「よく来たね。立ち話もなんだ、座りたまえよ」
差し込む夕日に目を細めながら、スバルは部屋の主に案内されるままに椅子に座る。
対面に着席したエキドナは慣れた手つきで紅茶を入れると、スバルの前に差し出した。
なんとなく見覚えのあるティーカップにどこで見たのかと記憶を探ってみれば、数秒も立たずにそれが墓所の夢の中で見た茶器と同じものであったことを思い出す。
彼女の趣味なのだろうか? 見た目の装飾や手触りは確かにスバルも好きだが、入っている飲み物が紅茶であること、そして目の前にいるのがエキドナであることがこの紅茶に対してのスバルの警戒度を一気に引き上げる。
「……………………」
「どうしたんだい? そんなにティーカップをマジマジと眺めて」
ためらうスバルを見てにやにやと笑うエキドナ。
まるで試されているようで癪に触るが、いまのスバルは表立って反抗できるような立場にもないので黙ってこの状況を受け入れるほかない。
「…………喉乾いてないんだよ、今日はジメジメしてるし」
「先ほど熱い熱いと言いながら水を飲んでラムと話をしていたのに?」
「全部聞いてたのかよ!」
付近に人がいた気配はないというのに、この魔女はどこまで地獄耳なのか。
屋敷の中で話をしていたあれやこれやが聞かれているのだとしたら、かなりまずいことになる。
そう考えたスバルが警戒を強めているのをよそに、エキドナはそんな怯えるスバルの姿を楽しそうに眺めながら紅茶を口に含んだ。
「屋敷の外の警備はラムに任せているんだ、屋敷の中くらいはボクがやるのが当然だろう?」
そう口にした彼女が一瞬視線を外に向ければ、夕日の光に反射してチラリと魔法の光のようなものが窓の外に見えた。
それが何なのかスバルには分からないが、おそらくは魔法を使用した何らかの防衛機構なのだろうということくらいは想像できる。
この分では音声だけではなくあれやこれやを屋敷に入った時点で知られていてもおかしくないだろう。
エキドナに先に情報を取得されているという状況に何とも言えない表情を見せるスバルだが、それと同様にエキドナも頬を膨らませ、普段は見せない表情で不満を訴える。
「まぁそんなことはいいとして、レディが用意したものを口にしないとは少々君にしては珍しく配慮に欠ける行動ではないかい? どうしてもボクの出した飲み物は飲みたくない、ラムが入れたお茶しか飲みたくないとそう言うのであれば、別にボクとしては構わないけれどね。ただそうなったら毎朝ボクが用意している美味しい朝食も君は食べられないということになるが」
「脅し方が陰湿だぞ……わーったよ、飲めばいいんだろ飲めば」
怒った顔の次は悲しそうな表情を見せるエキドナ。
ほとんど真顔と張り付けたような笑顔しか知らなかったスバルは、人間らしい表情をするエキドナにとにかく弱かった。
エキドナの言った通り毎朝彼女の作った朝食を食べていたのだ、今さら気にする必要もないだろう。
そう自分に言い聞かせて一口で全てを呑み切ったスバル。
口内を甘い香りが充満し、少しの苦みと花のような香りが鼻の奥を抜けていく。
「ほら飲んだぞ、これでいいだろ」
「一口とは良い飲みっぷりだね。流石のボクもそう美味しそうに自分の入ったものを飲まれると……少し恥ずかしいな」
「ぶ──ッ!! 結局入ってんじゃねぇかこの性悪魔女!!」
吹き出しながら立ち上がるスバルだが、エキドナはそんなスバルを見ても特に表情を変えることはない。
先ほどまでのが嘘だったように素の表情になった彼女は、改めてスバルに紅茶を入れ直しながら弁明にもならない言葉を並べ立てる。
「ボクは一言も入っていないとは言っていない。というか女の子に向かってそういうことを言うのはどうかと思うよ?」
「……やっぱアンタ、ロズワールの師匠だぜ」
「リューズとベアトリスの母でもあるよ。それにあの子もそう言われるほど悪い子じゃないさ、少しやりすぎてしまうだけだ」
そのやりすぎがスバルにどれほどの苦難をもたらしたか。
小一時間説教してやりたい気持ちを抑えつつ、抗議の意味を込めてエキドナを睨みつけるスバルだが、エキドナはそんなスバルをただじっと見つめるだけだ。
数秒もすればこれが時間の無駄であることを否が応でも理解させられ、スバルは大きく深呼吸をして自分を落ち着ける。
相手のペースに飲まれればそれで終わり、人と喋っていると思うからストレスが溜まるのだ。
大罪司教を相手にするつもりで、相手の会話から必要な情報の欠片を拾い集めて自分の理論を補足するためのピースにする。
そうやって意識を切り替えればスバルの中で渦巻いていた感情はスッと落ち着いた。
