王都での雑務によって、時間はあっという間に過ぎ去っていく。
王選が開催されている期間であるという事も鑑みてパレードこそ開かれることはなかったが、それほどの功績を残したスバルの話は賢人会がその実態を改めて認めたことで確実な物へと変化する。
大罪司教を退け、魔獣を討伐し、王国の平和を維持する騎士ではない存在。
そんな存在を賢人会が許すはずもなく急遽スバル本人の意思を尊重したという形でナツキ・スバルはエミリアの騎士として正式に認められることになる。
通常の儀式や流れを考えれば異例の抜擢であったが、騎士団含め誰しもがその抜擢に対して異議を唱える事は無い。
多少破損は目立つものの豪華絢爛な王城の一室。賢人会の目の前でスバルの騎士叙任式は執り行われた。
騎士としての衣服に身を包んだスバルは普段見せる幼げな表情をどこかに隠し、長年騎士としてそうあったような──最優や剣聖に並ぶほどの存在感を見せつけて周囲を圧倒する。
かつて王の騎士であった者の矜持か、はたまた彼自身が抱く自信が故の物なのか。
なんにせよこうしてエミリアの騎士として正式に認められたスバルは、その後王都を巡って有力者との話し合いや他の王選候補者と交流を深める事に尽力した。
失った記憶や友情を取り戻すために、ナツキ・スバルは今日もひた走る。
そうして気が付けばあっという間に三ヶ月は過ぎ去っていき、プリステラでの王選候補者演説会のため一行は竜車を走らせていた。
手綱を握るのは珍しくスバルであり、御者台にはオットーも座っているものの彼はのんびりと景色を眺めているだけだ。
竜車の操縦は慣れが必要でスバルよりオットーの方が適任なのは言うまでもないが、今回に限ってはそれがそうでもなかった。
竜車を引っ張っている地竜、その相手が相手だから。
「いやぁ……改めてほんっとうに良かった。俺やっぱりお前がいないとダメだ」
心の底から振り絞るようにしてそんな言葉をスバルが口から漏らすと、眼前を走る地竜──パトラッシュは一瞬だけチラリとスバルにその鋭い双眸を向けると、軽く鼻を鳴らしてまた走り出す。
オットーに聞くまでもなく『来るのが遅いのよ』とそんなセリフが聞こえてきそうな彼女の仕草。
パトラッシュはこの世界において、初めて記憶を保有していた地竜だった。
クルシュ邸に足を運んだスバルはもしかしてと思いながら地竜についていくつかの質問を投げかけ、その中でなんとかパトラッシュを見つけ出すことに成功したのだ。
前回は白鯨討伐戦という名目が有ったものの今回は特にこれといって何か交渉できる材料があるわけでもない。
だがパトラッシュが、何よりも頼りになる地竜がそこにいて、しかも記憶を保有していることを知ったスバルはどうしても指をくわえてみていることは出来なかった。
困惑するクルシュに、どうにかならないかと頭を下げて頼みこんだのは記憶に新しい。
あの時のクルシュの驚いた表情はいまになって思い返すと、少しだけ物珍しかったようにも思える。
感慨にふけるスバルがそうして自分の世界に浸っていると、背後から柔らかな声音が届く。
「スバルったら、またパトラッシュと遊んでるの? すっごく仲良しさんなんだから」
「俺とパトラッシュには前世から結ばれた絆があるんだよ、エミリアたん」
「そうなの?」
「ナツキさんの適当な言葉に騙されないでください、エミリア様。ナツキさんも、エミリア様はすぐに信じちゃうんですからその辺で」
地竜に対抗意識を燃やしかけたエミリアは、オットーの言葉を聞いてどうやら冗談らしいと判断してその場は一旦矛を収める。
とはいえスバルからしてみれば、冗談かと言われるとそうとも言い切れないのだが。
なんにせよそうして竜車はプリステラを目指してガタガタと音を立てながら進んでいき、気が付けば時刻は夕方。
数週間にも及ぶ長い旅路はようやく終わりを迎え、スバルは再びプリステラの地を訪れていた。
前回泊まった場所はアナスタシアに用意された街外れの旅館であったが、今回は街の中心部に少し近い普通の宿屋だ。
店の前に竜車を止め、荷物の積み下ろしをするために降り立ったスバルの横にすっとレムが立つ。
彼女が見ているのはスバルと、その背後に広がるプリステラの光景だ。
