想定より大分遅れていますが、ゆっくり更新続けていきます。
「──以上で私の演説を終わります。ご清聴ありがとうございました!」
世界が巻き戻る。
ナツキ・スバルの意識は、死の瞬間に焼き付いた絶望の残滓を引きずりながら、新たに形成される肉体へと徐々に適合していく。
それは何度味わっても決して慣れることのない、吐き気を催すほど不快な感覚だった。
(……戻っ、た)
これまでも仲間だと思っていた相手に裏切られること、あるいは理不尽な悪意に晒されることは幾度となくあった。
だがこと今回に至っては、相手はそもそもが常識の通用しない魔女なのだ。
数日の奇妙な関係から無意識に警戒を怠り、心のどこかで話が通じると信じてしまっていた己が愚かだったと言えばそれまでだ。
それでも、何故だという行き場のない困惑と、それよりも遥かに大きなどす黒い怒りが、スバルの胸の奥底でどろどろと渦巻いていた。
死の直前。絶望の中で問いかけたスバルに対し、ダフネが返したあの言葉。
──ずっと前に受けた恩を、いま返さないといけないですから。
その響きを思い出すだけで、確かな後悔と、はらわたが煮えくり返るような激しい憤りが全身を駆け巡る。
誰かが彼女に恩を売り、明確な意図を持ってあの行動を取らせているのだとしたら。
ダフネの底なしの食欲と歪んだ慈悲を利用し、スバルたちがどれほど苦しむか分かった上で、あんな残虐な真似を仕組んだ存在がいるとしたら。それは絶対に許してはならない邪悪だ。
怒りと苦痛で顔が醜く歪みそうになるのを、スバルは必死の精神力で押さえつける。
演説を終えたばかりのエミリアにその内心を悟られないよう、分厚い鉄の仮面を顔面に貼り付け、ただただ奥歯を噛み締めてスバルはその場をやり過ごした。
「…………」
ほんの一瞬。スバルの纏う空気が致命的に崩れたのを見咎めたエキドナが、何かを察して動き出そうとする。
だがスバルはそれを手で小さく制止し、エミリアの演説が一度完全に落ち着くまでそのまま無言で待ち続けた。
先程の周回のように焦って作戦会議を開いたところで、現状では分かっていない要素があまりにも多すぎる。
スバルとしても、まずはこの煮えたぎる怒りを腹の底に沈め、ぐちゃぐちゃになった盤面を整理して考える時間がどうしても欲しかったのだ。
広場を埋め尽くす群衆からは、エミリアの真っ直ぐな想いを称える温かい拍手と歓声が、波のように幾重にも重なって押し寄せている。
愛する銀髪の少女が成し遂げた立派な成果を、本来であれば手放しで喜び、誰よりも大きな声で称賛の言葉を叫んでいたはずの輝かしい瞬間だ。
だが今のスバルにはその熱を帯びた歓声すらも、深い水底から聞いているかのようにひどく遠く、現実感を伴わないノイズとして鼓膜を上滑りしていく。
鳴り止まない拍手の中、スバルは肺の底にこびりついた暗い澱を全て吐き出すように、ゆっくりと、そして深く息を吸い込む。
やがて演説の大まかな流れが終了し、広場の熱気は質疑応答へと移り変わり、少しずつ落ち着きを見せ始めた。
エミリアはそのまま壇上に残り、群衆からの問いかけに一つ一つ真摯に応えようとしている。テュフォンとダフネも、特に関心がない様子でエミリアの傍に手持ち無沙汰に居座ったままだ。
スバルはその隙を見計らうと、顎で小さく合図を送り、オットー、ベアトリス、そしてエキドナの三人を連れて、人目のつかない舞台裏の薄暗いスペースへと足を踏み入れた。
歓声から切り離された冷たい石造りの空間に、ひどく重苦しい沈黙が落ちる。
「ナツキさん。何があったんですか」
その痛いほどの静寂を破り、意外にも真っ先に声をかけたのはオットーだった。
彼は鋭く、どんな些細な変化も見逃さないと言わんばかりの冷徹な目線をスバルに向け、その双眸を少し細めながら静かに問いかけてくる。
振り返ってみれば、隣に立つベアトリスも、一歩引いた位置にいるエキドナも、同じように心配と警戒の入り混じった表情を浮かべてスバルを見つめていた。
ごまかしが利く相手ではない。スバルは観念したように、重く、長い息を吐き出す。
