「スバル、起きるかしら」
「……んぅ。もう朝か」
早朝。
ロズワール邸の一角。かつてスバルが暮らしていた日当たりの良いその部屋に、二人の人影があった。
昨夜メィリィと夜まで遊んでいたスバルは、様子を見にきたベアトリスに起こされてゆっくりと瞼を開ける。
どれだけ眠たくてもスバルはテキパキと準備を終え、クローゼットから服を取り出して着替えを終えた。
いま彼が着ているのは執事服、かつて使用人としてこの屋敷に来た時にも袖を通した衣服を改めて着用し、鏡の前でそんな自分の姿を確認する。
「どうだベア子。似合ってるか?」
「よく似合っているかしら」
「この制服にまた袖を通すことになるとは思ってなかったけど、2週間もするとやっぱちょっと慣れてきたところもあるな」
スバルが護衛として雇われ、既に二週間が経過している。
護衛なのになぜ執事服を着ているのかと聞かれれば、エキドナにそれが制服なのだと説得されたからでしかない。
あれやこれやと様々な論理で説得されたが、よくよく紐解いてみれば単純にエキドナの趣味として見たいから着ろ、というあまりにも酷い結論に帰着した。
『やぁだぁ! 絶対に着てもらうんだ!!』
そんなことを言い出す魔女の姿は、見る人が見れば微笑ましいのだろうがスバルの目には駄々をこねる子供にしか見えない。
とはいえスバルとしてもそこまで嫌がる必要もないことなので、黙って執事服を制服として着ることに納得したのだ。
各方面へ手紙を送ったり情報収集をしたりと忙しなく動く傍らで、スバルはこの屋敷での晩御飯とラムの手伝いを全般の仕事としてしている。
「スバルの作る料理はおいしくて好きかしら。でもぴーまるはもっと減らしてほしいのよ」
400年も生きていると言うのに、いまだに子供のような事を口にするベアトリス。
ハンバーグをはじめとして気づかれないように野菜を混ぜても何も言わないので、味が嫌というよりは野菜という存在が苦手なのだろう。
「野菜を食べないと気が付いたら不健康になるぜ?」
「精霊であるベティが体調を崩したりなんかしないかしら」
「今度の晩御飯はピーマンの肉詰めだな」
「みぎゃ──!」
そんな風に楽しい朝の支度を終え、流れで食堂に向かい食事も終えたスバル。
そのままの足でベアトリスを禁書庫に送り届け、スバルは執事としての仕事をこなす為に長い廊下を一人で歩く。
先週の終わりくらいまでは誰か一人は必ず近くに張り付いていたのだが、ロズワールがやんわりと常に付き纏っていては邪魔だろうと言ってからは定期的に一人の時間がやってくる。
(とりあえずこの後は──)
しなければならないことを考えながら歩いているスバル。
ふとそんな彼の視線の先にエミリアとパックの姿が見える。
彼女達もスバルの方に気が付いたのか、手を振りながらスバルの方へと近寄ってきた。
「おはようエミリア、パック」
「おっはースバル」
「おはようスバル。怪我はもう大丈夫?」
「おかげさまでバッチリ元気! ここ最近寝転び過ぎて体鈍ってるくらいかな」
傷は既に完治しているし、日課にしていた筋トレも早速始めているスバル。
以前までのように体を動かそうとするとあちらこちらが悲鳴を上げてメニューの半分すらまともにこなすことは出来ないが、放っておいても死なないくらいにはもう健康体になっている。
両手を広げて元気いっぱいだとアピールするスバルだが、そんなスバルの事をエミリアは怪訝そうな表情で彼の事を見ていた。
「ど、どげんされました?」
「スバルってきっと大変でも隠しちゃうだろうから、本当の本当かなって思って見てたの」
「本当の本当! エミリアたんの信頼が想定してた方向と全く違う方向でびっくりしちゃったよ」
「ふふっ、ごめんなさい。でもスバルが元気になってくれてよかった」
E・M・T!! と大声で叫びたい気持ちはあるが、さすがに精神年齢をそれなりに積み重ねている上に、初見の人間の前でやるのは憚られ喉で声を止めるスバル。
以前の同じ時期と比べれば随分距離感が近かったように感じられ、これもエキドナが屋敷にいることが関係しているのかな、なんてことをスバルが邪推していると途端にエミリアの横でぷかぷか浮かぶパックが嫌そうな顔をする。
「スバル、余計なことは考えない」
「どぅえ!? なんのことでせうか……」
「────?」
話に置いて行かれ不思議そうな表情をするエミリアは、またパックとスバルが仲良くしているんだなぁとそんな姿を眺めていた。
そういえば表層心理を覗くだのなんだの、そんな便利な力があっただろうか。
あまり詳しくは覚えていないので判断するには情報が足りないが、少なくともパックがいる前であまり他事を考えるのは避けるべきだろう。
