これからもぼちぼち更新していきますのでよろしくお願いします。
次話は頑張れば明日更新予定です。
水門都市プリステラにやってきて数日。
網の目のように張り巡らされた水路を抜ける涼やかな風が、石畳の街並みを優しく撫でていく。
来るべき魔女教の襲撃に備え、各所への根回しや水面下でのひりつくような腹の探り合いで神経をすり減らしていると、息をつく暇もなくあっという間に時間は過ぎ去っていくものだ。
気が付けばスバルの眼前ではいままさに、王選候補者による
「……フェルトでもさすがに緊張してるみたいだな」
都市庁の前に設けられた、いわゆるお立ち台とも呼ぶべき壇上。
そこに立つのは、金髪に赤い瞳を持つ少女フェルト。そしてその斜め後ろに静かに控えるのは、燃えるような赤髪を持つ剣聖ラインハルトだ。
広場を埋め尽くす群衆の熱気と突き刺さるような無数の重たい視線が、小柄な彼女の全身に集中している。
そんな中でフェルトはふぅ、と軽く呼吸を合わせてからゆっくりと口を開いた。
「──アタシの名前はフェルト。王選候補者の一人で、このふざけた国を作り変えるためにここに立ってる」
張りのある声が水路の水面を震わせるように広場へと響き渡っていく。
フェルトはいつも、その小さな体からは想像出来ないほどの底知れぬ情熱と、荒削りだが力強い言葉を持って、周囲に己の意思を容赦なく叩きつける。
初日にはアナスタシアとクルシュの演説があった。
王選の状況や警備の兼ね合いで順番が前後したとは言え、大商人と公爵当主というすでに完成された二人の後を継ぐことは、並大抵のプレッシャーではなかったはずだ。
だが彼女は次期王の器として周囲にいる人間を唸らせるだけの熱のこもった演説を、いままさにスバルの眼の前で堂々とやってのけている。
(……さすがだな)
敵情視察も兼ねて足を運んだスバルだったが、そんな彼女の姿を前に素直に感嘆の息を漏らす。
彼女の言葉には嘘偽りのない本音が詰まっている。人は言葉に乗せられた思いがその人の真に近ければ近い程、無意識のうちに惹きこまれてしまうものだ。
ましてや貧民街出身者への偏見が未だ根強い王都に比べれば、様々な人種が行き交い、時には流れ者がやって来ることもあるこのプリステラでは、彼女の飾らない泥臭い声に惹きつけられる人間も多いだろう。
続く演説を聞きながら、改めてフェルトという人物の底知れぬ器の大きさを感じながらその姿を見守っていると、不意にスバルの背後から声をかける存在がいた。
「こそこそと隠れて偵察かよ」
「──おお、誰かと思えばチンじゃん」
「気安く名前呼んでんじゃねぇ!」
振り返れば相変わらず病的な肌にヒョロヒョロした身体の青年ラチンスが、苛立ちを隠そうともせずに立っていた。
フェルトの演説の聴衆に紛れ込むスバルを見つけ、警戒心を露わにしながら近寄ってきた彼。
彼にとってスバルは、別陣営の中核を担う油断ならない存在。
そんな相手が自分の主の演説を嗅ぎ回りに来れば、何か裏があるのではと勘繰ってしまうのも仕方のない事だろう。
この世界においても、チンピラめいた彼なりに主人に対する強い敬意と忠誠心があるのだと感じられる。
だがスバルはそんな鋭く睨みつけてくるチンを意に介した様子もなく、壇上の方へ一瞬だけ顎をしゃくってみせた。
「隠れてねぇよ。ラインハルトも気付いてんだろ」
そう言いながらスバルがチラリと視線を向ければ、壇上のラインハルトが、よく注意していないと気が付かない程度に小さく口角を上げてみせたのが見えた。
チンもそんな剣聖の余裕の態度を見て少しだけ毒気が抜かれたのか、明確に敵意が和らいだのがスバルにも如実に感じられる。
「……なら、何しにきやがったんだよ」
「他の候補者の考えを知るいい機会だし、観光ついでにな。それに、壇上じゃなくてこっち側だからこそ気が付ける事だってあるんだぜ?」
上から見下ろすだけでも下から見上げるだけでも、見えない物は数多くある。
