「お前らなんで……いや、そんな事より俺の事覚えてるのか!?」
どうしてこの場所に彼女達が居るのか。
なんの目的で接触してきたのか。
次々と溢れ出す疑問を一旦横に押しやり、スバルが真っ先に確認したのは、相手に自分を認識している記憶があるかどうかだ。
死者であるはずの魔女達がこの世界では生きている。
その事実については事前にエキドナから聞かされていたし、実際に彼女自身が存命である以上、今さら否定するつもりもない。
問題は、目の前に居る彼女たちがこちらを知っているような素振りを見せていること──つまりかつての茶会での縁を、彼女達が引き継いでいるのかという点だ。
「知ってますよ。すばるんの事はなんでも知ってます、美味しい場所も、美味しくない場所も。たぁくさん、知ってます」
ゆらりと一歩前に踏み出し、スバルの腹に顔をうずめるほどの距離まで詰め寄ったダフネ。
彼女は上目遣いで彼の表情を覗き込みながら、獲物を前にしたかのように嬉しそうに舌舐めずりをしてみせる。
そのまるで凶暴な肉食獣を思わせる瞳に見つめられ、思わず一歩後ずさったスバルは、眼前の少女が纏うある違和感に気が付いた。
「そう言えばお前、目隠しは無くしたのか? 拘束具もなんか微妙に外れてるっぽいけど」
かつて視界を塞いでいた拘束具は首元で緩んだ状態になり、今は不釣り合いなネックレスのようにぶら下がっている。
身体を戒めていた鎖も、以前よりは短くなってはいるものの、彼女が歩くたびに地面を擦り、ジャラリと特徴的な音を響かせた。
死に戻りの記憶の中で、その響きに決して良い思い出がないスバルは、無機質な金属音にわずかだけ表情を硬くする。だが、それ以上に彼女の見た目の変化は劇的であった。
かつて魔女の茶会にて、エキドナが口にしていた「ダフネの目を見てはいけない」という警告。
それがどうしてだったか、彼女が拘束具を付けていた真の理由も含めて、スバルの記憶は既に曖昧だ。
だが、少なくともその封印が外れているのは確かだった。
咄嗟に警戒すべきか迷うスバルだったが、ダフネはそんな彼の内心を見越したように言葉を返す。
「ダフネはぁ、もう暴食の魔女じゃありませんからぁ。すばるんが心配しなくても、ダフネの目を見てもお腹減ったりしないんですよ」
「そう……なのか、良かったな」
少なくとも、生涯を拘束具に縛られて生きる人生など、スバルに言わせれば苦痛以外の何物でもない。
人と目を合わせただけで相手を狂わせてしまうような生活を強いられれば、きっと感じたこともないほど深い孤独に苛まれるだろう。
そんな思いから咄嗟に漏れ出た安堵の言葉を聞いても、ダフネは表情を少しも変える事はない。
だが、隣に立つテュフォンは、そんなスバルの反応を見て嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「バルは相変わらずだなー」
「テュフォンだったよな、久しぶりって訳だけど……なんでここに?」
「ダフネがなー、バルに会いたいってこの街に来たから暴れない代わりに私が案内してやったんだー」
「エキドナの家には行けないですしぃ、王都には剣聖がいやがりますから、すばるんが外に出るのをずっと期待して待ってたんですよぉ」
思えば、王都とロズワール邸を行き来するだけの毎日。
確かにそう考えると、世俗から浮いた『魔女』という立場の彼女たちにとって、スバルに接触する機会は限られていたのかもしれない。
同じ魔女なのだからエキドナを頼ればいいのでは、という考えが頭をよぎるが、魔女同士の人間関係が必ずしも良好とは限らない。そういうものなのだろう、とスバルは自分を納得させた。
なんにせよ──相手が魔女である以上、油断は禁物だが──いきなり命のやり取りが始まるような事態ではなさそうだと、スバルは密かに安堵の息を漏らす。
ふと、そんな路地裏の緩やかな空気を切り裂くように、一人の男の声が轟いた。
「──ナツキさん!!」
路地裏の湿った空気を切り裂いて、血相を変えたオットーが飛び込んでくる。
