鬼哭廻牢~追憶・天~   作:鯉庵

5 / 10
万能(ごうまん)の赤龍

――――第六天(まかい)とは、ひどく(いろ)の乏しい宇宙(せかい)である。

 大地は不毛な黒い砂に覆われ、生命(いのち)を育むことは皆無。

 (そら)には(ひなた)も月も昇ることはなく、星の瞬きすらもない。

 天を(おお)う毒々しい極彩色(ごくさいしき)天幕(オーロラ)が在るだけの寂れた宇宙(せかい)

 

――――その第六天(せかい)劫炎(どうこく)が生まれた。

 劫炎(ほのお)は、渦を巻き(そら)砂漠(だいち)を焼き払った。

 劫炎(ほのお)は、衰えを知らなかった。

 劫炎(ほのお)は、はじめ無彩(むしょく)であった。

 劫炎(ほのお)は突如、暉々(きき)として(ひかり)を放つようになった。

 

 白。【我愛(じあい)

 赤。【傲慢(ごうまん)

 青。【瞋怒(いかり)

 黄。【無恥(むち)

 緑。【怠惰(たいだ)

 紫。【執生(しき)

 黒。【無明(むみょう)

 

その炎は、暉々として無間(むげん)(いろ)を湛えたのである。

 

――――緯戮(ヴィル)万能(ごうまん)なる龍であった。

 全智に酔い痴れ、無謬を謳い、万能(ごうまん)に溺れる(けだもの)

 赤い鱗に、黒い(たてがみ)(おう)耀(かがや)くの異形(いぎょう)なる多眼(まなこ)

 (そら)を駈け、砂上の(けだもの)睥睨(みくだ)し、嘲笑った。

 

 緯戮にとって、(おのれ)以外は弱者(えさ)である。

 弱者(えさ)第六天(まかい)に溢れている。

 絶えず生まれてくるのであるから、飢える事もなかった。

 (はら)が満たされると、退屈が生まれた。

 その退屈を慰めるために、(えさ)(なぶ)る事にした。

 

 緯戮は万能(ごうまん)謳歌(おうか)した。

 

――――けれど、そんな万能(こうふく)が、突如として潰えたのである。

 

――――一匹の、(あおぐろ)(けだもの)()って。

 

 (けたたま)しく、赤が闇を染め上げた。

 鮮血を撒き散らしながら、龍は咆哮(ひめい)を上げて、(そら)で躍り狂って堕ちていった。

 囂々と音を立て、黒い砂塵が赤龍の巨体を覆い隠す。

 砂塵の帳が闇へ溶けると、巨木の幹よりも尚太い胴からじくじくと血を流していた。

 貔叉邏は、砂を一蹴りして、二海里程先へ堕ちた緯戮の許へやってきて睥睨する。

 薄い唇の片端を持ち上げて、笑んでいる。

 唇の隙間から白い牙が覗き見えた。

 赤龍の多眼(まなこ)のすべてが、見下ろす黝虎を(じく)と睨め付ける。

 唐突に赤い(ひかり)が龍を(おお)った。

 

 その(ひかり)が晴れると、龍の(かたち)が人の容へと変貌していたのである。

 黒い(かみ)が扇状に広がって、長い前(かみ)が顔の半分を隠している。

 兜は被っておらず、赤い肌に鱗が浮いている。

 龍を象った赤い鎧は、銅当てが無惨に砕かれ、雄々しい赤色の肉体を晒している。

 胸に嵌め込まれて居たであろう黄金の玉が、耀きを失って罅割れた。

 

 赤い指が跳ねるように動いた。

 どうやら目を覚ましたらしい。

 ひどく緩慢な所作で腕を持ち上げ、胸の前で印を結ぶ。

 

――――智拳印(ちけんいん)

 右手の人差し指と中指を立てて、それを左掌で包み込む形。

 

 それから――――

 

(われ)(ぜん)也】

(われ)無謬(むびゅう)也】

(われ)万能(ばんのう)也】

 

(おん) 阿謨伽(あぼきゃ) 尾盧左曩(べいろしゃのう) 摩訶母捺羅(まかぼだら) 麽尼(まに) 鉢納麽(はんどま) 入嚩攞(じんばら) 鉢囉韈哆野(はらばりたや) (うん)

 

 ひどく傲慢な咒(ことば)を吐《は》く。()()()、真言を唱える。

 地の底を這うように、低く重い音が()()()()

 緯戮が口を動かす度に、赤く耀く梵字が帯状に連なって宙で揺蕩う。

 その帯が、血に浸った緯戮の肉体に纏わりついて、蛇のように這う。

 次の瞬間、夥しい血が緯戮の肉体に還っていった。

 砂が吸ったはずの血も、鬣が吸った血も、一切合切須らく、である。

 