「……ふぅ。わりぃ、気付かせちまって。本当は俺の方から言うべきなのにな」
「いまに始まった事じゃありませんから」
それは自らの無力さを噛み殺すような、ひどく苦しげな声だ。
スバルの言葉を受け、オットーは視線を外すことなく、両手をぎゅっと固く握りしめた。
その力が強すぎるあまり、爪が掌に食い込み、にじみ出た血がぽたぽたと石畳に落ちる。だが、彼は己の手から流れる血にすら気付いていない。
スバルがこれまでどれほどの地獄をくぐり抜けてきたか、その一端を知るオットーにとって、親友が再び理不尽な死を経験してきたという事実は、耐え難い苦痛と焦燥だった。
「……死因は火事だ。王選候補者の宿泊施設をおそらくは目標にした爆破。その影響で起きた火事と、どこからともなく出てきた屍兵の対処が後手後手に回って……」
ダフネのことは言うべきではない。
少なくとも初回。スバルが眠ったまま死亡した際には、ダフネはスバルに対して手を出してくる気配は無かった。
寝ている間に食われた可能性もゼロではないが、人が部屋に入ればさすがに目を覚ますはずだ。
初回が彼女の手によるものではなく、爆破や呪いによる死だったのだとすれば、ダフネがスバルを殺すには何らかの条件があるのだろう。
それを意図せず踏み抜く真似だけは避けたい。
「そうかい。それは大変だったね」
「エキドナさん。そんな簡単に流していい話では──」
スバルの凄惨な報告をまるで明日の天気の話でもするかのように淡々と受け流したエキドナに対し、オットーはたまらず睨みつけながらそんな事を口にする。
鋭く睨みつけるその瞳には、明確な非難の色が宿っていた。
スバルがこんなにも苦しんでいるのだ。
一人で地獄を見て血反吐を吐きながら戻ってきたというのに、せめて寄り添ってあげるべきではないのかと、彼の感情が激しく波打っているのが分かる。
だがエキドナは小さく息を吐き出すと、極めて冷たい表情を浮かべたままオットーに言葉を返す。
「──死は何よりの苦痛であり、生物なら誰もが避けたいと願うもの。そんな苦痛を彼に負わせているからこそ、自分が詳しく知る必要があるだなんて考え、酷く傲慢だよキミ」
「な、にを……ッ」
「彼はこの死が、この水門都市に来て初めてのことだと一度でも言ったかい? 長尺の議論や無意味な慰めは、彼にとってただ命綱である時間を奪うものでしかないんだよ」
エキドナの静かで、けれど容赦のない指摘にオットーは息を呑み、顔を歪ませるしかなかった。
彼女の言う通りだ。自分が同情し、詳しく聞き出そうとすることは、ただ自己満足のためにスバルの傷口を広げ、限りある盤面の時間を浪費させるだけの行為なのだと冷徹な理性が残酷に告げていた。
行き場を失い重く淀んでしまった場の空気を切り替えたのは、先程まで痛ましそうに顔を伏せていたベアトリスだ。
彼女はその顔に覚悟の感情を強く含ませながら、まっすぐにスバルの目を見据える。
「それで、スバルはこの後どうするつもりかしら」
「とりあえずは火災を防ぐために調査する組と、他の王選候補者に伝令する組で分かれてなんとかしようと思ってる。対症療法にしかならないのがちょっと困ったとこだけど、こっちにはラインハルトもいるしな」
地下からの爆発が既に用意されている物だとしたらすぐにでも排除する必要があるだろうし、そうでないならいまのうちに対策を取っておくほかない。
未だ敵の姿すらまともに見えていない状況で焦る気持ちはあるが、下手に動くわけにもいかないのでいまのスバルに出来る最低限はこれくらいだろう。
「分かったのよ。ベティとお母様、それにロズワールなら、魔法的な爆発なら事前に感知して解除することも可能なのよ。ベティ達はそっちの防衛に回った方が良いかしら」
「そうだね、それが良いだろう。各王選候補陣営への手紙についてはボクの方で手早く用意しておくとして、だれがどこに渡しにいくべきか、スバル、当てはあるかい?」
エキドナの問いに、スバルは脳内の都市マップと現在の戦力を照らし合わせながら素早く答える。