つい先ほどまで隣を歩いていたスバルが突如として霧散するように消え、交わしたばかりの重い約束が反故にされる──そんな最悪の想像に突き動かされてのことだろう。
目に涙を浮かべ、鬼気迫る表情で路地裏を覗き込んだ彼は、そこに立つスバルの姿を認めて一瞬だけ安堵の表情を浮かべた。
だが、その直後。自分とスバルの間に、ベアトリスと同年代に見える小さな影が二つ存在することを確認した瞬間。
彼の表情は何とも言えない複雑なものへと上書きされ、絞り出すような声が漏れる。
「……おじゃまでしたかね」
「その反応はちょっと心に来るからやめて!?」
この世界では未だ幼女使いナツキ・スバルの悪名は轟いていないが、オットーは目の前の男がどのような性質の人間であるかを身に染みて理解している。
またどこかで幼女を引っかけてきたのか。
そんなオットーの視線は「ほどほどにしておかないとエミリア様に怒られますよ」と無言で訴えており、何も悪いことをしていないはずのスバルは、理不尽な罪悪感に背中を焼かれる羽目になった。
少なくともオットーにとって、現状は想定していた最悪ではない。
だが、その安堵を真っ向から否定するように、ダフネが先ほどまでの、のほほんとした空気を一変させる。
彼女は身体を向けず首だけを真後ろへと回転させ、背後に現れた邪魔者へと視線を移した。
「誰ですかこの人はぁ。ダフネはすばるんに用があるのであって、それ以外には用事なんてないんですけど」
「……ナツキさん、みるからにヤバそうな子供達ですけど詳しく聞いても?」
スバルに巻き込まれ幾多の危ない橋を渡り続けてきた行商人の危険察知能力は、いまや極めて高い水準にある。
その鋭敏な感覚が眼前の子供たちが決定的にヤバい存在であることを、警報のように鳴らし続けていた。
自分に声をかけてきた少女だけでなく、その隣で無邪気に笑う少女も同類だ。
仮にスバルが間にいなければ、彼は迷わずその手を引いて、無理矢理にでもこの場から逃走を図っていただろう。
……首だけを動かして自分を睨みつける少女が、それを許すはずもないとは理解しているが。
そんな張り詰めた緊張感を知ってか知らずか、スバルはあっけらかんと彼女たちの正体を暴露した。
「暴食の魔女と傲慢の魔女だ。元だけどな」
オットーは魔女について詳しい知識を持っているわけではない。
プリステラへ向かう道中、エキドナから必要最低限の情報を共有されてはいたが、彼女たちの情報は今思えば意図的にあやふやなものにされていた。
それはきっと、彼女にとってその方が都合がいいのだろう。
交渉の場を作り共犯者とはいえ部外者でしかない自分が、即座に信用されない事はオットーとて理解しているのでその点についてエキドナを責めるつもりは特になかった。
いずれにせよ目の前の彼女たちが魔女であるというのが事実なら、最大限警戒することに躊躇いはない。
オットーは絶望に近い溜息を吐き出した。
「また大物を釣り上げましたね、ナツキさんはすぐに事件を引っ張ってくるんですから」
「これ俺のせいなの!?」
ギャーギャーと騒ぐスバルのそんな反応に、オットーは呆れたように肩をすくめる。
だがその日常的で軽妙なやり取りが、傍観を決め込んでいたダフネには面白くない。
かつて暴食の魔女として、生けるものすべてから恐怖と飢餓の視線を向けられてきた彼女。
そんな彼女にとって、自分の正体を知ってもなお、ただの厄介ごと程度にしか扱わない行商人の畏怖を欠いた態度は、ひどく癪に障るものだった。
「……なんだか話の邪魔をされてムカッとしましたぁ」
ダフネが細い首を傾げると、ネックレス状に緩んだ拘束具がカチャリと冷たい音を立てる。
その瞳に宿る、底の知れない空腹感が、路地裏の温度を瞬時に氷点下まで引き下げた。肺に吸い込む空気すら凍てつくような、魔女としての剥き出しの威圧。
だが、その不気味なプレッシャーが完成するより早く、もう一人の幼女がひょいと彼女の横顔を覗き込んだ。
「食べちゃダメだぞ、この街で悪さは絶対にダメだからなー」
「……冗談ですよぉ、テュフォンに喧嘩を売るつもりはありません。それに」
ふわりと毒気が抜け、ダフネはあっさりと引き下がった。