「スバルはこの後どうするの?」
「まずは朝のラジオ体操からかな」
ラムの手伝いから始まりベアトリスの禁書庫整理やあれやこれやとやるべきことはいくつも残っているが、スバルにとってこの屋敷での最初の行事は決まってラジオ体操である。
ただでさえ怪我をしやすい体質だと自認しているスバルは、緊急時にもしっかりと動けるように日々のストレッチは欠かさない。
ただエミリアからしてみればそもそも聞いたことのない行為だ。
「らじお体操?」
「やるだけで健康体になり長寿が約束され気分もよくなる不思議な体操……って言っても分からないか。まぁ物は試しだし、やってみる?」
「やってみる! みんなも呼んでくるから待ってて!!」
「……エミリアたん随分積極的になったねぇ」
止める間もなく走り去ってしまったエミリアの背中を見てそんなことをつぶやきながら、スバルはまぁ人が集まるならと庭に向かって足を進める。
それから数分後。
気が付けば庭にはラムを除く屋敷の全員がやってきていた。
彼女の名誉を守るために付け加えるのであれば、昼食の準備の為に席を外しているだけなので誘われなかったわけではない。
レムがラジオ体操指導員としてみんなの前に立ち、他のメンバーはレムの行動を真似しながらラジオ体操を行っていた。
「それにしてもっ、エキドナが参加するとはなっ」
「キミはボクの事をなんだと思ってるんだ。実際っ、研究ばかりで体を動かしておかないと、肩こりやらなんやらで、研究に集中することもできないからね。こうして軽い運動することは、ものぐさな私にとって大切なことなんだよ」
「そういうことかしら」
エキドナの横で短い手足を動かしながら全肯定マンとなったベアトリス。
禁書庫に送り届けたばかりなのにラジオ体操に意欲的な彼女は、今朝はやらないのかと思っていたとまでスバルに言ってきたほどだ。
そんな彼女の奥ではロズワールがラジオ体操をしており、以前との大きな違いともいえるだろう。
「ベア子の脳死肯定久々に見たな。ところでロズッちもエキドナと同じ感じ?」
「まぁ同じようなものだぁね。それにわぁたしだけ仲間外れなんて、そんな酷い事言わないでおくれよ」
「どっちかって言うとこういうの傍から眺めてほほ笑んでるポジションでしょ」
「否定はしないけれどねぇ、まぁ少なくともこうして皆で何かを出来ることは嬉しく思っているとも」
ここ数日何度か話して感じたことでもあるが、何とも言動が丸いロズワール。
ベアトリスやエキドナとの仲も良好なようで、スバルからしてみれば妄執に憑りつかれたピエロのイメージが先行しているので優しさを見せる彼の姿はどことなく違和感もある。
だがこの現状こそが彼が望んでいた幸せなのだと考えると、そんな姿がなんだか微笑ましいようにも感じられる。
「ロズワールとエキドナはすっごく仲良しさんなんだから」
「仲良しさんってきょうび聞かねぇな……ラジオ体操はどう?」
「お目目がシャキッとしたし、体もなんだか楽になったかも?」
「そっか、よかったよかった」
こうしてぬるりとロズワール邸朝の日課として定着する事になったラジオ体操。
一通りが終わってからも雑談していた一行だが、ある程度で見切りをつけてそれぞれの持ち場へと戻っていく。
スバルも午後からやろうとしていた仕事の為に移動しようとすると、そんな彼に対して声をかける人物が1人。
「そういえばナツキ・スバル君。キミこの後予定はあるかい?」
「姉様に頼まれたから庭の手入れするつもりだったけど……」
「初日に出来ていなかったお話をね……ってそこまで警戒しないでもよくないかい?」
上半身を引いて顔もしかめっ面になり、これでもかと言うほどに全身で警戒心を表すスバル。
先程まで警戒されていた様子はなかったので初日の話に対してよほど警戒しているのだろうと考えるエキドナだが、スバルに言わせればそれは誤解だ。
彼が警戒しているのはエキドナが自分の名前をフルネームで呼んだ事であり、大体ろくな事が起きないのを分かっているからこそ慎重にならざるを得ないのである。
「悪いとは思ってるんすけど、どうしても警戒しちゃって」
「まぁ気持ちは分かるけれどね、なんにせよ今回のお話は大切なものだ。庭の手入れが終わってからでいいから、あとで部屋を訪れてくれたまえ」
それだけ言うとエキドナはそそくさとその場を後にする。
長話好きな彼女にしては珍しさを感じるが、それだけ大切な話だという事なのだろう。
それから数時間後。
庭の手入れをしていたら時間はあっという間に過ぎていき、時刻は15時前後といったところだろうか。
エキドナと何を話すのか考えながら手入れをしていると、気が付けばやりたかった作業はとうの昔に終わっていた。