かつてスバルは王の騎士として、数々の街や村を泥に塗れながら旅して回った。
王として城から動く事が難しくなった彼女の代わりに、その目や耳となって現場の生々しい空気を吸い続けてきたスバルだからこそ、その感覚は他の誰よりも鋭敏に研ぎ澄まされている。
もし王の騎士としての肩書きと経験のまま語れば、それは誰よりも説得力のある重い言葉として響いただろう。
だが、残念なことにいまのスバルは大罪司教討伐の功こそあれど一介の騎士、しかもなりたての新米だ。言葉の重みは比べるまでもない。
チンはそんなスバルの、身分不相応に達観したような言葉に何とも言えない顔をしてみせた。
「お前、別にこっち側だろ」
「それを言われると何とも言い返せねぇな」
苦笑して軽く肩をすくめると、それからスバルはフェルトの演説をチンと共に黙って聞いていた。
時折、身なりのいい男がフェルトに対して底意地の悪いヤジを飛ばす場面もあったが、フェルトはそれを華麗に、かつ皮肉たっぷりに切り返してみせては群衆の大きな笑いを誘っていた。
低い身分の出であろうと、自分の足でしっかりと立つことが出来れば、どんな相手だろうと真っ向から渡り合える。
そんな生き様を実際に見せつける良い演説だったと、全て聞き終わった後のスバルは素直に惜しみない拍手を送ることができた。
壇上から降りていく瞬間のラインハルトが微かに浮かべた困惑したような何とも言えない表情が少し気になったものの、スバルはあの生真面目な剣聖も立ちっぱなしは退屈だったんだろうと適当な理由をつけて思考の隅に追いやる。
「さてと、この後は…………」
予定表を確認するためにメモ帳を取り出したスバル。
だが、確認のために頭を下げた瞬間。広場を根底から揺るがすほどの、耳をつんざくような大歓声が唐突に沸き上がった。
普通ではない。王選候補者が現れたのだと考えても異様な盛り上がりだ。それこそ何かに先導されているのかと思えるほどに。
嫌な予感にほとんど反射的に顔を上げたスバル。
その目に飛び込んできたのは陽の光を浴びて赤く輝く、真っ赤なドレスすら己の美貌の飾りにしてみせる圧倒的な存在、プリシラ・バーリエルだ。
本来予定された時間割の通りであれば彼女の出番がやってくるのは夕方のはず。
だが、何を思ったのか彼女は既に悠然とお立ち台の上に立っている。
先程のラインハルトの困惑した表情は、きっとこの身勝手極まりない乱入者が原因だったのだろう。
プリシラは、他人が止まれと言ったところで足を止めるような玉ではない。
この場、このタイミングで彼女がここに出ると決めたのであれば、それを物理的に妨害できるのはそれこそアベルくらいのものだ。
だがそれにしたってどうして? なぜ彼女が現れてこれほどまでに熱狂の声が上がる? そもそも彼女は——
「──騒々しい」
たった一言。
扇で口元を隠した彼女のその言葉だけで、沸騰していた広場が嘘のように静まり返る。
呼吸音一つ聞こえないほどの静寂の中でプリシラはゆっくりと言葉を続ける。
「妾の言葉を遮るでない。この場この時、妾の言葉こそが絶対よ。先の小娘の熱に浮かされるのはよし。とはいえそれは妾の言葉を聞かぬ道理には足りえん」
そういってゆっくりとプリシラの演説は始まる。
彼女の口から語られる言葉はどれも痛烈で強烈な物ばかりだが、それを聞く民衆はフェルトの時のように声こそ上げないものの、納得し受け入れ徐々に広場を熱気が包んでいくのが感じられた。
壇上の上を視線を泳がせてみればリュートを抱えてあわあわしているリリアナや、あまりかかわりのなかった従者の姿は目に入る。
だが、やはりそこにアルの姿はない。
改めて先程の熱狂が魔女教によるものでなかったことに内心で安堵しつつも、スバルは目の前の異様な光景に抱いた純粋な疑問をこぼした。
「すげぇ人気だな……あんまり、そういうイメージなかったけど」
「プリシラ嬢といやぁ、この街で知らないやつはいねぇくらいのお方だぜ。にいちゃん、他所の人かい?」
