩壊。

 エデン条約の一件で疲弊しきったゲヘナ/トリニティと、指揮系統の頂点を失ったミレニアム。

 三大校を筆頭とした反抗作戦は、その全てが失敗に終わり。襲い来る終焉に呑まれて行った。

 そして、最後の最期。禁忌の最終協定によって蘇った救世主でさえ、死神の前に敗れ去った。

 つまり──────学園都市キヴォトスは、既に。無人の荒野へと成り果てていた。

 

「…………………………」

 

 去来した感傷を、溜息と共に吐き捨てるのと同時。目的地である、仄暗い海へと辿り着いた。

 

 声すら溶けそうな暗い廊下と、対になるよう照らし出された淡い水槽。

 人工的に創造された、小さな海。憂いの無い泳ぎは、隣接する別の海に気づいていない。

 水温、照明、住民。それら全てが異なる、規格を同じとするだけの異世界が並ぶ通路。

 大きく複雑な、迷路にも似た内装。壁に埋め込まれた水槽が並ぶ内の、隅の隅で。

 

 わたしは、ある水槽の前で。見知った…………けれど様変わりした、大人の姿を一つ認めた。

 

「………………こんにちは。お久しぶりですね」

 

 二メートルを超える体躯と、萎れた包帯で巻かれた全身。真っ白な装束は、死者のソレ。

 肩部には赤い姿勢制御装置、顔部には金属で出来た固定プレートが張り付けられている。

 伸びきった白い髪。息遣いは無く、生命の気配もしない。出来の悪い彫刻の様でさえある姿。

 その内のどれもが、わたしの知っている"その人"のカタチには沿わなかったけれど。

 ────わたしの理性は、目の前のヒトガタが、紛う事なく"先生"である事を理解していた。

 

「先生、少し見ない間にイメチェンしましたか? …………あはは、冗談ですよ」

「………………」

 

 わたしの言葉に反応したのだろうか、声を発する事なく、先生は顔をこちらに向ける。

 …………無言で見つめ合う数秒間。沈黙は重く、鉄仮面の上からは感情も汲み取れない。

 水槽の中さえ凍り付くような静寂の中で、不意に。思い出した事柄が一つだけ。

 

「────あぁ、忘れてました。今は生命活動の全部を"あの子"に任せてるんでしたっけ」

 

 本来ならば、指一本動かすのさえ不可能なほど破損してしまった、先生の身体。

 目も見えず。耳も聞こえず。顔はプレートで固定する事で、ようやく人らしい体面を保つ有様。

 色彩に曝露し、"色彩の嚮導者"と成り果てど、既に死体へ変わった身体が修復される事は無く。

 シッテムの箱のメインOS、"A.R.O.N.A"が目となり、耳となり、停止した心臓の代わりとなる事で、先生に仮初の命を与えている。

 

 つまり…………先生はもう、声を発する等の、人間的活動の為の機能を完全に喪失している。

 わたしに振り向いても言葉を発さなかったのは、根本的に声が出なかった、という話だった。

 自身の無意味な行動を咎めるように、先生はわたしから視線を切って、意識を水槽へ戻した。

 ……………行動から察するに。今は限定的に、無名の司祭達の影響から離れているのだろう。

 仮に先生が今も奴らの支配下にあったのなら、この場所に来る事すら不可能だった筈だし。

 だから、わたしの目の前にいる人は、やっぱりわたしの知っている"先生"なのだろう。

 

「────その水槽の子が気に入りましたか、先生」

 

 高くなった背丈の隣へと。先生が見つめていた水槽では、胡乱な魚影が踊っていた。

 白紙の展示カード、急ごしらえの水槽。真っ白な珊瑚と、寂しくなるような広さの内装。

 それは、いつかの日。わたしが、近海で保護したクマノミ達に用意した水槽だった。

 けれど、どこか水槽内の様子がおかしい。わたしが保護した時、確かに五匹いた筈なのに。

 

 ────どうしてか。水槽の中には、スノーフレークオセラリス(シロいクマノミ)しか見当たらない。

 他の子達はどこだろうと、先生が周囲を見渡している。わたしにはそれが、酷く痛かった。

 

「先生…………その子以外のクマノミは、皆。死んでしまったんです」

 

 わたしの言葉に、先生の動きが停まる。あの子達を襲ったのは、原因不明の衰弱だった。

 少なくとも、水槽内の虐めや栄養状態に起因する物ではなく、水質検査も異常なし。

 水温の変化や酸素不足、外傷や混泳相性の面も調査してみたが、芳しい成果は無かった。

 老化の線もあったが、どの個体も充分若い部類だった。結果、わたしが下した結論は。

 

