TS女魔法師になったネトゲ廃人~極悪アップデートのVRMMO世界に放り込まれるなんて聞いてない! 作:桐谷アキラ
激動の一日終わり、夜が明ける。
煤に覆われた工房街の屋根越しに、淡い朝の光が差し込んでいた。
冷えた鉄床からはかすかに残り香のような熱が立ちのぼり、梁には白い朝靄が薄くたなびいている。
物資を仕分ける生産組はようやく一息をつき、戦闘組は鎧の革紐を確かめたり剣を磨いたりしている。
ざわめく喧噪の中――セレスは長椅子に座らされ、背後から両肩を小さな手でがっちり掴まれていた。
「セレスさん、まずは髪。髪の長い人にとって寝癖が一番の敵です」
「え、えっと……そんなに?」
「そんなに、です。ほら、結んでたの外して」
結わえて眠ったはずの髪は、朝露を吸った藁のようにところどころ跳ねていた。
リリィは小瓶から油を一滴だけ指先に落とし、細かい櫛で毛先から丁寧に梳いていく。
くし、くし、と規則正しい音が耳に心地よく響く。
絡まりを見つけると無理に引かず、指でほぐしてから再び櫛を通す。
その一手間一手間が、まるで儀式のようだった。
「首、力抜いて。はい、上を向かないでください」
「……う、うん」
セレスの声音はどこか柔らかく、その所作は思った以上に淑やかだった。
人前に立つセレスは、常に完璧――言葉遣いも、背筋も、手の動きまでもが女性より女性らしい。
だが生活の中では、そうした振る舞いが途端にぎこちなくなる時がある。その落差こそが、リリィの目に映った「セレスの弱点」だった。
「前髪は目の上ぎりぎり。横は耳にかけて――そう、その指。うん綺麗」
「こ、こう?」
「はい、よくできました。次は髪の結い方。戦闘のときは高めのポニーテールがいいかも。工房内は低めに纏めるのが安全です」
小さな手が素早く紐を結い、金糸のような髪が弧を描いて収まる。
毛先に指で軽く水を撫でると、朝光を受けてさらに澄んだ輝きが宿った。
横手で見ていた職人の娘が思わず口笛を鳴らし、ヴァレリアが感心したように腕を組む。
「へぇ、似合うじゃないか。リリィ、手際がいいね」
「毎日やってますからね。女の子の可愛いは積み重ねなんです」
「か、可愛いは……積み重ね……覚えておくよ」
セレスが真剣に頷くたびに、周囲の空気が和んでいく。
少し離れた場所では、ガルドが横目でちらちらと視線を送っては胸を押さえ、カイが「初心者、深呼吸」と肘で突いていた。
教えれば驚くほど呑み込みが早い。
リリィの中で、セレスの姿は「外ではきちんとしているのに、家では少しポンコツなお姉さんを世話する妹」という像で固まりつつあった。
「次、袖口。手を上げる癖があるから、肘から流すように――」
リリィは一瞬だけ仲間たちの男勢にちらりと視線を流し、少しだけ声を潜めた。
「……だって、隙間から覗かれたら嫌でしょう?」
その言葉に、セレスは目を瞬かせ、頬をほんのり赤らめた。
気づけば男たちは、咳払いをしたり、目を逸らしたり、妙に真面目な顔で天井や床に視線を固定していた。
誰も声を出さない。ただ、耳の先が赤くなっているのが誤魔化しきれていなかった。
「ありがとう、リリィ。ここまで考えたことはなかった」
「どういたしまして。ベルトはきつすぎないように、指二本分の余裕。食べる前には手、髪、口元をチェック。最後に――鏡」
「鏡?」
「うん。水面、使いますね」
リリィは桶の水に掌をかざし、小さく詠唱した。
水面が震え、やがて凪いで銀の板のように滑らかになる。
仲間たちが息を潜め、一斉に覗き込んだ。
――息を呑む音が重なる。
この世界に来てから、自分の顔をこうして正面から見るのは初めてだった。
慌ただしく状況に流されるままで鏡という鏡に触れることなく過ごしてきたのだ。
水鏡に映るのは、金の髪に朝光を宿した少女の顔。
頬の線は思っていたより柔らかく、瞳は静かで、長い睫毛が影を落としている。
――自分が想像していたより幼く、それでいて強い。
「……これが、わたし……なんだね」
呟きは風よりも小さく。
