ベアトリスたちからの吉報を受け、スバルは居ても立っても居られずにオットーの収容されている小屋へと急いでいた。
アーラム村の未舗装の道を歩く足取りは、逸る気持ちに比例して自然と早くなる。
オットーが目を覚ました。しかも記憶に障害はなく、こちらのことも覚えているという。
出会い頭の盛大な嘔吐と気絶騒ぎには肝を冷やしたが、ひとまず無事だと分かればこっちのものだ。
「そんなに慌てなくても、彼は逃げたりしないだろう?」
「分かってるよ。分かってるけど、顔見て安心したいんだよ。……悪いな、付き合わせちまって」
早足のスバルの背後には、銀髪の美少女と、白髪の魔女が続いている。
エミリアとエキドナだ。
本来ならスバル一人で飛び込むところだが、エミリアが「私も挨拶したい」と言い出し、それにエキドナが面白半分でついてきた形である。
「いいの。スバルのお友達なんでしょう? だったら私も、ちゃんとお見舞いしたいもの」
「エミリアたんマジ天使。それに比べてエキドナはオットーの扱いが酷いぞ」
「失敬な。ボクは純粋な知的好奇心を抱いているだけだよ。それにたぶん、オットー君もキミがボクにその台詞を口にするのは納得しかねるんじゃないかな」
スバルによるオットーへの普段の扱いを棚に上げた発言に、エキドナが肩をすくめる。
そんな軽口を叩き合いながら、目的の小屋の前へと辿り着き、ノックをしようと手を上げたその時だった。
「────」
扉の向こうから、話し声が聞こえた気がした。
それも、独り言にしてはあまりに明瞭で、明確に会話の相手がいるような間のある響き。
だが、耳を澄ませても聞こえてくるのはオットーの声だけで、相手の返答が聞こえない。
「……オットー?」
スバルは呼びかけながら、焦れたようにコンコンと軽く扉を叩く。
中から返事はなく物音も特に聞こえてこず、スバルは堪え切れずにドアノブを回した。
「お見舞いに来たぞ! 起きてるか……って」
勢いよく踏み込んだスバルの視界に飛び込んできたのは、ベッドの上で上半身を起こし、きょとんとした顔をしているオットーの姿だけだった。
他に人影はない。
ただ、部屋の奥にある窓が大きく開け放たれており、風に煽られたカーテンがバタバタと暴れている。
秋の始まりの風は冷たく肌を撫で、部屋の中はほんのりと冷たくなり始めていた。
「……ナツキさん、ノックはいいですけど普通は相手の返事を待って部屋に入るものですよ」
「あ、ああ。悪い。……あれ? 今、誰かと話してなかったか?」
スバルは眉を顰め、狭い部屋の中を見回しながら尋ねる。
隠れられそうな場所はベッドの下か、クローゼットくらいのものだが、大の字の大人が瞬時に隠れられるような気配は感じられない。
あるいは、開いた窓から外へ?
スバルは窓際へ歩み寄るが、外に誰かが逃げたような痕跡も見当たらない。
「誰かと? いえ、誰もいませんよ。空耳じゃないですか?」
「耳の良さには自信があったんだけどな」
「ナツキさんはたまに根拠のない自信が湧き出てますから、それじゃないですか?」
オットーは困ったように眉を下げ、いつもの頼りなげな笑みを浮かべた。
その様子があまりに自然で、スバルは聞き間違いだったかと頭を掻く。
確かに、神経が張り詰めていたせいで空耳を聞いた可能性はあるし、何よりオットーが嘘をつく理由が思い当たらない。
「そうか……無理すんなよ。それより、窓開けっ放しだぞ。風邪ひくから閉めとく」
「あ、すいません。空気を入れ替えたくて」
スバルが窓を閉めるとオットーは何とも言えない笑顔を浮かべながらそう口にした。
病み上がりの体に風が障ると心配したのだが、彼にしては珍しく迂闊な行動である。
そんなスバルの懸念を余所に、オットーはスバルの後ろに立つ二人へと視線を向けた。
「それで、そちらの美しいお二人は?」
「おっと、そうだった。紹介するよ」
スバルは一歩横に退き、まずはエミリアを手で示す。
順番的に説明しやすい方が先だ。
「こっちがエミリアだ。エミリアたん、オットーは割と気さくでなれなれしいかもしれないけどそういうキャラだから勘弁してあげてね」
