TS女魔法師になったネトゲ廃人~極悪アップデートのVRMMO世界に放り込まれるなんて聞いてない! 作:桐谷アキラ
朝靄の残る水面は、鏡のように静まり返っていた。白い鳥が一羽、羽ばたきかけては、こちらの気配に驚き遠くへと逃げていく。
セレスは岸辺に立ち、深呼吸を一度。ローブの襟裏と裾に縫い込んだ魔法陣が、かすかな光を帯びて脈打っていた。
背後では仲間たちが緊張の面持ちで見守っている。
リリィは杖を胸に抱き、小動物のように肩をすくめている。
ヴァレリアは腕を組み、いつもの豪快さを潜めて真剣に見つめていた。
カイは草を噛み、軽口を封じて鋭い視線を湖面に注いでいる。
ガルドは大盾を背負ったまま無言で立ち、何かあれば即座に防ぐ覚悟をにじませていた。
リオナだけが瞳を輝かせ、期待と畏怖を同時に映している。
「始めるよ」
セレスの声は静かで、だが張り詰めていた。
指先を湖に向け、人差し指で円を描く。
――ひとつ。
水面が淡く震え、目に見えぬ光の糸がセレスの指先へと吸い込まれる。
ローブの襟裏が点滅し、徴収した魔力を縫い目へ流し込む。
中指を弾く。
――ふたつ。
水面から水滴が浮き上がり、青い光の粒子となって背中の陣へと集まる。
薬指を払う。
――みっつ。
湖の波が吸い込まれるように穏やかになり、背の貯蔵陣にさらに光が満ちていく。
リリィが思わず声を漏らした。
「……湖の魔力が……!」
そう。吸い上げた水の魔力のあとには、わずかな静寂が残るが、やがて波が再び広がり、環境は元へと戻ろうとあがく。
セレスは指のフレーズを繰り返す。人差し指、中指、薬指――一節ごとに魔力が流れ、衣が息をするように蓄積する。
そのたびに背の陣が低く共鳴し、湖面から小さな水柱が立ち、光となって収束する。
やがて――
セレスの背後には、巨大な光の粒子の雲が広がっていた。
それは嵐の前のような張り詰めた気配を湛え、青白い輝きを含んでいた。
セレスは背筋を伸ばし、胸奥に残した自分の魔力へと意識を移す。術式の維持は衣が代行する。だが大魔法の最後の制御は、彼女自身の役割だった。
ローブの背の陣が眩い輝きを放つ。
蓄積された水の魔力が、解き放たれる瞬間を待つ。
「――《水矢連陣《アクア・ファランクス》》」
静かな詠唱の刹那、無数の光の粒子が鋭い矢に形を変えた。
幾百いや、幾千もの水矢が湖上に展開し、空を埋め尽くす。
次の瞬間、セレスの指が踊る。
――一斉射出。
轟音と共に、青い矢の雨が湖面を穿った。
爆ぜる飛沫が空を覆い、波が怒涛のように広がる。小さな地震のごとく足元が揺れ、仲間たちは思わず息を呑んだ。
「……これが、“魔力徴収”の威力」
セレスの声が、波の轟きの中でかすかに届いた。
水矢の嵐は数秒で終わり、湖面は泡と波紋で埋め戻されていく。
ヴァレリアが顔をしかめた。
「……冗談じゃすまない威力だね。街中でやったら大惨事だよ」
カイは頭を振り、口の端に皮肉を浮かべる。
「水面じゃなきゃどうなってたことだか……」
リオナは目を輝かせたまま、掌を胸に当てて呟いた。
「……美しい。こんな魔法、見たことない……」
リリィだけが、不安そうにセレスの袖を握った。
「セレスさん……大丈夫、ですか? すごく……細かい力の使い方をしてました」
セレスは微笑んだ。額に汗がにじんでいたが、瞳は確かに輝きを保っていた。
「ええ。――でも、最後の制御は本当に神経を削る。だからこそ、“私”がやるよ」
その言葉に、仲間たちは静かに頷いた。
湖面には、まだ揺らぎが残っている。けれど水は確かに戻ろうとしていた。
自然は癒える。だからこそ、この力は一時の剣として振るえる。
セレスは視線を仲間に戻し、穏やかに告げた。
「次は……火、そして風。どの属性でも、同じようにできる。
ただ――最後の匙加減ひとつで、地獄を生み出せる思うと怖いね」
彼女の瞳に映る湖は、青い矢の煌めきをまだ宿していた。
仲間たちはその光を胸に刻み、誰もが黙って頷いた。
――“徴収”は成功した。
だが、それを未来へどう使うのかは、まだ誰にも分からなかった。
***
──午後の湖畔では陽が少し傾き、風が水面に細かな刻みを与えている。
