スバル「強くてニューゲー……これ本当に強い?」   作:空見大

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地獄へようこそ

 肺の奥の空気がすべて凍りついたかのようだった。

 理由は分からない。殺されたという実感も、痛みもなにもありはしない。

 

 だが、眩しすぎるほどの陽光が、それが現実だと容赦なく突きつけてくる。

 事実としていままさにこの瞬間。

 自分は、死に戻りをしたのだ。

 

「──以上で私の演説を終わります。ご清聴ありがとうございました!」

 

 万雷の拍手が広場を包み込んでいく。

 立派なものだ。誰の目から見ても、人々の心を惹きつける素晴らしい演説だったと思う。

 

 だが降り頻る雨のような温かい拍手と熱狂的な歓声を全身に浴びながら、スバルは何が起きたのかも分からずに、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 

(…………なんでだ?)

 

 つい先ほどまで、薄暗い客室のベッドに背中を預けていたはずだ。

 魔女教の襲撃もなく、無事に一日が終わったことに心の底から安堵し、窓の外から聞こえる静かな水路の音を子守唄代わりに眠りに落ちた。

 ただ、それだけだった。

 

 それなのに、気が付けば真っ昼間の広場に立たされている。

 じりじりと肌を焼く容赦のない陽射しと、広場を埋め尽くす人々の凄まじい熱気。

 それとは裏腹に、スバルの背筋には氷の刃を当てられたかのように、ひどく冷たい汗が伝っていた。

 

 少しでも気を抜けば、ぐにゃりと視界が歪んで足元がふらついてしまいそうなのをなんとか耐えられたのは、大衆の無数の目線にさらされているからに過ぎない。

 

「……スバル、裏に行こう」

 

 歓喜に沸く群衆。それを前にして顔を死人のように青白くさせて固まるスバルに、いち早く気付いたのはエキドナだった。

 彼女は周囲に怪しまれないよう極めて自然な動作でスバルの腕を掴むと、抵抗を許さない強引さで彼を人目のつかない路地裏へと連れ出す。

 

「──っ」

 

 湿り気を帯びた石造りの冷たい壁に背中を預けさせられ、スバルは肺の奥から絞り出すように荒い息を吐く。

 遠くから聞こえる水路のせせらぎや広場の歓声が、いまのスバルには水底から聞く音のように酷く現実離れして聞こえた。

 

 肉体を切り裂かれるような痛みも、息が詰まるような苦しみも、死の瞬間に何も感じなかった。

 ただ死んだという事実よりも、いつ、どこで、何が原因で死んだのかがまるで分からないという事実が、いまのスバルには底知れず恐ろしい。

 

 激しい動悸を抑えるのに躍起になっているスバルの前で、エキドナはそっと膝を曲げて目線を合わせると優しく、それでいて魔女としての深みを持った少し硬い声でスバルに問いかけた。

 

「戻ったんだね?」

 

「あ、ああ。たぶん……わりぃ、ちょっと動揺してて」

 

「死に慣れる事など、生物である限りあり得ない話だよ。まずは落ち着くんだ。大きく息を吸って……」

 

 エキドナの理知的で冷静な声に誘導されるように、スバルは震える肩を上下させて大きく深呼吸を繰り返す。

 肺に冷たい空気を送り込み、何度か息を吸って吐いているうちに、狂いそうだった心拍が落ち着き、ようやくなんとか現状を飲み込めるようになってきた。

 

「悪い、助かった。とりあえず落ち着いたよ」

 

 そうしてスバルが血ののぼった頭に冷静さを取り戻した頃。

 ふと薄暗い路地の入り口に、豪奢なドレスの裾を揺らして駆け込んでくる小さな人影が現れる。

 

「──スバル。大丈夫かしら」

 

 やって来たのはベアトリスだ。

 彼女もまた、契約者であるスバルの異変を察知し、エキドナの後を追うようにして血相を変えてやって来たのだろう。

 スバルが突如として空気を一変させ、絶望の淵に立たされたような顔をしたとき、それが何を意味しているのかをベアトリスは痛いほどに理解している。

 

 ぎゅっと自分の服の裾を指先が白くなるほど握りしめ、大きな瞳から零れ落ちそうになる涙を必死に堪えながら、ベアトリスはただ震える声でそう問いかけることしか出来なかった。

 