 (あたか)も斬られた事象(カルマ)など、初めから無かったとでも云うように。

 

「相変わらず訳のわからん術だな。なんなんだ? そりゃよ」

 

 黝虎(けだもの)は、緯戮の奇妙奇天烈な業にあきれ返った。

 

 「テメェにだきゃ言われたくねぇな糞がよ」

 

 徐に跳ね起きて、苛立たし気に頭の後ろを掻き毟る。

 ごりごりと音がする。

 

「あーーー!!! 糞が糞が糞が!!! (はや)く死ね! 直ぐ死ね! 今死ね! 惨たらしく、無様に、死に晒せダボが!」

 

 安直で幼稚な罵倒を唾と共に撒き散らす。

 黒い(かみ)が宙で踊った。

 

 やがて落ち着いたのか、胡坐のまま大きく焔を吹いた。

 巨躯を丸めて居る姿が、まるでいじけた童《わっぱ》の様である。

 徐に膝に置いていた手を口元へやる。

 親指と人差し指で、何かを摘まむような形を作った。

 その指に、前触れもなく細い葉巻が収まっている。

 それは、始めから其処に在ったかのように。

 葉巻の先端で、火が熾る。

 細い煙が、(かたち)無く昇った。

 煙と共に、妙に甘い匂いが鼻腔へ運ばれてきた。

 

 事を始終見ていた貔叉邏が膝を折って言う。

 

「んで、まだやるのかい?」

 

 尋ねる体を装っているが、貔叉邏の赫瞳は「まだやろう」と熱を注いでくる。

 乞われた緯戮は立ち上がった。

 

――――と、思ったら一間半ほど離れた所に緯戮が立っていた。

 貔叉邏は満足そうに笑みを湛えて立ち上がる。

 赫瞳が炯々(けいけい)と耀きを放ち、緯戮を見た。

 担いだ狩を砂上に突き刺して、貔叉邏が乞う。

 

「緯戮! 俺にも一つ恵んでくれや!」

 

 緯戮はその言葉には応えなかった。

 

 かわりに。

 

 貔叉邏の掌に、()()()()()()()()()()()()

 

 貔叉邏が箱を口元へやる。

 それを小さく揺らして、はみ出した一本の葉巻の吸い口を皓歯で甘く食む。

 先端を両掌で覆うと黝い火が微かに瞬いて――――

 

――――葉巻が(ごう)と大音響をあげて爆ぜた。

 

 爆轟が貔叉邏の貌を幎《おお》う。

 

「莫迦が」

 

 毒づく声は、極間近から届く。

 

 緯戮の手には、六尺程もある太刀が抜き身で握られていた。

 幅広の刀身は、赫い。

 字義通りに燃えていた。

 

 (ぜん)

 それが緯戮の大太刀の銘である。

 

 緩く反った長い刀身には、रं(らん)の梵字が刻まれていた。

 赫炎を纏った(ぜん)が貔叉邏の胴を払わんとし、刃が触れた時。

 又もや囂々と爆轟を轟かす。

 濛々(もうもう)と黒煙に隠された貔叉邏の肉体には傷一つないだろうことは想像に容易い。

 

 貔叉邏の愛戟、狩が獅子吼するが如く宙を走った。

 けれど、狩の牙が薙いだのは虚空である。

 そこに緯戮の姿を認めることは叶わなかった。

 

 貔叉邏の赫瞳が鋭く動いた。

 狩と焔がぶつかり合って、高く鳴いた。

 焔の刀身が半ばから砕けて散った。

 緯戮の貌に驚きの色はない。

 承知していたとばかりに、素早く徒手空拳に切り替える。

 急所を瞬く間に突いてゆく。

 

「うぜぇ」

 

 されるがままだった貔叉邏が動く。

 その時には、既に緯戮の姿はなく、頭蓋を掴み損ねた拳が虚しく空を締め上げた。

 

「しゃらくせぇ!!!」

 

 吠えた言葉とは裏腹に、貔叉邏の貌にはひどく愉快気で獰猛な笑みを湛えている。

 三海里ほど離れた所に居る緯戮を六対の耳が捉える。

 このころには、ひどく喧しかった耳鳴りも収まっている。

 跳んで行くのが面倒であったのか、狩を槍に見立てて投げ放つ。

 柄が手を離れた瞬間、衝撃が生まれ、音を置き去りにした。

 砂を巻き上げて狩が飛ぶ。

 

「化け者が」

 

 緯戮が憎々し気に吐き捨てる。

 狩の牙が緯戮を貫く僅かな隙。

 それを緯戮はその機を逃すまい。

 

 貔叉邏の肉体に()()()()()()()()

 