事前にエミリアの記憶がないことはベアトリスから聞いているはずだ。
スバルの言葉にオットーは微笑みを浮かべながらも居住まいを正す。
「ナツキさんでしょそれは。初めまして、エミリア様。しがない行商人のオットー・スーウェンと申します。以後、お見知りおきを」
「初めまして、オットーさん。エミリアです。スバルがいつもお世話になってるみたいで、その、ありがとうね?」
丁寧にお辞儀をするオットーに、エミリアもまた微笑んで答える。
初対面の、しかし温かいやり取り。
本来なら気心の知れた主と内政官という間柄になるはずの二人だ。
その距離感にもどかしさを覚えつつ、スバルは黙って見守る。
そんなスバルを横目で見ながら、オットーの視線はもう一人、部屋の空気を異質に染める白髪の女性へとスライドした。
「それで……そちらの、白髪の方は?」
オットーの瞳に、わずかな警戒の色が混じる。
無理もないだろう。
エキドナの放つ存在感は、ただの人間のものではない。
どう説明すればいいものかスバルも分からないが、大罪司教達と同じく一目見た瞬間に何か異質なものを感じるのだ。
スバルはどう説明したものかと一瞬言葉に詰まったが、当のエキドナがまるで気にした素振りもなく言葉を並べ立てる。
「ボクかい? ボクはエキドナ。……まあ、そうだな。ロズワールの師、と言えば通りが良いかな? はっきり言ってしまえば強欲の魔女だ」
「強欲の──」
途端、オットーの表情が凍り付く。
反射的に身を引いたその動きは、明確な警戒と恐怖に彩られていた。
直接的な被害を受けたわけではないだろうが、魔女という単語はこの世界において災厄と同義だ。
ましてや、魔女教との戦いを潜り抜けてきた記憶を持つオットーならば、その反応は正しい。
だが、今の状況で怯えられても話が進まない。
スバルは努めて軽い口調で、オットーに声をかけた。
「まあ、そんなところだ。ちょっと事情が複雑でな。……悪い魔女じゃない、とは俺が保証する。性格に関しては保証しかねるけど」
「一言多いよ、スバル」
むくれるエキドナと、呆れるスバル。
そんな二人の、まるで漫才のようなやり取りを見て、オットーは厳しくひそめていた目を丸くして──やがて何かを納得したように、小さく息を吐いた。
「……なるほど。ナツキさんの周りは、相変わらず退屈しなさそうですね」
その言葉には、どこか諦めと、それ以上の信頼が滲んでいるように聞こえる。
呆れたような声音でなんだかんだとスバルのやることに対していろいろな道を指示してくれるその姿は、依然と変わりがないようでスバルもほっと息を吐きだした。
とりあえず前までのように突然吐き出したりするような素振りはない。
「何があったか、ある程度は聞いてるって認識でいいんだよな、オットー」
「ええ。ベアトリスちゃんたちから一通り。……ナツキさん、また無茶したみたいですね」
オットーの目が、じとりとスバルを責めるように細められる。
その視線に含まれるのは、呆れと、それ以上の深い懸念だ。
「そんな怖い目で見るなよ。当たり事故みたいなもんだったし、それになんとかなったんだから」
「結果オーライで済ませるのがナツキさんの悪い癖ですよ。今回は良くても、次はどうなるか……」
ぶつぶつと小言を並べ立てようとするオットー。
だが、その言葉を遮るように、スバルの隣から鈴を転がしたような声が響いた。
「スバル。心配してくれたんだから、ごめんなさいとありがとうでいいでしょう? オットー君はスバルのことが心配だったんだから」
腰に手を当て、母や姉のように諭してくるエミリア。
その正論と、慈愛に満ちた眼差しに、スバルはバツが悪そうに頭を掻いた。
「……わりぃオットー。ありがとうな、心配してくれて」
素直に頭を下げるスバル。
そんな彼の姿を見て、オットーは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような、呆気に取られた表情を見せる。
オットーの内心をスバルが読み取ることはできないが、その驚愕の理由は明白だ。
記憶を失っているはずのエミリアが、あまりに自然にスバルの手綱を握り、スバルもまたそれを当然のように受け入れている。