水分が目の前にある紅茶しかなく、口の中の後味を治すためのものがないことだけは気がかりではあったが。
「……それで、本当に俺を呼び出した理由は?」
「ボクとしてはもう少しこうやってじゃれ合っていても良いんだが」
「俺の精神が持たねぇよ! なんかあるんだろ? わざわざ初日に俺を呼び止めてまでしたかった話が」
──スバルの中でエキドナがどのような存在か、いまさら語るまでもないだろう。
それは知識欲に呪われた少女であり、世界を壊しかねない強欲の化身。
しかし無駄を嫌い、嘘を吐かず、言葉を飾りつけはしても歪な真心は持っているというのが嘘偽りのないスバルのエキドナに対しての評価。
そんな彼女が大切な話があるとスバルを呼び出したのだから、何もないということはない。
ティーカップを持ち上げ、優雅に紅茶を飲みながら彼女は語り始めた。
「まず前提として、キミがボクに抱いている不信感について解消しようと思う」
「不信感?」
「どうやらベアトリスに聞いていないようだからね。彼女の口から伝えられた方が良いだろうと思ったんだが、ベアトリスはボクを信用しすぎらしい。単刀直入に言うとナツキ・スバル。ボクはキミが知る強欲の魔女、その知識を有している。つまりキミが元の世界で──これから先の起こりえた未来で何をして、どれだけの死を積み重ね、そしてそれら全てをなかったことにされたかを知っていると、そう言えば分かるかい?」
──ガシャン! と大きな音が部屋の中に響き渡る。
机に強く打ちつけられたスバルの拳は血がにじんでいるが、そんなことを気にしないままスバルはエキドナへ視線を合わせる。
先ほどまでの懐疑的なものではなく敵に対して向けるその目は、たとえ何があろうとも大切なものを守り抜くという決意が込められた目だ。
「……痛かっただろう? 少しジッとしているんだよ」
まるでスバルがそうすることを分かりきっていたように持っていたティーカップを机に置くと、傷ついたスバルの手を持ってポケットから取り出したハンカチを宛てがう。
高級そうな手触りのハンカチに血が滲んでいくのを見ながら、スバルは状況が理解できずに混乱していた。
先ほどから何度も感じるエキドナからのあたたかな感情、そこには確かにスバルを思う気持ちがあった。
強欲の権能が彼女を仲間だと認識し、己の理性とのギャップで何が起きているのか混乱してしまう。
「お前は、誰なんだ?」
「エキドナだよ。強欲の魔女
全てを分かったかのように語る彼女の姿は、スバルの記憶の中にある彼女そのものだ。
だが彼女も口にした通り行動の端々に出る強欲の魔女らしからぬ言動がスバルに違和感を覚えさせ、魔女ではなくエキドナという一個人が目の前にいるということを認識させる。
……ふと、彼女が扉の方へと手を向けると、透明な誰かが扉を開けたように出入口が開く。
気が付けばいつの間にか日が沈んでいたらしく、暗い室内には廊下のライトが照らす明るい光が差し込んでいた。
逃げたければ逃げろということだろう。
何も口に出さず逃げ道だけを提供した上で、エキドナは少し気まずそうに笑った。
「……ボクはキミとこの世界で、友達になりたいと思っている」
「──はっ?」
「傷つくよ、そんな真顔で驚かれたら。でも本当だよ、ボクは君と友達になりたいと思ってる。だからボクは君に隠し事をしないし、君の決断を尊重する。友達になってくれるかい?」
差し出されたエキドナの手を見て、スバルは深く逡巡する。
あまりにも直球的な彼女の動き方は隠し事をしないという言葉の現れなのだろう。
(少しだけでもエキドナ様のことを信頼しなさい)
そんなラムの言葉が脳裏をよぎる。
だからスバルは大きく両手を広げて、力いっぱい自分の頬を叩いた。
「──な、何を? そういう趣味なのかい?」
「俺は誓ってドMじゃないし! 誰彼構わず体液入りのお茶飲ませるオマエにだけは言われたくねぇよ!!!」
「なッ──君は一体ボクのことを何だと思ってるんだ! これでもうら若き乙女なんだぞ!」
400年以上の歳月を生きた乙女がいてたまるか。
気が付けばお互いに席を立ち言い合いの姿勢になる中で、スバルはそんなエキドナの姿があまりにもおかしくてつい笑ってしまう。
小さく漏れ出た笑い声は気が付けば大きなものに変わり、腹を抱えながらスバルはひとしきり笑う。
「……何がそんなに面白いんだい」
「悪かったよ、すねんなって。初めてお前のことが分かった気がしたんだ、それが嬉しくってさ」
そう言ってスバルは自分から手を差し出した。
全部をひっくるめて改めて考えて、自分の中で出た結論をスバルは信じることにする。
