鬼哭廻牢~追憶・天~ 作:鯉庵
――――
大地は不毛な黒い砂に覆われ、
天を
――――その
白。【
赤。【
青。【
黄。【
緑。【
紫。【
黒。【
その炎は、暉々として
――――
全智に酔い痴れ、無謬を謳い、
赤い鱗に、黒い
緯戮にとって、
絶えず生まれてくるのであるから、飢える事もなかった。
その退屈を慰めるために、
緯戮は
――――けれど、そんな
――――一匹の、
鮮血を撒き散らしながら、龍は
囂々と音を立て、黒い砂塵が赤龍の巨体を覆い隠す。
砂塵の帳が闇へ溶けると、巨木の幹よりも尚太い胴からじくじくと血を流していた。
貔叉邏は、砂を一蹴りして、二海里程先へ堕ちた緯戮の許へやってきて睥睨する。
薄い唇の片端を持ち上げて、笑んでいる。
唇の隙間から白い牙が覗き見えた。
赤龍の
唐突に赤い
その
黒い
兜は被っておらず、赤い肌に鱗が浮いている。
龍を象った赤い鎧は、銅当てが無惨に砕かれ、雄々しい赤色の肉体を晒している。
胸に嵌め込まれて居たであろう黄金の玉が、耀きを失って罅割れた。
赤い指が跳ねるように動いた。
どうやら目を覚ましたらしい。
ひどく緩慢な所作で腕を持ち上げ、胸の前で印を結ぶ。
――――
右手の人差し指と中指を立てて、それを左掌で包み込む形。
それから――――
【
【
【
【
ひどく傲慢な咒
地の底を這うように、低く重い音が
緯戮が口を動かす度に、赤く耀く梵字が帯状に連なって宙で揺蕩う。
その帯が、血に浸った緯戮の肉体に纏わりついて、蛇のように這う。
次の瞬間、夥しい血が緯戮の肉体に還っていった。
砂が吸ったはずの血も、鬣が吸った血も、一切合切須らく、である。
「相変わらず訳のわからん術だな。なんなんだ? そりゃよ」
「テメェにだきゃ言われたくねぇな糞がよ」
徐に跳ね起きて、苛立たし気に頭の後ろを掻き毟る。
ごりごりと音がする。
「あーーー!!! 糞が糞が糞が!!!
安直で幼稚な罵倒を唾と共に撒き散らす。
黒い
やがて落ち着いたのか、胡坐のまま大きく焔を吹いた。
巨躯を丸めて居る姿が、まるでいじけた童《わっぱ》の様である。
徐に膝に置いていた手を口元へやる。
親指と人差し指で、何かを摘まむような形を作った。
その指に、前触れもなく細い葉巻が収まっている。
それは、始めから其処に在ったかのように。
葉巻の先端で、火が熾る。
細い煙が、
煙と共に、妙に甘い匂いが鼻腔へ運ばれてきた。
事を始終見ていた貔叉邏が膝を折って言う。
「んで、まだやるのかい?」
尋ねる体を装っているが、貔叉邏の赫瞳は「まだやろう」と熱を注いでくる。
乞われた緯戮は立ち上がった。
――――と、思ったら一間半ほど離れた所に緯戮が立っていた。
貔叉邏は満足そうに笑みを湛えて立ち上がる。
赫瞳が
担いだ狩を砂上に突き刺して、貔叉邏が乞う。
「緯戮! 俺にも一つ恵んでくれや!」
緯戮はその言葉には応えなかった。
かわりに。
貔叉邏の掌に、
貔叉邏が箱を口元へやる。
それを小さく揺らして、はみ出した一本の葉巻の吸い口を皓歯で甘く食む。
先端を両掌で覆うと黝い火が微かに瞬いて――――
――――葉巻が
爆轟が貔叉邏の貌を幎《おお》う。
「莫迦が」
毒づく声は、極間近から届く。
緯戮の手には、六尺程もある太刀が抜き身で握られていた。
幅広の刀身は、赫い。
字義通りに燃えていた。
それが緯戮の大太刀の銘である。
緩く反った長い刀身には、
赫炎を纏った
又もや囂々と爆轟を轟かす。
貔叉邏の愛戟、狩が獅子吼するが如く宙を走った。
けれど、狩の牙が薙いだのは虚空である。
そこに緯戮の姿を認めることは叶わなかった。
貔叉邏の赫瞳が鋭く動いた。
狩と焔がぶつかり合って、高く鳴いた。