オットーの知る以前のエミリアであれば、スバルに声をかけることはあっただろう。
だが目の前にいるのは何も知らないはずのエミリアだ。
そんな彼女とここまで対等で親密な信頼関係を、この短期間で再構築できているとは想像できなかったのだろう。
「え、ええ。良いんですよ別に。それに、これからはナツキさんが無茶しない様に、僕が一番近くで見張れますから」
気を取り直したオットーが、どこか決意を込めた声で宣言する。
その熱量にスバルが目を瞬かせると、エミリアが口元に手を当ててくすりと笑った。
「ふふっ、オットー君はスバルの事が大好きなのね」
「そんなもんじゃ──いえ、そうなのかもしれませんね」
普段なら誤解です!と全力で否定しそうな場面だ。
しかし、オットーは一度言葉を飲み込むと、穏やかな笑みを浮かべて肯定した。
「おいおいお前何言ってんだよ、熱出てきたんじゃねぇのか?」
「あら、スバルったら耳まで真っ赤っか」
「やめてエミリアたん、見ないで! 俺の初心なハートが耐えられない!」
「僕をいちゃいちゃの出汁にするのはやめてくださいよ……」
やれやれと肩をすくめるオットー。
ひとしきり和やかな空気が流れた後、ふと思い出したように彼が切り出した。
「そう言えば、ガーフィールは居ないんですか? フレデリカさんは見かけましたが、彼の姿をまだ見ていませんが」
何気なく出されたその問いかけに、和やかだった場の空気が一瞬にして凍り付いた。
オットーに悪気はない。姉であるフレデリカがいるのなら、その弟であるガーフィールも近くにいると考えるのは自然な思考の道筋だ。
だが、その当然の問いに対する答えを、今のスバルは持ち合わせていなかった。
「あー……その話なんだが」
スバルは言葉を濁し、気まずそうに視線を彷徨わせる。
ちらりとエミリアの方を見やるが、彼女も困ったように眉を下げるばかりだ。
ガーフィールの不在には、一言で説明するにはあまりに複雑で、かつデリケートな事情が絡みすぎている。
そんなスバルの歯切れの悪さを、聡明な商人が見逃すはずもなかった。
「…………」
オットーの瞳から、親友に向ける柔らかな色が消える。
代わりに宿ったのは、鋭く冷徹な光。
利益と損失を天秤にかけ、相手の嘘を見抜こうとする商人の目であり、同時にスバルの陣営を内側から支える内政官としての警戒心だ。
沈黙が痛い。スバルがどう切り出すべきか冷や汗をかき始めた、まさにその時だった。
「聖域は現在、立ち入り禁止だ。理由は言えないが、ガーフィール君が無事な事自体は姉であるフレデリカ君に確認してくれたまえ」
我が物顔で会話に割って入ったのは、それまで面白そうに沈黙を楽しんでいた魔女だった。
エキドナは淡々と、しかし有無を言わせぬ断定的な口調で告げる。
それは説明ではなく、通告に近い。
これ以上踏み込んでくるなと言いたげなエキドナを前にして、オットーは睨みつける様な視線で言葉を発する。
「……あなたが関わっているんですか?」
オットーの声が低くなる。
ベッドの上、病み上がりの身体でありながら、彼が放つプレッシャーは対峙する魔女へと真っ直ぐに向けられていた。
直接的な敵対行動こそ取っていないが、その全身からは信用しないという意思表示が痛いほどに伝わってくる。
だが、エキドナはそんなオットーの敵意すらも、極上のスパイスであるかのように涼しい顔で受け流した。
「そう睨まないでくれたまえよ。ボクはスバル君の友人だ。友人の不利益にならないような事はしないと、心の底から誓うとも」
白い魔女は胸に手を当て、芝居がかった仕草で微笑んでみせる。
完璧な所作、完璧な笑顔。けれど、その瞳の奥には底知れない闇が渦巻いている。
嘘は言っていないが、真実も語っていない。
そんな詐欺師特有の気配を、オットーは敏感に感じ取る。
疑念の視線は晴れるどころか、より一層濃くなるばかりだ。
「……お前、ほんと胡散臭く見えるよな」
「キミはボクの味方をするべきなんじゃないかなぁ!?」
耐え切れなくなったスバルの率直すぎる感想に、エキドナが不満げに声を上げる。
