鬼哭廻牢~追憶・天~   作:鯉庵

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続きです。


序・下

 女は無意識に両の掌で口を覆った。

 心臓の脈打つ音が嫌に煩い。

 不見(ふけん)を発動している最中にあと二つの権能(けんのう)不言(ふごん)不聞(ふぶん)を使用することは不可能。

 黒鬼の口は、尚も数を数えている。

 猶予はない。

 恐怖に染まった理性は、泥沼に浸かって沈んでいる。

――――死。

 首筋に、ひたりと添えられた刃を鮮烈に幻視する。

 

「ここのーっつ、とーおぉ……」

 

 黒鬼が肩に担いでいた禍々しい戟を、勢いよく砂漠に突き立てる。

 瞬間、砂を蹴った。

 女の眼前まで黒鬼が()()()()()

 叫びたい衝動を必死に抑え込む。

 黒鬼がゆったりと、緩慢な所作で虚空へ手を伸ばして、()()

 それを、勢いよく()()()()()

 捲れあがった虚空は、悲鳴のような音を立てる。

 そこに、両目に涙を浮かべた女が立って居た。

「みーつけた」

 女は砂を蹴って後方へ飛び退った。

 女は震えを抑え、得物を構えて黒鬼と対峙する。

 逃げたい。

 けれど、意味がない。

 それはこの黒鬼から逃げることもそうであるし、使命からもという事である。

 

「あんた、なんなのよ。わ、わた……あーしの不見(ふけん)を初見で見破るとか意味わかんない」

 

 動揺のあまり、素を晒しそうになるのを堪えて意識的に口調を戻す。

 

 黒鬼は嗜虐的(サディスティック)で、獰猛な笑みを湛えたまま、六対ある長い耳に指で触れる。

 扇状に広がった三つのうちの一つの耳をぐい、と指で下へ押して、弾いた。

 

「俺は耳が良いんだ。てめぇの心の蔵は面白いくらい早鐘を打ってたからな、すぐに分かった。其処に()()なら見つけるなぁ、存外容易いぜ?」

 

 この時既に、女は正気を取り戻し、理性と思考を泥沼から掬い上げていた。

 改めて、黒鬼を見詰める。

 先刻(さっき)よりも近くで観た黒鬼はやっぱり理不尽極まる存在としか思えない。

 天部で最強の名を(ほしいまま)にするこの多聞天(おんな)を以てしてもである。

 

「ひとつ、聞きてぇんだがよ。此処は何処だい? 魔界(あっち)と似ちゃいるが、ちと違う」

 

「――――正解。此処は魔界(あっち)に似せて釈尊が創造(つく)った結界。あんたみたいな調子に乗った馬鹿を懲らしめるための牢獄ってわけ」

 

 女は黒鬼から視線をそらさずに答えた。

 それだけでも己を褒めちぎってやりたくなる。

 

「はぁん……見たところてめぇしか居ねぇようだが?」

 

 女は、己を騙し透かしながら笑みを貼る。

 

「あーし、最強だから。一人でじゅーぶんなの」

 

 黒鬼が牙を剥いて嗤った。

 

「――――……へぇ」

 

 獰猛に嗤う黒鬼に女が問う。

 

「そういうあんたは何しに来たわけ?」

 

「暇つぶし」

 

 あっけらかんと黒鬼は言う。

 

「はぁ……やっぱりそういう馬鹿(たぐい)? そーだとは思ったけどぉ……もぅ、まぢむりぃ……最悪ぅ……」

 

 言われた黒鬼が今度はくつくつと愉快気に笑った。

 

「そう言うなよ。嬢ちゃん。俺はお前さんが気に入ったよ。名を教えちゃくれねぇかい?」

 

 眉を顰めて、少し間を置く。

 

嫣瑩(えんえい)

 

()い名だ。しかしよ。聞いといてなんだが、そんなにあっさり教えちまってよかったのかい?」

 

――――女、嫣瑩が構えたままうんざりして言う。

 

「何? あんた呪術の類なんて使うわけ? はんっ! そんなわけないでしょーよ……それに……」

 

 嫣瑩は少し寂し気に目を伏せた。

 黄金瞳を縁取る長い睫が影を落とす。

 

「たぶん、死ぬしねー……その前に名乗っておこうかなぁって」

 

「そうかよ」

 

 黒鬼は落胆と寂寥(せきりゅう)を込めて返す。

 

「――――精一杯、あがくけど、ね!!!」

 

 言って、嫣瑩は深く腰を沈め疾駆。

 瞬きする間に間合いが詰まる。

 黄金瞳は歓喜に揺れる獰猛な笑みを捕らえる。

 黒鬼は、微動だにしない。

 回避の予兆も、況や防御の予兆もない。

 黒鬼の首を掻き斬らんと爪を彷彿とさせる得物が迫る。

 事此処に至っても尚、黒鬼は動かない。

 刃がその薄皮に触れた瞬間――――――。

 

 (けたた)ましい音が豁然(かつぜん)と響く。

 それは固い金属を打ち据えた音だった。

 嫣瑩は目を(みは)る。

 

「はぁ!? やっぱ意味わかんない!」

 