「……悪いな、心配かけて。いま落ち着いたとこだ」

 

「ベティはスバルの契約精霊なんだから、気にする必要なんてないのよ…………また、ベティはスバルを救えなかったかしら」

 

 一瞬口を閉じかけて、それでも自分は言うべきだと判断して、懺悔するようにベアトリスが口にした言葉。

 彼女はスバルが死ぬたびに、己の無力さを呪い、酷く落ち込む。

 それが何回目の死なのか、どれほど凄惨な死であったかを彼女が知ることは決してないが、だからこそ愛する契約者の痛みに誰よりも敏感になっているのだろう。

 

「気に病むなよベアトリス。今回は俺もなんで戻ったのかすら分からないんだ。このあと色々雑務して、魔女教も来なくて、それで──」

 

 喉が狭まり声が出せず、咄嗟に言葉を一度区切る。

 起きた事実をなぞる為に決意を固め、ゆっくりとスバルは言葉を続ける。

 

「気がついたら、あそこに立ってた」

 

 痛みすらない完全な奇襲。

 そんなスバルの話を聞いて、エキドナはゆっくりと思案するように顎に手を当てる。

 

「君のそれが、いままで他の原因で巻き戻ったり、他者の権能で巻き戻されたり、それに似たような経験はあったかい?」

 

「ない。それは確かだ」

 

 いまはスバルのものになっているとはいえ、以前までこの力を管理していたのは、他でもない嫉妬の魔女である。

 仮にスバルの死に戻りの力に無理やり干渉しに来た者がいた場合、大抵は干渉してきた者を殺すために影から彼女が現れるか、スバル自身が心臓を握り潰されて殺されるかだ。 

 だからこそ、自信を持ってそれはないと断言することができた。 

 

 するとスバルの返答を受け少し考えたエキドナは、次に別の恐るべき疑問を口にする。

 

「では寝ている間に死んだことは?」

 

「いや、そんな事は……」

 

 反射的に否定しようとして、スバルの脳裏にかつての記憶がフラッシュバックする。

 それはロズワール邸に来て初めての頃。

 スバルは全く同じように、眠っている間に原因もわからずに衰弱し、命を落としたことが一度だけあったのだ。

 

 随分前のことでパッと思い出すこともできなかったが、エキドナの言葉を受けて暗闇の中で息絶えた当時の冷たい感覚が、鮮明に脳裏に湧き上がってくる。

 気が付けばいつの間にか、口から己の脳の奥底にこびりついていた忌まわしい言葉が漏れ出ていた。

 

「──呪い、か」

 

「なるほど。寝ている間の衰弱死なら、君に自覚症状がない事も理解できる」

 

 スバルの言葉に賛同するようにエキドナが言葉を続けると、いよいよ予想が現実味を帯び始めてくる。

 だがそんな考えに対し、ベアトリスは到底納得がいかない様子で悲痛な声を上げる。

 

「で、でもそれならベティかお母様が気がつくはずなのよ!」

 

「実際にこの距離で既に呪われているなら分かるだろうが……見たところ、今は呪われていない。スバル、今日の夜は一人で寝たのかい?」

 

「あ、ああ。もうダフネを監視しなくてもいいだろって話になって、それで一人で部屋に戻って、ゆっくりしてから寝たところまでは覚えてるんだけど」

 

「──っ」

 

 共にいなかったのなら、たとえ呪い殺されていても分かりはしないだろう。

 スバルの不用意な返答に、ベアトリスは己の判断ミスが原因でスバルを死なせてしまったのだと、酷く顔を歪めて下唇を強く噛み締めた。

 

 そんな彼女の自責の念を、エキドナはあえて無視して冷徹に頭を回し続ける。

 古今東西に数多存在する呪いの数々。

 その中で即効性があり、かつ人を確実に殺し切るほどに強力なものはそう多くはない。

 

 死に戻りの起点がつい先程であったことを鑑みるに、事前に長期間かけて準備され、すでに死が確定している状況ではないはずだ。

 そこまで考えが及べば、後は最も可能性の高い最悪の答えを導き出すだけだった。

 

「そうかい。なら可能性として高いのは、色欲の──カペラの持つ龍の血だろうね」

 

「でもそれなら、俺には耐性があるはずで──!」

 