彼女には最初から、この場で暴れる意志などはなかったのだ。
オットーを怖がらせようとした先程の素振りも、彼女にとっては退屈しのぎに羽虫を突っつくような、たわいもない遊びの一端に過ぎない。
むしろダフネがその瞳に映しているのは、震える行商人でも隣に立つ同類の魔女でもなかった。
「どうせ食べるなら美味しい物ですしぃ」
ふと空を見上げたダフネが銀の月明かりを眺めながら目を細め、悦びに浸るような笑みを浮かべる。
その視線の先に、あるいは人智を超えた嗅覚の先に、一体何が映っているのか。
彼女が期待するごちそうが何であるかを知るのは、この場では本人だけだ。
月光に照らされた彼女の横顔には、無垢な少女のそれとは決定的に異なる魔女としての昏い影が深く差していた。
そんな正体不明の重苦しさを強引に断ち切るように、スバルは努めて明るい声音で場に言葉を落とす。
「それでなんで俺に会いにきたんだ? 見ての通りなんもないぞ」
「んー、まぁ必要な事だからですかねぇ。それに、すばるんの美味しそうな匂いを堪能する時間も欲しかったですし」
「随分マニアックな趣味をお持ちなことで。つうわけでオットー置いてくから帰っていいか?」
「ちょっとナツキさん!?」
「おやつくらいにしかなりませんしぃ、怒られるのでいりません」
「断られ方に納得いかないなぁ!?」
少なくともスバルには、彼女がわざわざ自分を訪ねてくる動機に心当たりがない。
オットーを交えた冗談で反応を窺ってみるが、ダフネはさらりと躱してみせる。
気が向いたから来たという言葉の裏に、何か明確な目的を持ってここに現れたのは確かだ。
はたしてどうしたものかと頭を悩ませるスバルだったが、そんな彼に追い打ちをかけるようにテュフォンが声をかけた。
「とりあえずバル、ドナの所にあんないしてくれないかー? 久々に会いたいし」
暴食に傲慢、そこに加えて宿屋で待つ強欲までもが一堂に会するとなれば、いよいよ魔女大集合といった様相だ。
正直スバルとしては、トラブルの種を自ら増やすような気乗りしない提案であった。
だがこの奔放な二人を御せるのはエキドナくらいの物だろうし、彼女たちの目的を確認するためにも、引き合わせておいた方が何かと得なことは間違いない。
何よりテュフォンが側にいればダフネの暴走に歯止めが効く。
安心できる材料は少ないものの、最悪の決裂だけは避けられそうだった。
「……分かった、ついてきてくれ」
これ以上の押し問答は時間の無駄であり、何より道行く人々の耳目を集めすぎる。
スバルは観念したように重い息を吐き、魔女たちの要求を呑むことに決めた。
「では失礼しますぅ」
──ふわり、そんな擬音が適切だろうか。
承諾の言葉を言い終えるより早く、スバルの背中に小さな衝撃が伝わった。
突如として背後から飛びついてきたダフネ。
その身体は想像していたよりもずっと軽く、背負うこと自体に肉体的な負担は微塵も感じられない。
だが、肌を合わせた瞬間に脳を支配したのは、微笑ましさなど微塵もない被捕食者としての根源的な恐怖。
魔女という異形に取り憑かれたという事実が、氷よりも冷たい戦慄となってスバルの背筋を焼き付かせる。
「な、なにごと!?」
「ダフネはぁ、ここに来るまででもうへとへとなんです。柩ちゃんはテュフォンに街に入れちゃダメだって言われましたしぃ……おんぶ、してください?」
耳元で囁かれる、甘えるような幼い声。
首筋に吹きかかる少し熱っぽい吐息は、もし相手が年相応の少女であれば扇情的に映ったかもしれない。
だがその中身が暴食の魔女であるダフネが相手では、それはひどく歪でちぐはぐなものに感じられた。
ましてやその熱が情欲ではなく、純粋すぎる食欲からくるものであることを考えれば、もはや文字通り食われるまで秒読みと言ったところだ。
背中から伝わる美味しそうという無垢な渇望を必死に無視し、スバルは引き攣った顔で問いかける。
「肩車かお姫様抱っこじゃダメ? 首の周りに口あるの、感触的に超怖いんだけど」
そう言っている間にも、冷たい何かが時折首筋に当たるのをスバルは敏感に感じ取っていた。