そのあまりにコミカルな反応のおかげで、辛うじて室内の緊張の糸が切れることはなかったものの、オットーの眉間に刻まれた皺が消えることはなかった。
「まぁキミがどう思うか別として、それが事実だよ」
エキドナはこともなげに言い放つ。
その言葉には、反論を許さない絶対的な響きと、有無を言わせぬ魔女としての圧力が込められていた。
オットーは数秒ほど彼女を睨みつけていたが、やがて短く息を吐き、不承不承といった様子で頷く。
「……理解はしました。今は、そういうことにしておきましょう」
あくまで納得はしていないが、ここで騒ぎ立てる場所ではないと判断したのだろう。
賢明な判断だ。スバルが内心で胸を撫で下ろしていると、それまで蚊帳の外だったエミリアが、パンと手を叩いて空気を変えた。
「──そうだ! オットー君に聞きたかったんだけど、オットー君はどこでスバルにあったの? スバルってば、全然自分のこと話してくれないんだもの」
好奇心に目を輝かせるエミリア。
その無邪気な問いかけに、オットーの視線がチラリとスバルへと向く。
『どこまで話していいんですか?』という無言の問いかけだ。
スバルはエミリアに気付かれないよう、小さく首を縦に振り好きにしろと合図を出す。
そんな友人からの意図を瞬時に汲み取ったオットーは、表情を柔らかいものへと切り替えた。
「随分と昔に、魔女教徒に襲われていたところを助けてもらいました。そこからの腐れ縁みたいなものです」
「スバルがオットー君を助けたの? スバルは昔から頑張り屋さんだったのね」
「棒に両手足くくりつけられて、油をかけられて焼かれる一秒前みたいな格好で運ばれてきたから、あの時は笑ったな。芋虫みたいだったし」
「笑わないでくださいよ、あの時は本当に大変だったんですから!」
スバルの軽口に、オットーが抗議の声を上げる。
だが、そのやり取りには確かな実感がこもっていた。
かつて存在した世界。スバルが何度も死に戻り、オットーが捕まり、それでも抗い続けた魔女教討伐の記憶。
スバルとオットーだけが共有する、血と煤に塗れた、けれど輝いていた日々の記憶だ。
オットーはいくつか脚色を交えながら、自分とスバルだけの冒険譚を、あたかも遠い昔の出来事のように語って聞かせた。
エキドナは会話に参加せず、時折興味深そうに相槌を打ちながら、楽しそうに二人の語りを聞いている。
エミリアは「うん、うん」と身を乗り出し、スバルの活躍に目を細めていた。
穏やかな時間だった。
かつて失われたはずの友人が目の前にいて、馬鹿話をして、隣には守りたかった主君が笑っている。
ふと、そんな幸せな光景を噛み締めた瞬間、オットーの声音が震えた。
「本当に……あの時は、必死で……」
言葉が続かない。
視界が滲み、熱いものが頬を伝い落ちる。
「あ、あれ」
オットーは慌てて目元を拭うが、涙は後から後から溢れ出して止まらない。
抑え込もうとすればするほど、堰を切ったように感情が溢れ出す。
「オットー? おい、大丈夫か?」
「なんですかね、ははっ。こんな、なんで……いい大人が、恥ずかしい」
「……わりぃ、一気に話しすぎたな。病み上がりだってのに」
スバルが背中をさすると、オットーは子供のようにしゃくりあげながら、それでも笑顔を作ろうと顔を歪めた。
「いえ、いいんです。本当に、ボクもなんでこうなってるか分かりませんから……ただ、なんだか」
懐かしくて、嬉しくて、そしてどうしようもなく悲しい。
そんな矛盾した感情が、彼の胸を引き裂いていた。
「ごめんなさいオットー君、私が無理に聞いちゃったから」
「本当に気にしないでください、エミリア様。これは、僕の問題ですから」
止まる事なく流れ続ける涙。
これ以上、人前で醜態を晒させるわけにはいかない。スバルはそう判断し、エミリアの肩を抱いた。
「俺達は席外すよ。また来るからさ、今はゆっくりしててくれ」
「すいません……気を使わせてしまって。エミリア様も、失礼しました」
「ううん、私のことはいいの。自分を気遣ってあげてね」
気遣わしげに眉を下げるエミリアを促し、スバルは部屋の出口へと向かう。
先にスバルが出て、続いてエミリアも廊下へ出る。