焔の刀身が半ばから砕けて散った。
緯戮の貌に驚きの色はない。
承知していたとばかりに、素早く徒手空拳に切り替える。
急所を瞬く間に突いてゆく。
「うぜぇ」
されるがままだった貔叉邏が動く。
その時には、既に緯戮の姿はなく、頭蓋を掴み損ねた拳が虚しく空を締め上げた。
「しゃらくせぇ!!!」
吠えた言葉とは裏腹に、貔叉邏の貌にはひどく愉快気で獰猛な笑みを湛えている。
三海里ほど離れた所に居る緯戮を六対の耳が捉える。
このころには、ひどく喧しかった耳鳴りも収まっている。
跳んで行くのが面倒であったのか、狩を槍に見立てて投げ放つ。
柄が手を離れた瞬間、衝撃が生まれ、音を置き去りにした。
砂を巻き上げて狩が飛ぶ。
「化け者が」
緯戮が憎々し気に吐き捨てる。
狩の牙が緯戮を貫く僅かな隙。
それを緯戮はその機を逃すまい。
貔叉邏の肉体に
その札は、つい
黄色の札には、
再三に渡って、貔叉邏の肉体は炎と爆轟に包まれた。
緯戮目掛けて飛んでいた狩が、急旋回して貔叉邏の許へ奔った。
緯戮の唇に笑みが点る。
胸の前で合掌をする。
小指と人差し指を屈して触れさせ、中指と薬指を立てて触れ合わせる。
それから親指同士を触れさせて完全に
――――
【ノウマク サマンダ ボダナン エンマヤ ソワカ】
紡がれる真言の種子が、するすると唇の隙間から帯状に伸びてゆく。
その種子が
「
緯戮に呼応し、帯が蛇の如く鎌首を擡げて、
「あん?」
黒い幎を払い散らした貔叉邏が訝しむ。
貔叉邏に向かって飛んでいた狩が、種子の帯に縛られていたのである。
「――――……へぇ」
ぞわり、と緯戮の背中が粟立つ。
極々微かに、けれども確かに、貔叉邏は瞋りを滲ませた。
それを抑えんが為か、貔叉邏の足下が暉々として赤く照らされる。
砂の中から種子の帯が蟲のように這い出てきた。
それは瞬きするのも儘ならない程に疾《はや》く、貔叉邏の四肢を縛り上げて宙へ磔にしてしまう。
恰もその時を待ちわびていたとばかりに、狩が奔った。
――――否。
それは狩の意思に反する
狩は貔叉邏を傷つける事を許しはしないのだから。
けれど、
成ってしまっている。
――――
表層意識のはるか奥底には、
之を
その
釈迦は之を
善きしも、悪にしも業は永劫に溜まり続くのである。
それは過去・現在・未来の業が溜まっている。
それは本来ならば、
だが、緯戮は違う。
――――故に
傲慢なる赤龍は狩の業を奪い去った。
今尚、狩は尊厳を踏みにじられている。
狩が貔叉邏を貫かんとする寸前で、貔叉邏が口を開けた。
甲高い音で、狩が鳴いた。
貔叉邏の牙が、狩の
貔叉邏はそれから種子の帯をあまりに容易く引き千切り、狩の柄を握る。
釣り上がった唇の端から貔叉邏の
黒い砂を僅かに濡らす。
「あーあ、俺ぁ、テメェのやることなすこと面白れぇから好きだったんだがよぉ」
声に、瞋りが混じる。
久しく思えた
緯戮はその一瞬で、極々淡く点ったの希望と無明の絶望をほとんど同時に抱く。
「はは」
知らず笑いが漏れていた。
「俺の
貔叉邏の声を近くに感じた次の瞬間には、緯戮の肉体は遥か上空へ跳ねていた。
龍を象った鎧ごと緯戮の腹に風穴が空いていた。
そこから絶え間なく血が流れて宙に滝が出来上がる。
――――ふざけろ。
掌印を結ばんとする腕が斬り飛ばされる。
「させねぇよ」
それから四肢を捥がれた赤龍が無様に砂上へ沈むのに、然して時は必要がなかった。
「どうせ何かしら仕込んであんだろ? 俺ぁ、寝るからよ。
貔叉邏は緯戮の残骸に背を向けて、黒い砂漠の上に肘をついて目を閉じた、その時――――。
【――――面白いな、お前】
月を見上げた。
天で血染めの月が笑った声を、貔叉邏の六対の耳は捉えたのである。