「キミが以前の世界で呪いに対抗できたのは、単純にウルガルムの呪いと奇跡的にバランスが取れたからにすぎない。いまの君が龍の血を直接浴びれば、量によるだろうが死ぬか、それに近い状況になるだろう」

 

 下手に龍の血を浴びれば命はない。それは理屈として痛いほど分かる。

 だが、一体いつ、どうやってそんなものを、厳重な警戒が敷かれているホテルの中で仕掛けられたというのか。

 

「カペラがこの街にいたとして、どうやって血を摂取させたってんだよ!?」

 

「……液体ならやりようはいくらでもあるかしら。たとえばホテルの部屋の飲み水、お風呂場の湯、寝ている間に口に垂らすことだって不可能ではないのよ」

 

「水蒸気にして気体として摂取させた可能性もあるだろうね。仮にそうなると、キミだけで無くあのホテルのほぼ全ての人間が死んだことになるだろうが」

 

 エキドナとベアトリス、二人の口から淡々と語られる見解。それが的外れでないと直感できる以上、信憑性は否が応でも強くなる。

 ホテルの人間が全滅するかもしれないという途方もない被害の可能性に、スバルの背筋をぞっとするような冷たいものが駆け抜けていく。

 

 もしそこまでの大規模な準備を水面下で進めてきたのであれば、いまから起きる騒動はおそらくかつての王城襲撃のそれより、遥かに巨大で悪辣なものになるだろう。

 

「とりあえず今出来ることは、呪いがいつ持ち込まれたのかと、それ以外は何もないのかの警戒だ。気を張っていこう」

 

 ──そうして一旦の話し合いは終わり、スバルは民衆の質疑に答えていたエミリアの元へと戻る。

 熱狂の余韻が残る広場を見渡しながら、スバルは民衆の中に怪しい人物が紛れていないかと、鋭い警戒の目線を走らせた。

 

 だが、視界を埋め尽くすほどの人の波と、耳をつんざくような歓声の中だ。

 広場に立つ誰も彼もが怪しく見えてしまい、時間の無駄であることを否が応でも理解させられる。

 どれだけ警戒が有効に機能しているかは、ひどく不透明であった。 

 

 

 そうこうしているとあっという間に時間が過ぎ去り、空の色は徐々に茜色へと変わっていく。

 ホテルに戻ったスバルは、周囲に不自然に思われないよう適当な理由をつけて、ベアトリスが常に自分の傍にいる状況を作り出した。

 事あるごとに彼女がスバルの手や身体に触れ、マナの巡りなどを探り、呪いの兆候が潜んでいないかを逐一チェックするためだ。

 

 日頃から近くにいたことも相まって、あまり違和感がないのはせめてもの救いだろうか。

 だが、普段の彼らを知っている陣営の人間以外の者からすれば、過保護すぎて多少の違和感たり得る行動であるのもまた事実だった。

 

「すばるん、今日はなんだかやたらと近いですねぇ?」

 

「気のせいだろ、俺達はいつだってこんなもんだぜ?」

 

「ベティのスバルに気安く話し掛けるんじゃないかしら」

 

「そうでしたかぁ」

 

 不意に顔を覗き込んできたダフネに対し、スバルは引きつりそうになる頬の筋肉を必死に抑え込み、平然とした態度を取り繕った。

 無邪気に小首を傾げているが、この得体の知れない暴食の魔女が、どこまで真意を隠してこちらを観察しているのか、スバルには全く読めない。

 

 下手に距離を取れば、自分たちが()()を強烈に警戒していると勘付かれるかもしれない。

 だからこそ、スバルはダフネともあえて距離を置かず、いつ底が抜けるかもわからない薄氷を踏むような思いで一日を過ごした。 

 

 途中、エキドナに手伝ってもらいダフネとテュフォンの席を外させることに成功。

 その僅かな隙を突き、ラムにはそれとなく周囲を警戒するように伝え、オットーには手短に詳しい事情を説明することがなんとかできた。

 

 ──やがて、夜が来る。

 いつ命を落とすか分からないという極限の状況下で、すぐに眠る気になどなれるはずもない。

 スバルたちは起きたまま客室の明かりを落とし、暗闇の中で静かに、前回の死が訪れた時刻を回るのを待っていた。

 

(……何も……起きないな)

 

 部屋に置かれた時計の秒針が、チクタク、チクタクと無機質な音を刻む。その規則的な音だけが、息の詰まるような室内に響き渡っていた。

 