独り言のつもりだったスバルに気さくに声をかけてきたのは、隣にいたどこの誰とも知らない中年の男性だ。
顔の深い皺から長年の苦労が滲むその男は、ひどく上機嫌な様子でスバルに顔を向けている。
そもそもプリシラとは王都での一件以来まともに喋る機会もなかったし、ここに来るまでの間死に戻りを回避するための準備に追われすぎて、スバルは彼女の動向についての情報をほとんど入れられていなかった。
知らない事は素直に聞くに限ると、スバルはその男に視線を向けつつ疑問を投げかけた。
「ああ。最近、王都のほうから来たんだ」
「それなら知らないのも無理はねぇな。二月以上前から、プリシラ様はあのリリアナ様を連れてこの街に現れてな。それ以来、この街で彼女を知らない人はいないくらいだぜ? 見目麗しい容姿もさることながら、子供にやさしいっていうその意外性が受けてな」
おじさんの言葉に、スバルは思わず素頓狂な声を上げそうになる。
あの傍若無人で傲慢な太陽姫が、子供に優しいなどという光景がまったく想像できなかったからだ。
「アイツが人に優しい!? 冗談キツイぜ……」
「それが意外とマジなんだよ。俺等みたいな薄汚ねぇ男には容赦なく厳しいけど、それはそれでまたいいってな」
「そりゃ結構なことで」
熱く語る男に適当な相槌を打ちながら、スバルは再び壇上へ視線を戻す。
照りつける陽光の下、チラリと扇越しのプリシラと目が合った気がした。だが、彼女は路傍の石でも見るようにすぐに興味なさげに視線を外す。
予定調和を嫌い、予想外の動きをし続ける太陽姫プリシラ・バーリエル。一体何が彼女を水門都市に長居させ、変化させたのか。
心底気にはなるが、我が道を行く彼女の性格を知っているスバルとしては、絶対にありえないと断言できるほどの変化でもない。
その行動の真意を探る必要性はあるだろうが、いますぐにでも追及すべきというわけでもなかった。
(……アベルのやつがこれを知ったら、どういう顔するんだろうな)
街の人間に愛され、未来の王として期待される妹の姿。
それは彼が見たかった妹の姿の一端ではないだろうか。
血を分けた兄妹であるヴォラキア皇帝の冷徹な顔を脳裏に浮かべながら、スバルは理不尽で強引な太陽姫の演説に静かに耳を傾けるのであった。
△▼△▼△▼△
「──探しましたよナツキさん」
群衆の熱気と喧騒が渦巻くプリステラの広場。
その波を無理やりかき分けるようにして、聞き慣れた少し間延びした声がスバルの鼓膜を打った。
声のした方へ振り返れば灰色の髪を振り乱し額に玉の汗を浮かべたオットーが、ひどい疲労感と微かな焦燥を滲ませながらこちらへ歩み寄ってくるのが目に見える。
陽は上がっているとはいえ水気も多く涼しいプリステラで、あれほど汗をかくということは相当走り回ってきたのだろう。
「おっ、誰かと思えばオットーじゃん。ここに来るって事は事前に言ってただろ?」
「確かに聞きましたけど、こうも人が多いと探すのも大変なんですから。演説はどうでしたか? 市内に放送が響いていたのでボクの方でも聞いてはいましたが、実際に見たのとは違うでしょうから」
恨みがましくジト目を向けてくる内政官の労をねぎらうように、スバルはおどけたように軽く肩をすくめてみせる。
オットーもまた、他陣営の腹を探るためにこの広大な水門都市を走り回っていたはずだ。
ひとまず無事に合流できたことに内心で安堵の息を吐き出しつつ、スバルは先ほどまで目の前の壇上で繰り広げられていた光景を思い起こし、率直な感想をこぼす。
「率直な感想としては想像してたよりプリシラの反響がでけーのなんの。フェルトの演説も良かったけど正直この街でプリシラ相手に勝つのムリゲーじゃねってくらい人気なんだけど」
「ボクの方でもいろいろと調べてみましたが、どうやら王選が始まってから少しの期間を経て以降はずっとここでプリシラ様は活動されていたようですね。高圧的な部分は歌姫と本人の割り切った性格で受け入れられたようです」