「少なくとも、伝令役にもそれなりの戦力は固めておきたい。だからラムとレムにはクルシュさんの所に。オットーとメィリィは、パトラッシュと一緒に行けそうならアナスタシアさんの所に行ってほしい」
「……分かりました。必ず」
血が滲むほど唇を噛み締めながら、オットーは深く頷いた。
自分にできる最大限の役割を果たすことこそが、スバルへの一番の恩返しなのだと、己の情けなさを無理やりに呑み込んで感情を切り替えたのだ。
スバルとしても何とか言って上げたい気持ちはあるが、自分の知っている世界とはまた違う世界からきたオットーが見ている光景は自分の知っている物とまるで違うだろうことをスバルは己自身の経験で理解している。
だからこそ彼が形だけでも納得してくれるというのであれば、残念なことにそんな彼の恩情に甘える他ない。
「一番警戒されていそうなラインハルトの所には──」
そうスバルが思案し口を開きかけたその時、背中にとん、と柔らかな何かがぶつかった。
「やっぱりこんなところでみんな隠れて、内緒の話してる」
凛とした、しかしどこか拗ねたような愛らしい声。
振り返ると、そこには演説の後の質疑応答や撤収作業を全て終えたエミリアが立っていた。
群衆の熱気を払いのけ、真っ直ぐにスバルを探しに来てくれたのだ。
真面目な表情を浮かべながらも緊張した様子はなく、何処か意を決したような彼女を前にしてスバルは微笑みと共に言葉を重ねる。
「ごめんねエミリアたん、大事な時に抜けちゃって」
「ううん、いいの。だってまた何か大変なことが起きて、そのためにスバルはいっぱい頑張ってるんでしょう? 私もちゃんとお仕事終わらせてきたから。……私にも任せて、スバル」
スバルの瞳の奥にある深い疲労と焦燥を、彼女は確かな信頼をもって見つめ返してくる。
以前の彼女なら、自分が蚊帳の外に置かれたことにただ不安を覚えていたかもしれない。だが、今の彼女は共に背負う覚悟を決めた王選候補者としての強さを纏っていた。
どうするべきか一瞬言葉に詰まったスバルに、エキドナが横合いからちらりと意味深な目配せをしてくる。
元よりスバルも彼女を安全な場所に隠して放ったらかしにするつもりなどない。この状況に置いて彼女の持つ力は何よりも頼りになるのだから。
「分かったよ。悪いんだけど手伝って欲しい。事と次第によっては、一番危ない役回りになるかもしれないけど」
「ええもちろん!」
頼られたことが嬉しいのか、エミリアはパッと花が咲くような満開の笑顔を見せた。
その眩しさに少しだけ救われたような気分になりながら、スバルは視線を動かし、路地裏の入り口付近で退屈そうに口を動かしている異物へと声をかけた。
「すばるんはいっつも大変そうですねぇ」
「……お前も来るんだぞダフネ。あとテュフォンって、この後なにか用事あったりするか?」
つい先ほど、自分の身体を無残に食い千切った張本人。
そんな相手をスバルはあえて名指しで指名する。
近くにいればそれだけリスクを抱える事にはなるが、同時に自分の知らない場所で動かれることのリスクの大きさも野放しにすることは出来なかったからだ。
ラインハルトの元へ向かう道中、自分の目の届く範囲に置いて監視し、必要とあらば即座に対処できるようにしておく必要があった。
スバルの言葉にダフネは嫌そうな顔をしながらも渋々同意し、それに続いて声をかけたテュフォンはいつも通り表情の読めない顔をしながら言葉を返してくる。
「とくにはないぞー」
「なら、プリシラを探してきて手紙を渡してきてほしいんだけど……プリシラってだれか分かるか?」
「たまにみかけるからな。わかるとおもうぞー」
「じゃあ悪いんだけど頼む。手紙は後でエキドナから貰ってくれ。みんな……いろいろ聞きたいことも、言いたいこともあると思うけど、その話はこの一件が終わったらしっかりと聞く。だから今はよろしく頼む」
それぞれの顔を真剣な面持ちで見渡し、スバルは深く頭を下げた。
これ以上の理不尽な犠牲を出さないために。全てを終わらせ、誰も欠けることのない明日を迎えるために。