「多分、心因性の免疫低下…………だったと思います」

 

 始めに、ブラッククラウン(黒色のクマノミ)が消えた。最も活発だったあの子の最期を、誰も知らない。

 血も、肉も、何もかも。存在の痕跡の一片すら残す事無く、ある日水槽から居なくなった。

 誤って水槽の外へ出てしまったのかと周囲を捜索したが、その屍すら発見できずに終わった。

 

 それに次いで、セミピカソクラウン(黄色のクマノミ)が衰弱の傾向を見せた。鱗の逆立ちが確認されたのだ。

 わたしは彼女を、バックヤードの展示槽から治癒槽に移した。きっと最善の行動だった。

 けれど、鮮やかな黄色の体表は時を経るたびにくすんだ色に変わり、果ては"そうなった"。

 

 アルビノ個体のカクレクマノミ(目元の赤いクマノミ)も同様。原因不明のまま弱り、薬液の治癒槽に移されて。

 それから暫くの間、あの子を延命こそ出来たものの、彼女の容体を回復させる事は出来ず。

 いつの間にか水槽の外に飛び出し、死んでいた彼女を、巡回中だったわたしが発見した。

 

 そして。ハナビラクマノミ(桃色のクマノミ)は、周囲から仲間がいなくなった事に耐えられなかったのか。

 狂ったような攻撃性を発現させ、残るスノーフレークオセラリスと争い始めてしまった。

 わたしは急ぎ治癒槽に隔離したが、斑点と外傷に弱ったのだろう、眠るように死んでいった。

 

 …………結局。現在まで生き残ったのは、スノーフレークオセラリス(シロいクマノミ)のみ。

 それすらもう、全身に回った黒い斑点と外傷に酷く弱り切って、碌に遊泳も出来ていない。

 水槽の底にじっとして、横たわっているにも関わらず反応は鈍く。ヒレは閉じ切って動かない。

 見目麗しい回遊など望むべくもなく。そこに在るのは、死に瀕した熱帯魚の最期だけ。

 先生の方を盗み見れば、何時までもこの水槽を見つめて良そうな気がして。…………きっとそれは、良くない事なのだと思った。

 

「ここに居ても仕方がありません。…………場所を移しませんか、先生」

「………………」

 

 無言による返答。わたしの言葉に、先生はこれと言った否定も肯定も示さなかった。

 わたしが手を引けば、先生は簡単にこの水槽を離れるのだろうが。それは少しだけ憚られる。

 なにせ死体も同然の身体。強引な手段など取りたくはないし、歩かせる事にすら不安が残る。

 いつかのように、ロビーから車椅子を持って来て移動するのも悪くは無いが、少しだけ面倒だ。

 ────脳裏に浮かんだのは、第三の選択肢。僅かな迷いは、どうでもいい事と切って捨てた。

 

「もう二度と明日の来ない世界ですし…………今更取り繕う必要も、ありませんよね?」

 

 小さな諦めと共に、パチン、と指先を鳴らす。──────刹那、周囲の景色は一変した。

 

 始めに眼前を染め上げた色は、青だった。空よりも深い藍。視界いっぱいに広がった水の色。

 水流に揺れ、乱反射して降り注ぐ陽射しの白が眩しくて。瞬きを何度か、目を細める。

 息を止める必要は無かった。見てみれば、わたし達の周囲には硝子で造られた断絶がある。

 アクアリウムの水槽と同じ様相。違った点は、飾られているのはわたし達の方という事。

 ここは無機質な水底の、半径十メートルの小さな半球。厚さ数センチの透明で出来た小世界。

 

 指を鳴らしてから、僅か一秒。──────真実。わたし達は遥かな海底へと移動していた。

 

「どうですか先生、わたしの"手品"。ここ、コレでしか来れない秘密の場所なんですよ?」

 

 周囲に出入り口はない。見える景色は何処までも青く、どこを見ても逃げ場はなかった。

 アクアリウムの真下。深海百メートルに置き去りにされた、明らかな欠陥建築がこの場所。

 完全な密室空間への、不可解な移動。それに、先生は然程驚いた様子を見せなかった。

 当然と言えば当然の話。先生は既にこの"手品"を知っていて、使った事さえもあるのだから。

 …………因みにだが、普段の水族館業務でこの"手品"を使った事は無い。なんだかズルいし。

 