だが、最後尾にいたエキドナだけは、扉の敷居を跨ごうとはせず、部屋の内側で足を止めた。
「何つったってんだよ、ほら行くぞエキドナ」
「いや、ボクはまだ話し合えていないからね。先に帰っていてくれたまえ」
言うが早いか、エキドナはバタンと扉を閉める。
さらに、ガチャリと中から鍵をかける音が響いた。明確な拒絶だ。
「おい! 何してんだよ、エキドナ! 病人にこれ以上無茶させるなって」
「細心の注意は払うとも。それに部外者のボクだからこそできる話もあると、そうは思わないかい?」
「────」
その言葉に、スバルの拳が止まる。
部外者だからこそできる話。
それはつまり、オットーが隠している何かや、スバルには言えない事情を、魔女という立場から聞き出すという提案だ。
涙の原因がオットーが隠す何か、それにあることくらいスバルだって分かっている。
分かっていて彼のためにあえて目を瞑ったというのに、エキドナはそんなスバルの考えを理解した上で行動に出たのだ。
「……沈黙は肯定と受け取るよ。ロズワールがラムに絡まれて困っていたから、助けにでも行ってあげるといい」
エキドナの声は楽しげで、そしてなにより頼もしかった。
スバルは数秒の逡巡の後、扉に背中を預けているであろうエキドナに向かって、エミリアにも聞こえないだろうくらいの小さな声で囁いた。
「……頼んだぞ」
それは、共犯者への信頼の証。
そんな彼の態度を扉越しに感じ取り、エキドナは満足げに口角を上げる。
やがて、廊下から二人の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
静寂が戻る。
密室には今、魔女と行商人の二人きり。
エキドナがゆっくりとベッドの上に視線を戻す。
その視線の先にいたのは──つい先ほどまでの泣き顔など嘘のように消え去り、涙の痕すら即座に拭い去った、冷徹な表情のオットー・スーウェンだった。
目は赤く腫れている。だが、そこに宿る光は、獲物を前にした獣のように鋭く、警戒心を極限まで高めていた。
「なんの用ですか?」
部屋に残った魔女に対し、オットーは冷え冷えとした声を放つ。
だが、エキドナは気にした風もなく、優雅な動作でベッドの脇へと歩み寄った。
「キミの抱えている悩みを、年長者として聞こうと思ってね。座っても?」
「どうせダメだと言っても座るんでしょう?」
「理解が早くて助かるよ」
言うが早いか、エキドナは我が物顔で椅子に腰を下ろす。
そして足を組み、全てを見通すような視線をオットーへと向けた。
「さて、キミについての話はいくつか聞いた。おそらくフレデリカと同じ様な状態の場所から来たことも分かっている……いや、むしろ被害が表に出なかった彼女より、キミはもっと酷いところから来たのだろうね」
「……僕がその事について話をするとでも?」
「して欲しいと、私はそうお願いしている。断るも受け入れるもキミの自由だが、無理強いはできればしたくないとそう思っているよ」
断る自由、と言いながらも、その瞳は拒絶を許さない。
あるいは、オットー自身も限界だったのかもしれない。
誰かに──スバル以外の誰かに、この身を焼く罪の告白を聞いてほしかったのだ。
オットーは深いため息をつき、天井を仰いだ。
「分かりました、話しますよ…………あれは、
オットーが語り出したのは、ここではない何処か。誰も幸福になれなかった、喪失の歴史だ。
暴食の権能に食われたレム、そしてクルシュの記憶を取り戻す手がかりを求め、スバル達は賢者の塔への遠征を計画した。
オットーもガーフィールも、戦闘での怪我が酷く、同行はできなかった。
だが自分達の代わりに同行者としてユリウスがいた。
あのラインハルトですら到達できなかった場所だ、無理そうならすぐに帰ってくるだろうと、そう、信じてしまった。
英雄という幻想を彼一人に背負わせる事の残酷さを、誰よりも理解し、説いていたはずのオットー自身が、あの時の演説の熱に、彼が振りまく希望に浮かされてしまっていたのだ。
「次に会った頃には……ナツキさんは、自分の知っているナツキさんではなくなっていました」
帰還した友人は、壊れていた。