 針は前回のループで、スバルが心地よいまどろみの中で眠りに落ちたであろう時刻を、とうに過ぎている。

 しかしスバルの身体には衰弱の気配も、得体の知れない呪いの兆候も一切ない。

 

 冷や汗が背中を伝う感覚だけが、彼が生きていることを証明していた。

 

「……少なくとも、このホテルの中に人が入ってきたらベティが分かるはずなのよ」

 

 暗がりの中、スバルの袖を強く握りしめたベアトリスの確信に満ちた言葉。それに頷きながらも、スバルの胸の内でどす黒い疑念が渦を巻く。

 

(ならやっぱり気体にして吸わせたのか? それとも他の──)

 

 確実に来ると分かっていたわけではないにせよ、プリステラ自体がそれなりに危険な場所であるという認識から十分な警戒はしていた。

 それをやすやすとくぐり抜けた相手の手法が思い当たらず、スバルはギリッと奥歯を噛み締めながら頭を働かせる。

 

 自分たちが厳重に警戒していることを察知して、相手が手を引いたのか? それとも呪いが上手く運用できなかった場合は、最初からこの日は何も起こすつもりがなかったのか。

 

 エキドナとベアトリスによって想定されうる限り全ての呪いに対抗策を用意した影響で、敵が動くのをやめたと考えるのが一番自然ではある。

 だがそうだとして何もアクションがないのは何故だ?

 不気味な程の静けさは、かえって時間と共にスバルの神経を削り取っていく。

 

 息を潜めるような、重苦しく張り詰めた沈黙が続く部屋の中で、不意にオットーが口を開いた。

 

「ナツキさんの話通りなら、もう何か起きていないとおかしい時間です。相手がこちらの動きを見て計画を変更させたのだとしたら、こちらも何か手を打つべきじゃないでしょうか」

 

 そう言ってオットーが視線を向けるのは、月明かりに照らされたソファに優雅に腰掛けるエキドナだ。

 その他のメンバーはなるべく相手に違和感を覚えられないよう、いつも通り動いてもらっている。

 そのため、この場にいるのはこの四人と、スバルのベッドの上で行儀悪く寝転ぶダフネだけだ。

 

「そうだね……じゃあこうしよう。四人は外部の探索に向かってくれないか? ホテル内部も含めて、こちら側のあれこれは私が主導でやっておこう」

 

 オットーの提案に、エキドナが即座に指示を出す。

 いつも通りの涼しげな声音だが、その底知れない瞳は、スバルたちには到底見えない遠くの盤面を見据えているようだった。

 彼女に何が見えているのか、それをこの場にいる誰もが知りたいが、自主的に彼女が言い出さない時点で話すつもりがないことは分かりきっている。

 

「分かった、頼んだぞエキドナ」

 

「ああ、任された。()()()()()を任せて悪いとは思っているが……ここにも人手は必要だからね」

 

 そこまで口にして、エキドナはベッドの方に視線を向ける。

 すると先程までだらりと寝転んでいたダフネが、むくりと起き上がり、暗闇の中で楽しそうに笑ってエキドナの方を見つめている。

 

「ダフネ……キミもいろいろと大変だとは思うけど、よろしく頼むよ。こちらは上手くやっておく」

 

「すばるんのおもりは確かにたいへんですけどぉ、わかりましたぁ」

 

 ダフネがクスクスと、内臓を撫で回すような甘ったるい喉を鳴らすのを聞きながら、スバルたちは部屋を後にすることとなる。

 何か取り返しのつかない事が起きている気がする。

 気が付いてしまえばすぐにでも命に関わるような何かが、ゆっくりと音を立てずに近寄ってきているようなそんな違和感。

 誰もがそれを分かっているにもかかわらず、言葉にすることに恐怖してただただ目を背ける事しかできない。

 そうしてスバル、オットー、ベアトリス、ダフネの四人は夜の水門都市へと足を踏み出すのだった。

 

 ▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△

 

 夜のプリステラは静かだ。

 昼間の熱を帯びた賑わいが嘘のように消え去り、網の目のように張り巡らされた水路を流れる水の音だけがひどく冷たく、それでいて妙に大きく響いていた。

 湿った石畳を歩く自分たちの足音がやけに耳につき、スバルは無意識のうちに周囲への警戒を強める。

 