その小さな口には不釣り合いな巨大な犬歯が、呼吸を繰り返すたびにスバルのうなじを執拗にかすめているのだ。
いつその牙が自分を咀嚼し始めるか分からないという生理的な恐怖に、スバルは顔を真っ青に染めた。
「テュフォンがいるから大丈夫ですよぉ。ダフネが悪い事したら、メッてされちゃいますから」
「あてにならねぇ……。善悪の基準がガバガバなお前らに太鼓判押されても一ミリも安心できねぇし、メッてされるころには俺死んでるからね」
仮にこれが物理的な力は持たないエキドナや、害意を向けること自体を億劫がるセクメトならばまだ話は別だろう。
だがスバルの目の前にいる二人が持つ善悪の基準は、極限まで歪み切った主観だ。
この場での裁定を任せるには、世界で最も不適当な相手と言えた。
「だあっ! 全然振りほどけねぇ」
なんとか距離を取ろうと肩を揺らして暴れてみるものの、ダフネはまるで身体が固定でもされているかのように微動だにしない。
結局、数秒後には無駄な抵抗で肩で息をする羽目になったスバルは、もうどうにでもなれと諦める他なかった。
「もういいかー? それじゃあいくぞバルー」
「れっつごーです」
「乗るのはいいけどせめて暴れんな!」
こうしてスバルは背に暴食を乗せ、傲慢と手を繋ぎ、苦笑いを浮かべる親友と共に路地裏を後にする。
奇妙なほどに平穏で、それでいて致命的なバグを抱え込んだプリステラの夜を、一行は静かに進み始めた。
△▽
「久しぶりだなードナ」
「久しぶりですぅ」
場所は宿屋の一室、その重厚な扉の前。
自室に閉じこもっているエキドナを呼び出すために扉を叩いたスバルに代わって、二人の魔女が旧友に対して屈託のない言葉を投げかけていた。
内側から押し開かれた扉。そこに現れたのは、いつも通りの漆黒の衣装に身を包んだエキドナだった。
てっきりスバルが一人で戻ってきたのだと思い込んでいた彼女は、眼前に並び立つ二人組の存在を認めた瞬間、理解の範疇を超えた事態に珍しく面食らった顔で目を白黒させた。
「……少し、待ってくれないか。意味がわからなすぎて頭が痛い。食事に行って帰ってきただけで、どうすればこうなるんだい?」
「俺だって聞きたいよ」
「テュフォンはまぁいい。この街にいる事は知っていたし、いずれ会うだろうとも思っていたが……」
エキドナの冷徹な視線が、スバルの背中で満足げに揺れるダフネへと移る。
ここに居るはずのない暴食は、旧友の視線を受けると、小首を傾げて可愛らしく微笑んでみせた。
だが、その無垢な仕草を前にして、エキドナの表情はみるみるうちに渋いものへと変色していく。
その脳裏には、今日この時まで積み上げてきた多大なる苦労が、走馬灯のように駆け巡っていたはずだ。
わざわざアベルからの情報共有を受けて、ミネルヴァの派遣を初めてとして様々な手を打ったのだ。
それらすべては、ダフネがスバルの元へ現れるという最悪の不確定要素を排除し、彼女を安全に管理するための布石であった。
それが今、あろうことかスバルの背中に甘えるように乗っかっている。その一点において、エキドナが心血を注いで描き上げた完璧なシナリオは、無惨にも破り捨てられたのである。
「どうして君がここに居るのかな? ボクがなんのために大暴れした君の元にミネルヴァを向かわせたと思っているんだい?」
「知りませんよぉ、エキドナが勝手にやっただけですよね?」
どこまでも他人事なダフネの返答に、エキドナはついに諦めたように天を仰いだ。
ナツキ・スバルが平穏に暮らせるようにするために、いったいどれほどの政治的・魔術的なリソースが浪費されたか。
それを一瞬で台無しにした当の本人の凄まじい引き寄せ体質に、彼女は戦慄すら覚えていた。
「……お前も苦労してんだな」
「どうもありがとうスバル、大体君のせいな気がするんだけどね」
くしゃくしゃと髪をかき乱したエキドナは、指の間から恨めしそうにスバルを睨みつけ、毒を吐き捨てることで辛うじて己の理性を繋ぎ止める。
自分が必死に盤面を整えようとする先から、スバルが無意識に駒をなぎ倒していく──本人に悪気が無いのが、何より質が悪かった。
そもそもテュフォンとの遭遇だって、予定ではもう少し後になるはずだったのだ。