目の前にいる彼女は──エキドナは信用できる人間だと、そう感じたから。
スバルのそんな姿に目を丸くして固まったエキドナは、少ししてようやくおずおずとスバルの手を両の手でぎゅっと握る。
「……よ、よろしく」
「ああ、連れない態度取っててごめんな。これからよろしく、エキドナ」
きっと室内が暗くなっていなければ、そこには茹でタコのように真っ赤な顔をしたエキドナの姿があっただろう。
色白の彼女の顔に赤が差し込むとそれはよく映えるものだが、残念なことに廊下からの光源だけではそんな彼女の表情を見ることはできない。
落ち着き直すためにも椅子に座り直した両者は、心なしか先ほどよりも互いに前のめりに座る。
「いいよ別に、紅茶飲むかい?」
「…………………………………………………………飲まないとダメ?」
「最初の君が飲んだ一杯にしか入れてないよ! ボクを何だと思ってるんだ!!」
自分の体液が入った液体をがぶがぶ飲む異常者だと思われていたことに対して強い抗議の言葉をあげるが、そんなエキドナを見てけらけらと笑うスバルの姿にエキドナもこれ以上何かを言う気にはならなかった。
大きく息を吐き出してスバルが紅茶に手をつけるのを見ながら、話を次のステップに進める。
「冗談はこの辺にして、いくつか話をしていこう。さっきまでのはあくまでも君に義理を通すためのものだ」
「……エミリアに関係する話か?」
「主に君に関する話だが、後々彼女にも関係はしてくる話だ。先ずは魔女因子について話そうか」
魔女因子。
スバルの体内に8つ存在する大罪の因子だ。
この世界に来てからやけに静かだが、スバルの体を内から食い破らんばかりの勢いでよく暴れ回っていたものである。
「君も知っての通り、我々魔女と呼ばれた者達と大罪司教はこの魔女因子を持っている。魔女因子は本来一つで、増減することはない。この認識はあるかい?」
「ああ、もちろん」
だからスバルは死ぬ前に大瀑布に落ちた。
あの場所であれば──嫉妬の魔女を封印していたあの場所であれば、魔女因子を自分の体と共に封じられると考えたから。
実際はこうして別世界線に来てしまったため本当はどうなっているのか定かではないが、少なくとも死後何らかの対処をしなければならない程度には劇物ではある。
「だがキミはいま魔女因子を持っていて、そしてこの世界には大罪司教が存在する。つまり魔女因子は2つ以上あると、そういうわけだ」
「エキドナは持ってないのか?」
「ボクは400年前に捨てた。思考野の汚染が酷かったからね、他の魔女もこの世界では全員生存している。死んでる扱いの者もいるがね」
「魔女が……全員……マジ?」
「大マジだ。まぁキミが知っている彼女達とは大きく違うがね、みんな幸せに暮らしているよ」
そう語るエキドナの表情は優しげなものだ。
ロズワールやベアトリスに向けるような、そんな優しい表情を浮かべる彼女。
他の魔女はそれだけ彼女にとって大切な存在なのだろう。
正直スバルにしてみれば全員が生きているのは悪夢に近い何かなのだが、少なくとも彼女の口にした通りエキドナのような良い変化が事実なのであればスバルも口をはさむことはない。
大切なのは彼女たちがなぜ生きているのか、それだけだ。
「どうして……いや、生きてるのは素直に良いことだと思うんだけど……なんでそんなことに?」
「これはきっと、二つの事柄が関係している。一つ目はキミが魔女因子を持ってきたことにより、オド・ラグナが整合性を取るために、我々から魔女因子を回収する必要があった。二つ目は君の持つ特性が原因だろうね」
「……つまり全ての異変の原因は俺か?」
当たり前といえば当たり前の事実。
改めて問いただしたのは、状況を正確に理解しようとするスバルなりの行動だ。
それに対してエキドナは素直に首を縦に振る。
「具体的にはパンドラと君、そういうことになってしまうんだろうね。まぁ魔女の方に関してはボクが墓所で飲ませた茶にも原因はあるだろうが……なんだいその嫌そうな顔は。キミちょっと思ってたけど、調子に乗ってるんじゃあないかい? 墓所に封じられていた時と違って、今のボクは理性的かつ法律を守り、人間社会において許容される形でキミを囲って飼い慣らす事だってできるんだからね? 多少はじゃれ合いの一環として許すけど、あんまりにも酷いようなら……」
その先の言葉は一体なんなのか。
悪戯っ子のような笑みの奥には墓所で見た時と同じ狂気が見え隠れしており、スバルの勘が即座に撤退しろと警鐘を鳴らす。
「悪かった! 俺が悪かったです、許してギブミー」