セレスが一歩下がり、代わりにリオナが前に出た。彼女は濃紺のローブを整え、両手のひらを湖に向けて開く。筋の通った佇まいだが、その瞳には明らかな緊張がある。仲間たちが輪になって見守る中、リオナは静かに詠唱を始めた。
「行きます……まずは、”魔力徴収”――」
人差し指を立て、小さな弧を描く。それだけで水面がきしみ、幾筋もの光が彼女の掌へと吸い上げられていく。襟や裾に縫い込まれた補助陣が僅かに共鳴し、背中の貯蔵陣が柔らかく膨らんでいく。
リオナの顔に、ほっとした微笑が浮かんだ。集める――そこまではできた。湖はその場で波を立て、小魚がいっせいに散る。だが彼女が次に試みたのは、セレスがやってのけた「細かな矢への整形」だった。
「ここから、形に――」
リオナが背中の陣から意識を離し、手の内で魔力を編もうとする。だが、掌先の集中にわずかな乱れが生じる。補助陣が働いても、思い描くように魔力が均一に整わない。光の粒は収束せず、たちまち蛇のようにほとばしる水の流れへと変わる。
最初の試みは、矢にならない奔流として顕現した。水はその場から四方へ広がって重みだけを持った奔流となって岸まで到達した。
「水は集めるところまではできてるね。でも──思った形で出力できてないのかな」
セレスの声は冷静だった。リオナの顔からは悔しさが溢れていた。彼女は再度手を動かし、繰り返し徴収しては整形を試みた。二度、三度と挑むうちに、少しは整った形ができるようになったが、それは一瞬で崩れ去る粗い水矢だった。
それでも、粗い制御であっても方向性を定めて押し流す戦術は高い実効性を示した。岸にいる標的の群れめがけて大質量をぶつければ、足元を奪い、前線を崩すには十分だ。カイは舌打ちを混ぜて呟く。
「細かい制御を捨てれば、かなり使えるな。密集隊形には十分な致命傷になる」
ヴァレリアは両手を腰に当て、唇を結んだ。リリィは不安そうに目を伏せるが、その瞳は僅かに光る期待を隠さない。
セレスは静かに立ち尽くし、腕を組んでリオナの背中を見つめていた。夕陽がローブの縫い目を橙に染める。彼女はぽつりと呟く。
「制御の部分は、魔力の“最後のまとめ方”だよ。引き算と加算の精度。指数本分の動きのずれが、術式の編み上げを崩すんだと思う」
その言葉には冷たさと誇りが混ざっていた。リオナの詠唱そのものは正確で、徴収も充分だった。欠けているのは、微細な身体の感覚と詠唱とを結合する“妙”だった。
リオナは肩を落とすと、一度大きく息を吸い込み、そして笑った。悔しさが割り切りに変わる瞬間だ。
「でも、これで大質量の攻撃ができるなら……私には、それで十分かもしれない」
彼女の手から放たれた、形の定まらぬ奔流は岸辺に押し寄せ、木立を薙ぎ、泥を巻き上げた。効果は凄まじく、遠目に見ていた村の守り手が狼狽えるほどだった。だが同時に、リオナの顔には安堵が差している。自分の力が、仲間のために確かに働いたという実感がある。
セレスはそれを見て、静かに目を細めた。仲間が使える“現実解”としての運用は可能だ。だが彼女の内側には、別の思考が蠢いていた。
(もし、あの“細かな整形”がもっと強く、大量にできれば……)
頭に浮かぶ映像は恐ろしいほど鮮明だ。数千の水刃が空を裂き、地平をなぎ払う光景。広範囲殲滅も理論上は可能だ。
ヴァレリアが軽く首を横に振った。
「……セレス、少し怖い顔をしてるよ。今考えている、”それ”を使うときは細心の注意がいる。力があっても、理由がないと振るえないからね」
リリィは手を握り締め、震えながら同意する。カイは遠くを見るように唇を噛んだ。リオナはまだ息を整えている。だが皆の目は、一様にセレスへ向いていた。
セレスはゆっくりと肩の力を抜き、仲間たちを見渡す。ほんの少しだけ微笑が滲んだ。
「――ごめん、私はちょっとおかしいのかもしれないね」
その“おかしさ”は技術と執念の混交だ。
リオナの粗い奔流も、有効な戦術である。
だが、繊細さを研ぎ澄ます者だけが、魔力を“刃”に変えられる。
セレスにしかできない細密な制御があるからこそ、彼女は仲間の中で特別な存在であり続ける。
湖面は夕風に揺れ、少しずつ元の静けさを取り戻そうとしていた。だが仲間たちの胸中に残ったのは、確かな変化の予感だった。
こうして、彼らの力は増え選択肢は広がった。