何処にもいない誰かに話しかけ、独り言を呟き、己が殺したはずの人と会話をしながら、虚ろな目をする亡霊に成り果てていた。
傍に居たのはシャウラと呼ばれる女性。賢者と同じ名を冠する彼女が、もし本当に伝説の賢者なのだとしたら、オットーはこの世で最もその名を憎悪しただろう。
その後の展開は、坂を転がり落ちるような破滅だった。
エミリア陣営だけでなく、王選候補者のほとんどが死滅し、最後に残ったのは現場にいなかったプリシラただ一人。
事実上の勝者は彼女となったが、オットーにとってそれは正直どうでも良かった。
問題なのは彼がそれほどの人を殺したという事実だけだ。
「それは…………そうか」
さしもの強欲の魔女ですら、言葉に詰まる。
それだけの衝撃と、圧倒的な喪失がそこにはあった。
「僕とラインハルトさんは、ナツキさんがああなった原因を探るため……そして、戦いに終止符を打つためにプレアデス監視塔に向かいました」
王国は、大罪司教を上回る災厄としてナツキ・スバルを認定。
騎士団と宮廷魔術師を主力とした討伐隊が組まれ、もちろんそこには、かつて彼の友人だったオットーもいた。
きっと罪滅ぼしのつもりだったのだろう。
いまになってそんな事をオットーは思う。
「多くの犠牲を払いましたがなんとか塔に辿り着き、そこでシャウラを討伐する事には成功しましたが……ナツキさんには逃げられてしまいました」
吐き気が込み上げる。
胃の中は空っぽなはずなのに、内臓が裏返るような不快感が喉元まで迫る。
これ以上話をしたくない。思い出したくもない。
だが、一度開いた口は、堰を切ったように呪詛を吐き出し続けた。
「プレアデス監視塔には死者の書と呼ばれるものがありました。それは、人の死の記憶を保有している本です。元は整頓されていた様ですが、僕たちが入ったときには室内は本の山で埋め尽くされ、踏み場もないほどでした。でも……一角だけ、やたらと綺麗な本棚があって」
最後に追い込まれたシャウラが、それだけは何としても守ろうとした本棚。
他の本と何も違いはない様に思えるのに、シャウラは笑顔を浮かべながらその本棚にだけは指一本触れさせないと吠えた。
事実彼女は事切れるその瞬間までラインハルトにすらその本棚を触らせなかったのだ。
その執念たるや尋常ではない。
「僕たちは──僕はその書物がどうしても気になって、中を開いたんです。背表紙の題名は読めませんでした。僕の知る言語で書かれていない、見知らぬ文字だったので」
言葉が止まらない。
カチカチと、奥歯が鳴る。肌寒さが、死の予感が、己を襲う。
己の罪を直視することが、これ程までに恐ろしいだなんて知らなかった。
「本を開いた瞬間、僕は──僕は、ナツキさんになっていました。ナツキさんの視点から、僕を見ていて……それで僕は、ナツキさんと一緒に白鯨から逃げていて……」
──死にたくない。
そんな、聞いたこともない友人の悲痛な叫びが、自分の思考として流れ込んでくる。
あんな場所、見たことがないはずだった。
霧の中、迫りくる巨大な魔獣。揺れる竜車。
隣にいるのは恐怖に顔を歪めた哀れなオットー。
「それで、白鯨が追いかけているのがナツキさんだということが分かって、僕は……僕は!!」
突き飛ばしたのだ。
己が助かりたくて。友人を、恩人を、囮にするために。
あの時のスバルが感じた絶望。
何でだという困惑。
そして、心のどこかで仕方ないと許す様な、諦めにも似た優しさ。
その全てを、まるで自分のことの様に、オットーは体験してしまった。
見てしまった。
ナツキ・スバルの目を通して、あまりにも醜く、汚く、浅ましい自分自身の姿を。
スバルが自分達に何を隠していたのか。
何故、それをスバルが隠していたのか。
オットーは全てを理解した。
罪悪感、自己嫌悪、悔恨、絶望。
それらがないまぜになって、魂が悲鳴を上げた。
正気でいたらどうにかなってしまいそうだった。
友人を名乗ったくせに。一番の理解者面をしておきながら。
どの口で、誰が、オットー・スーウェンなどという男が!!
(許せない……!!)
憎まれていればどれほど良かったか!
嫌われていれば、恨まれていれば、どれだけ救われたか!
