鬼哭廻牢~追憶・天~   作:鯉庵

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貔叉邏

 (くずお)れたままの嫣瑩を睥睨(へいげい)し、黒鬼が赤い月を見上げてほくそ笑む。

 

「流石に釈迦(しゃか)の結界とやらを破れねぇか、呵々(カカ)ッ」

 

 剝き出しになった皓歯の隙間からくぐもった声を漏らした。

 どうやら黒鬼は、釈迦の創造した結界を破る気で居たらしい。

 首を垂れていた嫣瑩は、その言葉で正気に戻ったらしく、怒鳴りつけるように叫んだ。

 

「あんた、馬鹿なの!? いいえ、阿呆だわ! 間違いなく!」

 

 言われた黒鬼は、嫣瑩を一瞥してから言う。

 

()く言われる」

 

 ()して気にするでもなく罵倒を受け入れ、愉快気に笑った。

 

「しかし、どうするねぇ、先刻(さっき)ので駄目なら他に打つ手がねぇな」

 

 黒鬼が己の顎を指で揉み扱きながら言う。

 嫣瑩が呆れたように激昂した。

 

「あんた本当に何も考えないで襲撃(カチコミ)に来たのぉ!? ほんと馬鹿! 阿呆! 間抜け!」

 

 癇癪(かんしゃく)を起こした(わらべ)の様に罵倒し、膝立ちで黒鬼の太ももを殴りつける。最初こそ勢いは強かったが、段々と潮が引くように怒りも収まったようだった。

 

「はぁ、これからどうしよぉ……てか、あーしこれからどうなるんだろ」

 

 黒鬼の眉尻が少し跳ねた。

 黒鬼の足元で、嫣瑩が両膝を抱え込んで、拗ねるように不安を口にする。

 嫣瑩を見やり、愛戟、(しゅう)を砂上へ突き刺して乱雑に坐す。

 胡坐を掻いた。

 

「あん? なんだ嫣瑩。その口ぶりじゃ、お前さん打ち首にでもなるみてぇじゃねぇかよ」

 

 嫣瑩が目尻を釣り上げて黒鬼を()め付けた。

 

「誰の所為だと思ってんの!? あんたの所為よ!! あ・ん・た! の!」

 

 黒鬼の頬を人差し指で強く、押す。捩じりを加えて、さらに押す。

 黒鬼は若干鬱陶しそうにしながらも、嫣瑩の怒りを受け入れるつもりらしかった。

 砂上に指を置いて、円を描く。

 どうやら、また拗ねたらしい。

 

「まぁ、あんたに負かされたあーしが悪いんだけどさぁ……最強だと思ってたのになぁ……あそこまで完膚なきまでにやられちゃうとなぁ」

 

 ちらちらと黒鬼を伺うように視線を向けてくる。

 黒鬼は唇の片端を釣り上げて、嗜虐的(サディスティック)な笑みを点した。

 

「あぁ、弱かったなぁ! 嫣瑩ちゃんよぉ!」

 

 煽るように、高らかに言った。

 

「んな!? そこは! あーしを慰めるところでしょー!」

 

 黒鬼は、三つ在る耳のうち、真ん中にある耳穴に小指を突っ込んで言った。

 

「喧しいなぁ、いい加減犯すぞてめぇ」

 

 ピシリ、と嫣瑩が固まった。

 黒鬼が瞠目し、少ししてから邪悪に牙を剥いた。

 

「へぇ、なんだお前さん。未通女(おぼこ)かい。魔界(あっち)の出だろう? そりゃ珍しい……」

 

 嫣瑩を見詰める黒鬼の赫瞳が艶を帯びた。

 婀娜(あだ)っぽい貌が、嫣瑩の鼻先まで迫って来た。

 

「あ、あんた、なななな何ぃい、言ってくれちゃってるわけ!?」

 

 迫られた嫣瑩は褐色の肌を(あか)くして、哀れなほど狼狽した。

 鼻先が触れ合うほどまで迫って来た美貌に嫣瑩はたじろぐばかりである。

 

「恥じるこたぁ、ねぇよ? 安心しな。俺ぁ、そういう女の扱いも心得てんだ」

 

 妙に(つや)の声で黒鬼が囁いてくる。

 嫣瑩は感じたことのない甘い痺れに抗う術を持っていなかった。非常に遺憾ながらこの黒鬼の言は正しい。

 

 けれど、こうしてあまりにも容易く手玉に取られるのも癪なのである。

 

「馬鹿言うなし! あーしだ、だって接吻(せっぷん)の一つや二つ……」

 

 尻すぼみになる嫣瑩に、黒鬼がまたも目を瞠った。

 

「――――……く、くはっ…呵々……ッカハハ、はッ……いやぁ、わりぃわりぃ、諧謔過ぎちまったな……」

 

 今までになく黒鬼が優しい瞳で嫣瑩を見詰めた。

 ゆっくりと顔を放して、嫣瑩の頭に手を置いて乱雑に撫ぜた。

 嫣瑩は、駄々を捏ねるように頭を振るが黒鬼が放してくれない。

 仕方がないので、黒鬼が満足するまで撫でられてやることにする。

 