「ええ」
「もちろんだとも」
「精々敵に吠えずらかかせてやるかしら」
「魔女を相手にすることがどれだけ恐ろしい事か、改めて教えてあげよう」
スバルの強い決意を帯びた言葉を合図に、一行は水門都市の闇に潜む悪意を討ち払うべく、それぞれの役割へと散っていった。
▽△▽△▽△▽△▽△▽△
スバルとエミリア、そしてダフネの三人は、プリステラの喧騒の中を早足で進んでいく。
祭りのような熱気を帯びた人波を縫って歩きながら、スバルの視線は絶えず周囲を鋭く探り続けていた。
「もぐ、もぐ……ん、これも美味しいですねぇ」
背後からのんきな咀嚼音が聞こえてくる。振り返れば、両手いっぱいに屋台で買い込んだ串焼きや果物を抱えたダフネが、歩きながら黙々とそれらを口に運んでいた。
改めて傍から見ればただの食いしん坊な少女にしか見えない彼女。服装もいつもに比べればマシとはいえ見た目は魔女であった時とまるで違いが無いように見えるのだが、街の人間は彼女を見ても直ぐには魔女だと思わないようである。
街中を歩いている人がまさか有名人だとは思わないのと同じような原理だろうが、それにしたって顔を晒して食事をしているその姿はいつバレるものかとスバルの肝をひやひやさせる。
これから真っ先に向かうべきは、この街で最も頼りになる規格外の戦力、ラインハルトのところだ。
頭の中で各陣営の居そうな場所を思い出し、人混みに目を凝らして彼を探そうとしていた丁度その時。
波打つ群衆の向こう側に、一際目を引く燃えるような赤毛が揺れるのをスバルは見逃さなかった。大勢の人間がひしめき合う水門都市の中心部であっても、彼が放つ圧倒的な存在感は決して埋もれることがない。
「ラインハルト!」
スバルが思わず安堵の声を張り上げると、行き交う人々が織りなす喧騒などまるで聞こえていないかのように彼はピタリと足を止める。
そして正確にこちらの姿をその双眸で射抜くと、何とも人懐っこい笑顔を浮かべて人波をするりと交わしながらこちら側へと近寄ってくる。
「スバルじゃないか。それにエミリア様も。そちらの方は……」
だがその視線はすぐにエミリアの後ろで無心に食べ物を頬張るダフネの姿を捉え、微かに不思議そうな色を帯びた。
ラインハルトの持つ加護や彼本人の勘の良さがダフネの危険性を敏感に感じ取ったのだろう。
殺される前であれば魔女であることに反応したのだとスバルは思っていただろうが、先程の事がある以上おそらくはラインハルトの勘が間違っていないことは分かる。
だがスバルはその上であえてラインハルトにそれを無視することを求めた。
「あー、まぁこの子は一旦スルーで」
「分かったよ。どうしてこちらに?」
面倒な説明を後回しにするようにスバルが強引に話を流すと、ラインハルトもそれ以上深くは追求せず、いつもの穏やかな表情で応えてくれる。
「悪いラインハルト、緊急事態だ。伝心の加護で話がしたい」
「……分かった。少し待ってくれるかい?」
スバルの纏うただならぬ気配を察し、ラインハルトは静かに目を閉じた。
かつてプリステラでスバルの問いかけに対して平然とそうしたように、ラインハルトはこの時この瞬間においても当然のように己の力を行使する。
彼がいまこの瞬間に必要な加護を得るのにかかった時間は、ほんの数秒のことだった。
「いいよ、授かった。歩きながら話そう」
「エミリアたん悪いんだけど前歩いてもらってもいい?」
「ええ、もちろん」
ラインハルトにそう言われてスバルはエミリアをラインハルトと横並びにし、自分は従者として少し後ろを歩く形を取る。
そこまで警戒する必要はないと思うが、スバルとラインハルトは既に王城にて互いにその力を活かしながら戦った前例があるのだ。
相手が魔女教であれそれ以外だとしてもこの二人が直接接触を図ったとなると警戒心を強める可能性がある。
既に話をしている時点で多少警戒心を強めている可能性はあるが、それでもあまり相手に気取らせないという意味でも接触は少ないに越したことはない。
(それでスバル、一体どんな用事だい?)