 弾かれた体勢からすぐに立て直し、黒鬼の腕を取り背へ回る。

 流れるような動作で黒鬼の肉体を拘束して、もう一度動脈を掻き斬ろうとし、叶わなかった。

 それどころか、今度は嫣瑩の獲物の方が砕け散る。

 緑色の光の粒子となって二刀一対の獲物が消えうせる。

 

「化け物が!」

 

 嫣瑩は吐き捨てて、黒鬼と距離を取った。

 

 黒鬼はゆっくりと嫣瑩に向き直った。嗜虐的(サディスティック)な笑みをそのままに前に出した手の指をくいくい、と曲げた。

 

――――もっと見せろと赫瞳が語りかけてくる。

 

()めんな!」

 

 金色の髪と尾を逆立てて怒りのまま、左手の親指、人差し指、中指を唇の前で立てて印を結ぶ。

 

 風天印である。

 

「ナウマク・サマンダ・ボダナン・バヤベイ・ソワカ」

 

 続けて、力強く風天の真言(マントラ)を唱えた。

 

 黒鬼の足元で突風が吹き荒れて渦を巻く。

 荒れ狂う砂嵐が黒鬼を起点に渦巻いた。

 

「砂粒一つ一つが刃そのもの! 流石にこれならあんたも!」

 

 嫣瑩が叫ぶ。

 それは悲鳴と変わらない女の願望(いのり)だった。

――――しかし、その願望(いのり)はあっさりと打ち砕かれる。

 砂嵐が去って、嫣瑩が見たのは、傷一つない黒鬼の姿だった。

 嫣瑩を見詰める赫瞳が憐れみを帯びて光る。

 

「ぁあ……」

 

 絶望を漏らす。

 

 しかし、それでも――――

 

――――合掌印。

 

 小指と小指を屈し合わせ、中指と中指を交差させて触れさせる。

 

「オン・デイバ・ヤキシャ・バンダ・バンダ・カカカカ・ソワカ」

 

 続けて、青面金剛(しょうめんこんごう)の真言を唱えた。

 風が嫣瑩を包む。

 瞬間、嫣瑩の風が鎧の形を象る。

 それが淡く発光して収まると、嫣瑩は瑠璃色の唐甲冑を肢体に纏っていた。

 

 手には金色の細い棒を手にしていた。

  

 構え、黒鬼の眼前から嫣瑩が消失。

 

 不見(ふけん)は唱えず。

 

 純然たる瞬足を以て、黒鬼の鳩尾を突く。

 

 音を置き去りにして、黒鬼を吹き飛ばす。

 直線的に後方へ吹っ飛んだ黒鬼を追うように嫣瑩の姿が掻き消える。

 それに遅れて、空気が爆ぜる音がした。

 まるで勢い衰えず飛び続ける黒鬼の肉体を金棒で何度も打ち据える。

 何度も、何度も、何度もである。

 その度、黒鬼の肉体はそれを弾く。

 しかし、焦げ付く臭いと共に煙が立ち昇る。

 

 嫣瑩は、胸の内で独白する。

 

『単に固いだけ? ありえない。けど、コイツは一度も真言(マントラ)を唱えてない……加護を得ているわけでもないのに、攻撃が通らない。なぜなの?』

 

 金棒を投げ捨てて、黒鬼の頭を掴んで砂に沈めた。

 

 再び片手で風天印を形作って、真言を唱えた。

 風の刃が黒鬼の頭蓋を掴んだ手から吹き荒れるも手応えは絶無であった。

 と、ここでゆったりと黒鬼の腕が動いた。

 それを視界で捉えた嫣瑩が叫ぶ。

 

「不見!」

 

「あん?」

 

 黒鬼が訝しんで、起き上がった。

 

「奇天烈な術だなぁ」

 

 あたりを見渡しても、嫣瑩の姿は何処にもない。

 

「なるほど、こんだぁ、俺を()()()()()()()

 

 黒鬼が首の後ろを揉んでから頭を左右に振って、首を鳴らす。

 胡坐を掻いて、頭を掻き頭上の月を見上げた。

 黒鬼が長い溜息を吐いた。

 

(しゅう)、来い」

 

 黒鬼が名を呼んだ。

 すると、遥か彼方から戟が字義通りに()()()()()

 狩と呼ばれた戟は、黒鬼の眼球を貫く直前で止まって、上空を飛んでそれから急降下して、深々と砂に突き刺さる。

 

「拗ねるなよ」

 

 黒鬼が立ち上がって狩を引き抜く。

 肩へ担いで、柄で数度叩く。

 それから緩慢に()()()

 その所作に気負いは絶無。

 牙を剥いて、凄絶で獰猛な笑みを湛える。

 腰を落とし、歩幅を広げる。

 素足が深く砂を削った。

 愛戟(あいげき)たる(しゅう)を背負うようにして、振りかぶる。

 狩の牙の如き刀身の周りで黒い炎が渦巻いた。

 

 闇の中だというのに、どこか(あお)みを帯びた炎が瞬きを発する。

 その炎が、刃を象った。

 赤い月を割るように伸びる。

 狩を思い切り振り下ろした。

 

 それから、(あおぐろ)い炎が闇を払った――――。

 

「は、は、は……まぢむりぃ……」

 

 嫣瑩は乾いた笑いと共に頽れた。

 

「おお、生きてたかい! 大したもんだぁ!」

 

 豪放磊落(ごうほうらいらく)に黒鬼が笑った。

 

 

 

 

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