「暇を見つけてはここに来て、ぼーっとするんです。その時間が、ノアールで一番好きでした」

 

 発した声が、半球の空間に響くと同時、硝子の向こうの海へと吸い込まれていく。

 この空間はひどく不思議で、深夜であれ大雨であれ、常に真っ白な日差しが差し込んでいる。

 海の底まで届く清廉な明かり。ここで独り、海に還った心地になる、瞬きに似た僅かな時間。

 原初の星々を眺めるより、ラジオに外の世界へ思いを馳せるよりも。ずっとずっと好きだった。

 先生はどう思っただろうか、と。盗み見るように振り向けば、わたし達の視線は交差した。

 

「…………? あぁ、どうしてこんな場所が存在するのか、気になってるんですね。

 なんでも、学園の設計段階の頃にシロナガスクジラを飼育しよう、なんて計画があったそうで」

 

 シロナガスクジラ。哺乳綱クジラ偶蹄目、ナガスクジラ科、ナガスクジラ属の生物の総称。

 言わずと知れた世界最大の生命種。成体の全長は二十メートル、体重は最大で二百トンに及ぶ。

 鳴き声も非常に大きく、百六十キロメートル離れた個体とのコミュニケーションも可能だとか。

 食性はオキアミに特化。歯を持たないが、上顎にある"鯨ひげ"を用いて水を濾過、摂食する。

 よく勘違いされがちだが、クジラの潮吹き(ブロー)はこの時に濾過した海水ではなく、浮上時に息を吐く際、呼気に含まれる水蒸気が噴出したモノだったりする。

 

 この空間は、そんな彼らを展示する為に用意された場所。…………その名残という訳だった。

 

「………………何となくお分かりでしょうけど。多分、例の人が発案者だと思われます

 水族館でシロナガスクジラを飼育する、とか。とても正気の沙汰とは思えませんし」

 

 実際、記録によれば、理性的な周囲の生徒の制止によって、実現は何とか阻止されたと言う。

 当然と言えば当然の話。いつぞやの南極ペンギンの飼育も大概だが、これは話の次元が違った。

 ────世界中のどこを探したとしても、シロナガスクジラの飼育例など存在しないのだから。

 

 シロナガスクジラの体長は非常に大きく、それでいて回遊性で長距離を泳ぐ習性を持っている。

 半端な水槽では自然行動が阻害され、慢性ストレス/行動異常が発生する可能性が極めて高い。

 加え、餌の必要量も莫大だ。近年の研究で、一日平均十六トンにも及ぶ摂食が報告されている。

 陸上…………否、海上であっても飼育は非現実的で。まして絶滅危惧種、社会的な問題もある。

 技術面、経済面、倫理面。どれを取っても大問題で、その実現は困難と判断が下された。

 

「そういう訳で、シロナガスクジラの展示には、不可能の烙印が押されたんですよ」

 

 

 そう、世界最大の生命を飼育できる水族館など、この世界のどこにも存在しない。

 ────だとすれば。視界を埋め尽くした現実を、一体どうやって説明しようと言うのだろう。

 

 

 山のような躯体が、無音のまま海を割っていく。世界は即座に、鮮やかな巨影に覆われた。

 青灰色の皮膚は星雲の如くにまだらで、波立つ陽光を纏った姿は、きっと幻想にも似ている。

 真っ白な腹部に(はし)る流線形。わたし達の視界を攫った、全長三十メートル。海洋を統べる者。

 緩慢な回遊は、されど力強く。一息に巡る心臓の鼓動は、硝子の奥のわたし達さえも震わせる。

 この海を生きる唯一。並ぶ者の無い孤独は、しかし余りにも美しく。絶対性の名は、きっと孤高。

 

 惑星の太古。記憶の果てに育まれた、生命の完成。────シロナガスクジラが、そこにいた。

 

「────、──────」

 

 隣に立った先生から、純粋な驚愕の感情が伝わってくる。

 飼育は不可能と否定された生命が、眼前を泳ぐ。言葉に反した視界は、きっと矛盾だった。

 或いは、其を取り巻く海さえ奇妙で。それは、出入り口の無いドームとか、そんな話じゃなく。

 そもそもの話、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 いる筈の無いシロナガスクジラ。存在出来ない筈の現実が存在する、この矛盾。

 それを解消できるのは、至極単純な理屈。どうという事は無い、当たり前の話。

 

 ──────()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「海の生き物はみんな大好きですが、特にクジラが一番好きなんです、わたし」

 