「そう言えばエミリア様、中央通りの飲食店にはいかれましたか? 昨日フェルト様にお供してお邪魔しましたが、絶品でしたよ」
脳内に直接響く真剣な声音とは裏腹に、口から発せられるのは完璧な笑みを浮かべた世間話。
そのあまりに器用な真似に、スバルとエミリアは思わず目を丸くする。
(器用なことするなお前……)
(これくらいはね。周りに聞かれたくない話なら小細工も必要だろう)
(助かる。本題から話すと、魔女教が来てる)
口元では爽やかに飲食店の感想を語りながらも、ラインハルトの顔に少しだけ動揺が走る。
王城での襲来、ロズワール邸への襲撃、そのどちらもラインハルトは魔女教徒を打ち倒すことは出来ていない。
己の逃した敵が王選候補者全員が存在するこの街にやってきており牙をむこうとしている。
そんな状況は最強の騎士にとってみれば何よりも許せない状況であった。
(具体的な敵の数は分かっているかい?)
(分かってねぇけど、たぶん王城の時より多い。……何の根拠もねぇ話なんだけどな)
(大丈夫だよ、信頼しているからね)
一切の迷いがないその言葉に、スバルは少し照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
嘘を吐くような男でないと分かっているからこそ、未だ付き合いも短く信頼に値する何かを残せているとはとても思えない自分をここまで強く信頼してくれていることがスバルにとっても何よりも嬉しかった。
(それで、先程は流したけれどそちらの方はどうすればいいのかな?)
ラインハルトの視線が、再びダフネへと向けられる。
先ほどよりも幾分か鋭く、彼女の底知れなさを無意識に測るような厳しい目つきだ。
(……いまはいい。俺が解決しないといけない問題だ)
(分かったよ)
(ユリウスとか他の面々には、ウチの陣営の皆が説明に行ってくれてる。ラインハルトはそれとなくフェルトと一緒に街を回って警戒しておいてほしい)
(了解した。見つけ次第、出来そうならこちらで始末をつけておくよ)
(頼んだ)
歩調を合わせながらの密談は、ものの数分で終わった。
そこからは違和感なく、それでいて最短なくらいの時間雑談を重ねてキリの良い所を見つける。
「それではエミリア様、スバル。僕は用事があるのでここで失礼します」
「またなラインハルト」
完璧な騎士の礼をとり、ラインハルトは人混みの中へと消えていく。
その頼もしい背中が見えなくなるまで見送りながら、スバルは肺に溜まっていた息を細く長く吐き出した。
少なくとも最強の戦力に警戒を促すという最初のミッションは完遂できた。
これで盤面は先ほどの絶望的な周回よりも確実に良い方向へと動いているはずだ。
「ラインハルトとはお喋りできた?」
伝心の加護と小さなスバルのつぶやきによってなされた密談が聞こえたのはラインハルトだけだろう。
もう少し時間を稼がなくても良かったかと気遣うように顔を覗き込んでくるエミリアに、スバルは努めて明るく頷いてみせた。
「エミリアたんのおかげでバッチリ! ダフネも、付き合わせて悪いな」
「別にいいですよぉ。ご飯もたくさんありますし」
最後に残った果物をかじりながら、ダフネは首を傾げてクスクスと笑う。
少なくともラインハルトに今回の出来事について伝える事、陣営の面子と一緒に何かをすること自体が彼女が動き出すトリガーではない事がこれで判明したことになる。
表情から読み取れれば良かったがスバルが目線を向けたところで彼女は余裕のある笑みと共にスバルを見つめるだけでそこから得られる情報はまるで何もない。
スバルは小さく息をつき、次の一手へと意識を向けた。
「ラインハルトとは、ひとまずこれでいい。次は都市庁へ向かって、放送設備の確保と避難経路の最終確認だ」