「ここがプリステラですか。話には聞いていましたが、すごい景色ですね、スバル君」
「ああそうだな。レムにはずっとここの風景を見せたいと思ってたんだ。綺麗なこの街の眺めを」
破壊された場所など一つもない。眼前に広がる完成された水上都市の光景は、口を閉じる事を忘れてしまいそうになるほど美しい。
湿り気を含んだ空気は夕方の光を浴びてキラキラと輝いており、少し早く点いた街灯の明かりが街中を照らしている。
復興後のプリステラを訪れたことはあっても、その前のプリステラの姿をレムは見る事が出来なかった。
こうして並び立ってこの街並みを見られることが、いまのスバルにはどうしようもないくらいの幸せだ。
「お兄さん、はやくいかないと遅れるわよぉ」
「バルスにかまけるのは後にして、レムも早く支度をしなさい」
「はい、姉様。行きましょうスバル君」
「あ、ああ」
先を行くレムに手を引かれ、スバルは己の仕事をするために竜車へと戻る。
この街での短い間の暮らしで、何も起きなければいいのに。
沈んでいく夕陽を眺めながらスバルはそんな事を思うのであった。
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そうして時間は少し経過し、スバル達は泊まっている宿の一角にある大きな丸いテーブルを一行で囲んでいた。
スバルの隣に座っているのはベアトリスとオットー、対面にはエキドナ、ロズワール、エミリアが座っており、レムとラムは席を外している。
着席していないのはスバルの背後で、暖炉の火にあたりながらゆったりとしているメィリィだけだ。
「さて、改めてこの場所に来た理由をまとめなおすよ。これから一週間でいろいろとやることがあるからね。まずは紙に目を通してくれたまえ」
当然こういった場所に置いて場を回すのはエキドナの役割だ。
彼女はそう言いながら手を軽くパンと叩くと、どこからともなく一枚の紙切れを全員の目の前に出現させる。
そこに書かれているのは今後の行動予定表。
三日後から開始される演説会、そのために何をどこでどうすればいいかが事細かく書かれたものだ。
全員が自分の手元に来た紙を一通り確認し、スバルは自分の紙に書かれた内容が極端に少ないのをそんなものかと思いつつも、手持ち無沙汰になって他の面子の表情を盗み見る。
真剣な表情をしたものばかりだが、唯一少しだけ苦い表情を浮かべていたのはベアトリスだ。
読書を好む彼女が活字を前にして気分が悪そうにしているのが珍しく、スバルは純粋な疑問から声をかける。
「ベア子、どうかしたか?」
「なんでもないのよ。すこし、昔の事を思い出しただけかしら」
ベアトリスから返された言葉にスバルは思い当たる本が一冊だけあった。
それはかつて彼女が禁書庫において後生大事に持ち運んでいた、未来を予言するという叡智の書。
あれも元はといえば製造したのはエキドナであり、ともすればいまスバル達の目の前にあるこの紙は、叡智の書の端切れと呼べるものなのかもしれない。
そうなってくるとスバルの目には途端に胡散臭いものに見えてくるが、そんなスバルの感情の変遷などお見通しだとばかりにエキドナが言葉を投げかける。
「──こほん。いいかいスバル、それはボクがみんなの予定を確認し、どこで何をするべきかを考えた上で、夜なべして書いた紙だ。キミがそう思うだろうと思って裏面には悪戯までしたんだよ」
そう言われエキドナに言われるがままに紙をめくってみれば、舌を出して小馬鹿にしたような小さなエキドナが紙の裏に描かれている。
悪かったなと思いながら紙からスバルが視線を上げてみれば、対面に居るエキドナは絵と同じように舌を出して小馬鹿にしたような表情を浮かべていた。
「……………………」
「すぅばるくん、何も言わないのはさすがに師匠が可哀想だから、なぁにか言ってあげてほしいね」
「ロズッチが口挟んだことによって、子供みたいな悪戯がより際立ってる点に目を瞑るからノーカンってことで。それより本題に移ろうぜ、まずはパックの事だろ」
書面に記された共有項は大まかに三つ。
一つ目がかつてプリステラに存在し、そのためにこの都市を訪れた魔晶石を探す事。
二つ目が三日後に行われる講演会に向けて各自が何をするか。