「それにしても、さすがに静かだな」

 

「静かすぎるくらいですけどね。いくら何でも人通りが少なすぎる気がします」

 

「昼間の盛り上がりで疲れて寝てるんじゃないか?」

 

 張り詰めた空気を誤魔化すようにスバルが軽口を叩いたその直後だった。

 ちゃぷん、と暗い水路が小さく跳ねる音に混じって、ずり、ずりと石畳を擦るような不規則な足音が聞こえてきた。

 視線を向ければ、水路に架かる石橋の向こう側に、ゆらゆらと幽鬼のように揺れる不気味な人影が見える。

 

「──とかなんとか言ってたら、第一村人発見」

 

 努めて明るい声を作ってみせたものの、その冗談に応える者は誰もいなかった。

 静まり返った路地に虚しく響いたのはスバル自身の浮ついた声の残響と、ひたすらに不快な水音と足音だけ。

 

 隣を歩いていたオットーもスバルの傍らに立つベアトリスも、微塵も笑みを浮かべてなどいない。

 むしろ、まるで恐ろしい魔獣を前にしたかのように全身を強張らせている。

 自分が放った軽口が空中で凍りつき、さらに重苦しい沈黙となってのしかかってくるのを感じて、スバルは引き攣った笑みのまま固まった。

 

「待つのよスバル……様子がおかしいかしら」

 

「ベアトリスさん」

 

「分かってるのよ」

 

 ベアトリスがスバルの前に半歩進み出てると、オットーもまた表情から温もりを消し即座に臨戦態勢をとる。

 ただならぬ二人の気配に、スバルもごくりと乾いた喉を鳴らし、恐る恐るその人影が近づいてくるのを待った。

 だが、雲の切れ間から覗いた月明かりがその輪郭を照らし出し、同時に夜風に乗って鼻を突いた強烈な腐臭に、スバルは思わず顔をしかめて口元を覆う。

 

 血の気を失い、ところどころ腐り落ちた皮膚。焦点の合っていない白濁した虚ろな瞳。

 ずり、ずりと、だらしなく引きずりながら歩く手足は、生きている人間のそれではない。

 

「ぁ……あぁ……」

 

 不死王の秘蹟による屍兵──にしては、あまりにもおぞましく劣化した姿だった。

 生前の武技や知性を保っているわけでもなく、ただ生者の肉と血を求めて濁ったうめき声を上げるだけの、文字通りの動く死体。

 質よりも、ただ数と恐怖で街をパニックに陥れるためだけに生み出された粗悪品がそこにはいた。

 

「────ー!!!」

 

「させないかしら!」

 

 生者の気配に気付き、獣のように本能のままに襲いかかってこようとした屍兵とスバルの間に、ベアトリスが素早く入り込む。

 放たれた見えない衝撃波は屍兵をあっさりと吹き飛ばし、腐肉と黒ずんだ血を石畳に撒き散らしながらその物体は二度と動かなくなった。

 なんとか事なきを得たが飛び散った腐臭を肺に吸い込んだ瞬間。スバルの脳裏には血生臭い最悪の記憶がフラッシュバックしていた。

 

「これって帝国の……いや、どことなく違──」

 

 スバルの疑問を暴力的に掻き消すように、夜の静寂を劈く凄まじい()()が響き渡った。

 ドスン、と内臓を直接蹴り上げられたかのような衝撃。足元の石畳が大きく跳ね、暗い運河の水が不気味に波打つ。

 直後、遠くの空が真昼のように毒々しい赤色に染め上げられた。

 火柱が上がったのは一つや二つではない。都市庁、そして王選候補者たちが滞在している各宿泊施設が、示し合わせたかのように一斉に爆散したのだ。

 もちろん、その中にはエミリアやエキドナが残っているはずの、あのホテルも含まれている。

 

「なん……」

 

「そういうことかよ……ッ!」

 

 もうもうと立ち上る黒煙と、夜空を焦がす紅蓮の炎。

 燃え盛るホテルの方角を見つめたまま、スバルは歯が砕け散るのではないかというほど強く奥歯を噛み締めた。

 エキドナがどうしてホテルに残ったのか。どうして別れ際に、これを()()()()()と称したのか。

 