事前の情報収集を欠かさないオットーの報告に、スバルはひどく感心したように頷く。
王都から早々に離れ、この水門都市を実質的な拠点として泥臭く地盤を固めていたのだとすれば、あの狂信的とも言える異様な熱狂ぶりも十分に頷ける話だった。
「思いもよらない伏兵誕生ってところか──っと、すいません」
これからの厄介な盤面に思考を巡らせながら、無意識に人混みへと足を踏み出そうとした瞬間。
スバルの肩が、岩のように分厚い通行人の体と乱暴にぶつかった。
考え事に気を取られて前をよく見ていなかった自分に非がある。スバルが反射的に頭を下げると、ぶつかった相手もまた、心底面倒くさそうに頭を掻き乱しながら重たい息を吐き出した。
「いや、こっちが周りを見てなか…………なんだお前」
前半と打って変わり、こちらを認識したらしい男の口から漏れ出たのはひどく不機嫌そうな低い声。
そんな声に咄嗟にスバルは顔を上げ、相手の容貌をじろじろと遠慮なく眺める。
燃えるような赤毛に、鋭い青い瞳。顎には短く無精髭を蓄え、どこか荒んだ素行の悪さを漂わせているが、その屈強な体格や無駄のない身のこなしは、間違いなく血の滲むような鍛錬を積んだ騎士のそれだ。
目元に浮かんだ隈の濃さを見るに相当仕事をしているようだが、肉食獣のようなその瞳はスバルの相貌をしっかりと捉えていた。
「もしかしてハインケル……さん?」
一瞬。スバルの脳裏に、かつて別の世界で目の当たりにした彼の惨めな姿がフラッシュバックし、呼吸が詰まる。
スバルの記憶にあるハインケル・アストレアは、少なくともこの時期に限って話すのであれば酒に溺れ、家族との確執という泥沼に囚われ、どこまでも卑屈で哀れな男だったはずだ。
だが目の前に立つハインケルはスバルの記憶にあるひどく淀んだ瞳の彼に比べて、随分と憑き物が落ちたようなすっきりとした顔つきをしている。
剣聖テレシアが白鯨に殺されることなく、家族に囲まれて平穏な最期を迎えた。そのたった一つの歴史の違いが、彼からあの暗く歪んだ妄執を綺麗に洗い流しているのだろう。
そんな背景を理屈として悟り、スバルの胸の奥に燻っていた彼に対する警戒心は自然と霧散していった。
「そうだが…………お前ナツキ・スバルだろう?」
「はい、騎士団副団長にお目通り願えて嬉しいです」
この世界でも彼がその役職についていること自体は、随分と前に王都でちらりと耳にしたことがある。
騎士としての礼を失してはエミリアの顔に泥を塗ることになる。そう考え改めて騎士としての礼を見せると、ハインケルは露骨に嫌そうな表情を浮かべた。
「世辞はいい。国境警備で俺が居なかった時に騎士団が世話になったらしいな。どうして息子の代はこうも優秀な奴らが集まってんのか」
頭をガシガシと掻きながら、ハインケルは深く長いため息を吐き出すとスバル自身をというよりは言葉通りその世代をやっかむように目を細める。
ぶっきらぼうな物言いだが、彼なりの不器用な労いの言葉なのだろう。
先程からの言動でもスバル自身が嫌いと言うよりは、優秀な者が多いスバル達の世代をやっかんでいるような印象を受ける。
そんな中ふとハインケルの鋭い青い瞳が、スバルの隣で硬直している灰色の髪の青年へと移る。
「そんでお前は?」
「オットー・スーウェンと申します。今はエミリア様のところで内政官として仕事をさせて頂いております」
「ハインケル。ハインケル・アストレアだ。お前も苦労してそうだな、世間で英雄呼ばわりされてるやつの下で働くのは大変だろう?」
何気なく放たれたハインケルの言葉。
空気を読んで黙っている彼に対して気を回した程度の何気ないそんな一言。
だが、英雄という単語が鼓膜を揺らしたその瞬間に、隣に立つオットーの纏う空気が凍てつくように冷たく、そして鋭く変質したのをスバルは肌で感じ取った。
「……ナツキさんは英雄じゃありませんよ、等身大の人間です。ラインハルトさんとは違うんですよ」
オットーの声は静かだった。