 その札は、つい先刻(さっき)緯戮が拳や蹴りで貔叉邏に触れた所であり、すべて急所だった。

 黄色の札には、(ぜん)と同じく朱色で、रं(らん)の梵字が書かれていた。

 再三に渡って、貔叉邏の肉体は炎と爆轟に包まれた。

 緯戮目掛けて飛んでいた狩が、急旋回して貔叉邏の許へ奔った。

 

 緯戮の唇に笑みが点る。

 

 胸の前で合掌をする。

 小指と人差し指を屈して触れさせ、中指と薬指を立てて触れ合わせる。

 それから親指同士を触れさせて完全に()()()

 

――――閻魔天掌印(えんまてんしょういん)

 

【ノウマク サマンダ ボダナン エンマヤ ソワカ】

 

 紡がれる真言の種子が、するすると唇の隙間から帯状に伸びてゆく。

 その種子が炯々(けいけい)と赤く耀いた。

 

(ばく)

 

 緯戮に呼応し、帯が蛇の如く鎌首を擡げて、()()()()した。

 

「あん?」

 

 黒い幎を払い散らした貔叉邏が訝しむ。

 貔叉邏に向かって飛んでいた狩が、種子の帯に縛られていたのである。

 

「――――……へぇ」

 

 ぞわり、と緯戮の背中が粟立つ。

 極々微かに、けれども確かに、貔叉邏は瞋りを滲ませた。

 それを抑えんが為か、貔叉邏の足下が暉々として赤く照らされる。

 砂の中から種子の帯が蟲のように這い出てきた。

 それは瞬きするのも儘ならない程に疾《はや》く、貔叉邏の四肢を縛り上げて宙へ磔にしてしまう。

 

 恰もその時を待ちわびていたとばかりに、狩が奔った。

 

――――否。

 

 それは狩の意思に反する(カルマ)であった。

 狩は貔叉邏を傷つける事を許しはしないのだから。

 けれど、事象(カルマ)は成っている。

 成ってしまっている。

 

――――阿頼耶識(あらやしき)という概念が在る。

 表層意識のはるか奥底には、(カルマ)が溜まる蔵が眠っている。

 (カルマ)とは、行為そのものを指す。

 之を(いん)と云う。

 その(いん)が阿頼耶識へと沈み、やがて()として芽吹く。

 釈迦は之を因果(いんが)と呼んだ。

 善きしも、悪にしも業は永劫に溜まり続くのである。

 それは過去・現在・未来の業が溜まっている。

 

 それは本来ならば、(えご)が有するものであって、決して他者が侵すことのできない領域であるはずなのだ。

 

 だが、緯戮は違う。

 万能(ごうまん)なる赤龍は、他者の阿頼耶識に不正介入(アンオーソライズド アクセス)し、それを(いじ)り、改竄(フォーシフィケーション)してしまう。

 

――――故に緯戮(ちつじょをころすもの)

 

 傲慢なる赤龍は狩の業を奪い去った。

 今尚、狩は尊厳を踏みにじられている。

 

 狩が貔叉邏を貫かんとする寸前で、貔叉邏が口を開けた。

 

 甲高い音で、狩が鳴いた。

 貔叉邏の牙が、狩の(きっさきを)を捉えて咬んだのである。

 貔叉邏はそれから種子の帯をあまりに容易く引き千切り、狩の柄を握る。

 

 釣り上がった唇の端から貔叉邏の()()()()()()()

 

 黒い砂を僅かに濡らす。

 

「あーあ、俺ぁ、テメェのやることなすこと面白れぇから好きだったんだがよぉ」

 

 声に、瞋りが混じる。

 久しく思えた感情(かんかく)に高揚を抑えられずひどく嗜虐的(サディスティック)な笑みが零れた。

 

 緯戮はその一瞬で、極々淡く点ったの希望と無明の絶望をほとんど同時に抱く。

 

「はは」

 

 知らず笑いが漏れていた。

 

「俺の(もん)を掠め盗ろうってなぁ、頂けねぇなぁ」

 

 貔叉邏の声を近くに感じた次の瞬間には、緯戮の肉体は遥か上空へ跳ねていた。

 龍を象った鎧ごと緯戮の腹に風穴が空いていた。

 そこから絶え間なく血が流れて宙に滝が出来上がる。

 

――――ふざけろ。

 

 掌印を結ばんとする腕が斬り飛ばされる。

 

「させねぇよ」

 

それから四肢を捥がれた赤龍が無様に砂上へ沈むのに、然して時は必要がなかった。

 

 

 

「どうせ何かしら仕込んであんだろ? 俺ぁ、寝るからよ。()()()()起こしてくれや」

 

貔叉邏は緯戮の残骸に背を向けて、黒い砂漠の上に肘をついて目を閉じた、その時――――。

 

【――――面白いな、お前】

 

 

 月を見上げた。

 

 天で血染めの月が笑った声を、貔叉邏の六対の耳は捉えたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。