三つ目が他の王選候補者とどう関わるか。
事前にここに来るまでにも何度か話し合いをしてはいるが、実際に確認の意味も兼ねてこの場所で改めて話をすることは大きな意味を持つ。
ちらりとエミリアの方に視線を向けてみれば、意気込んでいる彼女の姿が目に映る。
「キリタカ・ミューズ。ミューズ商会の現会長であり、魔晶石を取り扱っている大商人が高純度の魔晶石を保有している。この情報は調べた限り確かだ」
「ならそのキリタカさんと交渉をして、魔晶石を譲ってもらうのが第一目標ってこと?」
交渉してそれで終わりなら話は簡単だとエミリアは考える。
彼女にとっての商人とは物を売ってくれる人。
そのお金がいくらくらいになるのか、パックほどの精霊を入れられる魔晶石がどれほどの価値になるかまでは理解していなくとも、お金があれば買えるというのが彼女の認識だ。
だが実際問題、希少すぎる物品は金を積めば買えるというものでもない。
「概要としてはそうですが、そう上手くはいかないと思います。大精霊を安定して入れておける魔晶石ともなれば、その年間産出量は微々たるもの。ましてやロズワール辺境伯の領土から産出された魔晶石を、我々は別の商人に卸しています」
しかもこと今回に至って問題なのは、いま語った理由だけでない。
表向きの理由としてミューズ商会が断りを入れるとするならばこんなところだろうが、実態はその裏にある。
「加えてキリタカ氏はホーシン商会、つまりアナスタシア様と繋がりが深いので、競合相手であるこちらの陣営にすんなり最上級品を譲ってくれるかという意味でも少し難しいものがあるでしょう」
最も大きな障害であり、かつてエミリア陣営が別の世界において踏んだ問題点もここだ。
結局のところ商人が求めるのは実利であり、長年の付き合いとその間で生み出された利益を考えれば、商売人というのはどこまでも残酷になれる。
それを理解しているからこそのオットーの言葉であり、その言葉に同意するように重たい空気が室内に流れていく。
だがそんな状況に待ったをかける男がいた。
こうなることは分かりきっていて、そしてギリギリこの出来事が起きる事を理解した上で間に合わせる事が出来る人物が一人だけこの場に居る。
「心配しないでよエミリアたん、事前に策は打ってあるからさ」
自慢げに鼻を鳴らしてそう口にしたのは他の誰でもない、スバルだった。
一体何を言いだすのかと言いたげな表情を浮かべるオットーに対し、スバルはポケットから事前に用意していた手紙を一枚取り出すと、オットーの方に投げ渡す。
机の上を滑りながら手前で止まったそれを見て一瞬オットーの表情は怪訝なものに変わり、裏を確認して差出人が誰であるかを確認すると、驚愕の表情を浮かべながら急いで手紙を開封して中を確認する。
「ナツキさん、これって…………」
「キリタカさんは俺に個人的に恩がある。少なくともこれで交渉の足掛かりくらいにはなるだろ?」
かつてスバルはロズワール邸で働く傍ら、様々な場所に手紙を送っていた。
時期的にはレムとベアトリスの記憶が取り戻され、屋敷で働き始めたくらいだっただろうか。
その時に手紙を送っていた相手の一人こそがキリタカであり、何度か手紙のやり取りを通してスバルはキリタカからの信頼を勝ち取ることに成功していた。
その方法とは単純明快、推しの共有。ただそれだけだ。
「リリアナさんを紹介して…………なるほど、ナツキさん考えましたね」
「正直上手くいくか賭けだったけどな。これでとりあえずなんとかはなるだろ」
リリアナという歌姫が実在し、そしてその歌姫がどれほど素晴らしい存在であるのか。
それを語る手紙をキリタカに送り付けただけではあるが、効果は絶大であった。
放っておけばキリタカはいずれリリアナの魅力に気が付き、勝手にファンになっていただろうが、その間に一枚噛むことで今回の交渉の場を少しでも良いものにするというのがスバルが考えた戦略である。
「ありがとうスバル」
「ちょっとあくどいから褒められるとなんだか微妙な気分だけど……どういたしまして、エミリアたん」
スバルの照れ隠しめいた言葉に、エミリアはくすりと笑みをこぼす。
その笑顔が見られただけで、かつてあの屋敷でせっせと手紙を書き溜めていた苦労も報われるというものだ。