計画通りに行かないのは世の常だが、これほどまでに外部要因が向こうから突撃してくれば、文句の一つも言いたくなるのは仕方のないことだろう。
そんなエキドナの苦悩など知らぬとばかりに、満足そうに頷いたテュフォンが、くるりと踵を返した。
「今日はなー、ドナとバルに会いに来ただけだから、テュフォンはもう帰るぞー」
「待ってくれないか。帰るならせめてダフネを持って帰ってくれ」
エキドナの悲痛な叫びは、しかし無邪気な断罪者の背中に空虚に跳ね返る。
テュフォンはスバルの背にしがみつくダフネを一瞥すると、まるで明日の天気でも占うような無造作さで、致命的な決定事項を口にした。
「テュフォンのお家は二人で寝るには狭いからなー、ダフネはバルと一緒に寝ればいいだろ」
「それはいい案ですぅ」
「俺抜きで話進めるの辞めてくんない!? 俺の寝床はベア子とその他二人くらいまでしか入れないって決めてんだよ」
その二人だって、未だに入れたことはないというのに。
必死の抗議を試みるスバルだったが、背中の魔女は離れるどころか、さらにその細い腕の力を強めて密着してくる。
「まぁまぁそう言わずに。すばるんに手出しはしませんからぁ」
手よりも先に「口」が出る相手では、その言葉は何の安心材料にもなりはしない。
廊下でこれ以上の大声を上げれば、宿の従業員や他の客が飛び出してくるのは時間の問題だ。
もし魔女三人組が集まった怪しすぎる構図を見られれば、プリステラでの活動が相当に面倒なことになるのは間違いない。
ましてや自分たちはエミリア陣営としてここに来ているのだ。下手な行動で主の顔に泥を塗るわけにはいかなかった。
エキドナはついに、諦観という名の深い溜息と共に、扉を大きく押し開いた。
「……立ち話をしていても埒が開かないな。とりあえず中に入ってくれ、追い返すのは諦めた。せっかくだテュフォン、キミも上がっていきなよ。この街での話を聞かせて欲しい」
「いいぞーお菓子あるかー?」
テュフォンの屈託のない笑い声を先頭に、一行は宿の部屋へと足を踏み入れる。
扉が閉まる重厚な音と共に、外界の喧騒は完全に遮断された。
かつての魔女の茶会を再現するような、けれど決定的に性質の異なる不穏な会談が、いまプリステラの一室で静かに幕を開ける。
そうして、時間が少し経過したころ。
室内の端にぽつんと置かれた、四人掛けの小さなテーブル席。
本来なら何てことのないはずのその場所が、室内で強烈な存在感を放っているのは、そこに座る人間たちが無意識に撒き散らす圧が、あまりに強すぎるからだ。
そんな魔女たちの会合を、少し離れた場所から見守る人影が同じく四つ。
ある程度の状況を知っているオットーを先頭にして、レム、エミリア、ベアトリスの三人もまた、こっそりと茶会の様子をうかがっていた。
「あれが暴食と傲慢の魔女……意外と幼く見えるかしら」
自分自身を棚に上げたベアトリスの率直すぎる感想。
それに誰が言っているんだとオットーが心の中で鋭い突っ込みを入れていたその時だった。
充満する濃すぎる魔女の香りに当てられたのか少し酔ったような表情のレムが、どこからともなく武器を取り出し、ジャラジャラと無機質な金属音を響かせた。
「……見てられません。スバル君の安全はレムが守ります」
「ダメですからねレムさん、絶対に手出ししないでくださいね」
「そうよレム、まずは悪い子か見極めて、それから必要ならガツンとやっちゃえばいいんだから」
あくまで小声での内緒話の範疇ではあるが、その内容は物騒極まりない。
思ったよりも戦闘に乗り気なエミリアの、その迷いのない決断力は、どこか隣にいる騎士の影響だろうか。オットーは冷や汗を流しながら、慌てて制止に入ることを強いられる。
「ガツンもダメです」
「でもそうしないとスバルが傷ついちゃうかも?」
エミリアからの真っ直ぐな問いかけに、オットーは咄嗟に言葉を詰まらせた。
止めるべきだと理性が訴えても、それ以上に大切な友人を二度と失いたくないという本能が警鐘を鳴らし、彼を急かす。
人は極限の状態に置かれれば、不思議なほど瞬時に言い訳を捻り出せるものだ。