だがその響きにはどこか強迫観念に急き立てられているような、痛切な悲鳴に近い感情がねっとりと張り付いていた。
彼が垣間見た最悪の未来。ナツキ・スバルが英雄という理不尽な重圧に押し潰され、人間としての心を決定的に壊してしまったあの凄惨な記憶が、彼にそう激しく反論させているのだ。
親友をこれ以上、誰の犠牲にもさせたくない。英雄という呪わしい生贄の座から、力ずくで引きずり下ろしたい。そんなオットーの血を吐くような悲痛な思いが込められた言葉だった。
だが、ハインケルはそんなオットーの刺すような敵意を真っ向から受け止め、ただひどく自嘲するように鼻で嗤った。
「……へぇ。ウチのバカ息子は確かに英雄だが、俺の目から見ればどう考えても大惨事になってた王城襲撃をいなして見せたそこの小僧だって十分英雄だよ。民衆だってそう思ってるさ、だからこの街で最も名前の通ってる俺達の陣営を差し置いてお前たちの陣営が最後に選ばれてるんだろ?」
「それは──」
残酷なまでの正論だった。
オットーがどれほど必死に否定しようと、ナツキ・スバルが血反吐を吐きながら成し遂げてきた偉業はすでに王国の歴史に深く刻み込まれており、周囲の目は彼を紛れもない英雄として扱っている。
凡人でありながら剣聖の父親として生きる苦悩を味わってきたハインケルだからこそ、世間の無責任な期待という暴力の性質を誰よりも冷徹に理解しているのだ。
これは単に受け止め方の違いである。
そんな彼の考えが理解できるからこそ言い返すこともできず血が滲むほどに唇を噛み締めるオットーと、客観的な事実という刃を突きつけるハインケル。
その二人のやり取りをスバルはただ黙って聞いていた。
親友をただの普通の人間として生かしたいと願うオットーの不器用な優しさは、スバルにとって胸が締め付けられるほどに嬉しかった。
彼がどれほど自分の身を案じてくれているかなど、痛いほどに伝わっている。
一方でハインケルの言う通り、自分がすでに引き返せない泥沼のど真ん中に立っていることも、スバル自身が一番よく理解していた。
以前のプリステラの戦いで、己を奮い立たせて英雄としての演説を行ったあの時。
スバルはすでに何度死んで血反吐を吐いてでも、この狂った盤上ごと全員を救い出すと決意しているのだ。その行為が英雄と呼ばれるのであれば、スバルは甘んじて英雄であることを受け入れる。
だからこそ、スバルは二人の言葉のどちらにも、一切の口を挟まなかった。
重苦しい沈黙が落ちたのを潮時と見たのか、ハインケルはやれやれと面倒くさそうに首を振った。
「喧嘩したいわけじゃねぇ。お前らがどう思おうとお前らの勝手だし、俺はそれに対して何かいうつもりもない。精々頑張れよ」
「ラインハルトによろしくお願いします、ハインケルさん」
英雄という呪縛の重みに打ちのめされ、暗くうつむいてしまったオットーに代わり、スバルは背を向けて歩き出したハインケルの大きな背中へと言葉を投げかけた。
ハインケルは振り返ることはなく、ただ手をぶらぶらと頭上で振り回すという彼らしい不器用な挨拶だけを残して、喧騒の絶えないプリステラの人混みの奥深くへと静かに姿を消していった。
△▼△▼△▼△
息の詰まるような王選候補者たちの演説も、いよいよ最終日を迎えた。
もっとも耳目を集める三日目、その大トリを務めるのは他でもないエミリアだ。
彼女がこれほどの異常な注目を浴びる理由は明白だった。
この街の成り立ちに深く関わる魔女の旧友エキドナが陣営にいること、そして何より、先の王都襲撃において単身で魔女教徒を退けたナツキ・スバルの功績が、あまりにも巨大すぎたからだ。
都市の中央広場を埋め尽くす群衆の視線は、エミリア本人への興味というよりも彼女の背後に立つ正気の沙汰とは思えない異質な陣営の顔ぶれに一極集中している。
壇上の中央に立つエミリア。そのすぐ斜め後ろには、ナツキ・スバルと彼の傍らに寄り添う精霊ベアトリスが控えている。