そうして、最大の懸念事項であった魔晶石の確保に関する話し合いは一区切りついた。
続いて行われたのは、明日から開催される講演会の段取りと、他の王選候補者との接触に関する細かい調整。
エキドナを中心にロズワールが補足し、オットーが実務的な懸念を挙げ、スバルが記憶を頼りに助言する。
真剣な議論は白熱し、気が付けばあっという間に一時間ほどが経過していた。
「──ふぅ。大体こんなところだろうね、後の細かいところは後々詰めていこう」
そうしてエキドナが会議の終了を告げると、室内に張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
ふと視線を外に移してみれば、窓の外はもうすっかり暗くなっており、プリステラの街には綺麗な明かりが灯っている。
こうして長引いた会議もようやく終わり、プリステラに来て初めての自由時間が訪れたわけだ。
各々が伸びをしたり強張った体をほぐしたりする中、スバルはいままさに立ち上がろうとしていた隣の人物へと声をかける。
「オットー、この後飯食いにいこうぜ」
「ボクはいいですけど……エミリア様と行かなくていいんですか?」
意外そうに目を丸くしたオットーがチラリと視線を向けたのはエミリアだ。
彼女はベアトリスやエキドナと何か楽しそうに会話をしており、あの様子では当分の間話し込むだろう事が見て取れる。
もちろんいつもならスバルとてエミリアと食事に行きたい気持ちはやまやまだが、今日は少しだけ違う気分だったのだ。
「たまには二人でな、男同士水入らずって事で。本当はガーフィールも居たら良かったんだけど」
「……仕方ありませんよ、聖域に関する話はどうやらかなりの機密情報のようですし。じゃあ行きましょうか、ナツキさん」
「おう! おススメの店、案内してくれよ」
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オットーの案内でやってきたのは、大通りから一本外れた水路沿いに佇む落ち着いた雰囲気の店だ。
案内されたテラス席に腰を下ろせば、夜の水路を撫でてきた爽やかな風が蒸発した水気を孕んで肌を心地よく叩く。
水の都ならではのしっとりとした、けれど決して不快ではない独特の快適さがそこにはあった。
テーブルの上で煌めくランタンの灯りをぼうっと眺めていると、あっという間に注文した料理がやってくる。
運ばれてきたのは、獲れたての魚をふんだんに使った料理。
生で魚を食す文化こそないのが残念だが、絶妙な火加減で焼き上げられたそれは、王都で口にするものとは鮮度が根本から違っていた。
ハーブを利かせた特製の濃厚なソースが絡んだ白身を口に運べば、鼻の奥を抜けていく芳醇な香りに思わず喉が鳴る。
「──美味っ! こんな店あったんだな」
期待以上の味に、スバルは自然と満面の笑みを浮かべていた。
対面に座るオットーは、そんなスバルの反応を見てどこか誇らしげに鼻を鳴らす。
「このお店は穴場ですからね。ナツキさんも気に入ると思っていました、どうせエミリア様とのデートコースにでも使う気だったんでしょう?」
「まぁそれは理由の七割ってところかな、あと三割は純粋にオットーと飯食べたかったからだよ」
「喜ぶべきなのか怒るべきなのか、微妙な所ですねぇ……」
呆れたようなそれでいてどこかこそばゆそうな声を漏らし、オットーは視線を水路の方へと向けた。
スバルの知るオットーであればもっと騒がしく、テンション高く言い返してきたはずだ。
だが、いま夜風に吹かれる彼はスバルのいじりを受け流すというより、心底嬉しそうに受け入れているような、そんな柔らかな雰囲気を纏っている。
以前の彼も確かにこうであったはずだが、何かが微妙に違う。
言葉にできないほどの細かな機微。けれど、致命的なまでの違和感。
スバルがそんな彼の横顔を無意識に眺めていると、視線に気づいたオットーが困ったような笑みを浮かべる。
「なんですかナツキさん、僕の顔をジロジロ見ても何も出ませんよ」
「いや、後ろのメニュー表見てた」
「実際メニューが後ろにあると反応しづらいんでやめてもらえませんかねぇ!?」