だが、スバルは許していた。あの裏切りを無かったことにして、オットーを友と呼び、笑いかけてくれていたのだ。
その優しさが、今のオットーにとってはどんな罰よりも重く、鋭く、心を抉る。
「……ナツキさんに何があったのかは、分かりませんでした。逃げるように二冊目を開いたとき……気が付けば、僕はこの世界にいたので」
オットーは顔を覆い、絞り出すように告げる。
「これが、僕が隠していた全てです」
室内を沈黙が支配する。
エキドナは何も語らない。
目を瞑りゆっくりと己の中で思考を巡らせる彼女は、十数秒はそうしていただろうか。
真っ直ぐとオットーを見つめ、いつもと変わらない声音でエキドナは語りかける。
「そうか。キミは本当に、スバル君のことを大切に思っているんだね」
「……ええ。僕には、そんな価値もないのかもしれませんが」
自嘲気味に呟くオットーを、エキドナは静かな瞳で見つめ返す。
「私はそうは思わないよ。犯した罪の大きさなら、世界を滅ぼしかけたボクと比べればマシな方さ。……それに、残酷な言葉を付け加えるなら」
そこでエキドナは言葉を切り、少しだけ躊躇う素振りを見せてから続けた。
「キミの理解している通りの力が、彼にはある。おそらく、どの世界でもキミがやった行いを……あるいはそれ以上の裏切りを、彼は受けているはずだよ」
「…………」
オットーは、その事実を淡々と受け入れた。
否定できるはずもない。あの死が、あの裏切りが、自分の見た世界だけで行われたものではないだろうということは、理性が冷徹に理解していたからだ。
それでも尚、ナツキ・スバルは友人としてオットーに笑いかけたのだ。その救いの重さに、オットーは唇を噛みしめる。
「キミはいま、何を望む? なんのために、彼の元へやってきたんだい?」
「……僕はせめて、ナツキさんが苦しまない世界になって欲しいと、そう思っています。あの人が今日みたいに、ただ馬鹿スカ笑って過ごせるような、そんな世界を」
「私と同じだね。なら一つ、秘密を打ち明けた相手として提案させてもらおう」
魔女は白い手を、そっと差し出した。
オットーはその手の意味を理解出来ずに固まってしまうが、エキドナは気にした素振りもなくたたみかける。
「共犯者にならないかい? お互い彼に深い傷を残した者同士、彼の幸せを願う者として。彼のためであれば、私を信用することもできるだろう?」
「……さすが強欲の魔女ですね、人の欲求を刺激するのが上手い。そうやってナツキさんとも仲良くなったんですか?」
「おおよそ同じだね。強いて言うなら、彼の場合はこんな駆け引きなんてしないで、ボクの心を真っ直ぐに伝えたさ」
「ははっ……ナツキさんは、そういうのに弱いですからね」
オットーは小さく笑い、目の前に差し出された白く細い手を見つめる。
本来なら決して手を取り合うことのない、魔女と人間。
だが、目的は一つだ。
「いいですよ、共犯者だろうがなんだろうがなります。あの人を救えるなら。……でも、貴方が仮にナツキさんの事を少しでも害そうとするなら、分かりますね?」
「好きにするといいよ。そんなつもりは毛頭ないしね」
オットーがその手を握り返す。
ひんやりとした魔女の体温と、熱のこもった行商人の体温。
奇妙な共犯関係が成立した、その瞬間だった。
ドタドタと外から慌ただしい足音が聞こえてくる。
情緒もへったくれもない慌ただしい足音がすぐそこまでやってくると、間を空けずにドンドンと激しく扉が叩かれる。
「────!」
咄嗟に手を放し、身構えるエキドナとオットー。
敵襲か、あるいは新たなトラブルか。緊張が走る中、扉越しに馴染み深い絶叫が響き渡った。
「エキドナ! なんか王都から俺宛に召集かかってるらしいんだけど!?」
「…………」
そのあまりにスバルらしい、間の抜けた緊急事態。
顔を見合わせたエキドナとオットーは、どちらからともなく吹き出し、笑みを浮かべた。
重苦しい空気は霧散し、二人は頷き合って扉を開ける。
「そりゃあ、あれだけの事をすれば召集もかかるさ。本当にキミはいつも忙しないなぁ」
「詳しく話を聞かせてください、ナツキさん」
涙目で訴えるスバルを、二人の「共犯者」が迎え入れる。
こうして、新たな関係が生まれた。
過去の罪は消えない。記憶の傷も癒えない。
けれど、目の前で騒ぐ友人の笑顔を守るためなら、どんな泥でも被ろう。
(せめて、今度こそは──)
彼を守り抜いてみせると、オットー・スーウェンは心の底から誓うのだった。