リリィは隣で胸を張った。
「はい。今日の“セレス”。可愛いだけじゃなくて、頼れる人の顔です」
セレスは水面から目を離さず、ゆっくり瞬きをした。
羞恥はある。だがそこに映るのは、外で必要とされる仮面であり――同時に、自分が選び取った生きる姿でもあった。
透明な水鏡はただの液面にすぎないはずなのに、そこには現実が鮮やかに返ってくる。光を帯びた金の髪、冷静さと決意を湛えた瞳。セレスは、思わず自分が自分を知らない誰かに見られているような心地を覚える。
周囲の者たちも、思わず息を呑んでいた。
それはセレスの変化に驚いたからだけではない。水鏡は彼女だけでなく、覗き込んだ仲間たち全員に――この世界での「現実の顔」を映し出していたからだ。
ヴァレリアが、鋼のような視線を自分に向け、そして「悪くない」と笑った。映るのは戦場を渡り歩いた痕を刻んだ女戦士の顔。だが彼女はむしろ、それを誇りとして受け入れていた。
「……これが、私か。――いいじゃない、思っていたよりかっこいいじゃない」
隣でエレナは小さな声を漏らし、揺れる栗色の髪をそっと撫でる。華やかで愛らしい顔立ちは、彼女自身が思っていた以上に「少女らしさ」を残していて、彼女は頬を赤く染めていた。
「こんなに……幼く見えるなんて。だ、誰も笑わないでよね?」
リオナは一瞬だけ目を伏せ、指先で目元を押さえた。自分の顔に宿った緊張と恐れがはっきりと映っていたからだ。けれど次の瞬間には息を整え、そっと鏡の中の自分に微笑みを返した。
「……ううん、大丈夫。怖がってるのも私だけど。受け止めなきゃ」
ハルトは両手を祈るように組んで見つめていた。映る顔は逞しい騎士のものだが、どこか頼りなさや弱さも残っている。それを悟ったのか、彼はゆるめた指先に力をこめ直し、決意を噛みしめるように視線を上げた。
「まだ覚悟が足りないな……けど、俺は強くなる。あいつらのためにも絶対に」
ガルドは水鏡に浮かぶ自分の顔を見て、ほんの一瞬だけ目を逸らした。あまりに真っ直ぐで、現実味がありすぎたからだ。だが次には、もう一度しっかりと見据える。逃げない、と示すように。
「……そうか、これが今の“私”なんだな。なら――“俺”も前に進むだけだ」
それぞれの言葉に誰も軽々しく返せなかった。
自分の映った顔と向き合い、胸の奥に言葉にできない感情を抱え込む。水面に揺れる自分を見つめながら、ただ静かな呼吸が続いた。
やがて、その沈黙を破ったのはリリィの澄んだ声だった。
「鏡は現実を返すだけ。どう在るかは、自分で決めるものです」
小さな声は、水面に広がる波紋のように皆の胸に沁みていく。
セレスは水鏡を見つめたまま、ふっと笑みを浮かべる。
「……そのとおりね」
「じゃあ仕上げ。頬は触らないで、この髪の流れが崩れるから。食べ方も口を小さく開けて、音を立てない。姿勢は肩甲骨を寄せて下げる。……はい、完璧です」
「完璧……?」
「完璧です。あとで家の中では練習あるのみですけど」
セレスは照れくさそうに笑い、仲間たちも小さく笑い声をもらした。
カイが「こりゃ完全に妹に教育される姉だ」と肩を揺らし、アルディスは「見栄えも戦力だ」と真顔で頷く。
職人たちは「看板娘だな」と囁き合い、NPCの店員たちは憧れの眼差しを向けていた。
「……ありがとう、リリィ。今日の私がこうして立てるのは、あなたのおかげかも」
「ううん。セレスさんはもともと自分で立ってますよ。ただ、家の中でちょっと迷子になるだけ。そこはわたしが助けます」
ふたりは水鏡から一歩退く。
朝の光が工房街に満ち、鉄と薬草の匂いに焼きたてのパンの香りが混じる。
支度を終えた仲間たちの足取りが、自然と同じ方向へと揃っていく。
セレスの背で、金の髪束がさらりと揺れた。
外向きには“神滅”の旗印として。内向きには、日常生活に不慣れなお姉さんとして。
そのアンバランスさが、拠点の空気を不思議と明るくしていた。
「行こう、みんな。――今日の新しい私たちを、始めよう」
工房街の朝が、本当の意味で幕を開けた。