スバルたちは中央通りを離れ、網の目のように走る水路沿いを都市庁へと向かって進んでいく。
ラインハルトと別れてから、すでに十数分が経過していた。
高く昇った太陽が水面をキラキラと照らし、石造りの街並みには祭りを心待ちにするような平和な空気が満ち溢れている。
この穏やかな光景を、今度こそ守り抜いてみせる。そう決意を新たにし、都市庁の尖塔が視界に入った、まさにその時だった。
不意に、水門都市の凪いだ空気を切り裂くように、耳障りなハウリング音が響き渡った。
スバルの心臓がドクリと嫌な跳ね方をする。その音が、都市の各所に設置された拡声用の魔法器が乱暴に起動させられた時のノイズだと、直感的に理解してしまったからだ。
嫌な予感が、冷たい汗となって背中を伝い落ちる。
広場を行き交っていた人々の足が止まり、皆が一斉に頭上の魔法器へと怪訝な視線を向ける。
ただの機材トラブルであってくれ。誰かの悪ふざけであってくれ。
そう願うスバルの祈りを無残に嘲笑うかのように、スピーカー越しに空気を震わせたのは、この世の誰よりも聞きたくなかった最悪の声だった。
『──初めまして』
脳髄を直接かき回されるような、狂気に満ちた甲高い声。
その粘りつくような響きを鼓膜が拾った瞬間、スバルの顔面から一瞬にして血の気が引き、指先がひどく冷たくなっていく。
『私は魔女教、大罪司教! 怠惰担当──ペテルギウス・ロマネコンティ。このような場で放送をする光栄な機会を頂けたこと、真に嬉しく思います』
スピーカーから溢れ出す狂乱の響きと共に、スバルが必死に紡ぎ上げようとしていた希望の糸は、あまりに呆気なく断ち切られた。
周囲の喧騒が嘘のように遠のき、心臓の鼓動だけが早鐘のように耳元で鳴り響く。
まだだ、まだ終わってはいない。
変化があったことは理解した、魔女教徒が来ていることもこれで確定した、そしておそらくこの都市での戦いが最悪なものになるだろうという事も。
だがまだ、まだ──
『デスがまことに残念なことに、私は皆さんと会う事が出来ないのデス。福音書の掲示は絶対、それこそが愛の証明であるが故に! 我々は愛に報いるのデス!! 愛に尽くすのデス!! 愛に殉じるのデス!!』
スピーカーが割れんばかりの絶叫が響き渡った瞬間、スバルは理屈を越えて駆け出していた。
背後でエミリアが息を呑む気配がする。だが、ただ一人ダフネだけは足を止め、これから訪れる惨劇を無機質な瞳で静観していた。
直後──都市の四方に位置する巨大な水門が、内側からの爆砕によって凄まじい轟音を立てた。
重厚な石造りの門がガラクタのように弾け飛び、堰き止められていた天文学的な質量の濁流が、逃げ惑う人々を飲み込もうと牙を剥く。
「スバル!」
走り出した彼の名前を叫びながらエミリアが両手を突き出し、襲い掛かる濁流を前に極低温の魔力を解き放つ。
大気を白く染め上げ、世界を凍らせる一撃は眼前まで迫っていた奔流の最前線が一瞬にして巨大な氷壁へと姿を変えた。
──だが、大精霊術師の絶大な魔法であってもそれは所詮人の持てる程度の力。魔女を殺すために作られたこの都市の機能はたかだか人一人の力でどうにかなるようにはできていないのだ。
乾いた破砕音と共に分厚い氷の壁はほんの一秒すら持たずに、呆気なく粉々に砕け散った。
「エミリ──」
スバルの叫びは、天を裂くような激流の轟音に一瞬でかき消される。
砕け散った巨大な氷塊ごと、逃げ場のない広場が数百万トンの濁流に完全に飲み込まれた。
天地がひっくり返る衝撃。視界の全てが白く泡立つ破壊に塗り潰され、冷たい水が肺から強引に空気を奪い去っていく。
激流のなか、手を伸ばす間すらなく呑まれていくエミリアの姿を最後に、ナツキ・スバルの意識は暗く冷たい死の底へと、あっさりと引きずり込まれていった。