「分かればいいんだよ分かれば。乙女心を蔑ろにするのはあんまり良くないからね。さて、話を戻すと先ほど君にボクのDNA情報を取り込ませたのは、そのオド・ラグナが作り出した違和感を埋めるためだ。これで暴食の魔女因子は君に適合し、暴走するようなこともない」
「……何からなにまで悪いな」
必要なのは理解できたが、それにしたって別の方法はなかったのか。
喉元まで出てきた言葉をなんとか押しとどめ、スバルは感謝の言葉を口にした。
エキドナはそんなスバルの言葉を受けて随分と嬉しそうに笑う。
「いいんだよ別に。それでだけど、この前提を踏まえた上でこの世界に数多くの異変が存在するのは理解しているね?」
「ああ、それはもちろん」
「であるならば事ここに至って最も大切なのは、我々の共通目標であるエミリアを王にする事、これが大切だ。歴史という大きな流れは細かなもので多少変わりはするが、転換期を外してしまうと本当に予測がつかなくなってしまうからね」
もとよりエミリアの願いを叶えるのはスバルの基礎目標。
いまさらそこはブレたりしない。
改めて己の役割を理解し直すスバル。
やらなければいけない事はいくつもあるが、目標が決まった分大胆に動く事もできるというもの。
「いまのところで質問は?」
「サテラが嫉妬の魔女じゃなくなったって事は俺の……その……アレについては話してもいいのか?」
スバルが口にしたアレとは死に戻りについてだ。
彼にとっては口に出して話せばろくなことが起きないこの話題。
暗黙のルールとして守っていたそれを匂わせる程度に漏らしたのは、エキドナを信用してのものでもある。
そんなスバルの慎重さを鼻で笑うようにエキドナは簡単に言い切ってみせる。
「死に戻りかい? アレはもはや君が持つ権能のようなものだ。元はサテラの力だが、いまは君の権能として無意識に発動していると捉えて構わない。ただ言いふらすのはオススメしないがね、全てを救う決意は共感できなくもないが、セーブ前の地点での死者を助ける為に殺される可能性だってある。いままで通り黙っていなよ」
「…………わかってる」
嫉妬の魔女を倒し、パンドラにこの世界に送り出されるまでも、様々な問題があった。
魔王を倒して大団円で終えられる物語とは違い、現実は魔王を倒してからが本番なのだと強く実感させられたものである。
彼女の口にした可能性も、スバルが身をもって潰した可能性の一つだ。
「その様子だとさては一回やったね? まったく、君のその度し難い優しさには、時折魔女であったボクですら恐怖するよ。ちなみにそれで言うと、未来から来た事をペラペラ喋るのはさらにオススメしない」
「なんでだ?」
「オド・ラグナの強制力がどこまで影響しているか、まるで分からないからだよ。すでに知っているものや未来から来たものは対象外としても、何も知らない人間相手に未来のことを話せばどんな形でその違和感をオド・ラグナが修正するかははっきり言って未知数だ」
エキドナの仮説が正しければ、スバルが魔女因子を持ってこの世界にいることの整合性を取るためだけに、全ての魔女の生存が確定した。
国を崩壊させることすらできる7人の魔女がその力の大半を失ったとはいえ、いまもなおこの世界で生きる事を許されるほどの多大な影響をスバルはこの世界に及ぼしたのだ。
であるならば、その変化はスバルが想像し得ないほどに大きなハズレクジになる可能性もある。
たとえばラインハルトが腸狩りとの戦いに居なかったり、たとえば記憶を保有している者が現れたり、あるいは――
最悪は世界のバランスを取るために誰かがこの世界から存在すら消え、それをスバルが知覚できなかった時だろう。
そうなれば本当の意味で取り返しが付かなくなる。
背筋を流れる冷たい汗にどうしようもないくらいの恐怖を感じながら、スバルはどれだけの責任があるのかを理解した上で頷いた。
「絶対に漏れないよう気を付ける」
「いい心がけだ、理解が早くて助かるよ。さて、長々と説明も終わったし、そろそろ物語のコマを次の章に進める必要がある。ここに滞在していてもやれることは限られているからね」
「──って事はまさかだけど」
芝居がかったエキドナの言い回し。
スバルの記憶の通りに行くのなら、この次に起きる大きなイベントは彼にとっての最大の恥辱だ。
この世界線においてはいまのところ上手くいっている男との関係性が大きく変化する場所であり、スバルが騎士とは何たるかを恥と実感で理解した場所。
「そう、そのまさかだ。キミにはこれから王都に向かってもらうよ、ボクと一緒にね」
そう言いながら微笑むエキドナの姿はまさに魔女で、そんな彼女を前にしてスバルはがっくりと項垂れて現実を受け入れるのであった。