さらにその後方には不敵な笑みを浮かべて堂々と立つ白髪の魔女エキドナと、いつもより少し豪華な衣装に身を包んだ内政官のオットー。
そして正体が露見してパニックになるのを防ぐため、目深にローブを被って変装したダフネとテュフォンの姿まであった。
スバルとエキドナの姿は市井の間でも有名であり、その他の人物も肩を並べるくらいなのだからきっと名のある人間なのだろうと市民は当然思う。
だからこそ誰もが、彼女が背負う規格外の力や底知れぬ思惑を値踏みするように、ひどく冷ややかで肌を刺すような懐疑的な視線を突きつけていた。
そんな視線を流れ弾として浴びているオットーはバレない程度に小さな声で隣に居るエキドナに声をかける。
「エミリア様大丈夫でしょうか、事前の練習では少し躓いているところもありましたが……」
「彼女はむしろ本番の方がいいだろう。下手に肩肘を張らず、自分の思うように言えばいいだけだしね」
「そうは言ってもこの観衆ですよ……?」
視界一杯に広がる人の波。プリシラの時と比べても比較にならないほどの人々が集まっており、呼吸しても空気が入ってきているのか分からない程だ。
凡人であれば立っているだけで足がすくむような、文字通り物理的な重みとなってのしかかる重圧と悪意の空間。
だが、矢面に立つ銀髪の少女の横顔に、かつてのような怯えや迷いは一切ない。
彼女の中には、すでに幾多の絶望を乗り越えて掴み取った、揺るぐことのない王としての覚悟が確固たる根を張っている。
エキドナもまたそんな彼女を信頼しているのか、オットーの言葉にただ微笑みだけを返した。
風に揺れる銀糸の髪をそっと押さえ、エミリアは静かに、けれど広場の隅々にまで届く凛とした声で己の想いを紡ぎ始める。
「初めまして。私はエミリア、ただのエミリアです。銀色の髪に、ハーフエルフ。魔女と見紛うこの姿……皆さんが私に向けるその瞳の奥にある恐れや不安を、私は知っています。私自身もずっと、自分が世界から疎まれる存在なのだと、そう思って生きてきました」
拡声機替わりのミーティアを通し、水門都市の張り巡らされた水路を抜けて、彼女の透き通るような声が響き渡る。
広場が文字通り水を打ったように静まり返った。
自らの最大の不利益であり、この世界における絶対的なタブーである嫉妬の魔女に似た容姿について、彼女は逃げも隠れもせず真っ向から群衆の顔を見据えて言及する。
着飾らない等身大の挨拶。背伸びをして王族の振る舞いを真似るわけでもなく、ただ一人の不器用な少女として、彼女は真っ直ぐに群衆と向き合っていた。
「私はたった一人で生きていかなきゃいけないと、誰かに寄りかかって迷惑をかけてはいけないのだと、そう頑なに思い込んでいたんです」
伏せられた紫紺の瞳が、過去の暗い孤独をなぞるように僅かに揺れる。
彼女が不器用なほどに何もかもを一人で背負い込もうとしていたかつての姿を知っているスバルは、ゆっくりと目を伏せて彼女の言葉にただじっと耳を傾けていた。
心の中では群衆に負けないほどの大きな声で応援しながら、ただ強く彼女を信じる。
そんなスバルの想いに答えるようにエミリアは力強く言葉を続けた。
「でも、違いました。私が臆病になって、立ち止まってうずくまっている間も……私の周りには、ずっと心配してくれて、私が再び歩き出すのを待ってくれている人たちがいました。不格好で、間違えてばかりの私を助けるために、その手を差し伸べて、引いてくれる人たちがいたんです。その温かい手は、凍りついていた私の心を溶かしてくれました。誰かに頼ってもいいのだと、助けを求めてもいいのだと、そう教えてくれたんです」
ふと、エミリアが背後へと振り返った。
王選候補者の誰もしなかったことだ。普通は演説の最中に後ろを振り向くようなことはしない。
その視線は壇上で己の背中を守るように立つスバルや仲間たちへと真っ直ぐに向けられ、彼女の顔には太陽のようにふわりと温かな笑みがこぼれる。
わずかな動揺が広がる広場を前に、彼女は誰よりも優しく暖かな声音で言葉を続けていく。