 いまのプリステラにおいて、敵が最も重要視するのは王選候補者たちだ。

 エミリアが動けば、必然的に敵はその対策を練る。ましてや深夜のこの時間に突如として陣営が二手に分かれて動き出したとなれば、計画が露呈したと相手が考えるのが普通だろう。

 だからこそエキドナは、不自然にならない程度に人を二分させたのだ。

 スバルというこの世界において唯一、自身の死を代償に情報を次に活かすことの出来る人間を確実に外に逃がすために。自らと、エミリアたちを囮にして。

 

「──街の外に避難しましょうナツキさん! 爆発の規模やタイミングから見ても、計画的な行動なのは間違いありません!」

 

「避難できるわけないだろ! この街にどれだけ多くの人がいると思ってるんだ!!」

 

「それはあなたの命より大切な人ですか!?」

 

 血相を変えたオットーに胸ぐらを乱暴に掴み上げられ、スバルは息を呑んで言葉に詰まる。

 至近距離で睨みつけてくるオットーの瞳にあるのは、怒りではない。ただ目の前の不器用で、すぐに全てを一人で背負い込もうとする友人を、この地獄から這ってでも生かして連れ出したいという、異様なまでの執念だった。

 

「さっきの爆発は都市機能を麻痺させるためのもの! この都市でいま最も狙われるのが誰か!! 誰より分かってるから、アンタはいまそんな顔をしてるんじゃないのか!!!」

 

 スバルを無理矢理にでも逃がそうと、首筋に青筋を立てて必死に叫ぶオットー。

 だが、そんな二人の間に、小さな体が強引に割って入った。

 

「離すのよ!!」

 

 オットーを睨みつけるベアトリスの瞳には、確かな殺意すら宿っているように見えた。

 彼女の硝子玉のような瞳の奥には、赤々と燃え落ちるホテルがはっきりと映り込んでいる。

 自分たちの陣営が、大好きなエミリアたちがどうなったのか。そしてそれを理解したスバルがどのような行動を取るのかベアトリスは正確に理解していた。

 

「ベティ達は! ベティ達はもう()()()()かしら! ならせめて、スバルが最大限次に活かせるように動いて、苦痛なく送ってあげるのが優しさなのよ!!」

 

「それは詭弁です! どうしてナツキさんばかりが苦しまなくちゃいけないんですか! ナツキさんだけがこんな──」

 

 二人の悲痛な言い争いを遮るようにして先程の爆音とはまた違う音が聞こえてくる。

 足元から伝わるおぞましい振動の正体に目を向ければ、水路の向こうからまさに泥の洪水と錯覚するほどのおびただしい数の屍兵が押し寄せてきていた。

 一体どこからそれほどの量が現れたのか、何を目的として動いているのか、そんな事すら考える暇もない程の速度で濁流はこちらに向かって進んできている。

 

「くそっ!」

 

 咄嗟に屍兵の波の前に割って入るオットー。

 迫り来る死の脅威から彼を守るため、小さな両手で魔法を構え直すベアトリス。

 だが、それよりも早く動いたのはスバルだった。

 

 反射的に腰の鞭を取り出したスバルはベアトリスを強く抱き寄せ、ダフネとオットーを両脇に無理矢理抱え込むようにして、近くの家屋の屋根の上へと跳躍した。

 機転を利かせたベアトリスの補助はありつつも、一気に三人を引き上げたことで肩の関節が嫌な音を立てて軋む。その激痛に顔をしかめながらも、スバルは息を切らして二人に懇願する。

 

「お前らの気持ちはすっげぇ嬉しい。でも、まだみんながどうなったか分からないし、この街だってどうなってるか分からねぇんだ。だから精一杯、この状況をなんとかしたい。頼むよ。お前らにしかこんな我が儘言えないんだ」

 

 腕の中で微かに震えるベアトリスの温もりを感じながら、スバルは泥臭く不格好に命乞いをするように二人を見つめた。

 死の淵に立たされてなお、決して諦めようとしないその狂気じみた執念。

 痛切な願いすらも噛み砕いて前を向こうとする友人の強さを前にして、オットーの顔が酷く泣きそうな、それでいて安堵したような歪な形に歪む。

 

「…………本当に、卑怯ですよナツキさん」

 

「ありがとう。オットー──」

 

 スバルが安堵の息を吐き、思考を次の一手へと切り替えようとした。

 オットーが再び前を向き、泥だらけの足を一歩踏み出そうとした。

 ──その、ほんの一瞬の隙間だった。

 