期待通りのツッコミが返ってきて、スバルは小さく吹き出す。
何とも言えない空気感、けれど間違いなくいつも通りのやり取り。
そんな実感に安堵しながら二人は他愛もない話に花を咲かせ、大満足のうちに食事を終えた。
店を出ると夜のプリステラは街灯の明かりも疎らで、昼間の喧騒が嘘のように人通りが少ない。
時折深い水路の底を大きな影がゆったりと横切っていくくらいで、世界は驚くほどにひどく静まり返っている。
食事の余韻に浸りながら歩くには、宿までの二十分という道のりはちょうどいい距離に思えた。
夜風に吹かれ、石畳を踏みしめる音だけが響く中、ふと、隣を歩くオットーから声がかかる。
「何も……何も起きないで無事に終わるといいですね」
ふいにオットーが漏らした独白は、祈りというより呪いに近い切実さを孕んでいた。
水路を渡る夜風が、彼の細い肩を心細げに揺らす。
スバルはその横顔を見つめ、少しだけ言葉を選んでから口を開いた。
「そうだな。俺も心の底からそう願ってるよ。オットーは前の世界、プリステラで何があったのか知らないんだろ?」
「聞きかじってはいますよ。酷かったみたいですね」
「そうだな、酷かったよ。だから俺はあの事件を起こさないためなら、やれることはなんでもするつもり──」
自虐的な笑みを浮かべながらそこまで口にしたスバルだったが、続きの言葉を紡ぐことは出来ない。
唐突に血相を変えたオットーがスバルの胸倉を乱暴に掴み上げたからだ。
突然の事に一瞬固まってしまうが、オットーは一切気にした素振りもなくただまっすぐにスバルの瞳を見つめていた。
微かに震える瞳は恐怖に染まっているようにも見える。
「いいですかナツキさん、絶対に一人で抱え込もうとしないでください。僕はもう二度と、親友を失いたくありません」
「どうしたんだよオットー。俺は──」
「──ナツキさん、お願いします。どうか、頷いてください、お願いします」
食ってかかるような勢いはすぐに消え、オットーは縋り付くようにスバルに自重を預けた。
掴んだ拳は小刻みに震え、その目頭からは抑えきれない涙が溢れ出している。
彼の胸の内に渦巻く感情の源泉がなんであるかをスバルは知らないが、少なくともそれは困っている友人の言葉を受け入れない理由にはならない。
「…………分かったよ、約束する。何かあったら絶対にお前を頼る。つーか頼ってなかったことなんか今まで一度もないだろ? 俺はベア子とパトラッシュくらい、お前のことも頼りにしてるんだからさ」
スバルはオットーの細い肩をしっかりと掴み、努めて明るい笑顔を向けた。
かつて地獄を共にした友人への、偽らざる本心。
その言葉にようやく毒気を抜かれたのか、オットーの表情が少しずつ和らいでいく。
「その言葉、信じますよナツキさん」
「おう! 俺に任せとけよオットー」
鼻をすすり、照れ隠しのように顔を背けたオットーの背中を見守りながら、二人は再び歩き始める。
胸の中にあった重たいしこりがほどけたのか、オットーの足取りは先程よりも目に見えて軽くなっていた。
ついには鼻歌まで混じるような気安さでスバルの数歩先を歩き始めた彼の背中を見て、スバルは微笑ましさすら感じていた。
──そんな、平凡な幸福が訪れた瞬間。
逃れようのない圧倒的な力によって、スバルの身体は路地裏の闇へと引きずり込まれた。
悲鳴を上げようとした口に小さな手が添えられて言葉を塞がれる。
踏みとどまろうと足を必死に踏ん張るものの、まるで重機にでも引っ張られているような無力感。
仮に敵であれば自分は間違いなく殺される。
であるならば自分は敵の姿を一目見なければならない。
誰がこの場所で襲い掛かってきたのか、誰が自分を殺そうとしたのか。
覚悟を決めて振り返ったスバルは、引きずり込まれた瞬間よりも遥かに大きな衝撃に襲われる。
月明かりが差し込む路地裏でぼんやりと見えるその輪郭は、何よりも恐ろしい存在だった。
「ようやく見つけました、すばるん」
「ひさしぶりだなーバル」
闇に浮かび上がったのは、二人の少女の影。
一人は拘束具に身を包んだ、
一人は無邪気な瞳に断罪の光を宿した、
路地裏の深い闇の中で暴食と傲慢、二人の魔女の怪しい双眸が、星屑のような輝きを放ちながらスバルを射抜いていた。