「だから私は、人に頼ることのできる王様になりたい。王とは、すべてを一人で背負い、誰よりも前を歩く完璧で孤独な存在なのかもしれません。でも、私はそうじゃない王様になりたい。一人で抱え込むのではなく、弱さを認め合い、誰かの痛みを分かち合って、みんなと手を取り合って進める……そんな国を作りたいんです」
エミリアの言葉には、魂を焦がすような熱があった。
己の迷いを捨て去り、自らがどうありたいかを理解し受け入れた者だけが持つ、ただまっすぐな想い。
最初は魔女の操り人形だ、陣営の飾りに過ぎないと冷ややかな目を向けていた群衆の空気が、ここに来て明確な変化を見せ始めていた。
張り詰めていた彼らの表情から疑心の毒気が抜け落ち、その真っ直ぐで嘘偽りのない言葉に、誰もが自然と深く耳を傾けるようになっているのだ。
「私には、クルシュさんのような真っ直ぐな人望も、アナスタシアさんのような交渉の巧みさもありません。フェルトちゃんのような力強い行動力も、プリシラさんのような圧倒的なカリスマ性も……何一つ持っていません」
自らの無力さを、他陣営の王選候補者たちの美点と比較して素直に認める。
それは王を目指す者として、下手をすれば致命的な隙を見せる行為かもしれない。
だがエミリアはそれでいいと思っていた。何もかもを為せる人間であらなければならない、そんな考えをしていた自分はもうここにはいない。
ならば自分の心に正直になり、等身大の自分を知ってもらう事こそが彼女にとっては何よりも大切な事だった。
「けれど、私は精一杯、一人でも多くの人に笑ってもらえる王様になるために。誰かが泣いて転んでいたら、一番に駆け寄って一緒に悩み、一緒に立ち上がれる王様になるために……これからも、足掻いて、不格好に頑張っていきます」
これが見せかけの薄っぺらい虚勢ではないことを、群衆はすでに肌で理解していた。
なぜあの得体の知れない曲者揃いの陣営が、あるいはナツキ・スバルという男が、彼女の隣に立とうとするのか。何が彼らをそこまで駆り立てるのか。
己の無力さを自覚しながらも、誰かのために懸命に泥臭く手を伸ばそうとするこの少女を、どうして命を懸けて応援したくなるのか。
その全ての答えが、いままさに壇上で胸を張る彼女の姿そのものだった。
「──以上で私の演説を終わります。ご清聴、本当にありがとうございました!」
言葉を締めくくり、エミリアが深く、深く頭を下げる。
一瞬の、息を呑むような長い静寂。
やがて、誰かが鳴らした小さな拍手の音が広がり、波紋のように重なり合って、またたく間に水門都市の広場を揺るがすほどの温かく大きな拍手喝采へと変わった。
熱狂的な歓声ではない。だが、一人一人の心に確かに言葉が届いたことを証明する、優しく、そして力強い拍手の雨だった。
(……よくやったな、エミリア)
大役を見事に果たし、はにかむように微笑む銀髪の少女の姿を、スバルは目頭を熱くさせながら、どこまでも誇らしい気持ちで見つめていた。
──もちろん、これで全てが手放しに大団円で終わったわけではない。
彼女の言葉に心を動かされた者、あるいは未だに疑念を拭いきれない者たちから、その後の質疑応答の時間にはひっきりなしに声が上がり続けた。
群衆から矢継ぎ早に飛んでくる、様々な感情が入り混じる無数の質問に対し、エミリアは決して誤魔化すことなく、時間をかけて一つ一つ真摯に自分の言葉で返し続けたのだ。
その全てを語り尽くすにはあまりにも長大な時間が流れたが、終わってみれば、広場を包んでいた空気は演説前とは比べ物にならないほど、確かな熱と温かさを帯びていた。
△▼△▼△▼△
「何事もなく終わった……のか?」
「油断するのはまだ早いかしら。プリステラ滞在は予定だとまだ一週間以上あるのよ」
エミリアの演説が終わり、熱病に浮かされたような群衆の波をかき分けて宿舎へと戻ってきた頃には、すでにプリステラの空はすっかり重たい夜の闇に沈んでいた。