あの凄惨な記憶に比べれば。魔女という正体不明の存在を相手にする程度、ナツキ・スバルの命を守るためであれば──。
そんな極端な思考の飛躍が、容易くオットーに間違った判断を下させる。
「……1ガツンまでですよ」
「何肯定してるかしら?! お前は止める役割なのよ!」
そんな押し問答を繰り広げながら見守る四人組。
当然、彼女たちの声は、優雅に紅茶を嗜む魔女たちの耳にも届いている。
「騒がしいね。まぁこんな状況なら仕方がないか」
「バルは飲まないのかー? 美味しいぞー?」
「緊張で喉を通らねぇよ。それよりさっき言ってた必要なことってなんなんだ?」
少なくとも、魔女が同席する場で飲食をするほど、スバルの心臓は剛毛ではない。
過去の茶会で出された茶にろくな思い出がないのもあるし、実際、この張り詰めた緊張感の中で喉を通るような気もしない。
質問を投げかけると共に、隣に座るダフネに視線を向ければ、彼女は先程までと同じように、鋭い犬歯を覗かせながら楽しそうに笑って見せた。
「すばるんがこのままだと死んじゃうので、応援に来てあげましたぁ」
「おいおい、いきなりご挨拶だな。死ぬ予定なんか当面ねぇよ」
「すばるんにはなくても、他の人にはあるみたいですからぁ関係ないですよ」
まるで何かを知っているようなその口ぶりに、スバルは咄嗟に嫌な可能性をいくつか考える。
そのどれもが起きる可能性は十分にあり、それを防ぐために今この場に自分がいるのだという自覚が、スバルにはあった。
そしてそれは、エキドナも同じはずだ。
チラリと視線を向けると、彼女は紅茶の香りを楽しむように大きく息を吸い込んでから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……可能性としてはあり得るだろうね。少なくとも君が想定していた可能性は無視できないほど高いと言っておこう」
「ならコイツは何か知ってるってことか!?」
返ってきた言葉は、否定ではなく肯定。
エキドナは嘘をつかない。少なくとも彼女は聞かれたくないことに対して、巧みに会話を誘導するか、沈黙を守るという選択肢を取る。
そんな彼女が可能性を肯定したということは、スバルが考える最悪──プリステラ襲撃はほぼ確実で、しかもダフネがそれに何らかの要因で関わっている可能性があるということだ。
咄嗟に、座っていた椅子を蹴り飛ばすほどの勢いでスバルは立ち上がった。
そのままダフネに掴みかからんばかりの勢いだったが、ダフネは少しも視線を逸らすことなく、むしろ楽しそうに笑って見せる。
「ダフネが何を知っていて、何を知らなかったとしても、何を話すかはダフネの気分次第ですしぃ? すばるんがどれだけ凄んで見せたところで、ダフネはなぁんにも話しませんよ」
「コイツ……っ!!」
煽られるような言葉に怒りが瞬時に湧き上がる。
プリステラで何が起きるかを知っているからこそ、王の騎士として弁えることを学んだスバルでも、こればかりは許せなかった。
だが、振り上げた手を止めたのはスバルの理性でもダフネの力でもなく、テュフォンの体から発せられた有無を言わせぬ圧力だった。
「バルー、オマエはアクニンなのかー? ダフネに手を出すなら見過ごせないぞー」
言いたいことは理解できる。スバルだって、仲間たちに手を挙げる者がいれば誰であれ怒るだろう。
だが、事ここに至っては話が別だ。
彼女はこの街で暮らしているはずなのだ。この街で彼女がどんな扱いを受け、どう生きてきたのかは知らないが、これからこの場所が傷つけられることが確定しているのに、なぜそれを容認するのか。
スバルはテュフォンに問いかける。
「お前はどっちの味方なんだ? コイツが仮に何か隠してるのなら、犠牲になるのはこの街の人間だぞ? それでもいいのか!?」
テュフォンはすぐに言葉を返さない。
ただじっと、子供のやることを咎めるような真っ直ぐな瞳でスバルを見つめてくる。
だがスバルがそれで引かないことを理解したのか、ゆっくりといつもより少しだけ冷たい声で彼女は語った。