屋敷の陰になっている部分に腰を下ろして涼むスバルは、流れる汗を拭きながらコップに入れられた水を一息に飲み干す。
「ふぅ。水持ってきてなかったら死んでたな、こんな暑かったか?」
記憶の中よりほんの少し暑いような気がするので、今日はたまたま猛暑日のようなものだったのだろう。
執事服はとうの昔に脱いでいたがどうにも暑さは抜けきらず、一度木陰に入るともう外に出たくないような気分になる。
倒れて空を眺めてみればどこまでも青い空と冷たい床の感触が感じられ、このまま昼寝できたらどれだけ気持ちいいのだろうかと思わずにはいられない。
ふと視線を上に向けてみれば窓枠で腕組みをしながらこちらを見ているラムの姿があり、スバルがやっていた仕事を確認していたようである。
「それにしても殊勝ねバルス。自分からラムの仕事の代わりを買って出るなんて……不潔よ」
「仕事を代わりにやってるのに、そんなこと言われる筋合いはねぇよ!?」
「冗談よ。それにしても本当にどんな気の迷いかしら」
「姉様には命を助けてもらったし、庭の仕事するの結構好きだからな。ほら、結構いけてると思わない?」
そう言いながらスバルが指さしたのは、今日一番時間をかけて作り上げた力作だ。
パックの形に葉が整えられた一本の木。
可愛らしさが前面に出ており、スバルの手先の器用さが見て取れる作品でもある。
実際ラムもその出来栄えに満足しているのか満足げな表情を浮かべていた。
「正直バルスがちゃんと出来るのか心配だったけれど、この分なら大丈夫なようね」
「ラムはラムの仕事があるんだから、俺の事は気にせず仕事に集中してくれ」
「そうさせてもらうわ」
何か困っていることがないか確認しに来ただけなのだろう。
軽い雑談だけで会話を切り上げたラムは、窓枠から離れようとしてふと何かを思い出したように立ち止まる。
「ああ、そうそうバルス。これだけは言っておかなければいけない事があったわ。ラムったら100年に一度の不覚ね」
「姉様この一週間だけでも結構忘れてること多いと思うけど、100年間不覚だらけじゃない?」
「うるさいわ、ラムの言う事に口をはさむのはやめなさい。バルスのくせに」
「ひでぇ言いよう!?」
照れ隠しなのか悪意なのか。
スバルの見立てでは後者7割といったところだが、話が関係ないところに流れているのを見てラムが一つ大きく咳払いをする。
雑談はここまでと言うことなのだろう。
流石にスバルも茶々を入れた自覚はあるので、黙ってラムの言葉が続くのを待つ。
「……バルスがラムの事を知ったような口ぶりであれやこれやしてくるのは、もう気にしないようにするわ。最低限度は弁えているようだから」
ラムを病人のように扱うのではなく、ラムが出来る事はラムがする。
スバルは自分が出来ない事を理解しているからこそ、ラムが出来ない部分をカバーし、その分何かあった時はラムに任せる。
信頼していると言ってしまえばそれまでだが、1,2週間で出来るような信頼関係でないことはラムも信頼される側としてそれを理解しつつ、だがスバルという人間はそういうものなのだろうと不思議と納得できていた。
だがもう気にしないというのであれば、彼女は一体何を言いたかったのだろうか。
振り返り、一瞬スバルの方を見て目を細めた彼女は珍しく口を開けてから一瞬だけ間を開けて言葉を続ける。
「同じくらいとは言わないから、少しだけでもエキドナ様の事を信頼しなさい。バルスが思っているよりずっと、あのお方はバルスの事もエミリア様の事も大事に思っているから」
それだけ言い終わると、ラムはもう話はないとばかりに背を向けて立ち去った。
脳裏にチラつくのは墓所でのやり取り、そしてその後起きた悲劇のことだ。
敵対者であろうとも気軽に肩を並べるスバルがいつまでも一歩引いた対応を取るのは、魔女としての彼女の行動原理がまるで理解できないからだ。
愛情に溺れたロズワールや、姉を守ろうとしてスバルを攻撃したレムとは違い、彼女は知識欲によってのみ動いていた。
大罪司教達と同じくまるで理解できないその言動はいまでも思い出すだけで背筋が冷たくなり、いま彼女から向けられる暖かい笑みにも裏があるのではないかと無意識の内に勘ぐってしまう。
「…………難しいこと言うなぁ、姉様は」
だけどきっと、この世界ではそれが出来るようにならなければならないのだ。
彼女はこの世界ではスバルが知る限りまだ何も悪い事をしていなくて、ロズワールとベアトリスの親として精一杯生きているだけなのだから。
スピカを許したのだから、なんの罪も犯していない彼女に対して冷たい目線を向ける事などあってはいけないのだ。
そう頭では理解して、スバルは小さく息を吐き出し立ち上がるとエキドナの部屋へと向かうのだった。