割り当てられた客室のベッドにどさりと腰を下ろし、スバルは肺の底に溜まっていた澱を吐き出すように、ふぅと深い溜息をこぼした。
傍らに立つベアトリスの言う通り、気を抜くにはまだ早すぎる。
だが、魔女教が動くならば最も被害を出しやすい今日あたりだろうと目算を立てていたスバルとしては、完全に肩透かしを食らった形であった。
ラインハルトにも事前にそれとなく懸念を共有し、他陣営が都市のどこに配置されているのかも頭の髄まで叩き込んで、いつでも死線に飛び込めるよう神経を張り詰めていたのだ。
しかし、今日一日、不審な動きはまったく見られなかった。
珍しくエキドナが盤面を読み違えたのか、それとも魔女教の襲撃自体がスバルの杞憂だったのか。
王選候補者たちはまだあと一週間ほどはこの都市に滞在する予定だ。警戒の糸を緩めるわけにはいかないが、少し前提から考え直す必要があるかもしれない。
「今日もすばるんはダフネとずぅっと一緒でしたね」
「好きでいるわけじゃねぇよ、落ち着かねぇし」
不意に、部屋の薄暗い奥からぬるりと、ダフネがその異様な顔を覗かせた。
本来であれば、愛らしい相棒であるベアトリスがこの客室で同室になるはずだったのだ。
彼女も初日は『スバルと一緒がいいのよ』と盛大にごねていたのだが、ダフネがそれを絶対に許さなかった。
結果としてスバルは、得体の知れない暴食の魔女と二人きりで寝室を共にするという、生きた心地のしない夜をこの数日間過ごす羽目になっていたのだ。
「それなら今日は一人で寝たらどうですかぁ? ダフネも、たまにはテュフォンの所に泊まってきますし」
「……なら、お言葉に甘えてそうするかな」
予想外の提案だったが、スバルとしては願ってもない申し出だ。
ダフネの気が変わらないうちにと慌てて頷くと、彼女はクスクスと喉の奥で不気味な音を鳴らし、そのまま上機嫌な様子で客室から出て行った。
パタン、と扉が閉まり、久々に完全な一人きりの空間が訪れる。
スバルは軋むベッドに深く背中を預け、客室の天井をぼんやりと見つめた。
(……結局、魔女教は来なかったな)
深く息を吐き出すと、これまで限界まで張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れたように、泥のような重たい疲労がどっと全身に押し寄せてくる。
ダフネやテュフォンたち魔女の動向も読めないし、これから先の一週間で何が起きるかも分からない。
考えなければならないことは山のようにあるはずなのに、急激に訪れた安心感のせいか、思考の輪郭が曖昧に溶け落ちていく。
「…………寝るか」
極限まで酷使していた神経と肉体は、とうにスバルの限界を超えていた。
重たく垂れ下がる瞼を閉じれば、窓の外から聞こえる静かな水路の音が、微かな子守唄のように耳の奥を優しく撫でる。
意識が、底なしの泥の海へと沈んでいくように急速に落ちていく。
痛みもない。苦しみもない。ただ、まどろみの心地よさだけが全身を優しく、ひどく甘やかに包み込んでいった。
──その、瞬間だった。
「──以上で私の演説を終わります。ご清聴、本当にありがとうございました!」
(…………は?)
気が付けば、開いていた瞼。
視界に暴力的なまでに飛び込んできたのは、見慣れた客室の薄暗い天井ではない。
刺すような陽の光を浴びて輝く、広場。先ほどまで見ていたはずの、今日の昼間の光景だ。
嫌な夢であれば良かった。立ったままで、酷い疲労から一瞬だけ意識が飛んでいたのだと、そう無理やりにでも思いたかった。
だが、肌を撫でる水辺の風が、鼻を抜ける群衆の強烈な熱気と香りが、それが現実であることを残酷なまでに教えてくれる。
殺された痛みも、息が詰まるような苦しみも、何の予兆もなかった。ただ、心地よい眠りに落ちたはずだったのだ。
いままさに、ナツキ・スバルは死に戻りをしたのだと、唐突に突きつけられた絶対的で不条理な事実が、スバルの心臓をわしづかみにした。