 ぼつん、と。

 何かが破裂するような、ひどく間の抜けた音が響いた。

 

「え」

 

 スバルの視界から、オットーの上半身が根こそぎ消失する。

 悲鳴を上げる間も、痛みを自覚する間もなかったのだろう。残された下半身だけが、理解不能な事態に取り残されたように数秒間立ち尽くし──やがて、どさりと重たい血飛沫を撒き散らして石畳へと崩れ落ちる。

 

 思考が、白く染まる。

 だが、絶望はそれだけでは終わらない。

 

「やっぱりお前が裏切──」

 

 状況を誰よりも早く理解して動き出そうとしたベアトリス。

 だが間髪入れずスバルにもたれかかっていた彼女の重量が、ふっと消え失せた。

 スバルの手元に残されたのは血に濡れ無惨に千切れたドレスの切れ端だけだ。

 

 いったい、何が起きた?

 狂乱しそうになる脳内で、ナツキ・スバルは、その理不尽な死の正体を正確に理解してしまっていた。

 

「──はっ? なん……で、そんな」

 

「ダメですよぉすばるん。もう、終わってるんですから。英雄じゃ無いすばるんは、ダフネに食べられちゃうくらいしかやれることないんですよぉ」

 

 焦げ臭い夜風に乗って、ひどく甘ったるく、脳髄を直接撫で回すような幼い声が鼓膜を揺らした。

 ギシ、と軋む首を強引に回して振り返る。

 そこにいたのは口の周りをべっとりと赤黒く染め上げ、無邪気に小首を傾げる暴食の魔女だった。

 

「俺を……俺を食いたかったならそうすればよかっただろ!? なんで二人を食ったんだ!?」

 

「死んで無いかもしれないから、すばるんは死なないって言いましたよね? だから、ちゃんと死ねるように周りを片付けてあげました」

 

「なんなんだよお前……! なんなんだよ!!」

 

 喉が裂け、血を吐くような絶叫。

 いますぐ目の前の少女を八つ裂きにしてやりたいという凄まじい怒りと殺意。

 だが、それを真っ向からぶつけられても、ダフネはただ困った子を見るような哀れみのこもった瞳で眉を下げるだけだった。

 

「大変ですねぇすばるんは。いまもダフネを殺したくて仕方ないのに、同時にダフネから情報を得たくて一秒でも長く生き延びようとしてる。茶会の時となぁんにも変わりません」

 

 血に濡れた小さな手が蛇のようにぬるりと伸びてきて、スバルの胸の真ん中にそっと触れる。

 振り払う気力すら湧かない。ただ指先が触れただけだというのに魂の底まで見透かされ、呪縛されているかのように体が動かなかった。

 ダフネは空いたもう片方の手で、眼下に広がる紅蓮の地獄を指し示す。

 

「ほら見えますか、すばるん。街が燃えてますよ」

 

「……仲良くなれると、そう思いかけてたんだ」

 

 とめどなく溢れる涙と、絶望に満ちた掠れ声。

 そのスバルの哀願に近い言葉を聞いて、ダフネはわずかに目を伏せた。

 その表情に浮かんだのは純粋な悪意でも、食欲を満たした歓喜でもない。

 ひどく人間臭く、酷薄なまでの慈悲の色だった。

 

「…………ダフネはすばるんのこと好きでしたよ、生意気で美味しそうな香りがして。でもダメです。ダフネは、ずっと前に受けた恩を、いま返さないといけないですから」

 

 その恩が何に対するものなのか。

 誰と、どんなおぞましい約束を交わしたのか。いまのスバルには知る由もない。

 だが、彼女の行動の根底にあるのは明確な狂気であり、魔女としての歪みきった愛情だった。

 

 希望があるから、あがく。あがくから、苦しむ。

 なら、希望を根こそぎ噛み砕いて、完璧な絶望を与えてあげる。そうすれば、彼は楽に死を受け入れられるのだからと。

 

「だからもしダフネを止めたいなら、すばるんがその手でダフネを──殺してください」

 

 燃え盛る炎の熱と、底知れぬ魔女の冷たさ。

 その二つに挟まれ限界を迎えていたスバルの意識は、ダフネの底なしの腹の中へと、抗う間もなく無残に沈んでいった。

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