「……正義は人それぞれなんだ。だからテュフォンはテュフォンのルールで動く。友達が喧嘩してたら止める。悪いやつはやっつける。でもダフネはまだ悪いことをしてない。だから何もしない。それはバルだって同じだろー?」
悪いことをしてから罰するならいい。
だが、悪いことをするかもしれないという予想だけで人を罰するなら、それは正義ではなくただの私刑に過ぎない。
行き過ぎた私刑が向かう先は、たとえそれが善意であっても地獄でしかないことを、テュフォンは理解している。
説明している論理がスバルに理解されないことを承知の上で、彼女は言葉によってスバルとの対話を目指したのだ。
「元強欲の魔女として、私からも頼むよスバル。できれば彼女達と君が喧嘩するところはあまり見たくない」
「…………わかった。いまのところは二人に免じて追求はしない事にするよ」
これ以上の追及は無意味だと悟り、スバルは苦い想いと共に言葉を飲み込んだ。
だが、起きると分かっている惨劇に対して、無策でいるつもりはない。
キリタカの一件を前例としても、この街で何かが起きることを想定し、対策を練ってこなかったわけではないのだ。
想定していた万が一が確定に変わっただけだ──そう自分に言い聞かせて、荒れ狂う感情を強引に噛み砕く。そんなスバルの内心を見透かしたように、テュフォンは優しく言葉をかけた。
「ありがとう」
「──だけど俺はこの街でもうあんな悲劇が起きるのを見たくない。今日から式典の終わりまで、ずっと監視してるからな」
「ダフネのことがそんなに気になるなら、この街にいる間はすばるんの横にいてあげますよ、仕方ないですねぇ」
「……何も起こらないことをボクも心の底から願っているよ」
所詮は、魔女たちの茶会に現れた部外者でしかない身の上だ。
だが、全ての魔女因子をその身に保有し、誰よりも魔女という存在の性質を把握しているスバルだからこそ、この危うい着地点に辿り着けたのかもしれない。
それぞれが発する言葉のどこまでが本心かは怪しいものだが、少なくとも決裂を避けて納得できる形に収まったのは、幸運と言うほかなかった。
場の空気を入れ替えるように、エキドナがパンと手を叩く。すると、張り詰めていた空気は急速に緩やかなものへと変わっていった。
「さて、とはいえこれだけはしておかないといけないね。二人とも、頼むよ」
一体何を──そう問い返そうとした瞬間、目にも止まらぬ速さで二つの影がスバルを両側から制圧した。
テュフォンとダフネ。彼女達は座ったままのスバルを、抗う隙も与えず片手で強引に拘束し、もう片方の手で無理やりその顎をこじ開けた。
「──なっ、おい、なにふんだよ!」
口を大きく開けさせられたことで、抗議の声はひどく不明瞭に濁る。
咄嗟の出来事に思考が白くなりかけるが、エキドナはスバルの窮状を意に介した様子もなく、眼前にあった冷めかけの紅茶をスプーンでくるくると回しながら、静かに呟いた。
「こっちが気を利かせて気がつかない程度に混ぜて上げたというのに、結局これだよ。魔女から出されたものに手をつけない警戒心の高さは賞賛に値するがね」
そのまま、エキドナの手によって強制的に紅茶がスバルの口内へ流し込まれる。
顎を固定され、無理やり喉を通されるその姿は、まるで肥育されるガチョウのようだ。
咄嗟に咳き込んで吐き出そうとするが、それを見計らったようにダフネが軽くスバルの背を叩く。
衝撃に飲み込むタイミングをずらされた液体は、スバルの意思を無視して喉を滑り落ち、その内容物が身体へと吸収されていった。
紅茶に紛れ込まされたソレが何であったかは、続くエキドナの言葉が証明していた。
「よかったねスバル、これで暴食と傲慢の因子も安定するはずだ」
「……覚えてろよ」
「君のためにやった事だ、恨まれたくはないんだけどね」
まるで気にした様子もないエキドナが涼しい顔で言い放ち、ようやくこの奇妙な茶会は終わりを迎える。
会うたびにろくな目に遭わない魔女たちとの会合。
もし次が仮にあるのだとしたら、その時は絶対に逃げ切ってやる。
そう心に深く誓いながら、スバルは鼻の奥を抜けていく上質な紅茶の香りに、消えない吐き気を覚えるのだった。