 じゃれ合った後、何となしに気まずくなって沈黙が続いた。

 結界(ここ)は、邪悪な魔物が現れなければまるで音がない。

 彩にも乏しい。

 生命の息吹というものをまるで感じることが出来ない。

 そんな寂しい場所であったと、久方ぶりに嫣瑩は思い出していた。

 隣に在る黒鬼の体温を意識して、頬が熱るのを感じる。

 

「ね、ねぇ、あんた名前は? あーしだけあんたに名前教えたのふこーへーだと思うし、教えなさいよ」

 

「あん? そういやそうだったな。 貔叉邏《びしゃら》ってんだよ」

 

 黒鬼――――貔叉邏(びしゃら)は、何の(てら)いもなく嫣瑩に己の名を告げてきた。

 嫣瑩は胸が少し高鳴った。

 真名を告げるという行為は、それなりの危険(リスク)を伴う。

 名とは、その者を縛る枷である。

 自我の最たる象徴である真名は、それを知っているというだけで有利(アドバンテージ)になるのである。

 しかし、この貔叉邏にとってみれば、取るに足らないことかもしれない。

 そういう結論に至って、嫣瑩は少しの寂寥を覚える。

 それを誤魔化すように嫣瑩が言う。

 

「好い名ね! あんたが自分で付けたの?」

 

 声が上ずったのを自覚して視線を逸らす。

 

「そうだよ。お前さんは違うのかい?」

 

 問われ、知らず貌を(しか)める。

 口中に苦みを感じる。

 思い出したくない記憶(トラウマ)が鮮烈に蘇ったのである。

 

「違うし、あーしの名は釈尊が付けられた。そのお陰で滅茶苦茶縛られてるけど、名自体は気に入ってるの……いい音で、いい響きだから」

 

 貔叉邏はふっと笑みを点す。

 

「ああ、そうだなぁ、しっかし嫣瑩よぉ、それじゃお前さん、()()()()()()()?」

 

 図星を()かれ、嫣瑩が短く呻いた。

 

「うぐっ……そ、そーでぇす! あーしも釈迦にカチコミましたぁ! そんでモノの見事にボコられましたー! いー! だ!!」

 

「あん? お前さん、釈迦に喧嘩売ったのかよ。そりゃまた剛毅だな」

 

 貔叉邏に呆れられて、心外とばかりに嫣瑩は返す。

 

「しょーがないじゃん! あんただって魔界(あっち)の住人なら解るでしょ! 退屈なのよ! あそこ! 強くなりすぎるとね! なんか鬱陶しい奴が言い寄って来たり、雑魚ばっかり相手にしなきゃならなかったし!」

 

 嫣瑩は言い訳するように憤慨した。

 そう、嫣瑩は事もあろうに釈尊に喧嘩を売ったのである。

 当時、魔界と天界は分かたれてはおらず、天と魔は絶え間なく争っていたのだ。

 釈迦が没後、天に入殿する際に、嫣瑩は天に単独で特攻。

 並みいる天部の神々を(たお)し、慢心のまま釈迦に戦いを挑んだのである。

 結果、惨敗したわけであるが。

 嫣瑩にとっては鮮烈な心傷(トラウマ)であり、黒歴史として記憶に刻まれている。

 

「釈尊曰く、あーしへの罰なんだってさー、まぁ、確かにこんなとこで一人なのは実際罰かも」

 

 嫣瑩が深々とため息を零した。

 

「なんだ嫣瑩。お前さん四天王(してんのう)ってやつなんだろう? 他の奴らはどうしてんだい?」

 

「へぇ、貔叉邏あんた、意外と天部(こっち)の事知ってんね」

 

 心底意外そうに嫣瑩が言う。

 

「ああ、教えられたからな。聞いてもいやぁしねぇのに口が回るお節介な野郎が居てよ。まぁ適当に流してたんだが、強そうな奴の話は興が沸いてよ」

 

 嫣瑩は唇の端を持ち上げてひくつかせた。

 貌も知らぬ貔叉邏の友? に憐憫を覚えつつ言う。

 

「ああ、そ、そーなの……んー? 実はあーしもよくわかってないんだけど結界(ここ)で闘うのは多聞天(あーし)だけっていつの間にか決まったみたいなのよねぇ。まぁ、持国天も広目天も増長天も、あーしより弱いってのは確かなんだよ。数が居ても弱ければ邪魔だしちょうどいいけど」

 

「つまらん」

 

 興が冷めたように貔叉邏は言い捨てる。

 そこに確かな寂寞(せきばく)を感じ取り、嫣瑩が口を開く。

 

「あ、あのさ、貔叉邏さえよければこのままあーしと……」

 

 嫣瑩が人差し指と人差し指を触れ合わせ、モジモジと指の腹を()ねていると、今一番聞きたくない轟音が耳朶をぶち殴った。

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