 シロナガスクジラを見つめながら、過去へ回帰する。きっかけは確か、崩れかけの売店だった。

 わたしがノアールにやって来て間もない頃、併設されたギフトショップを探索した事があった。

 内壁はボロボロ、電灯はとうに破裂して地面に破片が撒かれた、ノアールによく見られる廃墟。

 他と違う点があるとすれば、水色のクジラのぬいぐるみが、一つだけ寂しく飾られていた事。

 不意の好奇心に、ぬいぐるみを拝借──料金は払ったが──して以来、クジラに興味が湧いた。

 

「ほら、あれ、見えますか? 凄いですよね、生き物なのにフジツボが付着してるんですよ」

 

 ノアールの資料室に備え付けられていた図鑑から、少しずつクジラの事を知っていった。

 心臓の質量が百八十キログラムもあること、脳の半分ずつを休ませる"半球睡眠"を行うこと。

 多くの事を知って、多くの事を好きになった。この場所でクジラを眺める時間が愛しかった。

 雄大なところ、眠たげなところ、泰然としているところ。…………優しい目をしているところ。

 身動ぎ一つすら目が離せない。多分わたしは、この生き物の全てが好きになって、憧れたのだ。

 

 ────昔のわたしが、本当になりたかったモノ。決して届かなかったひとに、似ていたから。

 

「何より気に入ってるのは、その死後です。…………ホエール・フォール現象をご存じですか?」

 

 ホエール・フォール現象。シロナガスクジラの一世紀にも及ぶ命が尽きた際に発生する神話。

 先の無い命が、静かな海底に横たわった後。三段階に分けて執り行われる、自然の盛大な葬儀。

 

「死後、深海へ墜落したシロナガスクジラの身体は、多くの生き物の糧になるんです」

 

 その第一段階、移動性腐肉食動物期。クジラの死骸は豊富な栄養源、多くの生命が群がりだす。

 サメ科魚類、サケ科魚類、深海ザリガニ類、アムフィポッド類が、軟体組織の全てを消費する。

 最大で二年程度、日に六十キログラムもの肉が捕食され、骨のみになるまで第一段階は続く。

 それは、ホエール・フォール現象の中で最も劇的な時間。数多くの生命が集う不夜の宴会だ。

 

「その次は第二段階、富栄養化/機会主義者段階に移行します」

 

 肉の残滓が堆積物と周辺水層を急速に富栄養化する事で、周囲の生命が爆発的に増加する。

 多毛類、甲殻類、軟体動物や、その他微生物の活動が活発化し、底生の酸素が局地的に低下。

 栄養が尽きた頃には、水質は酸性に変わり、硫酸還元菌やメタン生成菌が活動しはじめる。

 期間は数ヶ月から数年。シロナガスクジラ程巨大な場合は、より長期化する傾向にあると言う。

 

「そして第三段階。硫化物駆動段階へと移り、全ての工程は完了するんです」

 

 骨髄や骨の脂肪が微生物分解で硫化物を生み、硫化物酸化バクテリアが化学合成を行う。

 …………簡単に言えば、二枚貝を筆頭にした貝類全般、管状虫が住みやすい環境が形成される。

 結果、周囲に化学合成系の"オアシス"が形成され、海底周囲の生物多様性が引き上げられる。

 それから先、百年以上に及び、その場に生態系を作り出す。いつか朽ちて、跡形もなくなるまで。

 

「クジラはその死を以って、世界を一つ作り上げるんです。…………ロマンチックでしょう?」

 

 先生へと向き直る。わたしを見つめる鉄製のプレートは、深い悲しみを湛えているよう。

 この結末に至った今、全ては手遅れだ。…………けれどまだ、わたし達の役割は終わらない。

 まだ、出来る事はある。きっと無様な悪足掻き。それでも、後悔を残さない為に、前へ。

 ────大丈夫。大丈夫です、先生。死した生命が、次の世代へと命脈を繋いでいくように。

 

「──────この結末を辿った先生だからこそ、してあげられる事がある筈ですから」

 

 

 滅びゆく世界。明日を見失い、終焉を迎えた世界より、"未来"という名の贈り物を────。

 




【プロトコル・秘密金庫】

承認者:連邦生徒会長
実行条件:世界終末時計が午前零時を指した場合
対象:シャーレの先生
備考:過去、連邦生徒会長が採択した救世の最終協定。
   世界滅亡の際、奇跡を起こす者を一度だけ蘇生可能。
   現代医学に蘇生不可と判断されようと、確実に甦る。
   代償はサンクトゥムタワーが持つ全機能の喪失/崩壊。

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